1 / 205
序章
1,トラウマ
しおりを挟む
誰かの叫び声が聞こえる。
水の音に包まれながら、どうやら私はこの世に生まれたらしい。
あたたかいクッションのような場所から力を振り絞って出てきたけれど、外の世界はとても寒かった。お湯とどす黒い血が滴る固い床の上に、私は落ちていく。
呼吸をしなくちゃ。無我夢中で声を上げた。
絶叫していたのは女の人。彼女は震える手で私を抱き上げた。けれどその手は冷たくて、愛情なんてものは伝わってこないの。
その人は私を見下ろして泣いていたよ。
タオルに包まれ、暗い部屋へと連れていかれる。泣き疲れた私は、その後すぐに寝てしまった。
それから少し時間が過ぎた頃。私はたくさん泣くようになった。
その人からぬくもりをもらって、お腹が満たされたよ。気持ち悪くなったら、汚れたところを綺麗にしてもらったよ。数日に一回、お風呂に入れてもらえたよ。
私、勘違いしちゃったの。この人に甘えていいんだって。だから、もっともっとたくさん泣き声を上げるようになった。
だけどそれは、間違いだったみたい……。
『痛い、熱い、ごめんなさい、やめて、怖いの、悲しいの、もう泣かないから。お願いお願いお願い……!』
いつもそばにいた女の人は、いつの間にか「悪魔」のような顔になっていた。冷酷な眼差しで、私のことを叩いたり殴ったり、ありえないくらい熱いお湯で体を痛めつけてきたりするようになったの。
私が泣いたって、ぬくもりをくれない。身体が汚れても、ずっと放置されたまま。お風呂にも入れてくれなくなってしまった。
なんで、どうして? 痛いことをして、なんてお願いしてないよ。私の声、聞こえてないの? もっと大きな声で泣かないと、届かないの……?
『痛い』
『熱い』
『お腹がすいた』
『怖い』
『悲しい』
『もうやめて』
『お願い』
『お願い』
『お願い……』
ダメだった。私が泣けば泣くほど、悪魔は更に酷いことをする。
ごめんなさい、私はあなたに甘えてはいけないんだね。ごめんなさい、ごめんなさい。
心が恐怖に支配される。悪魔の鋭い目つきが怖い。何かを罵るような声に動悸がする。悪魔からは煙たい匂いが漂ってくる。それを嗅ぐと、吐きそうになる。
逃げ出したくても、逃げ出られない。
絶望だと思った、そのときだった。意識の奥底から、誰かの声が聞こえた気がしたの。
──やめろ。
幻聴かもしれない。でもたしかにその声は、必死になって私を救おうとしているのが分かる。
──それ以上、彼女を傷つけるのはやめろ!
助けを求めて、私は必死に叫び続けた。
だけど私がもがくほど、悪魔の暴力はますます酷くなる。「何か」に対して抱いている強烈な憎悪を、まるで私にぶつけているようだ。
なぜなの……?
お腹が空いた、ぬくもりがほしい。気持ちが悪い、お風呂に入りたい。こんな小さな望みは何ひとつ叶うことはなく、身体が徐々に弱っていく。
どんなに私が衰弱しても、悪魔からはまるでゴミのように扱われる。寒くて暗い部屋の中で、いつもこの人に怯えながら孤独に涙するしかない。
永遠とも思われるような地獄の時間。そんな中かろうじて生きていられたのは、私を守ろうとするあの声のおかげだったの。
──そして、闇に支配された日々は、程なくして幕を閉じようとしていた。
本当は何日も経っていないと思う。
いつも怖い顔だった悪魔が、今日はなぜか生気を失ったような表情をしている。小さな段ボール箱の中に荒々しく私を閉じ込めた。
おかしい。どうして私は今、裸なんだろう……?
箱はがたがたと乱暴に揺れ始める。全身の痣に当たってとても痛い。身体中を針でぐさぐさと刺されるような、強烈な寒さ。
どこへ連れていかれるの?
