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数日後。
リシェンヌは王城に呼び出されていた。
第三王子ヴィクトルの宣言通りリシェンヌとの婚約は破棄されて、妹のロレッタとヴィクトルの婚約が結ばれた。
同じ家の中で姉から妹へと婚約者が変わっただけで、王家と公爵家とのつながりには変わりない。
何も問題はなく、本人たちの意思を優先させても構わないということで、あっさりと認められたのだった。
リシェンヌの意思は完全に無視された形だが、そもそも貴族の婚約に本人の意思が介入する要素はない。
あくまでヴィクトルとロレッタの希望が通ったのが例外で、幸運なのだ。
ただ、誰もリシェンヌのことを気にかけなかったという訳でもなかった。
「弟が申し訳ないことをした」
「いえ……」
王城の一室でリシェンヌは王太子と非公式の会見をしていた。
婚約に関わっていた人間たちの中で、第三王子の兄である王太子だけはリシェンヌの気持ちを気遣ってくれた。
王太子は王族には珍しく気遣いの人だ。隣国から輿入れしてきた王妃の気質を継いだのだろう、傲慢なところがあまりなかった。
ただそれだけではない。必要となれば非情な決断もできる。不要だと思えばどんな相手でもスッパリと切り捨てられる判断力もあった。
そのため、王になれば名君になるだろうと言われている人物だった。
「第三王子に婚約破棄されたとなれば、次の婚約者を見つけることは難しくなるだろう。せめて、私に手助けをさせてもらえないだろうか?」
「はい。よろしくお願いします」
リシェンヌは否を唱えることもなく、了承する。
王族に婚約破棄をされたとなれば、そんな事実はなくとも王家から見放された令嬢だと思われる。王族に睨まれるのを恐れた貴族たちからも避けられるだろう。
新たな婚約は絶望的だ。
可能性があるとすれば、誰から見ても不幸にしかならないような嫌われ貴族の後妻くらいだろうか。それすら、望みは薄い。
婚約破棄が為された後、リシェンヌは公爵家と縁を切り市井に下るつもりだった。
使えない駒に成り下がったリシェンヌは、公爵家に切り捨てられる可能性が高かった。その前に、自分からすべてを捨てて出ていくつもりだったのだ。
幸い、リシェンヌは公爵令嬢という立場にありながら平民の生活には慣れている。
リシェンヌは子供のころから、頻繁に公爵家を抜け出して下町に遊びに出ていた。
妹のロレッタ中心となった公爵家では、リシェンヌは必要な時以外は放置されていた。
公爵夫妻が放置しているのだからと、屋敷の使用人からも軽く見られており、リシェンヌは最低限の食事や教育の時以外はいないものとして扱われていたのだ。
その隙をついて、リシェンヌは公爵家を抜け出して平民の生活を楽しんでいた。
平民の子供たちに混ざって遊び、その子たちの親の仕事を手伝ったこともある。
成長してからは公爵令嬢として学んだ知識を生かし、簡単な商売もしていた。
平民として暮らすだけの知識は十分に持っているのだ。
公爵家は第三王子が婿となり、ロレッタと共に継ぐことになるだろう。
そうなれば、新たな婚約者すら見つけられないリシェンヌは、本当に必要のない駒どころか邪魔な存在となってしまう。
もう、思い残すことはない。
……そう考えて、追い出される前に自ら平民になるつもりだったのだ。
「では来週、婚約者候補に引き合わせよう」
だが、王太子の紹介によって新たな婚約が結ばれれば別だ。
愛されていなくてもリシェンヌは長女。
第三王子がロレッタと結婚するといっても、基本的にこの国は長子相続である。さらに、結婚相手が王太子の紹介で息のかかったものとなれば、両親も簡単には切り捨てられないだろう。
まだリシェンヌにも家を継げる機会はあった。
自ら身分を捨てるにはまだ早い。
リシェンヌはこの新たな婚約に賭けてみることにした。
そして、婚約者候補との顔合わせの時が来た。
