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五章 新し世界の始まり
五章 プロローグ 1
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それは、小さな魚の様な姿をしていた。
流線型の真っ白な身体。水の中で大きな尾びれがたなびく姿は、純白のドレスを着た少女のようで美麗だ。
だがそれは魚ではなかった。
動く度に、身体の境界が曖昧になる。水に落とされたインクのように存在そのものが薄まり、溶けていく。動きを止めれば再び形を取り戻す。
魚どころか、生き物であるはずがない。
まるで幻だ。
水の中に存在する、生きた幻影。
それは、ただ一匹で、球形の硝子の器に入れられていた。
通常の魚を飼う水槽ではない。どこにも開口部が無い。継ぎ目すらどこにもない。完全な真球だ。
中に水が入っていなければ水そのものが形を作っているのかと思えるほどだった。
知識がある者なら、生命球という言葉が思い浮かぶだろう。
生命球は、錬金術師が戯れに作った、生きるために必要な条件を探るための実験器具だった。
硝子の器に水と土、水草と一匹の魚を入れて密閉した、小さな閉じた世界。
その状態でいつまで魚が生きられるのか、魚が長く生きるためには何が必要かを調べるために作り出された。
密閉された世界の中でも光を当てれば水草が育つ。水草は魚の餌となり、魚の糞は土を肥えさせる。肥えた土は水草の成長を助け、再び魚の餌になる。
理論上は、光さえ与えておけば魚は生き続けるはずだった。
その実験の結果は、半分成功だった。
魚は数か月は生きたが、天寿を全うすることは不可能だった。光の当たる時間や水草の量を変えてもそれは同じだった。
新たな条件を与えない限り進展は無いと判断し、錬金術師は実験を終わらせた。
実験が終わり放置されていた生命球に、貴族が目を付けた。
閉じた小さな世界というのが魅力的だったのだろう。観賞用として流行した。
社交界で飼育期間の長さが競われた。
だが、そんな流行も廃れて久しい。
ここは、どこかの地下。石の壁が四方を囲んでいる。
人の気配はなく、壁や床は苔むして、長く人が近付いていないことを伝えていた。
明り取りの窓があるのか、遥か上空から一条の光だけが降り注いで生命球を照らし出していた。
生命球が中の生命の維持をできるとは思えないほど、弱い光だ。
辺りには静けさだけが満ちている。
無音の世界の中で、それは泳ぎ続ける。
世界の全てから忘れ去られたかのように。静かに。静かに……。
ロアとコルネリアは、真正面から向かい合っていた。
二人の手にはナイフ。鋭く研がれ、刃は互いの顔が映り込んでいる。
切羽詰まった表情のロアに対して、余裕の笑みのコルネリア。その笑みが逆に、緊張感に満ちた空気を生み出していた。
季節は冬。
寒さが一番厳しい時期は過ぎていたが、まだまだ空気は冷たい。
ロアたちがいるのは、訓練場だ。一応、壁も屋根もある。だが、地面は剥き出しで暖房施設は無く、気温は外と変わりない。
「吐いた息に注目してみて。ロアのは白煙みたいになってるけど、私のはそれほどでもないでしょう?動きに無駄が多すぎるのよ」
コルネリアに言われ、ロアは自分の息に注意を向けた。
吐いた息が冷たい空気と混ざり、白煙の様に周囲の空気を濁らせていた。
その反面、コルネリアの息はほとんど白くなっていない。わずかに胸の上下に合わせて白い帯が現れすぐ消える程度だ。
「冬は見た目で呼吸の荒さが分かるからありがたいわ。どんな頑固者でも認めるしかないもの」
ダメ押しとばかりにコルネリアが言うと、ロアは顔を歪めた。
自分の未熟さを思い知ったからだ。
