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終わりの始まり⑥
しおりを挟むぶん、と大蛸の腕にも似た触手にぶん投げられる。天瞬する間もなく僅かばかりの配慮と乱雑さを足して二で割った衝撃が臀部を襲う。
そのじぃんと痺れるような痛みにレオは声も上げず悶絶する。
「っ。……此処は一体……」
どうにか痛みをやり過ごし、若干潤んだ視界のまま辺りを確認すれば、自分がエントランスホールではない別の場所へ移動させられたのだと理解する。見た感じ、調理室のようだった。
剣を構え、全体を見渡す。
室内はあの触手は勿論のこと、人の気配はなく、しんと静まり返っている。
竃、調理台、調理器具、ワゴン、冷蔵庫――最低限清掃したそこは“普通”の場所だった。玄関ホールの豪華絢爛さと比べてしまえば、まさに月とすっぽんである。
念のため仲間達の名を呼んでみるが、やはり返答はない。別々に連れ去られたとみてまず間違いないだろう。
戦闘力のあるラム・グノーはともかく、後衛職であるルディには荷が重いのは確実だ。個人的には非常に非常にひっじょーーーうに相容れない奴だが現段階ではまだ死んで欲しいとまでは思わない。一先ずこの部屋を出ようと足を動かそうとした矢先、ジジジと何か焦げるような音とともに目の前の光景が変わる。窓の外から差し込んでいた朱色が真昼のそれになっていた。それだけではない。
『はぁ~……。面倒臭いったらないねぇ』
女の声がレオの正面から上がり、無機物しかなかった空間に使用人らしき男女が現れ、忙しなく動いている。
ぎょっとしたレオは一瞬、剣を取りこぼしそうになった。困惑する彼を余所に、一人の恰幅のいいメイド服の女性がレオの元へ歩いてくる。手には完成したての大皿料理を携え、真っ直ぐ。
ぶつかる。そう思ったとき、彼女はまるで幽霊のようにレオを身体をすり抜けていった。
「これは……何が起こってるんだ?!」
疑問の声すら届いていないらしく、暫定使用人たちは相変わらず騒がしい。幻覚魔法の類なのか、一度自らの頬を抓ってみるが普通に痛いだけで目の前の光景に一切の変化はない。
故に気持ちを落ち着けるべく肺腑の中の空気を吐ききってまた吸い直す。
その途中、レオは違和感に気付いた。
空気が埃っぽいのだ。
視界前面にあれだけ食欲をそそる魅力的な料理が並び、あれだけ湯気を立ちのぼらせているにもかかわらず、一つも香ってこないのだ。
レオはおそるおそる調理台に近づき、さきほど完成したばかりのミートパイらしきものに手を伸ばした。そしてそれは見事に空を切る。他の料理においてもそうだ。雲を掴むようにすり抜けては温度さえ感じない。ただ辛うじて調理台に触れられる程度。
手のひらの皮膚を通じて木目特有のざらざらとした感触が伝わってくる。
「テーブルと……あと竃と冷蔵庫、調理器具には実体があるのか」
ラムとグノーから幻覚系のいろははそれなりに叩き込まれている。が、これはそのどれにも当て嵌まらず、適切な対処法が浮かばない。よって――。
“皆様には二階への鍵を求めてそれぞれの扉を通っていただきます”
あの貴族女性らしき魔物の言葉に従う他ない。というかそれしか選べない。何故なら出入り口である扉と勝手口は施錠中という強制探索促しクソ仕様だからである。まあ鍵というのだからこの場所の何処かにその鍵とやらが隠されているのだろう。幸い室内はそう広くなく、接触できるものも限られている。長くはかからない筈だ。
剣片手に入り口側から攻めていこうと踵を返した直後、背後の映像が切り替わる。
『おい、アレの飯はどうした?』
『よく見なさいよ。そこに置いてあるでしょ。あ~、ほんとやだやだ。なんであんな醜い糞餓鬼に餌運ばなきゃならないわけ!? 侯爵様もどうして自分の子じゃないのに育ててんのかねぇ。早く殺しゃいいのに』
『愚痴愚痴言ってんじゃねえよ、ったく。侯爵様も何か考えあってアレを生かしてんだろ。でなけりゃ母親食って生まれた不貞のバケモンなんざ、わざわざ生かす価値もねえ。俺なら即、水に沈めて殺すけどな』
