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何かいいことがあるらしい

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 瑛は、杉戸を開け、キョロキョロと部屋を見回した。

「あれ?」

 ツナ子からトキが戻って来たと聞いて、飛んで来たのに。部屋の中には誰もいない。

「……うーん」

 瑛は天井を見上げ、腕を組んだ。
 気配を探れば、トキを見つけるのは簡単だ。けど、もし、そこが廊下だったら? 廊下のど真ん中で謝罪するのは、ちょっと違う。だとしたら、ここで待っている方がいいかもしれない。でも、トキはここへ来るだろうか?

「どうしよう……」
「どうしたんだ?」

 背後からの返事に、

「トキがいなくて……うーん、まぁ、いざとなれば、奥義を使えば……」

 瑛は上の空で答える。後ろにいるのは誰か。そこまで頭が回らなかった。

「奥義?」
「滑り込みながら土下座をすれば、どんな人も許してくれるって、じぃちゃんが」
「あのクソジジィは、また……」

 その一言で、ようやく、瑛は気づいた。ばっと振り返る。そこにいたのはトキで。

「ぎゃぁあ!」
 
 あまりにもびっくりしすぎて、思わず、瑛は逃げ出した。が、その寸前。襟首を掴まれ、猫の子みたいに捕らえられる。

「逃げるな。実家・・まで迎えに行って、いないから、あちこち探してたんだよ」
「え?」
「悪かったな、怒鳴ったりして」

 瑛は、一瞬、キョトンとして、大きく首を振った。謝らなければならないのは、自分の方。

「あたしの方こそ、勝手なことして、ごめんなさい!」

 頭を深く下げた瑛の脳天に、コツンと何かがぶつかった。顔を上げると、目の前にあったのは、赤い、ドロップの缶。

「これ!」

 大事に大事に食べていたけど、数日前に缶は空になっていた。

「いらないのか?」

 ガラガラと、缶が揺らされる。いっぱいにドロップが入ってる音がした。

「もらっていいの?」
「好きなんだろ?」
「うん!」

 瑛は早速、ふたに手をかける。しかし、ガッチリとはまったふたは、なかなか外れてくれない。しばらく奮闘していると、トキに缶を取られた。あっさり、ふたを開けてくれる。

「ありがとう!」

 瑛は手を出したが、ドロップは返ってこない。

「トキ?」
「あのな、瑛。理子のことだけど、」

 そう切り出した、トキの表情は暗かった。悲しそうな、苦しそうな、瑛にはそんな顔に見えて。

『トキの気持ちを考えて』

 紫苑は、そう言った。

 自分はトキにドロップをもらって、ウキウキとしていたのに。
 でも、トキは? 自分がトキを、こんな顔にさせているのだとしたら……。

 瑛は、トキが口を開いた瞬間、彼の顔へ手を突き出した。

「大丈夫です!」
「大、丈夫?」
「だから……うん、言わなくていいよ!」

 本当は、まだ、気になってるけど。トキに悲しい顔をさせるくらいなら。

「トキが言いたくないことは、言わなくていい! あたしも、もう、聞かない。今、決めた!」

 瑛は言って、ぽかんとしているトキからドロップを強奪した。

「開けてくれた、お礼」

 と、缶を振ったあとで、トキは甘いものが好きじゃないことを思い出したが、意外にも手のひらを出してきた。その上に一つ、落としてやる。出てきたのは、ハートの形をしたドロップ。

「あっ!」
「何だ?」

 瑛は、薄紅色のドロップを指差す。噂では知っていたけど、見るのは初めてだった。

「これ! 滅多に入ってないんだって。幸運のハート。何かいいことあるよ。よかったね!」
 
 次は自分の分と、缶を振れば、出てきたのは真っ白なドロップで。
 
「あー……」

 苦手な味に、瑛は落胆の声を漏らす。と、トキがハートのドロップを差し出した。

「返す」
「返してもらったら、お礼にならない」

 断ったら、いきなりトキに鼻をつままれた。

「何《らり》?」

 瑛が言った瞬間、口の中にドロップを放り込まれる。

「何かいいことがあるらしいぞ。よかったな」

 そう笑って、トキは白いドロップを自分の口へ入れた。いつの間に取られたのか。ついさっきまで、瑛の手にあったものだ。

「それ、ハッカだよ?」

 口がヒリヒリして、おいしくない。ハズレの味。瑛は心配になったけど。

「案外、嫌いじゃない」

 トキは、そう答えた。
 この言い方は、『そこそこ、好きだ』ということ。瑛は、一緒に生活する中で、気づいていた。
 今度からハッカのドロップは、全部、トキに食べてもらおう。
 瑛は密かに目論む。口の中、ドロップの甘酸っぱさが、じわりと広がった。
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