目の前に漂っている白い息は、自分自身の未熟の証だ。
無駄な動きを重ねて、疲労しているのが見て取れる。
「……」
ロアは無言でナイフを固く握る。わずかに視線を下した後に、再びコルネリアに戻した。
その目に籠っているのは固い意志。
敵わないまでも、食らい付いてやろうという気迫。
その目を見て、コルネリアは優しく微笑んだ。
ジャリっと、ロアの靴が地面を踏み締める音が鳴る。同時に、コルネリアの手元に向けてナイフを振るった。
「はい、予備動作が隠しきれてない。狙ってる場所が丸分かりよ」
軽く言うと、コルネリアは紙一重の距離でナイフを避ける。完全に見切っている動きだ。
「こうやるの」
コルネリアの声が聞こえたと思ったら、次の瞬間にはロアの手からナイフが離れて宙を舞っていた。
何をされたか分からない。
目を離していなかったのに、動きを見ることすら出来なかった。遅れて手に痛みが走って初めて、コルネリアにナイフを叩き落とされたのだと気付いた。
「斬りかかるために身体を傾ける。足場を整える。腕に力を入れる。それだけで相手はロアの動きを予測するわよ。何度も言ってるけど」
「痛っ!」
コルネリアの身体が揺れたと思ったら、今度はロアの右肩に痛みが走った。傷は無い。強い打撃だ。我慢強いロアだが、突然のことで思わず声を上げた。
「予測できない動きは、目で追うのも難しくなるわ。頭が処理できなくなるのよね。これは頭の良さはあまり関係ないみたい」
「うわっ!」
最後にポンと掌で額を押され、ロアは体勢を崩して尻から後ろに倒れ込んだ。
「はい、終わり。そろそろ護衛さんたちの訓練時間になるから、今日はここまでね」
コルネリアは地面に倒れているロアを見下ろすと、笑いかけた。
ロアは呆然としていたが、その言葉を聞いて悔しそうに顔を歪める。
手も足も出ない。そのことを、思い知らされた。
コルネリアは短く息を吐くと、ロアから距離を取った。
ここはペルデュ王国のアマダン伯領。
ロアの家がある、コラルド商会の敷地内だ。
今までロアとコルネリアが戦っていた訓練場は、本来はコラルドの護衛のための物で、ロアたちは開いている時間で利用させてもらっていた。
ロアがネレウス王国、そしてその後のアダド帝国への旅から戻って、もう三か月以上が経過している。
予定よりもかなり長くなった旅だが、帰って来てからは一部を除いて以前の通りの日常を取り戻していた。
ロアは魔法薬などの生産を続け、数日に一回程度こうやって望郷のメンバーたちから武術の指導を受けている。
今日はコルネリアの番で、ナイフを使った基本的な体裁きの指導だ。以前はこの基礎訓練ばかりをしていたが、今はディートリヒたちに長剣の扱い方も習い始めている。
ロアの身体が十分に鍛えられたら、本格的に長剣での戦闘訓練に移行していく予定だ。
「ふう……」
ロアは溜め息混じりの息を吐くと、起き上がって額の汗を拭った。
空気は冷たいが、集中して動いたので汗が滲んでいる。身体も熱い。
先ほどまでロアがやっていたのは、立ち合いだった。実戦形式で、人間相手の戦闘の進め方を学んでいた。
疲労が激しいので、いつも訓練の最後の行っている。
ロアの実力が全く足りていないため、コルネリアに一撃すら当てることさえ出来ていない。いつも一方的に叩きのめされて終わるだけだ。
だが、実戦形式で得られる物は多い。なによりロアは類を見ないほどの頑固者だ。このまま負け続けることを良しとはしない。
近い内に一撃を当てるくらいには成長するだろうと、望郷のメンバーたちは予測していた。
<お疲れ様です!ご主人様!!>
「げっ……また来てたの?」
突然聞こえた『声』に、コルネリアが女性らしからぬ声を上げた。先ほどまで、訓練場にはロアとコルネリアの二人しかいなかったはずだ。
