君とのキスは、涙味。

くすのき

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君と僕が終わった日。

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 中学生になれば、高校生になれば、大学生になれば。自分は変われるんじゃないかと思い続けてきたけれど、こんな変化なんて僕は望んでいなかった――。

 簡素な机の上にて、無造作に置かれた携帯が灯った。
 夜空を彩るイルミネーションのごとく、通知を知らせる液晶が私を見てといわんばかりに煌々と輝く。
 パンツ一丁の青年がそれを取る。その恐る恐る操作する仕草は何処か辿々しい。まるで初めて触るかのよう。
 上から下。縦移動していた指がピタリと止まる。視線の先を辿れば、誰かとのメッセージのやり取りがあった。
 青年の唇が戦慄く。

 『今日のオナホ君は何点?(笑)』
 『50点。声がホントキモくて途中で萎えそうだった。お前も聞いてみろ』
 『送ってくんなよ』
 『確かにキモいwww』
 『だろ。穴は百点満点だってのに声でホント最悪なんだわ』
 『へー。じゃあその百点満点の穴、今度貸して』
 『お前と穴兄弟とかマジ最悪なんだけど』
 『ひっでぇwww』
 『ま、飽きたらやるよ』
 『飽きたらかよwww じゃあ今の内にオナホ君、じゃなかった雪君の連絡先教えて』
 『は?』
 『は?じゃねーし。今の内に仲良くなってお前に捨てられた時の雪君といち早く慰めセックスしてーじゃん』
 『前々から思ってたけどお前の性癖ほんと終わってんな。番号は090………』
 『サンキューwww』

 そこには口に出すのも憚られるような内容が幾つも散見された。加えて貼付してあった動画も、一時間前の青年の痴態を録画したものだった。
 糸の切れた操り人形のようにその場に膝をつく。辺りには動画の中の青年が痛みと快楽に泣き喘ぐ声が響いた。
 青年の頬に熱い水が伝う。
 その時だった。
 室内の出入口でない方の扉が開き、中から一人の男性が姿を現す。
 腰にバスタオルを一枚巻いた半裸の青年。年齢は二十歳前後。芸能人のような、という喩えが相応しい美貌をその顔に宿し、湯を浴びた直後なのだろう。彼はしっとりと濡れていながらも、独特の色香を発していた。

「……は? なに、人のスマホ見てんだよ」

 男は愁眉を寄せ、大股で青年へと近付くと乱暴な手つきで自身の携帯を引っ手繰った。そしてあいてる方の片手で備え付けのティッシュペーパーを取り、液晶についた青年の涙と彼の触れた部分を念入りに拭き取る。

「あーもう、きったねぇ。お前、後でゼッテー弁償しろよな」
「夏史先輩、それ……」
「それ? あぁ、コレか」

 青年の指摘に夏史と呼ばれた男は端末を一瞥し、得心がいったように呟き――悪びれる事もなく、寧ろ小馬鹿にしたように鼻を吹いた。
 次いでゆっくりと、その綺麗な指を伸ばして青年の顎を抓むと、強い力で上に引っ張った。

「いっ、た。はなひ、て」
「もしかしてオナホって呼ばれてんの見て泣いちゃった?」

 嘲笑を含んだ問いに青年の丸い目が大きく見開く。

「ハハッ。今更気付いた? つか俺と付き合ってると思ってたのかよ。お前が? 俺と?」

 野生動物が獲物を甚振る際に見せるような残忍な笑いと目。それを直視した青年の瞳が再び濡れ、大きな涙の粒が夏史の手に落ちた。

「馬鹿だなぁ、雪弥くんは」

 顎の拘束が緩み、雪弥の唇に屈んだ夏史のそれが重なる。啄むだけの優しいキス。

「夏史せんぱ、」
「お前は俺の肉オナホ。それ以上でも以下でもねえの」

 とびきりの甘いマスクで、とびきりの酷い言葉。はらはらと涙が止まらない。

「もー、なんで泣くかな?」
「ひどい」
「えー。俺、酷くなくね。つうかさ今までずっと俺、お前に好きとも付き合おうとも言ってねーじゃん。都合良く解釈してたのは雪弥くんでしょ?」
「っ、」
「まーた泣く。……ハァ。白けた。お前もう帰れ」

 そう言うと夏史は雪弥を引き摺って、室内から叩き出す。続けてゴミを放るかのように雪弥の服や私物も投げられ、追い出される。

「やだ! 何アレ!」
「ヤバイんだけど!」

 呆然とする雪弥の耳に女性のものだろう声が二つ届く。見れば年若い女性二人組が雪弥へ携帯を向けていた。
 響くシャッター音。
 それに気付いた雪弥は慌ててズボンを履き、かき集めた私物を手に無我夢中で家路についた。
 雪弥の家は最寄りの駅から少し離れた場所に建つアパートだ。
 外観同様、趣のあるやや建て付けの悪い玄関を開けて入ると、昭和の香り漂う古めかしい空間が広がっている。
 その高すぎる上がり框を上った先、炊事場を抜けた奥には居間兼寝室があり、みずぼらしい机と折りたたみ式の簡易ベッドが置かれている。
 勢いよく布団に飛び込んだ雪弥は枕に顔を押し付けた。そうこうすると彼の体が小刻みに揺れて、くぐもった嗚咽が聞こえてくる。

