君とのキスは、涙味。

くすのき

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因果応報

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「うーん……まだちょっーと荒れてるねえ」

 医療機器を操作しながら、モニターを注視していた初老の医師が難しい顔で言う。

「元々お腹が弱いってお母様から窺ってるけど、ちょっーと気になるからまた組織片取らせてもらうね」

 尋ねられた雪弥は涙目で恭順の意を示す。それを受けて医師は追加の器具を付け足し、雪弥の胃に傷を入れる。
 痛みはない。そうして採取と確認を終えた胃カメラが雪弥の喉奥から出ていった。看護師の手を借りて診察椅子に腰をおろせば間髪を入れず、医師は先程の映像をパソコンに繋いで見せる。

「――という訳だよ。胃潰瘍ってね、個人差はあるけど大体治るまでに6~8週間かかるんだ。でも川山さんの胃はね、人より少し繊細でのんびり屋さんなのかもしれないね。今回お薬変えてみるからそれでちょっーと様子みてみようか」
「はい」
「あとコレは確認なんだけどさ、最近夜ちゃんと眠れてる? 不安や悩みで何度も目が覚めるとかはある?」
「朝まで起きないです。悩みは……」

 口篭もった雪弥は何かを言おうとして、曖昧に笑う。

「まぁ、こんなご時世だし皆大なり小なり悩みはあるよね。あ、そうだ。これは例えなんだけどさ、川山さん家に古い洗濯機があるとしようか。それがさ突然異音を上げました。君は修理業者を呼ぶ? それとも買い換える? まだ動くからそのままにする?」
「えっと……多分音だけならそのまま」

 やっぱりかぁ、と医師は頷いた。

「?」
「ボクがこの質問をしたのはね、家電の故障は人間と通ずる面があるからなんだ」
「……あ」

 不調の放置は、将来必ず壊れる。
 医師はそう言いたいのだ。

「川山さんはね、今ね医療という名の修理を受けてる最中なの」
「はい……」
「薬は替えのきく新品パーツじゃないし、補助部品みたいなものなんだ。治すのはあくまで患者さん。ボクの言いたい事分かるかな」
「ストレスを溜めない」
「そうだね。けどね、人間はそれが一人ではなかなか難しいんだ」

 頼ることは悪ではないよ。
 そう和やかに告げる医師に、雪弥は困った顔で同意を返す。
 なんにも知らないくせに。
 痛む腹と胸の内に掬うどろどろとしたものを必死で抑えつけて。

「ありがとうございました」

 会計と薬剤の受け渡しを終えて、病院を出る。
 秋の肌寒い風が頬を撫でる。
 見上げた空は曇天。
 今にも降り出しそうだ。
 傘持ってくれば良かった。少しの後悔を溜め息に乗せて右脚を踏み出した刹那、斜め前方から雪弥の名を呼ぶ声がした。

「…………げ」

 道路を挟んで向かい、太陽が如きご機嫌の秀頼が手を振っていた。
 見なかったことにしよう。
 雪弥はさも人違いだった呈を装い、家路を急ぐ。

「ちょちょちょっ。雪君、無視しないでよー!」

 焦ったように横断した秀頼が隣に並ぶ。

「診察おつかれー」
「なんで此処が?」
「分かったかって? ひみつー……って言いたいとこだけど俺ね、結構情報通なんだよねー」
「キモい」
「なーになに。今日の雪君、一段と切れ味鋭いじゃーん。生理?」
「…………馬鹿なんですか?」

 秀頼に一瞥もくれず振り切らんと速度を速める雪弥だが、敵は甘くなかった。ぴったりと併走し、全く距離が開く気配はない。

「具合はどう? 良くなったー?」
「お陰様で相変わらず。薬だけが変わりました」
「なーにそれ。雪君、もしかして重い病気なの?」
「ストレス性の胃潰瘍」
「胃潰瘍!?」

 これかー、と検索かけたスマホの記事を見ながら秀頼があっけらかんと呟く。

「雪君、そんなに強いストレスだったん? 駄目じゃん。ちゃんとストレス解消しないと。あ、これから一緒にゲーセン行く?」

 お前がそれを言うのか。
 必死に押し込んだ袋の糸がぷつりと切れ、圧縮に圧縮を重ねた黒い感情が弾け飛ぶ。

「雪君?」

 怪訝そうな表情の秀頼が、立ち止まった雪弥へと振り返る。

「ハメ撮りをばら撒かれたくなければって強制的に繋がられて。既読スルーも許されず毎日毎日くだらないメッセージのやり取りさせられて。それでストレス溜まらない馬鹿が何処にいるんですか?」