『本当だよ。アタシも、もしアレの母親だったら間違いなく殺すね。あんなのがこの世に生まれ落ちること自体、間違い、大罪みたいなもんさ』
そりゃそうだ、と囃したて彼等は笑う。その所業にレオは苦虫をかみつぶしたような顔になる。どうしてそんな風に面白がれるのか。話の通じない狂人を前にしたかのようでレオの全身に悪寒が走る。その時だった。
出入り口の扉が僅かに開く。
『ね、ねぇ……』
『おい』
『何よ……あっ。何かご用でしょうか、お坊ちゃま』
半分顔を出したのは若干幼いもののルディと同じ色味、エントランスホールの肖像画の片割れと同じ醜い少年がそこにいた。
『お、お腹空いたんだけど』
『……はぁ。お坊ちゃま、食事のお時間はまだでございますよ。そのような下劣な真似はお止めください。侯爵家の品位が疑われてしまいます。さぁ、お部屋にお戻りください』
『え、でも』
『聞こえませんでしたか?』
『……分かった』
使用人たちの威圧に少年は涙ぐんだままその場を後にする。
そして方々から湧き上がる嘲笑。
『ギャハハハ。今の顔見たか。こーんな顔で泣きべそかいてやがった』
『くくく。おまっ、笑わせんなよ!』
『つーかあそこで引き下がるかフツー? 飯の時間なんざとっくに過ぎてんのになぁ!』
『仮にも侯爵家の嫡子だってのに情けないねえ。どれ、仕置きにもう一時間くらい遅らせてやるか』
『アハハハ。いーね、大賛成!』
喉元までせり上がった酸い物を抑えるように手で覆い隠す。
確かに少年の顔は醜い。醜いけれど大の大人がよってたかって虐げるその様はそれ以上に醜く、吐き気がする。一人残らず殴り飛ばしたいのに、実体のない彼等は未だ少年を笑いものにし、食器の中身を床にぶちまけては竃の灰をかけ、靴底で踏み潰す。
そしてあろうことかその残骸を食器に戻し、化け物の餌の完成だと言う。
今度は堪えきれず吐いた。
びしゃびしゃと胃の中のものを吐き出し、鼻を突く刺激臭が辺りを漂う。
「おえっ……ゲホッ、ゴホッ」
そしてまた映像が切り替わる。
今度はあの嘲笑っていた使用人たちが一人残らず惨殺され、血の海に染まった調理室の光景だ。誰も彼もが皆、例外なく苦悶の表情を浮かべ、絶命している。その中で一人、少年が佇んでいた。少し成長してはいるが、あの醜い少年だ。彼は全身に返り血を浴び、その手に同じく血濡れの剣を所有していた。
『ハハッ……ハハハ……ハァーハッハッハ! 醜いものは死ぬべきなのだろう。ならお前たちは一人残らず死んで当然だな』
少年は高らかに笑う。
狂気に染まる蒼い目。
狂っている。誰もがそう思うだろう。けれどレオの目にはその姿が酷く悲しみ、泣いているように見えた。
少年が食器棚へと踵を返し、告げる。
『どうだ、貴様等があれほど見下していた醜いアウグスブルク家嫡子にやり返される気分は?』
「!?」
『ひっ、ごめっ、ごめ、ごめんなさい』
『何が、何に対しての謝罪だ?』
食器棚に隠れていたのは、自分が母親なら少年を殺すと口にしていた妙齢の女性だった。彼女は涙と鼻水でぐしゃぐしゃにした顔で必死に少年へと命乞いをする。自分が悪かった。なんでもするから命だけは助けてくれ、と。
だがしかし――。
『断る』
『カハッ』
アウグスブルク家嫡子、デューダイデンの刃が無慈悲にも振り下ろされた。
何度も、何度も、致命傷を避けて女性の身体を切り刻む。
響き渡る絶叫。
同時にレオの目の前に光り輝く黒色の欠片が現れて、勝手口だろう扉が蹴破られるほどの勢いで開いた。
「これは……!?」
手にした欠片をよく見ると、白い花、スノードロップの絵が描かれていた。
「何の花だろう……って映像も消えてる!?」
再び静寂を取り戻した空間。
自分のゲロの臭いだけが鼻を突く。
「取り敢えずこれを持って進めってことなのかな? ……一応全部確認してから行こう」
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