コルネリアでも気配に気付けない相手。そんな者、限られている。
コルネリアが声の方を振り向くと、そこには予想通りの存在が立っていた。
立っていたのは、子供のような小柄な男。
モフモフとした子熊の着ぐるみを着ていて、出ているのは顔だけだ。顔も幼く、見た目だけなら親に奇妙な服を着せられている子供にしか見えない。
だが、雰囲気が只者ではない。子供が纏える雰囲気ではない。
人間とは思えない空気を纏っている。
虹を溶かし固めたような瞳が爛々と輝いていた。その瞳は真っ直ぐにロアだけを見つめていて、近くに立つコルネリアには視線を向けることすらしなかった。
<さあ、汗を拭いて差し上げましょう!>
「……カラくん」
嬉々として手拭いを持ってロアの汗を拭こうとしているのは、カラくん。
かつてはカラカラと呼ばれていた、アダド地下大迷宮の主にして、妖精王と呼ばれて恐れられている魔獣。
そして今は、ロアの従魔の一匹だ。
<あの女は酷いですね。ご主人様をこんなに痛めつけた挙句に転ばすなんて。性別が分からなくなるくらい顔を殴り倒してやりたいくらいです!>
「カラくん……。これは訓練だから……」
<ええ、分かってますよ。だからあの失礼な女に手を出さずに済ましてやっているのです。そうじゃなきゃ、記憶を全部飛ばして、頭を赤子に戻してやるのに。ご主人様も一度叩きのめしてやればいいのですよ。ご主人様が私の魔力を使って魔法を使えば、あんな女くらい一撃でペチャンコにできるんですから>
不穏な台詞を呟きながら、カラくんは甲斐甲斐しくロアの汗を拭く。
ロアは溜め息をつきながら、困ったような笑みを浮かべた。
「カラくん、そんなことを言ったらダメだって。剣の訓練の時は、魔法は無しなんだから」
<ええ、ええ、分かってますよ。だから、我慢してるじゃないですか>
「分かってない気がするなぁ」
噛み合っていない一人と一匹の会話に、コルネリアも頭を抱えて盛大にため息を漏らした。
アダドから帰って来てから、一部を除いて以前の通りの日常に戻った。ただ、あくまで一部を除いての話だ。
その一部が、カラくんだ。
アダドに残ったカラくんだったが、ロアたちがアマダン伯領に戻ってからしばらくして、時々ロアたちの元に顔を出すようになった。
妖精王であるカラくんは、『妖精の抜け穴』という遠くの場所を繋げる魔法を使う。移動先に目印が必要になる魔法だが、カラくんは真っ先にロア自身を目印にした。
つまり、カラくんはロアがどこにいてもすぐに駆け付けることが可能だった。
ならば逆にどうして、しばらくはロアの元に来なかったのか疑問が残るだろう。それはロアたちが起こした事件が原因で、アダド地下大迷宮で様々な問題が起こっていたからだ。
カラくんにとってロアは大事な大事なご主人様だ。だが、カラくんは過去の主人との思い出も大事にしている。
先代の主人から任された地下大迷宮を見捨てることは出来ず、問題を全て解決するまで駆け付けられなかった。
今でも時々しか来られないのは、ダンジョンの管理とロアから頼まれた仕事があるからだ。
それが無ければ、グリおじさんたちの様に、ベッタリとロアの傍らに侍っていたことだろう。
「それで、カラくん。今日は何か用事があったの?」
<そうです!>
汗を丁寧に拭き続けるカラくんに、ロアは話しかけた。
甲斐甲斐しく世話をされる居心地の悪さに、間が持たなかったのだ。ならば断れば良いと思うだろうが、それをするとカラくんがこの世の終わりの様な顔をするので、好きなようにやらせていた。
<例の物の準備が整いました。ご主人様の起動待ちです>
カラくんは自慢げに胸を張った。その表情が褒めろと言っている。
