君とのキスは、涙味。

くすのき

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最低なひと。

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 後藤秀頼は軽薄そうな見目と裏腹に、意外と筆まめな男らしい。
 朝はいつも意味不明な暗号じみた挨拶から始まり、その日のどうでも出来事や自分が面白いと感じた事、愚痴を送って、夜は必ずお休みで締め括る。
 毎日毎日ヤれない相手、それも男にこんな事して虚しくならないのかと雪弥は痛む腹を擦りながら、予測変換先頭を陣取る七文字をタップする。
 『おはようございます』
 『はい』
 『そうですか』
 『お休みなさい』
 大体いつもこの四つの使い回し。
 それ以外の文、雪弥からコミュニケーションを取る事も、話を弾ませる事も一度としてない。
 携帯を放り、ソファーに座ったまま天井を見上げる。目に優しい橙の光。

「雪ちゃん? どしたの?」

 丁度、風呂上がりの秋麿と目が合った。入浴後直ぐに出てきたのだろう。洗髪した髪は未だ水分を含み、毛先から滴り落ちた水滴がよく鍛えられた半裸の上半身に落ちていく。

「しゅーうーくーんー」
「あ、タオル。今日はちゃんとタオル被ってるから!」

 ジト目の雪弥に、秋麿はバツが悪そうに慌てて片手の水入りペットボトルを見せて釈明する。

「喉渇いちゃって。飲んだら、飲んだら拭こうかなって」
「ならせめてタオル巻こうよ」
「はい……」
「次は気を付けてね。拭いてあげるからタオル貸して」
「うんっ!」

 満面の笑みを咲かせた秋麿が、驚異的な速さで雪弥の足元に腰を降ろす。

「雪ちゃんに拭いてもらうの凄く気持ちいいんだよね」
「それはどうも。拭いた後はドライヤーでちゃんと乾かしてね」
「はーい」

 濡れていながらも手触りのいい、ふわふわな猫っ毛。
 そういえば夏史先輩も猫っ毛だった。脳裏にチラついたかつての恋人、いや最低な人の後ろ姿に雪弥の手が止まる。

「雪ちゃん?」
「あ、ううん。秋くんの髪の毛って凄い綺麗だよね。何したらこうなるのかなって」
「特別な事はしてないけど……強いて挙げるなら美容院で勧めてもらったシャンプーくらい? 気になるなら雪ちゃんも使ってみる?」
「ううん、言ってみただけだから。それにそういうのってお高いでしょ」
「別にいいのに。あ、でも肌に合わない場合もあるよね。じゃあさ例しに一回だけ使ってみるのはどう? それなら雪ちゃんも気にならないでしょ」
「……じゃあ一回だけ」

 なんか強請るような形になってしまったなと反省する雪弥を察してか、秋麿は何かを思い出したかのように声をあげる。

「この流れで思い出したけど、雪ちゃんの使ってるボディーソープって何処のやつ? 俺、あの香り結構好き」
「ランティルっていう地元の小さなメーカーさん。良かったら秋くんも使ってみる?」
「いいの!? やった!」

 本当に嬉しそうにする秋麿に、雪弥まで嬉しくなってくる。

「あ、そうだ。雪ちゃん、俺明日飲み会行ってくるから夕飯は一緒に食べれないんだ」
「この時期に珍しいね」
「んー、飲み会っていうか合コン? 幹事の奴に人数足りないからノートの借り返す為に来いって脅された」
「あははは。そうなんだ」

