【完結】サルビアの育てかた

朱村びすりん

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序章

1,トラウマ

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 誰かの叫び声が聞こえる。
 水の音に包まれながら、どうやら私はこの世に生まれたらしい。
 あたたかいクッションのような場所から力を振り絞って出てきたけれど、外の世界はとても寒かった。お湯とどす黒い血が滴る固い床の上に、私は落ちていく。

 呼吸をしなくちゃ。無我夢中で声を上げた。

 絶叫していたのは女の人。彼女は震える手で私を抱き上げた。けれどその手は冷たくて、愛情なんてものは伝わってこないの。
 その人は私を見下ろして泣いていたよ。
 タオルに包まれ、暗い部屋へと連れていかれる。泣き疲れた私は、その後すぐに寝てしまった。
 
 それから少し時間が過ぎた頃。私はたくさん泣くようになった。
 その人からぬくもりをもらって、お腹が満たされたよ。気持ち悪くなったら、汚れたところを綺麗にしてもらったよ。数日に一回、お風呂に入れてもらえたよ。
 私、勘違いしちゃったの。この人に甘えていいんだって。だから、もっともっとたくさん泣き声を上げるようになった。
 だけどそれは、間違いだったみたい……。

『痛い、熱い、ごめんなさい、やめて、怖いの、悲しいの、もう泣かないから。お願いお願いお願い……!』

 いつもそばにいた女の人は、いつの間にか「悪魔」のような顔になっていた。冷酷な眼差しで、私のことを叩いたり殴ったり、ありえないくらい熱いお湯で体を痛めつけてきたりするようになったの。
 私が泣いたって、ぬくもりをくれない。身体が汚れても、ずっと放置されたまま。お風呂にも入れてくれなくなってしまった。 
 なんで、どうして? 痛いことをして、なんてお願いしてないよ。私の声、聞こえてないの? もっと大きな声で泣かないと、届かないの……?

『痛い』
『熱い』
『お腹がすいた』
『怖い』
『悲しい』
『もうやめて』
『お願い』
『お願い』
『お願い……』

 ダメだった。私が泣けば泣くほど、悪魔は更に酷いことをする。
 ごめんなさい、私はあなたに甘えてはいけないんだね。ごめんなさい、ごめんなさい。

 心が恐怖に支配される。悪魔の鋭い目つきが怖い。何かを罵るような声に動悸がする。悪魔からは煙たい匂いが漂ってくる。それを嗅ぐと、吐きそうになる。
 逃げ出したくても、逃げ出られない。
 絶望だと思った、そのときだった。意識の奥底から、誰かの声が聞こえた気がしたの。

 ──やめろ。

 幻聴かもしれない。でもたしかにその声は、必死になって私を救おうとしているのが分かる。

 ──それ以上、彼女を傷つけるのはやめろ!

 助けを求めて、私は必死に叫び続けた。
 だけど私がもがくほど、悪魔の暴力はますます酷くなる。「何か」に対して抱いている強烈な憎悪を、まるで私にぶつけているようだ。

 なぜなの……?

 お腹が空いた、ぬくもりがほしい。気持ちが悪い、お風呂に入りたい。こんな小さな望みは何ひとつ叶うことはなく、身体が徐々に弱っていく。
 どんなに私が衰弱しても、悪魔からはまるでゴミのように扱われる。寒くて暗い部屋の中で、いつもこの人に怯えながら孤独に涙するしかない。
 永遠とも思われるような地獄の時間。そんな中かろうじて生きていられたのは、私を守ろうとするあの声のおかげだったの。
 
 ──そして、闇に支配された日々は、程なくして幕を閉じようとしていた。

 本当は何日も経っていないと思う。

 いつも怖い顔だった悪魔が、今日はなぜか生気を失ったような表情をしている。小さな段ボール箱の中に荒々しく私を閉じ込めた。

 おかしい。どうして私は今、裸なんだろう……?

 箱はがたがたと乱暴に揺れ始める。全身の痣に当たってとても痛い。身体中を針でぐさぐさと刺されるような、強烈な寒さ。
 どこへ連れていかれるの?

 ほどなくして、全く揺れることはなくなった。雪の上を歩く音が耳元に響いてくる。悪魔の足音だろう。それがだんだんと遠ざかっていき──そして、何も聞こえなくなった。

 ……そっか。私、捨てられちゃったんだ。

 泣いてばかりの私のことがいらなくなったんだよね。悪い子でごめんなさい。
 狭い箱の中で裸のまま独り取り残された私は、最後の力を振り絞って泣き声を上げる。

『助けて‼』

 手足が凍えて、感覚すらなくなってしまいそう。目の前は真っ暗で何も見えないの。
 私の声は、次第に弱々しいものになっていった。それでも、最後まで諦めたくない……。

『寒いの。怖いの。寂しいの。お願い。誰か、誰か助けて!』

 どんなに叫んでも、誰からの返事もない。私を助けようとしていた、あの声さえも。この悲鳴は冷たい空気の中へと吸い込まれ、溶けて消えていくだけだ。
 もう、限界……諦めかけていたとき、誰かがゆっくりとこちらに歩いてくる音が聞こえてきたの。

 私のことを閉じ込めていた箱がパッと開き、女の人と目が合った。
 修道服をまとった、全然知らない人。彼女はこちらをじっと見つめて、とても驚いた顔になった。そっと私を抱き上げると、冷たい雫を頬にたくさん流した。

『誰だろう……? 誰でもいいや。不思議だね。誰かに抱っこしてもらうのって、こんなにあたたかくて安心するんだね……』

 生まれて初めて誰かに抱かれた心地よさに、とても穏やかな気持ちになる。だからもう、泣く必要なんてない。
 私に安心を与えてくれる人と、守ろうとする誰かがいるなら、頑張って生きていこう。強くそう思った。
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