「もう?さすがだね。時間がかかるって言ってたのに」
<ふふん。あのグリフォンにしつこく催促されてましたからね。仕方がなく、本当に仕方がなく、早めましたよ>
カラくんは褒められて嬉しそうに目を輝かせる。
仕方がなくと言いながらも、満更ではないらしい。嫌々やったように言っているが、早く仕上げてロアが喜んでくれるのを楽しみにしていたのだろう。
無意識なのか、カラくんが頭を少し下げる。ロアはその頭を、優しく撫でた。
至福の時。
蕩けそうな表情で、カラくんはその時間を噛み締めた。
「例の物って何?」
だが、コルネリアが会話に割り込んだことで、その時間は終わってしまった。
カラくんはロアの手が止まったことに気が付くと、横目で恨みがましい視線をコルネリアに向けた。
コルネリアはのその視線に冷や汗を浮かべたが、表情を変えることは無い。ロアの手前、怯えた表情は見せられないと、虚勢を張っているのだろう。
彼女はグリおじさんに慣れているおかげで、凶悪な魔獣から悪意を向けられることには耐性がある。嫌な慣れだが。
「例の物は……ここではちょっと。外で誰が聞いてるか分からないので。コルネリアも一緒に見に来ますか?」
「うーん。ここで言えないってのと、グリおじさんが催促してたってのが気になるし、行くわ」
コルネリアは少し考えて、ロアたちに付いて行くことにした。
ロアと妖精王。この二人が何か企んでいるというだけでも不穏な雰囲気があるのに、さらにグリおじさんまで関わっているとなれば不穏どころの話ではなくなる。
邪魔をされたカラくんの視線は怖いが、逃げ出して確認せずに済ましたら、すごく後悔しそうだった。
「じゃあ、先に片づけをしちゃおうか」
<お手伝いします!!地面を均すんですよね?魔法ですれば一瞬ですよ>
ロアと共に、訓練で荒れた地面を嬉々として均し始めるカラくん。
少年と子熊のような後ろ姿を見つめながら、コルネリアは不安げな表情を浮かべていた。
流線型の真っ白な身体。水の中で大きな尾びれがたなびく姿は、純白のドレスを着た少女のようで美麗だ。
だがそれは魚ではなかった。
動く度に、身体の境界が曖昧になる。水に落とされたインクのように存在そのものが薄まり、溶けていく。動きを止めれば再び形を取り戻す。
魚どころか、生き物であるはずがない。
まるで幻だ。
水の中に存在する、生きた幻影。
それは、ただ一匹で、球形の硝子の器に入れられていた。
通常の魚を飼う水槽ではない。どこにも開口部が無い。継ぎ目すらどこにもない。完全な真球だ。
中に水が入っていなければ水そのものが形を作っているのかと思えるほどだった。
知識がある者なら、生命球という言葉が思い浮かぶだろう。
生命球は、錬金術師が戯れに作った、生きるために必要な条件を探るための実験器具だった。
硝子の器に水と土、水草と一匹の魚を入れて密閉した、小さな閉じた世界。
その状態でいつまで魚が生きられるのか、魚が長く生きるためには何が必要かを調べるために作り出された。
密閉された世界の中でも光を当てれば水草が育つ。水草は魚の餌となり、魚の糞は土を肥えさせる。肥えた土は水草の成長を助け、再び魚の餌になる。
理論上は、光さえ与えておけば魚は生き続けるはずだった。
その実験の結果は、半分成功だった。
魚は数か月は生きたが、天寿を全うすることは不可能だった。光の当たる時間や水草の量を変えてもそれは同じだった。
新たな条件を与えない限り進展は無いと判断し、錬金術師は実験を終わらせた。
実験が終わり放置されていた生命球に、貴族が目を付けた。
閉じた小さな世界というのが魅力的だったのだろう。観賞用として流行した。
社交界で飼育期間の長さが競われた。
