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総てが遠き過去。
しおりを挟む嫌な夢を見た。かつて夏史が気まぐれに雪弥を助けてくれた夢だ。
あの時の雪弥はまだパソコンに慣れておらず、また一人暮らしのごたごたもあり、たいそう右往左往していた時期だった。
彼はまごつく雪弥に根気よく何度も何度も指導し、どうにかレジュメを完成させた時は我が事のように喜び、褒めてくれた。なにより向けられる視線が温かくて柔らかくて……――まだ何も知らなかった頃の、泡沫のように儚い夢の残滓。今はもう夢の中でしか会えない優しい貌。その貌が雪弥は大好きだった。
「……ん」
何かが触れるような、むず痒い感触に雪弥は目を開ける。
起き抜けの不明瞭な視界に映るのは誰かのシルエット。
秋くん?と尋ねた途端、手の主がピタリと動きを止め、言葉を詰まらせる。
不思議に思いながら霞む目を擦って瞬きを繰り返せば、やがてぼやけた輪郭が浮かび上がり――雪弥は椅子から転げ落ちた。
「いっ、だ!」
尻を強打した痛みに悶絶するが、覚醒した脳味噌は、お前の事情なんざ知らねえよ!とばかりに昨夜の光景と経緯を目蓋の裏に押し付ける。
一拍おいて、自身のやらかしと羞恥に雪弥の顔に熱が宿った。
穴があったら入りたい。雪弥は心配そうに窺う夏史を視界に入れないよう立ち上がり、庇ってくれた礼と預かった私物――母親の物含む――、簡単な経緯を添えて早口で告げた。
「以上です。では僕は帰ります」
「まっ、待って!!」
立ち去ろうとした雪弥を夏史が呼び止める。
「……なんですか」
「その、雪は怪我してないんだよな」
夏史に背を向けていた雪弥は、強く拳を握る。
「お陰様で無事です」
「そうか……良かった」
大事な人の無事を知って安堵するような声音に、胸がつきりと痛む。
「…………もういいですか?」
「あっ、」
口ごもる夏史。彼がいまどんな顔をしているのか、背を向けた雪弥には知る由もない。一向に返答のない事に焦れた雪弥が歩を進ませた直後、後方でドタンと大きな音が鳴った。
驚き振り返れば、病衣の夏史がベッドから落ちていた。
「なにしてるんですか!?」
「いっ、てぇ」
「怪我してませんか」
「……心配、してくれるんだ」
「っ。僕でなくても、誰でも言うでしょう。立てますか?」
「そう、だね。……ごめん、手を貸してくれ」
つい駆け寄ってしまった雪弥は自らの人の良さを呪いながら、彼をベッドに戻すのを手伝う。その際、微弱なシトラスと少しの男臭さが鼻先を掠めた。
「どこか痛いところはありますか」
「大丈、いっ!」
腰掛けようとした夏史が痛そうに呻く。どうやら着地に失敗した時に捻ったようだった。早朝早々呼び出された医者も同じ診断を下した。
「一応、湿布貼っておきますね。それと異常はなかったとはいえ頭を打った後ですから念のため、数日は大人しくしてくださいね」
「はい」
二人のやり取りに耳を傾けつつ、完全に帰るタイミングを逃したと肩を落としていると、医師が雪弥へと話し掛けてくる。
「君。奥様から頼まれていた子だよね。すまないけど彼が大人しく帰宅するまで付き添ってあげてくれないかい?」
「……は?」
「先生。俺は自分で」
「そう言って病院を抜け出す度、傷を増やして帰ってきたのは君だよね」
「それはガキの頃で!」
「今も子供でしょ」
医師と夏史は旧知の仲、いや頭が上がらないようだ。呆気に取られた雪弥を余所に、医師はじゃあねとだけ言ってそそくさと病室を出て行く。
残される雪弥と夏史。
「……なんかごめん」
「ええ、本当に」
苦笑した夏史は、ひょっこひょっこと覚束ない足取りで私物置き場に近寄ると置いてあった一万円を手に取る。
「これ、あの女が置いていった?」
「いえ。須天先輩の財布から抜き取ったお金です」
「そう……雪、これ迷惑料。あと付き添いはいい、うわっ!」
「危ない!」
手渡そうとしてバランスを崩した夏史を咄嗟に受け止める。
「……なにしてるんですか」
「重ね重ねごめん」
「ハァ……。また怪我してないですよね?」
「……その、」
「まさか」
「ちょっと、痛い?」
「馬鹿じゃないんですか?」
結局、医師の申しつけ通り、雪弥は夏史の自宅まで送り届ける事になった。
オナホだった頃は一度も招待されず、こうなって不本意な形で足を踏み入れるとはなんたる皮肉だろう。あんなに入りたいと熱望していた場所が今では世界一居心地が悪い。
夏史をソファーに座らせ、私物を置いた雪弥は長居はすまいと踵を返そうとして手を掴まれる。
「離してください」
「……雪」
「っ、」
置いていかれまいと縋る子供のようなそれに、言葉が詰まる。
夏史は何も言わない。ただただ雪弥を見つめるだけ。長い長い沈黙が二人の間を支配する。
先に動いたのは夏史だった。
雪弥の手を引き、その腰に抱きつく。
「ごめん」
「……離してください」
「本当にごめん」
触れた夏史の体は微かに揺れていた。
「後悔してる」
「……そう、ですか」
「どうしたら許してくれる?」
夏史が頭を上げる。
涙に濡れた顔。その顔はハッとするくらい綺麗だった。
「貴方は許されたいんですか」
「許されたい」
「なら……金輪際、僕に関わらないでください」
これ以上なく見開いた夏史の目に雪弥が映る。そこには傷ついて、今にも泣きそうになりながら必死に笑う雪弥がいた。
「いやだ」
「なんでですか。須天先輩は僕の事なんて好きじゃないでしょう?」
「違う、違う違う違う! 好き。好きだ。愛してるんだ!」
「どうせオナホとしてでしょう」
「っ、」
『お前は俺の肉オナホ。それ以上でも以下でもねえの』。かつての夏史の言葉が今の夏史を苦しめる。
どんなに言葉を尽くしても雪弥の心に届かない。
自分が何をしてしまったのか、雪弥をここまで壊してしまったのだと改めて思い知った夏史の目から涙が零れる。
「……雪」
「須天先輩。我が儘言わないでください」
拘束が緩まった隙をつき、雪弥はそれじゃあと玄関に戻っていく。
背後では夏史が、待って、行かないでと縋る声を出しているが今度はもう彼が転ぼうが雪弥は振り返らなかった。
ぱたんとドアが閉まる。
厚いドアを通して、夏史の泣き叫ぶ声が伝わってくる。
「あ、あ、……うぁあああああああ!!」
「……さよなら、須天先輩」
※次回は夏史のターンです※
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