顔合わせは、王太子の引き合わせということで王城の一角で行われた。
立ち合いは王城のメイドと護衛のみだ。
「初めまして。モーリス・バダンテールです」
モーリスは美しい男だった。
元婚約者の第三王子も王子と呼ばれるのに相応しい美丈夫だったが、彼も負けてはいない。
第三王子が太陽のような美しさと例えられるなら、彼は月の美しさだろう。
品よく纏められた黒髪。眼鏡の奥で光る切れ長の目。
洗練された無駄のないしぐさ。
リシェンヌは挨拶を返すのも忘れ、見惚れてしまった。
モーリス・バダンテール……。
彼の名を、リシェンヌは知っていた。
辺境伯の三男で、本来なら跡継ぎの予備の予備として存在し、一生裏方として生きるか放逐される立場の人間だ。
しかし彼はその立場に甘んじることはなかった。
学園を出た後も上位の教育を受けられる学術研究院に通い、そこで医学を極めた。
そのまま医師になるものだと思われたが、彼はさらに先を求め、国家試験を受けて文官になる道を選んだ。
現在では王太子の側近として大きな計画を任されるほどの立場になり、その貢献から男爵の地位を受けている。
たかが男爵と思われるかもしれないが、戦功を上げられない平和な時期に、しかも文官としての功績で授爵されること自体が異例だった。
ましてや彼はまだ二十五歳。歴史上、最年少の授爵だった。
彼はそのことで天才と称されるようになり、一気にこの国の有名人となったのだった。
「……あの、私のような者が婚約者候補でよろしいのでしょうか?」
予想もしていなかった大物の登場に、リシェンヌは思わずそのようなことを言ってしまった。
「貴方に興味があったのです。貴方が学士院に提出された論文を読ませていただきました」
「あ……あの論文を……」
リシェンヌは顔を赤らめる。
彼女が学士院に提出した論文と言えば、学園卒業時の論文しかない。
学士院は国立の学術評価組織であり、才能を発掘して優遇するために存在している。
そこへの論文の提出は、学園の卒業条件の一つとなっていた。
提出した論文はリシェンヌとしては実力のすべてを出したものだったが、あまり良い評価を貰えなかった。
それを天才と名高いモーリスに読まれたのだ。恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
「学士院は老人たちが権威を示すために作った組織ですからね。新しいものは嫌われるのです。貴方の貴族と平民双方の視点を兼ね揃えたような論文は面白かった。私にはない視点と知識でした」
「ありがとうございます……」
消え入りそうな声で、リシェンヌは礼を言った。
たとえ社交辞令だとしても、認められたことは嬉しい。
「貴族令嬢にはない視点でした。私は仕事柄、貴族の良くない部分を多く見てきました。しかし、貴方の論文にはそういった部分が感じられなかった。だから、私は貴方に興味を持ったのです」
つまり貴族らしくないところが目についたということだろう。
リシェンヌは自分が貴族令嬢から外れていることは自覚している。そういう理由であれば、興味を持たれた理由は納得できた。
それに貴族の良くない部分を多く見てきたという言葉で、天才とまで言われた彼に今まで婚約者すらいなかった理由も察せられた。貴族らしい、傲慢な令嬢が苦手なのだろう。
「それに、あなたが置かれている状況にも興味もありました」
「?」
リシェンヌが首を傾げると、モーリスはどこか冷ややかなものを感じる笑みを浮かべて返した。
「私は、人の心に興味があるのです」
「はい?」
「貴方の妹君も、大変興味深い」
「え!?」
モーリスの口から妹の話がでたことで、リシェンヌは一気に警戒した。
また奪われるのかと、悪い考えが脳裏をかすめる。
「彼女はいいサンプルです!ぜひ、彼女を使った実験に協力していただきたい!」
警戒するリシェンヌに対してモーリスが言い放った言葉は、予想外のものだった。
サンプル?実験?