 笑い事じゃないよ、と秋麿は頬を膨らませて抗議する。

「見ず知らずの相手とご飯なんて疲れる。此処で雪ちゃんとご飯食べてイチャイチャしてる方がずっと楽しい」
「僕とイチャイチャしてどうするの」

 クスクスと喉を震わせる雪弥に、秋麿は押し黙り、雪弥の手に自分の手を重ね合わせる。

「秋くん?」
「雪ちゃんは俺と一緒は楽しくない?」

 見上げた秋麿の真剣な瞳が雪弥を射貫く。

「しゅ、くん」
「俺はね、今すっごい幸せだよ。朝起きたら雪ちゃんがいて、一緒に登校して、授業受けて、同じ家に帰って、はっくしょい!」

 イケメンにあるまじき、くしゃみに雪弥は一瞬にして我に返った。

「は、はい。タオルドライ終わり。風邪引くといけないから服着てきて」
「いや大丈、はくしっ!」
「ほらっ!」

 雪弥の圧に負けた秋麿が洗面所に戻っていき、完全に扉が閉まったのを確認した雪弥は両手で顔を押さえた。
 その顔は茹でた蛸のように赤い。

「(びっ、びっくりした。あんな目されたら誰でも自分に気があるのかって思っちゃうよ。あとで秋くんにきつく注意しないと)」

 未だバクバクと早鐘を打つ心臓を深呼吸して宥める。

「(……大丈夫。大丈夫。僕はもう絶対勘違いしたりなんてしない)」




 翌日。
 雪弥にこっぴどく説教された秋麿は、まるでこの世の終わりと言わんばかりの暗い表情で合コンに参加した。
 幹事の男がお通夜じゃないんだからやめろと文句を言ってきたが、秋麿の知った事ではない。
 そして最初の頃はなんとかして秋麿を慰めてあわよくばと画策していた女達だったが、秋麿から聞いた――秋麿自身も噂程度――雪弥に対して行われた想像以上の仕打ちに憤り、何故か秋麿と雪弥――彼女達には雪ちゃんで通している――との仲を応援する作戦会議会として様変わりした。
 他の男性陣? 当然置物だ。

「え、じゃあその肝心の雪ちゃんは秋麿君の想いに気付いてないわけ!?」
「というか敢えて見ない振りしてるのかも。俺も結構アピールしてるんだけど友達同士のじゃれ合いとしか多分見られてない……」
「いやそれ下手したら悪手」
「うん。てかこれかなり根深いかもね~。聞く限り、その雪ちゃんはその男が初恋なんでしょ。私も同じ立場なら何カ月かは引きずるし、最悪、疑心暗鬼になって恋愛はもういいかなって思っちゃうかも」

 ガーンと分かりやすくショックを受ける秋麿に、女性達はヨシヨシと慰め、同時にこれ以上ないアドバイスをくれる。

「だから秋麿君は絶対、ぐいぐい行かずに包み込むように傍にいて支えるのに徹すること!」
「間違っても体で慰めるはNGよ! 例えいま雪ちゃんに求められても断りなさい。というかヤったら最後、そのクズ男と同じ認定される覚悟でいて」
「アピールは?」
「取り敢えず暫くは封印で。とにかく自分は裏切らない、絶対の味方ってポジションを死守して」
「分かりました!」

 全ての助言を必死にメモ帳アプリに記入する秋麿に、女性達は微笑ましいものを見るようにグラスを傾ける。

「私も秋麿君みたいなイケメンに愛されてみたいわ~」
「分かる!」
「あ、俺ちょっとお手洗い行ってくる」

 そう言って秋麿はトイレに向かう。
 最初の頃は合コンなんてと気分最悪だったが、来て良かった。
 女なんて男の見た目で百八十度態度を変える現金な生き物だと思っていたけれど、こうして話してみると様々な視点を持っていて、優しく強く強かな人達であると知ることが出来た。
 鼻唄を口ずさみながら、手洗いのドアを開ける。刹那、秋麿の顔から一切の表情が抜けた。

「アンタ……」
「……あ?」

 そこに居たのは件の屑男。
 憎たらしいほど顔の整った、殺したいほど嫌いな須天夏史の姿だった。
 酔っているのだろうか。
 夏史はその美貌を赤く染め、静かに敵意を向ける秋麿を睨みすえる。

「なんだよ」
「いや汚いヤリチンがいたからつい」
「あ? 喧嘩売ってんのか」

 夏史の手が秋麿の胸倉を掴みかかる。
 その呼気から漂う酒精は強く、かなり飲んでいるのだと窺えた。

「いいえ。でも買って欲しいなら買いますよ。アンタは一度雪ちゃんの痛みを知るべきだ」
「雪?」
「アンタがオナホ扱いして捨てた雪ちゃんだよ!」

 秋麿の怒声に驚いてか夏史の目が僅かに見開き、酔いが醒めたようで胸倉から手を離した。

「ハッ。お前、雪弥が好きなのか。すきもんだな」
「お前っ!」
「痛み? んなもんどーでもいいわ。つうかセックスもアイツが望んでやったんだよ。俺は悪くねーし、文句を言うのは筋違いだろ。ハァ~……お前の所為で酔いが醒めたわ。気分悪ぃ」

 そう吐き捨てた夏史は秋麿の横を通り過ぎる。その後ろで秋麿の『二度と雪ちゃんに近付くな』という叫びが響き渡った。





 *・*・*




 パキンと折れたシャーペンの芯がノートの床をコロコロと転がる。
 僅かに汚れたそれに辟易としつつ、雪弥は壁時計に視線を映す。
 現在時刻は21時。
 結構長く集中していたらしい。
 今日はここまでにしようと開いた教科書を閉じていた最中、空腹より痛みを訴える方が多いそこが珍しく、食べ物が欲しいと主張する。
 何か小腹を満たすものはないかと冷蔵庫を開けて見るが、あるのは家事代行サービスの田中さんが作った作り置きだけで、この時間に食べるものではないものばかり。他に菓子やアイスなどはあるにはあるが、胃潰瘍になってからはそれ等は極力避けていた。
 それより今は――。