「うー、うー、ぅっ、うっ」

 そして怒りの発露なのか、雪弥の拳が何度も布団を叩きつけていたその時。
 ピンポォンとやや音程の外れたチャイムが鳴り響く。次いで玄関の方から聞き覚えのある女性の声が聞こえてきた。

「雪弥ちゃん、いるー?」

 そう問いかけながら、女は備え付けのチャイム用押釦を連打する。
 近所迷惑になると判断してか、涙を拭い取った雪弥は緩慢な動作で玄関の鍵を開けた。

「……はい」
「あぁ、良かった。煮物作りすぎちゃっておすそ分けに、ってやだ。雪弥ちゃん、どうしたの。顔色すっごく悪いわよ!?」

 タッパー片手に現れた初老のお隣さんが驚愕に目を見開く。

「大丈夫です。ちょっとさっきからお腹痛くて」
「泣くほど痛いの!? お薬、いえ、救急車呼びましょうか」
「いえ、ちょっと休めば……ゴホッゴホッ、カハッ」

 ビチャッ。
 咄嗟に口元を覆った手に、黒い液体が付着する。鉄錆の臭い。血液だ。

「……あ」
「きゅ、救急車ー!!」
「畑中さん、僕なら大丈夫ですから」
「大丈夫な子は吐血なんてしないの! いいから雪弥ちゃんはそこに座ってなさい。ええっと救急車は110、118どっちだったかしら?」
「救急車は119です。ゴホッ」

 有無を言わさず上がり框の上に座らされた雪弥はまた吐血混じりの咳を放つ。
 血に濡れた手。それを何処か他人事のように眺めながら、雪弥の目蓋が徐々に徐々に下へと降りていく。

「ちょっと雪弥ちゃん!?……雪……ちゃん!」






 意識を取り戻した雪弥を出迎えたのは、見覚えのない白い天井と強い消毒液の臭いだった。
 此処は何処だ。
 突然の出来事に雪弥は目を白黒とさせるが直後、刃物で刺されたような痛みに襲われ、ベッドに突っ伏した。

「川山さん、入りますねー。大丈夫ですかー」

 仕切りのカーテンが開き、そこから現れた白衣の天使が雪弥へと近寄る。
 彼女は労るように横にした雪弥の背を撫でながら言葉を紡ぐ。

「川山さん。川山雪弥さん、わかりますかー」
「……は、ぃ」
「まだちょっと痛いか。川山さん、ここ病院。貴方ね、吐血した後に意識失って運ばれたの」
「!?」
「あ、こら。点滴さしてるから急に動かないで」
「ぅっ……はぃ。あの、なんの病気」
「胃潰瘍。今日から入院だって」
「いかいよう?」
「簡単に言うとね、胃の中の酸が胃壁を攻撃して出血してる。最近ずっと食事の後に鳩尾の辺り痛くなかった?」
「いたかった、です」
「うん。次から不調を感じたら直ぐに受診しようね。親御さん、さっきまでお母様がいらっしゃって入院に必要な手続きはしてあるから。あ、貴重品はそこの机と棚に入れてあるからね」

 最後にナースコールの説明をして看護師の女はその場を去っていった。残された雪弥は痛む体をおして机に手を伸ばす。

「いたっ……つうちがいっぱいだ」

 携帯画面を覗いた雪弥は目を瞬く。
 そこには両親と弟、三人からよせられたメッセージが所狭しと並んでいた。
 父親は駆けつけられない事への謝罪と体調を気遣うもの、弟は茶化すような内容が多いものの最後は療養しろと締めくくり、母親は雪弥の体調を気遣いながら後のことは任せろととても男らしい文面が書かれていた。
 家族からの愛情に涙が溢れる。
 だがしかしそんな嬉しい気持ちも下に押し下がった通知を見た瞬間、一瞬にして地に落とされた。
 それは友達申請許可を求める通知だ。
 それも今日、夏史の携帯にあったあのやり取りの男の名前。
 『飽きたらやる』
 雪弥の脳裏にあの一文が反芻する。

「ハハッ……アハハッ、いたっ」

 震える雪弥の指が拒否を押し、続いて彼は須天夏史のトーク画面を映し、文字を打ち込んでいく。
 『今までありがとうございました。さよなら』
 悩みながら何分もかけて打ったそれを送ろうとした途端、自然と指が止まった。

「っ、」

 どのくらいだろうか。
 逡巡に逡巡を重ねた手が遂に紙飛行機に似た送信ボタンを押す。そして既読がつく前に、彼は須天夏史をブロック指定し、そのトーク履歴をも全て消去した。

「うっ……うぅっ……く……うっ」

 その日、病室から雪弥の声がなかなか止む事はなかったのだった。
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