だが、そんな流行も廃れて久しい。
ここは、どこかの地下。石の壁が四方を囲んでいる。
人の気配はなく、壁や床は苔むして、長く人が近付いていないことを伝えていた。
明り取りの窓があるのか、遥か上空から一条の光だけが降り注いで生命球を照らし出していた。
生命球が中の生命の維持をできるとは思えないほど、弱い光だ。
辺りには静けさだけが満ちている。
無音の世界の中で、それは泳ぎ続ける。
世界の全てから忘れ去られたかのように。静かに。静かに……。
ロアとコルネリアは、真正面から向かい合っていた。
二人の手にはナイフ。鋭く研がれ、刃は互いの顔が映り込んでいる。
切羽詰まった表情のロアに対して、余裕の笑みのコルネリア。その笑みが逆に、緊張感に満ちた空気を生み出していた。
季節は冬。
寒さが一番厳しい時期は過ぎていたが、まだまだ空気は冷たい。
ロアたちがいるのは、訓練場だ。一応、壁も屋根もある。だが、地面は剥き出しで暖房施設は無く、気温は外と変わりない。
「吐いた息に注目してみて。ロアのは白煙みたいになってるけど、私のはそれほどでもないでしょう?動きに無駄が多すぎるのよ」
コルネリアに言われ、ロアは自分の息に注意を向けた。
吐いた息が冷たい空気と混ざり、白煙の様に周囲の空気を濁らせていた。
その反面、コルネリアの息はほとんど白くなっていない。わずかに胸の上下に合わせて白い帯が現れすぐ消える程度だ。
「冬は見た目で呼吸の荒さが分かるからありがたいわ。どんな頑固者でも認めるしかないもの」
ダメ押しとばかりにコルネリアが言うと、ロアは顔を歪めた。
自分の未熟さを思い知ったからだ。
目の前に漂っている白い息は、自分自身の未熟の証だ。
無駄な動きを重ねて、疲労しているのが見て取れる。
「……」
ロアは無言でナイフを固く握る。わずかに視線を下した後に、再びコルネリアに戻した。
その目に籠っているのは固い意志。
敵わないまでも、食らい付いてやろうという気迫。
その目を見て、コルネリアは優しく微笑んだ。
ジャリっと、ロアの靴が地面を踏み締める音が鳴る。同時に、コルネリアの手元に向けてナイフを振るった。
「はい、予備動作が隠しきれてない。狙ってる場所が丸分かりよ」
軽く言うと、コルネリアは紙一重の距離でナイフを避ける。完全に見切っている動きだ。
「こうやるの」
コルネリアの声が聞こえたと思ったら、次の瞬間にはロアの手からナイフが離れて宙を舞っていた。
何をされたか分からない。
目を離していなかったのに、動きを見ることすら出来なかった。遅れて手に痛みが走って初めて、コルネリアにナイフを叩き落とされたのだと気付いた。
「斬りかかるために身体を傾ける。足場を整える。腕に力を入れる。それだけで相手はロアの動きを予測するわよ。何度も言ってるけど」
「痛っ!」
コルネリアの身体が揺れたと思ったら、今度はロアの右肩に痛みが走った。傷は無い。強い打撃だ。我慢強いロアだが、突然のことで思わず声を上げた。
「予測できない動きは、目で追うのも難しくなるわ。頭が処理できなくなるのよね。これは頭の良さはあまり関係ないみたい」
「うわっ!」
最後にポンと掌で額を押され、ロアは体勢を崩して尻から後ろに倒れ込んだ。
「はい、終わり。そろそろ護衛さんたちの訓練時間になるから、今日はここまでね」
コルネリアは地面に倒れているロアを見下ろすと、笑いかけた。
ロアは呆然としていたが、その言葉を聞いて悔しそうに顔を歪める。
手も足も出ない。そのことを、思い知らされた。
コルネリアは短く息を吐くと、ロアから距離を取った。
ここはペルデュ王国のアマダン伯領。
ロアの家がある、コラルド商会の敷地内だ。
今までロアとコルネリアが戦っていた訓練場は、本来はコラルドの護衛のための物で、ロアたちは開いている時間で利用させてもらっていた。
ロアがネレウス王国、そしてその後のアダド帝国への旅から戻って、もう三か月以上が経過している。
予定よりもかなり長くなった旅だが、帰って来てからは一部を除いて以前の通りの日常を取り戻していた。
ロアは魔法薬などの生産を続け、数日に一回程度こうやって望郷のメンバーたちから武術の指導を受けている。
今日はコルネリアの番で、ナイフを使った基本的な体裁きの指導だ。以前はこの基礎訓練ばかりをしていたが、今はディートリヒたちに長剣の扱い方も習い始めている。
ロアの身体が十分に鍛えられたら、本格的に長剣での戦闘訓練に移行していく予定だ。
「ふう……」
ロアは溜め息混じりの息を吐くと、起き上がって額の汗を拭った。
空気は冷たいが、集中して動いたので汗が滲んでいる。身体も熱い。
先ほどまでロアがやっていたのは、立ち合いだった。実戦形式で、人間相手の戦闘の進め方を学んでいた。
疲労が激しいので、いつも訓練の最後の行っている。
ロアの実力が全く足りていないため、コルネリアに一撃すら当てることさえ出来ていない。いつも一方的に叩きのめされて終わるだけだ。
だが、実戦形式で得られる物は多い。なによりロアは類を見ないほどの頑固者だ。このまま負け続けることを良しとはしない。
近い内に一撃を当てるくらいには成長するだろうと、望郷のメンバーたちは予測していた。
<お疲れ様です!ご主人様!!>
「げっ……また来てたの?」
突然聞こえた『声』に、コルネリアが女性らしからぬ声を上げた。先ほどまで、訓練場にはロアとコルネリアの二人しかいなかったはずだ。
コルネリアでも気配に気付けない相手。そんな者、限られている。
コルネリアが声の方を振り向くと、そこには予想通りの存在が立っていた。
立っていたのは、子供のような小柄な男。
モフモフとした子熊の着ぐるみを着ていて、出ているのは顔だけだ。顔も幼く、見た目だけなら親に奇妙な服を着せられている子供にしか見えない。
だが、雰囲気が只者ではない。子供が纏える雰囲気ではない。
人間とは思えない空気を纏っている。
虹を溶かし固めたような瞳が爛々と輝いていた。その瞳は真っ直ぐにロアだけを見つめていて、近くに立つコルネリアには視線を向けることすらしなかった。
<さあ、汗を拭いて差し上げましょう!>
「……カラくん」
嬉々として手拭いを持ってロアの汗を拭こうとしているのは、カラくん。
かつてはカラカラと呼ばれていた、アダド地下大迷宮の主にして、妖精王と呼ばれて恐れられている魔獣。
そして今は、ロアの従魔の一匹だ。
<あの女は酷いですね。ご主人様をこんなに痛めつけた挙句に転ばすなんて。性別が分からなくなるくらい顔を殴り倒してやりたいくらいです!>
「カラくん……。これは訓練だから……」
<ええ、分かってますよ。だからあの失礼な女に手を出さずに済ましてやっているのです。そうじゃなきゃ、記憶を全部飛ばして、頭を赤子に戻してやるのに。ご主人様も一度叩きのめしてやればいいのですよ。ご主人様が私の魔力を使って魔法を使えば、あんな女くらい一撃でペチャンコにできるんですから>
不穏な台詞を呟きながら、カラくんは甲斐甲斐しくロアの汗を拭く。
ロアは溜め息をつきながら、困ったような笑みを浮かべた。
「カラくん、そんなことを言ったらダメだって。剣の訓練の時は、魔法は無しなんだから」
<ええ、ええ、分かってますよ。だから、我慢してるじゃないですか>
「分かってない気がするなぁ」
噛み合っていない一人と一匹の会話に、コルネリアも頭を抱えて盛大にため息を漏らした。
アダドから帰って来てから、一部を除いて以前の通りの日常に戻った。ただ、あくまで一部を除いての話だ。
