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届いた聲。
しおりを挟む遡ること十分前。
呼び鈴の音を聞きつけた雪弥は、怠い体をおしてドアノブに手を掛けた。
次こそは、と期待して開いた扉の隙間から肌寒い空気と共に馴染みある運送会社の名を告げる声が聞こえてくる。
また違った。
やはりアレでは駄目だったのだろうか。雪弥の顔面が失意と落胆に染まる中、階下から争う物音が響いた。
一つは当然秋麿。もう一つ、いや二つは若い男の声だった。
雪弥の脳内に、昨今巷を騒がす闇バイトの文字がちらつく。
警察に通報と衣嚢に手を伸ばすが、肝心のそれは秋麿に取り上げられ、そこにはない。ならば固定電話と過るも生憎それもあるのは一階。更に間が悪い事に両隣の隣人は旅行と仕事で不在……見事に詰んでいた。
一体どうすれば。右往左往していた視線が部屋の、壁際の窓で止まる。
雪弥の喉が、ごくりと鳴る。
窓の鍵を開けて下を見る。
そこにあるのはまだ雪のない剥き出しの地面だ。此処からの高さは優に三メートルは越えるだろう。
窓枠に添えた手がカタカタと揺れる。
「(怖い。でもやらなきゃ――)」
秋くんが殺されちゃう。
涙ぐみながら唇を噛む。次いで深呼吸を三つ重ね、いざっ!と足を掛けたその時、出入口の扉が乱暴に開かれた。
振り向いた雪弥の目が驚愕に見開き、そしてくしゃりと崩れる。
視線の先に居たのは凶悪犯ではなく、息を荒げた様子の夏史だ。
「雪っ、無事か!?……!」
雪弥を視認して一秒。
夏史は大股で彼との距離を詰め、その体を強くかき抱いた。
鼻先に香る汗とシトラス。
雪弥の目から滂沱の涙が流れ落ちる。
「……せん、ぱい?」
「ああ」
「ゆめ、じゃない?」
「ああ。夢じゃない」
「……なつふみせんぱいぃぃ」
「悪い。遅くなって悪かった」
夏史の腕の中で、雪弥はスンスンと鼻を鳴らす。
「雪、ちょっとごめんな」
そう言って拘束を解いた夏史は、自身のファー付きにコートを脱いでそれを雪弥に羽織らせ、横抱きにする。
するとまだ不安なのか。雪弥は何を言うでもなく、夏史に抱き着き、その胸に顔を埋める。
「俺ん家行くまで少し我慢な」
頷いたのを確認し、そのまま階下に降りる。玄関先に先程の喧噪はない。
代わりに秀頼に伸された秋麿がいた。
彼に馬乗りされた状態で、秋麿は親の仇みたく夏史を睨みつける。その顔、否、顔の半分は大きく腫れ、口から血を流す姿は結構な喧嘩だったと物語る。
「後は頼む」
「オッケ~。任して」
夏史の頼みに、秀頼は軽く手を振る。
とても押し込み強盗紛いな事をした直後とは思えない緩さだ。
「ま、て……ゆ、ちゃ……かえ」
秋麿の手が夏史、いや夏史に抱えられた雪弥に向けて伸びる。
けれどそれに答えたのは秀頼だ。
「だからー、その雪君のSOSで、俺等はいるんだってー」
「うそ、だ」
「ハァ……はい、これ。ショーコ」
自身の携帯を操作し、その画面を秋麿に向けて見せる。
表示されているのは六時間、雪弥が打ち込んだあの支離滅裂な文章だ。
「…………え」
「これで分かった?」
「うそ、だよね。ゆきちゃ」
問われた雪弥は否定せず、ただただ夏史の胸に顔を埋め、目線すら合わせようとしない。明確な拒絶だった。
「あ、あ、あ、ウァアアアア!」
咆哮が轟く。
悲しみと絶望。胸を締めつけられるそれに夏史の腕の中にいた雪弥は、ぎゅうっと腕に力をこめる。
「雪……行こうな」
小さく頭を揺らし、了承を示した雪弥を抱いたまま、門前に置いたBMWへと移動する。
優しい手つきで助手席に雪弥を下ろした彼がエンジンをかけた。ブルルと独特の音が鳴り、周囲を見渡し、誰もいない事を確認した車が発進する。
周りの景色がアトラクションのように流れていき、加速に引っ張られた体はシートベルトに軽く咎められた。
雪弥は運転する夏史をじっと見る。
精悍な横顔。その目が雪弥の視線に気付き、ちらりと動く。
「運転荒かったか?」
「ん……だいじょぶ」
舌足らずな声。緊張が解け、疲労に軍配が上がったようだ。
少しずつ、うつらうつらする雪弥に、寝ててと夏史が言う。撫でる手がたまらなく優しい。その優しさに安心した雪弥はゆっくりと瞳を閉じた。
どのくらい眠っていただろうか。
ピューという間抜けな電子音に起こされた雪弥は、緩慢な仕草で目を擦る。
ぼやけた視界に映るのは車内でも自室でもない白い天井。
空気中に漂う微かな柑橘の匂い。そういえば自宅に連れていくと言われていたから此処は彼の寝室なのだろう。
だがしかし、辺りを見渡せど夏史の姿はない。幾分か楽になった上半身を起こせば、服の変化に気付く。以前借りた夏史のTシャツだ。
「せんぱい、何処?」
親を見失った子どものように泣きそうな、不安な表情を浮かべた雪弥はリビングに通ずる扉に手を掛けた。
かちゃり。
開いたそこから明るい光とともに香ばしい珈琲の香りが鼻腔を擽る。そして眩しさに目を細めるのと同じタイミングで奥、台所から夏史の声がした。
「雪?……っと!」
飛び込んできた雪弥をどうにか受け止めた夏史はその背をあやす。
「怖い夢でも視たか?」
腕の中の雪弥は緩く首を振り、ぎゅうぎゅうと抱き着く力を強める。
「……そうか」
「こわかった」
「もう大丈夫。もう大丈夫だ」
「いっぱい、さわられた」
背中を叩いていた夏史の手が、ピタリと止まる。
「は?」
「秋くんに、なんども、やめてっていったのに」
見上げた雪弥の目は涙に濡れていた。
「…………何処触られた」
「ぜんぶ。ボディーシートでおっぱいと、おちんちんも、もまれて」
次第にしゃくりを上げる。
「雪」
「っく……なに、んむっ!」
勢いをつけた夏史の唇が雪弥の唇と重なる。珈琲の味がする熱い舌が歯列を辿り、歓迎して口を開けば、控えめな雪弥の舌へいやらしく絡みつく。
耳を犯す恥ずかしい水音。
必死になって応える内、腹の奥を中心に甘い疼きが走り、雪弥はあっという間に立っていられなくなった。
「プハッ……はぁ、はぁ」
「雪」
熱を孕んだ瞳に見つめられる。
「……消毒、する?」
「するぅ」
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