 真顔で淡々と、視線を合わせた彼に秀頼が初めて言葉を詰まらせる。
 それでも雪弥は止まらない。
 これまで与えられた澱みをここぞとばかりに放出する。

「あ、もしかして僕が人の形をしたオナホだから何しても傷つかないって思ってました?」
「いや」
「じゃあオナホかどうか確認するついでに今度の診察ついてきます? 先生に貴方から受けた仕打ちぶちまけますから」
「そっ、そんなん俺が絶対怒られるじゃん」

 その言葉に真顔だった雪弥の顔が花が咲いたように綻ぶ。

「なんだ、悪い事してる自覚あったんですね。あ、怒りました? なら今すぐネットに僕の痴態ばら撒きます? 良いですよ、僕は別に」
「ゆっ、雪君ちょっと落ち着こう」
「ただその代わり、僕は家族と友人に貴方に脅されている。もう限界って送った後、そこの車道に飛び込むので」
「いやいやいや。冗談よそうよー」
「あぁ、でも。直ぐそこ病院だから即死は出来ないかもなぁ」

 青ざめていく秀頼と対象的に、雪弥の心はこれ以上なく晴れやかだ。
 脅迫には脅迫で返す。
 もちろん本気で死ぬ気はない。
 でも、もっと早くこうすれば良かった。

「あ、もしかして今すぐには決められませんか。じゃあネットに晒したら連絡ください。失礼しますね」

 そう言うと雪弥は歩き出す。今度は秀頼が追って来ることはなかった。
 ポツポツと雨が降る。
 やがてそれは本降りとなり、あっという間に地面に水溜まりを作った。
 ざあざあと冷たい雨に打たれながら、長い時間呆然としていた秀頼が我に返って携帯を取り出す。
 震える指で打ち込むのは、友人の電話番号だ。二度、三度。耳障りなコールを鳴らし続け、漸く繋がる。

『なんだよ』
「ごめん」
『あ゛?』
「俺、雪君、壊しちゃったかも」
『は?――……詳しく話せ』
「じ、実は」

 寒さではなく、恐怖に震えた声で秀頼は語る。
 雪弥の病気のことを、快癒の遅い原因が自分にあることを、自分が雪弥に何をしたのかを、雪弥が自分の命を盾に脅し返したことを、その全てを――。
 長い長い沈黙。

『アイツは今何処だ』
「分かんない。けど多分家に帰ったんだと思う」
『住所は』
「それは知ってる。ね、ねぇ、夏史。どうしよう。雪君が本当に自殺しちゃったら」
『日和ってねーで場所送れ!』



 *・*・*



 夏史は走っていた。
 傘もささず、普段の彼からは考えられない焦燥を露わにした表情のまま、なりふり構わず駆けていた。
 足が縺れて何度も何度も転ぶ。
 手に傷がつき、頬が切れ、捻った足がじんじんと痛む。だがしかし夏史は止まらない。

「雪……雪……雪!」

 やがて上白垣と表札のついた一軒家の前に到着する。
 夏史は門を飛び越え、分厚い玄関扉を破壊せん勢いで叩きつける。
 ややあって異変に気付いたであろう雪弥がおそるおそるドアを開け――閉じようとしたそれを滑り込ませた夏史の足が阻止する。
 そして力の限り抱きしめた。
 生きている。
 ちゃんと生きている。

「っ、離して! 離してください!」
「……嫌だ」
「え」

 逃れるべく胸板を叩いていた雪弥が動きを止める。

「……悪かった」

 そう言うと夏史は一度だけ雪弥をきつく抱きしめ、拘束を解いた。

「アイツ、秀頼から全部聞いた」
「……そうですか」
「アイツがあんな事するなんて思わなかった」
「別にいいですよ」

 その言葉に夏史は表情を明るくさせ、次の一言で地に堕とされた。

「須天先輩にとって僕は取るに足りない肉オナホなんですから」
「ゆ、き」
「あぁ、でも元でしたね。今はただの先輩と後輩なんですから」
「ちがう……」
「あぁ、すみません。そうですね。違いました。烏滸がましくてすみません。僕達はもう何の関係もないただの他人でした」

 ずぶ濡れの夏史の目から涙が伝う。

「? なんで貴方が泣くんですか。あぁ、そっか。僕が死んだら後藤先輩だけでなく、須天先輩も特定されて二人とも困りますもんね。そりゃあ自殺してなくて嬉しいですよね」

 夏史の視界が涙で歪む。
 雪弥も雪弥で精一杯笑顔を作りながら、その目の奥は小刻みに揺れていた。

「じゃあ確認出来たんだからもういいですよね。僕、休みたいんで」

 そう言うと雪弥は素早く玄関を閉めた。雨の音に混じって鍵をかける音が、夏史の耳に嫌に大きく聞こえた。

「ちがう……ちがうんだ」

 弁明の声は雨で掻き消された。
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