婚約の顔合わせで出てくるとは思えない言葉に、リシェンヌは言葉を返すことができなかった。
それを肯定ととらえたか、やけに楽し気な笑みを浮かべてモーリスは続ける。
「私と仲良くして、贈り物を受け取ってくださるだけでいいのです。お願いします!」
「は……はい……」
モーリスの妙な熱量に、リシェンヌは訳が分からないままに同意してしまっていた。
まさかこの同意が婚約を結ぶ同意になるとも気付かずに。
リシェンヌは王城に呼び出されていた。
第三王子ヴィクトルの宣言通りリシェンヌとの婚約は破棄されて、妹のロレッタとヴィクトルの婚約が結ばれた。
同じ家の中で姉から妹へと婚約者が変わっただけで、王家と公爵家とのつながりには変わりない。
何も問題はなく、本人たちの意思を優先させても構わないということで、あっさりと認められたのだった。
リシェンヌの意思は完全に無視された形だが、そもそも貴族の婚約に本人の意思が介入する要素はない。
あくまでヴィクトルとロレッタの希望が通ったのが例外で、幸運なのだ。
ただ、誰もリシェンヌのことを気にかけなかったという訳でもなかった。
「弟が申し訳ないことをした」
「いえ……」
王城の一室でリシェンヌは王太子と非公式の会見をしていた。
婚約に関わっていた人間たちの中で、第三王子の兄である王太子だけはリシェンヌの気持ちを気遣ってくれた。
王太子は王族には珍しく気遣いの人だ。隣国から輿入れしてきた王妃の気質を継いだのだろう、傲慢なところがあまりなかった。
ただそれだけではない。必要となれば非情な決断もできる。不要だと思えばどんな相手でもスッパリと切り捨てられる判断力もあった。
そのため、王になれば名君になるだろうと言われている人物だった。
「第三王子に婚約破棄されたとなれば、次の婚約者を見つけることは難しくなるだろう。せめて、私に手助けをさせてもらえないだろうか?」
「はい。よろしくお願いします」
リシェンヌは否を唱えることもなく、了承する。
王族に婚約破棄をされたとなれば、そんな事実はなくとも王家から見放された令嬢だと思われる。王族に睨まれるのを恐れた貴族たちからも避けられるだろう。
新たな婚約は絶望的だ。
可能性があるとすれば、誰から見ても不幸にしかならないような嫌われ貴族の後妻くらいだろうか。それすら、望みは薄い。
婚約破棄が為された後、リシェンヌは公爵家と縁を切り市井に下るつもりだった。
使えない駒に成り下がったリシェンヌは、公爵家に切り捨てられる可能性が高かった。その前に、自分からすべてを捨てて出ていくつもりだったのだ。
幸い、リシェンヌは公爵令嬢という立場にありながら平民の生活には慣れている。
リシェンヌは子供のころから、頻繁に公爵家を抜け出して下町に遊びに出ていた。
妹のロレッタ中心となった公爵家では、リシェンヌは必要な時以外は放置されていた。
公爵夫妻が放置しているのだからと、屋敷の使用人からも軽く見られており、リシェンヌは最低限の食事や教育の時以外はいないものとして扱われていたのだ。
その隙をついて、リシェンヌは公爵家を抜け出して平民の生活を楽しんでいた。
平民の子供たちに混ざって遊び、その子たちの親の仕事を手伝ったこともある。
成長してからは公爵令嬢として学んだ知識を生かし、簡単な商売もしていた。
平民として暮らすだけの知識は十分に持っているのだ。
公爵家は第三王子が婿となり、ロレッタと共に継ぐことになるだろう。
そうなれば、新たな婚約者すら見つけられないリシェンヌは、本当に必要のない駒どころか邪魔な存在となってしまう。
もう、思い残すことはない。
……そう考えて、追い出される前に自ら平民になるつもりだったのだ。
「では来週、婚約者候補に引き合わせよう」
だが、王太子の紹介によって新たな婚約が結ばれれば別だ。
愛されていなくてもリシェンヌは長女。
第三王子がロレッタと結婚するといっても、基本的にこの国は長子相続である。さらに、結婚相手が王太子の紹介で息のかかったものとなれば、両親も簡単には切り捨てられないだろう。
まだリシェンヌにも家を継げる機会はあった。
自ら身分を捨てるにはまだ早い。
リシェンヌはこの新たな婚約に賭けてみることにした。
そして、婚約者候補との顔合わせの時が来た。
顔合わせは、王太子の引き合わせということで王城の一角で行われた。
立ち合いは王城のメイドと護衛のみだ。
