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第五章 『サルビア』の奇跡
85,失ったもの
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夢を見ている。けれど、いつまで経っても私は幻の世界から抜け出せないの。
あの夜起きたことは全てが幻想。そう思い込み続けてる。
早く、目を覚まさないと。いつもの日常が私たちを待っているはずだから。
父の奇想天外な言動を見て、ヒルスは苦笑いしてなだめようとする。その横で相変わらず母が疲れた顔をしながら、父の身の回りのお世話をする。私はそんな家族のために朝食を用意してあげるの。
大変な每日。それでも私にとっては掛け替えのない大切な日々だった。
だけど──いつまで経ってもその日常生活は戻ってこない。
おかしいな。私、いつまで夢を見続けているんだろう……?
幻の世界にいると、父と母の姿がどこにもないの。
寂しくて悲しくて、胸が痛くて苦しくて。
私は現実を受け入れられずに、両親の幻影を追い続けていた。
◆
どんなに現実逃避をしても、時間の流れは止まらない。
私とヒルスは、数日間彼のフラット(アパート)の部屋で引き籠もっていた。
明日には父と母を引き取り、葬式もしなければならないとヒルスは言う。
……引き取る? 何を引き取るの? 葬式? 誰の葬式だろう? よく分からない。
私はソファで横になり、何をするわけでもなくただぼんやりと天井を眺める。
私のそばに近寄り、ヒルスは優しい声で口を開いた。
「レイ」
呼びかけられても私は無表情のまま、彼の目を見ることもしない。
何度目かも分からない同じ質問を投げかけた。
「ヒルス」
「うん?」
「お父さんとお母さんはまだ帰ってこないの?」
自分でも驚くほど抑揚のない声。
私がそうやって訊くと、今までのヒルスは「まだだよ」なんて誤魔化すかのような返事をしてきた。だけど、今日は様子が違う。妙に真剣な表情になり、ぐっと顔を覗き込んできた。
「レイ、落ち着いて聞いてくれるか」
なぜかヒルスの声のトーンがとても低い。
胸がざわつく。ぬくっと起き上がり、私は激しく首を横に振った。
今から何を話すつもりなの?
「やだ」
「……レイ」
「やだよ、聞きたくない」
この感情は何なんだろう。怒りなのか悲しみなのか。心が闇に支配されていく。
ヒルスは手を伸ばし、私の頬に触れようとした。とっさに顔を背ける。
「お父さんとお母さんがいつ帰ってくるのかだけ教えてよ」
瞳の奥から涙が溢れる。目が腫れ、頬の皮膚も赤く荒れてしまいそうだ。
私の様子を眺めながら、ヒルスは眉尻をこの上ないほどに下げる。それから、声を震わせて話し続けるの。
「父さんと母さんは、帰ってこないよ」
「……何言うの、ヒルス」
「永遠の眠りについたんだ。もう、二人が目覚めることはない」
「やめてくれる。意味分かんない!」
叫ぶようにそう言い放った。
だけどヒルスは真剣な眼差しのままだ。
どんなに私が耳を塞いでも無駄な抵抗だった。
ヒルスは警察から聞いたことを、時折言葉を詰まらせながら話し始めたの。
──全焼した家の中からは二人の焼けた遺体が見つかり、検死の結果それは間違いなく父と母だったという。母の遺体は寝室で、父はキッチンの近くで発見されたそうだ。
コンロのすぐそばに毛布のようなものが激しく燃えた残骸があり、そこからカーペットに伝って火の回りが早くなった可能性があると告げられたとのこと。
母が休んでいる間に、父が自分でコンロの火を使ってホットミルクか何かを作ろうとしていたのは状況的に明白だった。
あまりに惨い話だ。頭では理解していても私の心は全く受け入れられていなかった。
帰るお家さえなくなってしまったなんて。そんなの……嘘に決まってる。
あの夜私は過呼吸になり、失神してしまったそう。病院に運ばれてすぐに意識は取り戻したけれど、未だに脳裏に焼きつく大火事の光景を思い出してしまう。現実逃避しようと、ぼんやりすることが多くなった。
私は声を微かに震わせて口を開く。
「……ねえ、ヒルス。嘘だって言ってよ」
「ごめん、レイ。もう、誤魔化したり嘘をついたりできない。全部本当の話なんだよ」
「嘘。ウソ、だよ……!」
取り乱しそうになる私のことを、彼はギュッと抱き締めてくれる。けれどぬくもりが感じられない。
涙は枯れ、流れるものなんてもう何もないの。ただ、溢れる悲しみと絶望はいつまで経っても止められなかった。
「ねえ、ヒルス。お父さんとお母さんは、どこへ行っちゃったの?」
「……」
「答えて。答えてよ!」
彼の腕の中で喚き散らした。まるで小さな女の子が大泣きするかのように、私の悲痛の叫びは止まらない。
どれだけ幻の世界を求めても無駄だった。現実はここしかないの。ヒルスの真剣な顔を見ると、聞いた話が嘘なんだって否定したくてもできなくなってしまう。
長い時間、彼は私を抱きしめてくれた。でも……心が癒やされることはなかった。気持ちはどんどん沈んでいき、胸の奥がいつまでも激しく痛んだまま。
どれだけ悲しみにくれても、私たちの大切な人たちは二度と帰ってこない。
頭がそう理解してしまったとき、私はショックのあまり「声」を失ってしまった──
あの夜起きたことは全てが幻想。そう思い込み続けてる。
早く、目を覚まさないと。いつもの日常が私たちを待っているはずだから。
父の奇想天外な言動を見て、ヒルスは苦笑いしてなだめようとする。その横で相変わらず母が疲れた顔をしながら、父の身の回りのお世話をする。私はそんな家族のために朝食を用意してあげるの。
大変な每日。それでも私にとっては掛け替えのない大切な日々だった。
だけど──いつまで経ってもその日常生活は戻ってこない。
おかしいな。私、いつまで夢を見続けているんだろう……?
幻の世界にいると、父と母の姿がどこにもないの。
寂しくて悲しくて、胸が痛くて苦しくて。
私は現実を受け入れられずに、両親の幻影を追い続けていた。
◆
どんなに現実逃避をしても、時間の流れは止まらない。
私とヒルスは、数日間彼のフラット(アパート)の部屋で引き籠もっていた。
明日には父と母を引き取り、葬式もしなければならないとヒルスは言う。
……引き取る? 何を引き取るの? 葬式? 誰の葬式だろう? よく分からない。
私はソファで横になり、何をするわけでもなくただぼんやりと天井を眺める。
私のそばに近寄り、ヒルスは優しい声で口を開いた。
「レイ」
呼びかけられても私は無表情のまま、彼の目を見ることもしない。
何度目かも分からない同じ質問を投げかけた。
「ヒルス」
「うん?」
「お父さんとお母さんはまだ帰ってこないの?」
自分でも驚くほど抑揚のない声。
私がそうやって訊くと、今までのヒルスは「まだだよ」なんて誤魔化すかのような返事をしてきた。だけど、今日は様子が違う。妙に真剣な表情になり、ぐっと顔を覗き込んできた。
「レイ、落ち着いて聞いてくれるか」
なぜかヒルスの声のトーンがとても低い。
胸がざわつく。ぬくっと起き上がり、私は激しく首を横に振った。
今から何を話すつもりなの?
「やだ」
「……レイ」
「やだよ、聞きたくない」
この感情は何なんだろう。怒りなのか悲しみなのか。心が闇に支配されていく。
ヒルスは手を伸ばし、私の頬に触れようとした。とっさに顔を背ける。
「お父さんとお母さんがいつ帰ってくるのかだけ教えてよ」
瞳の奥から涙が溢れる。目が腫れ、頬の皮膚も赤く荒れてしまいそうだ。
私の様子を眺めながら、ヒルスは眉尻をこの上ないほどに下げる。それから、声を震わせて話し続けるの。
「父さんと母さんは、帰ってこないよ」
「……何言うの、ヒルス」
「永遠の眠りについたんだ。もう、二人が目覚めることはない」
「やめてくれる。意味分かんない!」
叫ぶようにそう言い放った。
だけどヒルスは真剣な眼差しのままだ。
どんなに私が耳を塞いでも無駄な抵抗だった。
ヒルスは警察から聞いたことを、時折言葉を詰まらせながら話し始めたの。
──全焼した家の中からは二人の焼けた遺体が見つかり、検死の結果それは間違いなく父と母だったという。母の遺体は寝室で、父はキッチンの近くで発見されたそうだ。
コンロのすぐそばに毛布のようなものが激しく燃えた残骸があり、そこからカーペットに伝って火の回りが早くなった可能性があると告げられたとのこと。
母が休んでいる間に、父が自分でコンロの火を使ってホットミルクか何かを作ろうとしていたのは状況的に明白だった。
あまりに惨い話だ。頭では理解していても私の心は全く受け入れられていなかった。
帰るお家さえなくなってしまったなんて。そんなの……嘘に決まってる。
あの夜私は過呼吸になり、失神してしまったそう。病院に運ばれてすぐに意識は取り戻したけれど、未だに脳裏に焼きつく大火事の光景を思い出してしまう。現実逃避しようと、ぼんやりすることが多くなった。
私は声を微かに震わせて口を開く。
「……ねえ、ヒルス。嘘だって言ってよ」
「ごめん、レイ。もう、誤魔化したり嘘をついたりできない。全部本当の話なんだよ」
「嘘。ウソ、だよ……!」
取り乱しそうになる私のことを、彼はギュッと抱き締めてくれる。けれどぬくもりが感じられない。
涙は枯れ、流れるものなんてもう何もないの。ただ、溢れる悲しみと絶望はいつまで経っても止められなかった。
「ねえ、ヒルス。お父さんとお母さんは、どこへ行っちゃったの?」
「……」
「答えて。答えてよ!」
彼の腕の中で喚き散らした。まるで小さな女の子が大泣きするかのように、私の悲痛の叫びは止まらない。
どれだけ幻の世界を求めても無駄だった。現実はここしかないの。ヒルスの真剣な顔を見ると、聞いた話が嘘なんだって否定したくてもできなくなってしまう。
長い時間、彼は私を抱きしめてくれた。でも……心が癒やされることはなかった。気持ちはどんどん沈んでいき、胸の奥がいつまでも激しく痛んだまま。
どれだけ悲しみにくれても、私たちの大切な人たちは二度と帰ってこない。
頭がそう理解してしまったとき、私はショックのあまり「声」を失ってしまった──
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