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第四章 あの子と共に

74,変わらない愛情

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 イベント前日。

 夜が更けても、俺はなかなか眠れずにいた。
 楽しみなんだ。明日、レイとのペアダンスをステージで披露できることが。
 だがワクワクしているからって、ずっと起きているわけにはいかない。いつまでも興奮が冷めないからか、喉が渇いてしまう。

 ベッドから起き上がり、そっと部屋のドアを開けた。既に真っ暗な家の中を静かに歩き、水でも一口飲もうとキッチンへ向かった。
 するとそこには、何やら父が冷蔵庫の中をごそごそと漁っている姿が。

「父さん、何してるんだ?」
「母さんが起きてこないからな。朝ごはん・・・・がないんだよ」

 時計に目をやると、時刻は夜の十二時を回ったところだ。
 今が朝だと勘違いしているのか……。
 俺は苦笑しながら頷いた。

「母さん、最近疲れてるみたいだからもう少し寝かせてあげて。これでも食べなよ」

 棚に置いてあったりんごを見つけて、俺はそのひとつを父に手渡した。二口ほどかじると、父の手がピタリと止まる。

「ん……? なんだ、夜か。寝ないとな」

 食べかけを持って寝室へ戻ろうとするので「それもらうよ」と言って父の手からりんごを受け取った。トボトボと立ち去ろうとする背中を見ると、俺は無性に切なくなる。

 明日、俺とレイがダンスイベントに参加することも父は分かっていないだろう。いつもならイベントや大会前に、父は「明日は頑張ってこい」と声をかけてくれる。
 ありふれた応援の言葉だが、それすらも言ってもらえなくなってしまった。俺の中で寂しさと虚しさが溢れ出る。

「なあ、父さん」

 呼び止めると、父はこちらを振り返る。

「明日、俺とレイでダンスイベントに参加するんだよ」
「そうだったのか? だったら見に行かないとなあ」

 明日は病院へ行くのに、忘れているんだな。だけど俺は何も指摘したりしない。

「ああ、来てくれよ。レイのカポエラダンス、本当に格好良いんだぜ」
「そうか。楽しみだな。お前がコーチだから、レイの踊りもどんどん上手くなっているんだな」
「……えっ」

 思いがけない父の言葉。
 いや、何でもない。大したことじゃない。けれども、今の父が俺の目をしっかりと見つめながら口にした台詞に、驚きを隠せなくなった。

「父さん……。俺がレイのコーチだってこと、覚えているのか?」
「何を言っているんだ? 当然だろう。いつもガーデンであんなに熱心にダンスを教えているじゃないか。お前は小さい頃から今まで、ダンス一筋で頑張ってきたな。本当にお前は【自慢の息子】だよ」

 はっきりとした、口調だった。
 俺は父からの言葉を受け取り、胸が熱くなった。目の前がぼやけて殆ど何も見えなくなる。感情が溢れてしまいそうになってどうしようもないんだ。

「……父さん、ありがとうな」

 目から流れ出そうになるものを必死に抑え込み、俺は「おやすみ」と、父に背を向けて急いで自室へ戻った。

 何もかも忘れていると思っていた。父はもう、今のことも過去のこともぐちゃぐちゃになっていて、全部が分からなくなっていると俺は勘違いしていた。だけどそうじゃなかった。父はちゃんと覚えているんだ。
 そう考えると、俺は父に対して申し訳なさと、感謝の気持ちと、嬉しさと切なさと、色んな感情が入り混じって心が破裂しそうになった。声が勝手に漏れ、頬もどんどん濡れていく。

 部屋の隅で蹲り、声を抑えられずにいると静かにドアをノックする音が鳴り響いた。

「……ヒルス?」

 ドアの向こうから、レイの心配そうな声が聞こえてくる。俺は咄嗟にティッシュで顔の周りを拭き取ってから立ち上がり、ドアを開けた。
 眠たそうな顔で、それでいて眉を八の字にしながらこちらを見上げるレイがいた。

「ヒルス、大丈夫? 声が聞こえたから……」
「あ、ああ。何でもない」
「本当に?」

 じっと彼女に見つめられると、俺は目を合わせられなくなった。

「ごめん、起こしちゃったな。本当に大丈夫だから。ただちょっと……嬉しいことがあって切ない感じになっていただけだ」
「うん? どういうこと?」
「どういうことだろうな。俺にも分からない」

 レイは首を傾げるが、俺自身もこの気持ちが上手く表現できないのでそれ以上は何も話せなかった。
 それでもレイは、俺の右手を優しく握るとニコリと微笑んでくれるんだ。

「毎日、大変だよね。ヒルスも心が折れそうになっていたのかと思ったよ」
「いや、違うよ。レイは、平気か?」
「私は大丈夫。いつもヒルスが励ましてくれるでしょう? だからもしもヒルスに何かあったとき、お返しに私が支えてあげるからね」

 半分冗談と言うように、レイは可愛らしい顔で笑うんだ。
 今の俺の中の複雑な感情をどうにか解消したい。彼女が支えてくれると言うのなら、本当に甘えたくなってしまう。

「レイ、だったら」
「うん?」
「少しだけ、抱きしめてもいいかな……」

 兄などという自覚が微塵もない俺は、恥ずかしながらも彼女にそう言ってみた。
 するとレイは笑顔を崩すことなく、優しく答えてくれる。

「……うん、いいよ」

 ──なあ、レイ。君は俺のことをどう思っているのだろう。血の繋がりのある兄だと信じているのなら、俺の言動を見て聞いておかしいと思わないのかな。どうしてレイは、こんな俺の行動をいつも許してくれるのだろう。
 もしも君が真実を全て知ったとき、俺は君への想いを受け入れていいだろうか。俺が自分の気持ちを知ったとき、君は俺の想いを受け止めてくれるだろうか。

 頭の中で色んな思考が巡る中、レイは俺の腕の中で静かに身体を預けてくれる。この優しいぬくもりをいつまでも手放したくなかった。

 だけど──ほんの僅かな時間だけ抱擁すると、俺は彼女のことを腕からゆっくりと解放した。

「明日は朝早いからな。もう寝よう」
「うん」
「おやすみ、レイ」
「おやすみ……ヒルス」

 お互いにしばらく何も言わずに見つめ合う。名残惜しさが二人の間を巡る中、レイは最後まで俺の顔を見ながら部屋へ戻っていく。
 先程まで色んな感情を絡み合わせていた俺の心の糸を、こうも簡単に溶かすことができるのは他の誰でもない、レイだけだ。

 それと同時に、更に彼女を守っていきたいという想いが強くなった。俺はもう、大丈夫。兄として、家族として。これからもレイを支えるために強く精神を保っていかなければいけない。

 腕の中に微かに残る彼女の香りに包まれながら、俺はその夜何とか眠りについた。
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