ほどなくして、全く揺れることはなくなった。雪の上を歩く音が耳元に響いてくる。悪魔の足音だろう。それがだんだんと遠ざかっていき──そして、何も聞こえなくなった。
……そっか。私、捨てられちゃったんだ。
泣いてばかりの私のことがいらなくなったんだよね。悪い子でごめんなさい。
狭い箱の中で裸のまま独り取り残された私は、最後の力を振り絞って泣き声を上げる。
『助けて‼』
手足が凍えて、感覚すらなくなってしまいそう。目の前は真っ暗で何も見えないの。
私の声は、次第に弱々しいものになっていった。それでも、最後まで諦めたくない……。
『寒いの。怖いの。寂しいの。お願い。誰か、誰か助けて!』
どんなに叫んでも、誰からの返事もない。私を助けようとしていた、あの声さえも。この悲鳴は冷たい空気の中へと吸い込まれ、溶けて消えていくだけだ。
もう、限界……諦めかけていたとき、誰かがゆっくりとこちらに歩いてくる音が聞こえてきたの。
私のことを閉じ込めていた箱がパッと開き、女の人と目が合った。
修道服をまとった、全然知らない人。彼女はこちらをじっと見つめて、とても驚いた顔になった。そっと私を抱き上げると、冷たい雫を頬にたくさん流した。
『誰だろう……? 誰でもいいや。不思議だね。誰かに抱っこしてもらうのって、こんなにあたたかくて安心するんだね……』
生まれて初めて誰かに抱かれた心地よさに、とても穏やかな気持ちになる。だからもう、泣く必要なんてない。
私に安心を与えてくれる人と、守ろうとする誰かがいるなら、頑張って生きていこう。強くそう思った。
水の音に包まれながら、どうやら私はこの世に生まれたらしい。
あたたかいクッションのような場所から力を振り絞って出てきたけれど、外の世界はとても寒かった。お湯とどす黒い血が滴る固い床の上に、私は落ちていく。
呼吸をしなくちゃ。無我夢中で声を上げた。
絶叫していたのは女の人。彼女は震える手で私を抱き上げた。けれどその手は冷たくて、愛情なんてものは伝わってこないの。
その人は私を見下ろして泣いていたよ。
タオルに包まれ、暗い部屋へと連れていかれる。泣き疲れた私は、その後すぐに寝てしまった。
それから少し時間が過ぎた頃。私はたくさん泣くようになった。
その人からぬくもりをもらって、お腹が満たされたよ。気持ち悪くなったら、汚れたところを綺麗にしてもらったよ。数日に一回、お風呂に入れてもらえたよ。
私、勘違いしちゃったの。この人に甘えていいんだって。だから、もっともっとたくさん泣き声を上げるようになった。
だけどそれは、間違いだったみたい……。
『痛い、熱い、ごめんなさい、やめて、怖いの、悲しいの、もう泣かないから。お願いお願いお願い……!』
いつもそばにいた女の人は、いつの間にか「悪魔」のような顔になっていた。冷酷な眼差しで、私のことを叩いたり殴ったり、ありえないくらい熱いお湯で体を痛めつけてきたりするようになったの。
私が泣いたって、ぬくもりをくれない。身体が汚れても、ずっと放置されたまま。お風呂にも入れてくれなくなってしまった。
なんで、どうして? 痛いことをして、なんてお願いしてないよ。私の声、聞こえてないの? もっと大きな声で泣かないと、届かないの……?
『痛い』
『熱い』
『お腹がすいた』
『怖い』
『悲しい』
『もうやめて』
『お願い』
『お願い』
『お願い……』
ダメだった。私が泣けば泣くほど、悪魔は更に酷いことをする。
ごめんなさい、私はあなたに甘えてはいけないんだね。ごめんなさい、ごめんなさい。
心が恐怖に支配される。悪魔の鋭い目つきが怖い。何かを罵るような声に動悸がする。悪魔からは煙たい匂いが漂ってくる。それを嗅ぐと、吐きそうになる。
逃げ出したくても、逃げ出られない。
絶望だと思った、そのときだった。意識の奥底から、誰かの声が聞こえた気がしたの。
──やめろ。
幻聴かもしれない。でもたしかにその声は、必死になって私を救おうとしているのが分かる。
──それ以上、彼女を傷つけるのはやめろ!
助けを求めて、私は必死に叫び続けた。
だけど私がもがくほど、悪魔の暴力はますます酷くなる。「何か」に対して抱いている強烈な憎悪を、まるで私にぶつけているようだ。
なぜなの……?
お腹が空いた、ぬくもりがほしい。気持ちが悪い、お風呂に入りたい。こんな小さな望みは何ひとつ叶うことはなく、身体が徐々に弱っていく。
どんなに私が衰弱しても、悪魔からはまるでゴミのように扱われる。寒くて暗い部屋の中で、いつもこの人に怯えながら孤独に涙するしかない。
永遠とも思われるような地獄の時間。そんな中かろうじて生きていられたのは、私を守ろうとするあの声のおかげだったの。
──そして、闇に支配された日々は、程なくして幕を閉じようとしていた。
本当は何日も経っていないと思う。
いつも怖い顔だった悪魔が、今日はなぜか生気を失ったような表情をしている。小さな段ボール箱の中に荒々しく私を閉じ込めた。
おかしい。どうして私は今、裸なんだろう……?
箱はがたがたと乱暴に揺れ始める。全身の痣に当たってとても痛い。身体中を針でぐさぐさと刺されるような、強烈な寒さ。
どこへ連れていかれるの?