その一部が、カラくんだ。
アダドに残ったカラくんだったが、ロアたちがアマダン伯領に戻ってからしばらくして、時々ロアたちの元に顔を出すようになった。
妖精王であるカラくんは、『妖精の抜け穴』という遠くの場所を繋げる魔法を使う。移動先に目印が必要になる魔法だが、カラくんは真っ先にロア自身を目印にした。
つまり、カラくんはロアがどこにいてもすぐに駆け付けることが可能だった。
ならば逆にどうして、しばらくはロアの元に来なかったのか疑問が残るだろう。それはロアたちが起こした事件が原因で、アダド地下大迷宮で様々な問題が起こっていたからだ。
カラくんにとってロアは大事な大事なご主人様だ。だが、カラくんは過去の主人との思い出も大事にしている。
先代の主人から任された地下大迷宮を見捨てることは出来ず、問題を全て解決するまで駆け付けられなかった。
今でも時々しか来られないのは、ダンジョンの管理とロアから頼まれた仕事があるからだ。
それが無ければ、グリおじさんたちの様に、ベッタリとロアの傍らに侍っていたことだろう。
「それで、カラくん。今日は何か用事があったの?」
<そうです!>
汗を丁寧に拭き続けるカラくんに、ロアは話しかけた。
甲斐甲斐しく世話をされる居心地の悪さに、間が持たなかったのだ。ならば断れば良いと思うだろうが、それをするとカラくんがこの世の終わりの様な顔をするので、好きなようにやらせていた。
<例の物の準備が整いました。ご主人様の起動待ちです>
カラくんは自慢げに胸を張った。その表情が褒めろと言っている。
「もう?さすがだね。時間がかかるって言ってたのに」
<ふふん。あのグリフォンにしつこく催促されてましたからね。仕方がなく、本当に仕方がなく、早めましたよ>
カラくんは褒められて嬉しそうに目を輝かせる。
仕方がなくと言いながらも、満更ではないらしい。嫌々やったように言っているが、早く仕上げてロアが喜んでくれるのを楽しみにしていたのだろう。
無意識なのか、カラくんが頭を少し下げる。ロアはその頭を、優しく撫でた。
至福の時。
蕩けそうな表情で、カラくんはその時間を噛み締めた。
「例の物って何?」
だが、コルネリアが会話に割り込んだことで、その時間は終わってしまった。
カラくんはロアの手が止まったことに気が付くと、横目で恨みがましい視線をコルネリアに向けた。
コルネリアはのその視線に冷や汗を浮かべたが、表情を変えることは無い。ロアの手前、怯えた表情は見せられないと、虚勢を張っているのだろう。
彼女はグリおじさんに慣れているおかげで、凶悪な魔獣から悪意を向けられることには耐性がある。嫌な慣れだが。
「例の物は……ここではちょっと。外で誰が聞いてるか分からないので。コルネリアも一緒に見に来ますか?」
「うーん。ここで言えないってのと、グリおじさんが催促してたってのが気になるし、行くわ」
コルネリアは少し考えて、ロアたちに付いて行くことにした。
ロアと妖精王。この二人が何か企んでいるというだけでも不穏な雰囲気があるのに、さらにグリおじさんまで関わっているとなれば不穏どころの話ではなくなる。
邪魔をされたカラくんの視線は怖いが、逃げ出して確認せずに済ましたら、すごく後悔しそうだった。
「じゃあ、先に片づけをしちゃおうか」
<お手伝いします!!地面を均すんですよね?魔法ですれば一瞬ですよ>
ロアと共に、訓練で荒れた地面を嬉々として均し始めるカラくん。
少年と子熊のような後ろ姿を見つめながら、コルネリアは不安げな表情を浮かべていた。
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