「初めまして。モーリス・バダンテールです」
モーリスは美しい男だった。
元婚約者の第三王子も王子と呼ばれるのに相応しい美丈夫だったが、彼も負けてはいない。
第三王子が太陽のような美しさと例えられるなら、彼は月の美しさだろう。
品よく纏められた黒髪。眼鏡の奥で光る切れ長の目。
洗練された無駄のないしぐさ。
リシェンヌは挨拶を返すのも忘れ、見惚れてしまった。
モーリス・バダンテール……。
彼の名を、リシェンヌは知っていた。
辺境伯の三男で、本来なら跡継ぎの予備の予備として存在し、一生裏方として生きるか放逐される立場の人間だ。
しかし彼はその立場に甘んじることはなかった。
学園を出た後も上位の教育を受けられる学術研究院に通い、そこで医学を極めた。
そのまま医師になるものだと思われたが、彼はさらに先を求め、国家試験を受けて文官になる道を選んだ。
現在では王太子の側近として大きな計画を任されるほどの立場になり、その貢献から男爵の地位を受けている。
たかが男爵と思われるかもしれないが、戦功を上げられない平和な時期に、しかも文官としての功績で授爵されること自体が異例だった。
ましてや彼はまだ二十五歳。歴史上、最年少の授爵だった。
彼はそのことで天才と称されるようになり、一気にこの国の有名人となったのだった。
「……あの、私のような者が婚約者候補でよろしいのでしょうか?」
予想もしていなかった大物の登場に、リシェンヌは思わずそのようなことを言ってしまった。
「貴方に興味があったのです。貴方が学士院に提出された論文を読ませていただきました」
「あ……あの論文を……」
リシェンヌは顔を赤らめる。
彼女が学士院に提出した論文と言えば、学園卒業時の論文しかない。
学士院は国立の学術評価組織であり、才能を発掘して優遇するために存在している。
そこへの論文の提出は、学園の卒業条件の一つとなっていた。
提出した論文はリシェンヌとしては実力のすべてを出したものだったが、あまり良い評価を貰えなかった。
それを天才と名高いモーリスに読まれたのだ。恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
「学士院は老人たちが権威を示すために作った組織ですからね。新しいものは嫌われるのです。貴方の貴族と平民双方の視点を兼ね揃えたような論文は面白かった。私にはない視点と知識でした」
「ありがとうございます……」
消え入りそうな声で、リシェンヌは礼を言った。
たとえ社交辞令だとしても、認められたことは嬉しい。
「貴族令嬢にはない視点でした。私は仕事柄、貴族の良くない部分を多く見てきました。しかし、貴方の論文にはそういった部分が感じられなかった。だから、私は貴方に興味を持ったのです」
つまり貴族らしくないところが目についたということだろう。
リシェンヌは自分が貴族令嬢から外れていることは自覚している。そういう理由であれば、興味を持たれた理由は納得できた。
それに貴族の良くない部分を多く見てきたという言葉で、天才とまで言われた彼に今まで婚約者すらいなかった理由も察せられた。貴族らしい、傲慢な令嬢が苦手なのだろう。
「それに、あなたが置かれている状況にも興味もありました」
「?」
リシェンヌが首を傾げると、モーリスはどこか冷ややかなものを感じる笑みを浮かべて返した。
「私は、人の心に興味があるのです」
「はい?」
「貴方の妹君も、大変興味深い」
「え!?」
モーリスの口から妹の話がでたことで、リシェンヌは一気に警戒した。
また奪われるのかと、悪い考えが脳裏をかすめる。
「彼女はいいサンプルです!ぜひ、彼女を使った実験に協力していただきたい!」
警戒するリシェンヌに対してモーリスが言い放った言葉は、予想外のものだった。
サンプル?実験?
婚約の顔合わせで出てくるとは思えない言葉に、リシェンヌは言葉を返すことができなかった。
それを肯定ととらえたか、やけに楽し気な笑みを浮かべてモーリスは続ける。
「私と仲良くして、贈り物を受け取ってくださるだけでいいのです。お願いします!」
「は……はい……」
モーリスの妙な熱量に、リシェンヌは訳が分からないままに同意してしまっていた。
まさかこの同意が婚約を結ぶ同意になるとも気付かずに。
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