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第二章 特別な花
54,ホームワーク
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※
翌日。
通常通り俺はダンススタジオに出勤した。練習場には、いつものようにストレッチをして準備をするフレアの姿があった。他のインストラクターたちはまだ来ていないようだ。
こちらの存在に気づくと、フレアは鏡越しで俺のことをじっと見つめてくる。
「おはようヒルス」
「あ、ああ」
普段、二人で他愛ない会話を交わしながら隣に並んでストレッチをするのが日課だったりする。だけど今日はそんなことをする気にはならない。
我ながら不自然に思う。彼女から背を向け、スタジオの隅で俺は黙々と準備運動をしているのだから。
ふと鏡を見ると、フレアと視線がバッチリ合ってしまった。俺の気まずさの水準がマックスに到達する。
フレアの唇を見ると、あの、なめらかな感触が蘇ってしまうんだ。
別にあれが初めてのキスなんかじゃない。俺だって過去にガールフレンドくらいいたわけで。それなのに、どうしてちょっとキスをされただけでこんなにも身体が熱くなってしまうのか。
深い深いため息が漏れる。
(何をこんなに意識しているんだ、俺は……)
しんと静まり返る練習場。
ああ、早く。誰か。来てくれ。
俺のそんなちっぽけな願いが届いたのか。練習場のドアが開く音が響いた。
地獄のこの空間から助け出してくれたのは──いつも何かとタイミングが良いジャスティン先生だった。今日もバッチリ固められたオールバックスタイルのブラウンヘアを輝かせながらスタジオへ入ってくる。
「二人とも、おはよう」
「ジャスティン先生、おはようございます」
大きめの声で挨拶をすると、俺は先生の前にサッと立った。
「ヒルス、今日もよろしくね」
先生はいつもと変わらない様子だ。
でも俺には、生徒たちが来る前に話したいことがある。
「ジャスティン先生。少しだけ、お話してもよろしいでしょうか」
「奇遇だね。僕も君に話したいことがあるんだよ。休憩室に行こうか」
「はい」
顔には出さずとも、先生も昨日レイと話したことがショックだったらしい。声がいつもより暗く感じたんだ。
ストレッチを終えたフレアは、後から来たインストラクターたちと話し始めた。練習場にはいつもと変わらぬ雰囲気が戻っている。
密かに胸を撫で下ろし、俺は先生と二人でその場を後にした。
「──ヒルス、昨日は帰った後に彼女と話はしたのかな」
「ええ、もちろんです」
休憩室の椅子に向かい合って腰かけ、俺と先生は静かに話をする。
「スクールに戻ってほしいと何度も説得してみたんだけどね、力足らずだったよ」
「いえ、先生が褒めて下さったこと、レイは凄く喜んでいましたよ」
「そうかい。だけど、どうして彼女はあそこまで頑なに断るのか僕には理解できなくて。君は事情を知っているかな?」
「実は俺も分からないんです。ダンスは好きだし続けたいと言ってはいるんですけど。スクールに戻れないと言い続けるレイと、少しだけ言い合いになってしまいました」
先生はううんと唸る。
──ジャスティン先生も、俺と同じ気持ちだ。まだレイの復帰を諦めきれていないんだ。
しばらく頭を抱え、先生は再び口を開く。
「ヒルス。いい作戦を一緒に考えよう」
「作戦?」
「もちろん彼女自身の気持ちを第一に優先するよ。でも僕たちだってまだまだ見切りをつけていないんだ」
「はい、そのとおりです」
「だから、ホームワークを出そう。僕も君も、レイがどうすれば戻ってきてくれるかを考えてくる。期限はいつまででもいい。もしいいアイディアが思い浮かんだら、それを二人で共有しようじゃないか」
先生のその提案に、俺は大きく頷いた。
レイの気持ちを一番に考えつつ、それでもまだ彼女を呼び戻すことを諦めない。そのジャスティン先生らしい思惑に、納得以外の言葉などない。
休憩室を出る前に、俺は最後にひとつだけ先生に問う。
「ジャスティン先生は、よほどレイの実力を認めて下さっているんですね?」
「そうだね。君も分かっているだろう? 彼女のダンスには光るものがある。それに……」
先生は一度間を置いてから、微笑むんだ。
「レイは、プロでも通用するほどの可能性を持っている。ブランクがあったとしても、今からでも復帰すればじゅうぶん間に合うと思うんだ。もしも彼女が戻ってきた暁には、全力でサポートしたいと考えている」
先生の眼差しは真剣そのものだった。
ジャスティン先生は長年ダンスを続けてきた人だ。数々の大会で結果を残し、優秀な弟子や生徒がたくさんいる。ダンサーとしてもインストラクターとしても、そして前向きに生きる先生は、人としても心から尊敬できるんだ。
そんなジャスティン先生から認められているレイは、俺にとっても誇りだった。
必ず彼女をスクールに復帰させてみせる。
翌日。
通常通り俺はダンススタジオに出勤した。練習場には、いつものようにストレッチをして準備をするフレアの姿があった。他のインストラクターたちはまだ来ていないようだ。
こちらの存在に気づくと、フレアは鏡越しで俺のことをじっと見つめてくる。
「おはようヒルス」
「あ、ああ」
普段、二人で他愛ない会話を交わしながら隣に並んでストレッチをするのが日課だったりする。だけど今日はそんなことをする気にはならない。
我ながら不自然に思う。彼女から背を向け、スタジオの隅で俺は黙々と準備運動をしているのだから。
ふと鏡を見ると、フレアと視線がバッチリ合ってしまった。俺の気まずさの水準がマックスに到達する。
フレアの唇を見ると、あの、なめらかな感触が蘇ってしまうんだ。
別にあれが初めてのキスなんかじゃない。俺だって過去にガールフレンドくらいいたわけで。それなのに、どうしてちょっとキスをされただけでこんなにも身体が熱くなってしまうのか。
深い深いため息が漏れる。
(何をこんなに意識しているんだ、俺は……)
しんと静まり返る練習場。
ああ、早く。誰か。来てくれ。
俺のそんなちっぽけな願いが届いたのか。練習場のドアが開く音が響いた。
地獄のこの空間から助け出してくれたのは──いつも何かとタイミングが良いジャスティン先生だった。今日もバッチリ固められたオールバックスタイルのブラウンヘアを輝かせながらスタジオへ入ってくる。
「二人とも、おはよう」
「ジャスティン先生、おはようございます」
大きめの声で挨拶をすると、俺は先生の前にサッと立った。
「ヒルス、今日もよろしくね」
先生はいつもと変わらない様子だ。
でも俺には、生徒たちが来る前に話したいことがある。
「ジャスティン先生。少しだけ、お話してもよろしいでしょうか」
「奇遇だね。僕も君に話したいことがあるんだよ。休憩室に行こうか」
「はい」
顔には出さずとも、先生も昨日レイと話したことがショックだったらしい。声がいつもより暗く感じたんだ。
ストレッチを終えたフレアは、後から来たインストラクターたちと話し始めた。練習場にはいつもと変わらぬ雰囲気が戻っている。
密かに胸を撫で下ろし、俺は先生と二人でその場を後にした。
「──ヒルス、昨日は帰った後に彼女と話はしたのかな」
「ええ、もちろんです」
休憩室の椅子に向かい合って腰かけ、俺と先生は静かに話をする。
「スクールに戻ってほしいと何度も説得してみたんだけどね、力足らずだったよ」
「いえ、先生が褒めて下さったこと、レイは凄く喜んでいましたよ」
「そうかい。だけど、どうして彼女はあそこまで頑なに断るのか僕には理解できなくて。君は事情を知っているかな?」
「実は俺も分からないんです。ダンスは好きだし続けたいと言ってはいるんですけど。スクールに戻れないと言い続けるレイと、少しだけ言い合いになってしまいました」
先生はううんと唸る。
──ジャスティン先生も、俺と同じ気持ちだ。まだレイの復帰を諦めきれていないんだ。
しばらく頭を抱え、先生は再び口を開く。
「ヒルス。いい作戦を一緒に考えよう」
「作戦?」
「もちろん彼女自身の気持ちを第一に優先するよ。でも僕たちだってまだまだ見切りをつけていないんだ」
「はい、そのとおりです」
「だから、ホームワークを出そう。僕も君も、レイがどうすれば戻ってきてくれるかを考えてくる。期限はいつまででもいい。もしいいアイディアが思い浮かんだら、それを二人で共有しようじゃないか」
先生のその提案に、俺は大きく頷いた。
レイの気持ちを一番に考えつつ、それでもまだ彼女を呼び戻すことを諦めない。そのジャスティン先生らしい思惑に、納得以外の言葉などない。
休憩室を出る前に、俺は最後にひとつだけ先生に問う。
「ジャスティン先生は、よほどレイの実力を認めて下さっているんですね?」
「そうだね。君も分かっているだろう? 彼女のダンスには光るものがある。それに……」
先生は一度間を置いてから、微笑むんだ。
「レイは、プロでも通用するほどの可能性を持っている。ブランクがあったとしても、今からでも復帰すればじゅうぶん間に合うと思うんだ。もしも彼女が戻ってきた暁には、全力でサポートしたいと考えている」
先生の眼差しは真剣そのものだった。
ジャスティン先生は長年ダンスを続けてきた人だ。数々の大会で結果を残し、優秀な弟子や生徒がたくさんいる。ダンサーとしてもインストラクターとしても、そして前向きに生きる先生は、人としても心から尊敬できるんだ。
そんなジャスティン先生から認められているレイは、俺にとっても誇りだった。
必ず彼女をスクールに復帰させてみせる。
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