「なんか無性にあんパンが食べたいな」

 普段はこんな事はないのにと思う反面、勉強疲れで脳が糖分を欲しているのだと雪弥の内なる悪魔が囁く。
 此処から最寄りのコンビニまで十分。秋麿には危ないから夜は出歩かないよう言われているが、今はどうしてもあんパンが食べたい。
 逡巡する事暫し――。

「十分くらいなら大丈夫だよね」

 雪弥の心は食欲の悪魔に負けた。
 鍵と財布、携帯を持って外に出る。
 21時とあって当然、辺りは暗く、街灯の光がぽつぽつと道を照らしている。時折、冷えた風が吹き抜けて雪弥の髪をパサパサと揺らす。
 最寄りのコンビニまでは人の気配はなく、少しだけ恐怖を感じたが、到着した際の店の灯りに直ぐにそれは搔き消えた。

「っしたー」

 テンションの低い店員の声を背に、あんパン片手の雪弥は来た道を戻らんと踵を返す。向かっていた時は恐怖心を覚えたそこは、目当ての物を入手した今では然程気にならない。
 十字路の交差点を曲がり、他のより細い道を通ろうとした時だ。
 右脇から急に飛び出してきた男と雪弥がぶつかる。

「いたっ、」
「あ゛、いっへーじゃねえか!」

 相手は仕事帰りのサラリーマンだ。
 相当酔っぱらっているのか、言葉は呂律が回っておらず、体からも強い酒の臭いを発している。
 男は自分の方にも非があるにも関わらず、それとも日頃の鬱憤を晴らしたいのか、はたまた酒で気が大きくなっていたのか。雪弥の髪を掴み、何を言っているかはよく聞き取れないが罵声だろう大声を上げて喚き散らす。

「さいひんのわかひ奴はけしからん!」
「いたっ、痛い! 離して! 離してください!」
「はなひて?! そこはふつはってもうひわけございまへんだろうがっ!!」

 引っ張られた頭皮がきしきしと痛みを訴え、目尻に涙が浮かぶ。
 もう思い切り足を踏んで逃げるしかない。そう決意して右脚に力を入れたその時、逆方向から聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「お巡りさん見えますかー。暴行傷害の現場です。早く来てくださーい!」
「なんで、」
「っ、お、おへは何もしてねえ! ちゅうひしてただけだ!」

 スマホを掲げた第三者の登場にサラリーマンは不味いと判断してだろう。雪弥の髪を掴んでいた手を離し、またよく分からない自己正当化する捨て台詞を吐いて脱兎の勢いで逃げていく。
 その場に残される第三者と雪弥。
 重い重い沈黙。先に口火を切ったのは第三者、夏史だった。

「ダッセェ奴」
「っ、助けて頂いてありがとうございました。須天先輩」

 男に向けたのか、雪弥に向けられたのか定かでないそれに雪弥は目を伏せ、一礼する。

「それじゃあ」
「おい」

 走り出そうとした雪弥に声をかけた夏史が長い足であっという間に距離を詰め、雪弥を壁に押し付ける。

「いたっ」
「こんなとこで何してんだよ」
「な、何って買い物です」

 ほらっと雪弥が見せた買い物袋を、夏史はつまらなさそうに一瞥し、何を思ったのかその綺麗な顔を、唇を雪弥へと近付ける。

「や、やだっ!」
「チッ。手ぇどけろ」
「い、嫌です」

 必死に手で覆って防御する雪弥に、夏史はその顔を怒りに歪ませる。

「あ゛、キス出来ねえじゃねーか」
「し、しません。須天先輩とはもう何もしません」

 手で隠したまま、ぶんぶんと首を振る雪弥に、くんと鼻を鳴らした夏史が一瞬の沈黙の後、鬼の形相で雪弥を見た。

「テメェ。俺とは勝手にオナホやめといて、アイツと寝てやがんのかよ」
「ひっ!」
「ハッ。お前は尻軽だもんな。どうせアイツだけじゃなく、他の奴にも悦んで尻差し出してんだろ。そうだろ?」

 雪弥の目が大きく見開き、大粒の涙が流れ落ちる。そんな雪弥に気を良くした夏史は、彼の腹に手を当て更に酷い言葉を投げる。

「此処に大好きなザーメン注がれてアンアン啼いて、っ」

 夜のしじまに破裂音が木霊した。
 それが雪弥からのビンタであると、夏史は遅れて気付く。

「テメ……ぇ……!?」
「っ、最低ッ!!」

 ボロボロと涙を流す雪弥に、夏史は影を縫いつけられたように動けなくなる。その顔にはもう怒りはない。
 信じられないものでも見るかのように呆気にとられ、彼はそのまま踵を返して走り去る雪弥の後ろ姿をただただ見ていた。
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