ほどなくして、全く揺れることはなくなった。雪の上を歩く音が耳元に響いてくる。悪魔の足音だろう。それがだんだんと遠ざかっていき──そして、何も聞こえなくなった。
……そっか。私、捨てられちゃったんだ。
泣いてばかりの私のことがいらなくなったんだよね。悪い子でごめんなさい。
狭い箱の中で裸のまま独り取り残された私は、最後の力を振り絞って泣き声を上げる。
『助けて‼』
手足が凍えて、感覚すらなくなってしまいそう。目の前は真っ暗で何も見えないの。
私の声は、次第に弱々しいものになっていった。それでも、最後まで諦めたくない……。
『寒いの。怖いの。寂しいの。お願い。誰か、誰か助けて!』
どんなに叫んでも、誰からの返事もない。私を助けようとしていた、あの声さえも。この悲鳴は冷たい空気の中へと吸い込まれ、溶けて消えていくだけだ。
もう、限界……諦めかけていたとき、誰かがゆっくりとこちらに歩いてくる音が聞こえてきたの。
私のことを閉じ込めていた箱がパッと開き、女の人と目が合った。
修道服をまとった、全然知らない人。彼女はこちらをじっと見つめて、とても驚いた顔になった。そっと私を抱き上げると、冷たい雫を頬にたくさん流した。
『誰だろう……? 誰でもいいや。不思議だね。誰かに抱っこしてもらうのって、こんなにあたたかくて安心するんだね……』
生まれて初めて誰かに抱かれた心地よさに、とても穏やかな気持ちになる。だからもう、泣く必要なんてない。
私に安心を与えてくれる人と、守ろうとする誰かがいるなら、頑張って生きていこう。強くそう思った。
0
お気に入りに追加
26
あなたにおすすめの小説
【完結】炎の戦史 ~氷の少女と失われた記憶~
朱村びすりん
ファンタジー
~あらすじ~
炎の力を使える青年、リ・リュウキは記憶を失っていた。
見知らぬ山を歩いていると、人ひとり分ほどの大きな氷を発見する。その中には──なんと少女が悲しそうな顔をして凍りついていたのだ。
美しい少女に、リュウキは心を奪われそうになる。
炎の力をリュウキが放出し、氷の封印が解かれると、驚くことに彼女はまだ生きていた。
謎の少女は、どういうわけか、ハクという化け物の白虎と共生していた。
なぜ氷になっていたのかリュウキが問うと、彼女も記憶がなく分からないのだという。しかし名は覚えていて、彼女はソン・ヤエと名乗った。そして唯一、闇の記憶だけは残っており、彼女は好きでもない男に毎夜乱暴されたことによって負った心の傷が刻まれているのだという。
記憶の一部が失われている共通点があるとして、リュウキはヤエたちと共に過去を取り戻すため行動を共にしようと申し出る。
最初は戸惑っていたようだが、ヤエは渋々承諾。それから一行は山を下るために歩き始めた。
だがこの時である。突然、ハクの姿がなくなってしまったのだ。大切な友の姿が見当たらず、ヤエが取り乱していると──二人の前に謎の男が現れた。
男はどういうわけか何かの事情を知っているようで、二人にこう言い残す。
「ハクに会いたいのならば、満月の夜までに西国最西端にある『シュキ城』へ向かえ」
「記憶を取り戻すためには、意識の奥底に現れる『幻想世界』で真実を見つけ出せ」
男の言葉に半信半疑だったリュウキとヤエだが、二人にはなんの手がかりもない。
言われたとおり、シュキ城を目指すことにした。
しかし西の最西端は、化け物を生み出すとされる『幻草』が大量に栽培される土地でもあった……。
化け物や山賊が各地を荒らし、北・東・西の三ヶ国が争っている乱世の時代。
この世に平和は訪れるのだろうか。
二人は過去の記憶を取り戻すことができるのだろうか。
特異能力を持つ彼らの戦いと愛情の物語を描いた、古代中国風ファンタジー。
★2023年1月5日エブリスタ様の「東洋風ファンタジー」特集に掲載されました。ありがとうございます(人´∀`)♪
☆special thanks☆
表紙イラスト・ベアしゅう様
77話挿絵・テン様
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
果たされなかった約束
家紋武範
恋愛
子爵家の次男と伯爵の妾の娘の恋。貴族の血筋と言えども不遇な二人は将来を誓い合う。
しかし、ヒロインの妹は伯爵の正妻の子であり、伯爵のご令嗣さま。その妹は優しき主人公に密かに心奪われており、結婚したいと思っていた。
このままでは結婚させられてしまうと主人公はヒロインに他領に逃げようと言うのだが、ヒロインは妹を裏切れないから妹と結婚して欲しいと身を引く。
怒った主人公は、この姉妹に復讐を誓うのであった。
※サディスティックな内容が含まれます。苦手なかたはご注意ください。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる
Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした
ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。
でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。
彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
自信家CEOは花嫁を略奪する
朝陽ゆりね
恋愛
「あなたとは、一夜限りの関係です」
そのはずだったのに、
そう言ったはずなのに――
私には婚約者がいて、あなたと交際することはできない。
それにあなたは特定の女とはつきあわないのでしょ?
だったら、なぜ?
お願いだからもうかまわないで――
松坂和眞は特定の相手とは交際しないと宣言し、言い寄る女と一時を愉しむ男だ。
だが、経営者としての手腕は世間に広く知られている。
璃桜はそんな和眞に憧れて入社したが、親からもらった自由な時間は3年だった。
そしてその期間が来てしまった。
半年後、親が決めた相手と結婚する。
退職する前日、和眞を誘惑する決意をし、成功するが――
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる