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8巻
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クリストフを欠いた望郷のメンバー三人と、カールハインツ王子、そして双子の魔狼を加えた四人と二匹は馬車で王都の中を進んでいた。
目的地である漁港へと向かうためだ。
双子の魔狼には、誘拐されたロアを取り戻すための計画があるらしい。その条件に合うのが漁港だった。
漁港は街の外れにあり、今までいた軍港と反対の位置にあって遠い。普段であれば船で海沿いに移動するのが一番早いのだが、今はアダドが攻めて来ている非常時で船は出せない。軍船の動きの妨げにならないように出航が制限されている。
王子であっても軍事に口を出す権限はないため、仕方なく馬車での移動となった。
あり得ない速さで、馬車は進む。
王子権限で公務と緊急事態の旗を掲げているため咎められることはないが、それでも街中を進むには危険な速さだ。
幸いと言っていいかは分からないが、王都全体にアダドが攻めて来たことが伝わっているらしく、進む道に人影はない。海竜祭の最中だというのに、店なども全て扉を閉じている。
避難するためか馬車は走っていたがそれも疎らで、危険な速さで馬車を走らせても何とか事故を起こさずに進めているのだった。
念のために、御者はベルンハルトが引き受けている。彼ならば魔法で事故を予防することができるからだ。
双子の魔狼は焦りから落ち着かないらしく、馬車に並走して障害物を取り除く役割をしていた。
必然的に、馬車の中にはディートリヒとカールハインツ、コルネリアが乗ることとなった。
馬車の中は気まずい雰囲気が漂っていた。三人とも無言だ。カールハインツが手慰みに吹いている草笛の音だけが、ピーピーと響いている。
ディートリヒはコルネリアに怒られてまだ落ち込んでいるし、コルネリアはカールハインツの手前出しゃばった行動もとれず、大人しく座っていた。
かれこれ数十分はその状態だっただろうか。不意に、カールハインツの鳴らす草笛の音が止まった。
「そろそろかな?」
突然のカールハインツの発言に、コルネリアは首を傾げた。まだ目的の漁港までは距離があるはずだ。何がそろそろなのかよく分からない。
そんなコルネリアにカールハインツは目を合わせると、イタズラ小僧のようなやけに思わせぶりな笑みを浮かべて見せた。
「ディートリヒ、右手を上げて」
「……」
カールハインツの声に従い、ディートリヒは無言で右手を上げた。
その眼は虚ろで、焦点が定まっていない。まるで動く死体のようで、自分の意思で右手を上げたようには見えない。
コルネリアはその様子に驚いて目を見開いた。いつからディートリヒがそんな状態になっていたのかまったく気付いていなかった。落ち込んではいたものの、普通だったはずだ。
慌ててカールハインツの方を向くと、疑いの目を向けた。
「ちょっとした、催眠術みたいなものだよ。色々考えたけど、これが一番手っ取り早そうだったからねぇ」
まるで悪びれることなく言う。
「……草笛ですか?」
馬車の中でカールハインツがしていたことと言えば、草笛を吹いていただけだ。それが催眠術をかける道具になっていたのだろう。ただの暇潰しだと思っていたため、コルネリアも油断していた。
カールハインツは女王の密偵である。情報収集が専門のため、こういった手段はお手の物だ。もちろん違法だが、そもそも密偵として非合法活動に従事しているカールハインツは躊躇なく使う。
「そうだよ。魔法だと抵抗されるからね、ディートリヒみたいな人間は、こっちの方がかかり易いみたいなんだよねぇ。目的地に着くまでまだ時間があるから、ディートリヒに聞いてみたいこともあるし、質問でもして時間を潰そうか」
何でもないことのように軽く言うと、カールハインツはディートリヒと向き合う位置に移動した。
「ねえ、ディートリヒ。君は薬を使うような真似をする男じゃないよねぇ? 何で女王に薬を盛るような真似をしたのかな?」
「え?」
思いもよらない質問に、コルネリアが思わず声を上げた。
「何で驚いてるの? ディートリヒはいっつも女王に真正面からケンカ売ってたでしょ? 剣で斬りかかるのはあり得ても、薬を使うなんてあり得ないでしょ?」
カールハインツが言ったのは、昨夜のパーティーでディートリヒが起こした騒ぎについてのことだ。
「……そう言われればそうですね。惚れ薬だから、その、あり得るかなーと、思ってました」
「なにそれ?」
コルネリアも、ディートリヒが使ったのが毒だったのならば違和感を覚えていただろう。だが、使ったのは惚れ薬だ。壊滅的にモテないディートリヒがずっと欲しがっていた薬だ。
欲しがっていたということは使うつもりがあるということで、そのことを知っていたコルネリアはすんなりと受け入れていた。
それに何より、もっと効果が弱い、効くかどうかも分からないような惚れ薬なら、ディートリヒは使った前科がすでにある。疑う余地はなかった。
しかし、改めて考えると、可愛い女性相手ならともかく、女王に対して惚れ薬を使うというのはおかしい。今までの腹いせに女王を言いなりにしようとディートリヒが企んでいたとしても、嫌っている人間に自分を惚れさせる利点はない。
「うちの義兄弟は仲間に信用されてないんだね。悲しいなぁ」
「すみません」
いかにもディートリヒのことを理解していると言いたげな口ぶりにムッとしながらも、コルネリアは形だけは謝罪して見せた。カールハインツ相手に口答えをしたところで、面白がられて遊ばれるのがオチだろう。
「ディートリヒ。君は女王に薬物が効かないのは知ってたはずだよねぇ? それなのに何でわざわざあんなことしたの?」
「……オレが薬を使うような卑怯なやつなら、離れたいと思ってくれるかもしれないから……」
カールハインツに質問され、ディートリヒはゆっくりと口を開いた。その言葉を聞いた瞬間、コルネリアの顔色が変わった。
「離れる? 誰が?」
「そりゃ、コルネリア嬢、君たちだろ?」
コルネリアの問い掛けに答えたのはカールハインツだった。彼はディートリヒの答えを聞いても平然としていた。どうやらカールハインツは全てを分かっていて、コルネリアに聞かせるために質問をしたらしい。
「君たちがこの国に入ってからずっと女王の命で監視していたけどねぇ、我が義兄弟はこの国に帰って来たのを切っ掛けにして、コルネリア嬢たちから離れようとしてたみたいだよ? これ以上迷惑を掛けたくないみたいだね。『オレがいなくなった方が、幸せになれそうな気がしないか?』なーんて、カッコつけて呟いてたらしいよ。まあ、状況から考えるに、あのグリフォンと話してたみたいなんだけどねぇ。あのグリフォンの声が聞こえない連中からしたら、不気味な独り言だよねぇ」
それは様々な騒動が起こる前の話だ。
ディートリヒはグリおじさんと空き地で日向ぼっこをしながら話し合っていた。
その時の会話……と言ってもグリおじさんの声が聞こえない者たちには大きな独り言としか見えなかったが……は、周囲でディートリヒを監視していた騎士たちに聞かれており、カールハインツに報告されていた。
ディートリヒはその時に、望郷の他のメンバーと離れることを匂わせる発言をしていたのだ。そして、それがコルネリア、クリストフ、ベルンハルトの三人のためになると考えていた。
ヘラヘラと笑いながらそのことを告げるカールハインツを、コルネリアは睨みつけた。
「そんな怖い顔をしたらせっかくの美人が台なしだよ」
睨みつけても表情一つ変えないカールハインツを見て、コルネリアは表情を緩めると大きくため息をついた。
「どうして私にそんな話を聞かせるんですか?」
コルネリアにはカールハインツの目的が分からない。そんな話を聞かせる利点が思い付かない。
「君たちに今後のことを考えておいて欲しくてねぇ。まだ内緒の話なんだけど、君たちがディートリヒと別れたら、コルネリア嬢には近衛騎士に、クリストフにはうちの密偵部隊に入ってもらう話が出てるんだよ。だから、その前振り。今のところは国は君たちをディートリヒから離すつもりはないけど、ディートリヒ自身が離れた方が良いと考えてるなら早まるかもしれないしねぇ。覚悟しといてねってことだよ。あ、ベルンハルト師はもちろんそのまま宮廷魔術師ね」
そう言われて、コルネリアは唇を噛み締める。
ずっと今まで通りとはいかないことは分かっていた。だが、まだまだ先の話だと思っていたのだ。まさかすでに自分たちをディートリヒから引き離す計画があり、ディートリヒ自身も離れようとしているとは考えてもみなかった。
「私は、自分でも意外だったんですが、冒険者としての生活を気に入ってしまっているようです。ベルンハルトも同じです。クリストフは……よく分からないですけど」
ベルンハルトが冒険者生活を気に入っているのは間違いない。というか、グリおじさんと行動を共にすることを気に入っている。もしディートリヒと別行動となっても、国の管理下から逃げ出してグリおじさんにくっ付いて冒険者を続けるだろう。
クリストフのことは、コルネリアにはよく分からなかった。
ディートリヒのことを慕っているようだが、それは昔のディートリヒの影を追いかけているからだ。今のディートリヒから昔の凶暴な頃の面影が完全に消えてしまったら、どういう行動を取るのか予測できない。バカな今のディートリヒを見下しているような雰囲気すらあるのだ。
コルネリアは、自分はどうなのだろうと考える。
今、ディートリヒと行動を共にしているのは国からの命令によるものだ。ディートリヒの監視と護衛という役割があり、給料もちゃんと出ている。それがなければ? やはりリーダーに付いていくのだろうか?
確かに冒険者生活は気に入っている。騎士の重責から解放され、自由に行動する楽しさを覚えた。身分に関係なくバカなことを言い合い、時には殴り合ったりしながら楽しく過ごせていた。
だが、騎士としての身分を捨ててまで冒険者を続けたいかと言われると、悩んでしまう。
騎士爵の娘であり、騎士になるために育てられたコルネリアは、その責任を捨ててまで自らの自由を選ぶことはできない。もし、自由を選んでしまったら、後悔するだろう。
もちろん責任からだけではなく、騎士としての生き方も気に入っている。
あくまで一時的な冒険者生活だからこそ、楽しめていたのだ。騎士を捨ててまで冒険者を選べない。
リーダーはいい加減に見えても、仲間のことを考えていてくれる。そんなリーダーが思い詰め、離れた方が良いと考えているのなら、やはりその思いを受け入れて快く離れるべきなのだろうか? それがお互いにとって一番良い選択なのだろうか?
……そんな風に思い悩んでいるコルネリアを見て、カールハインツはニッコリと微笑んだ。
「そうそう、その時に我が義兄弟は『オレを蹴り飛ばす女じゃなくて、オレに優しくしてくれる人を探すんだ‼』とも言ってたらしいよ? 酷い話だよねぇ」
「死ねこのバカリーダー!」
思わず、コルネリアは叫んだ。自分たちのことを考えてくれていると思って悩んでいたのに、台なしだ。
「悩んだ自分が恥ずかしいわ! バカ!」
結局は優しい女目当てかよと、激高して思わず拳を振り上げた。だが、その拳はカールハインツに止められた。
「まあ、グリフォンと話してた時だからね。照れ隠しもあるでしょ。それに今殴られちゃうと、せっかくかけた術が解けるからやめてね」
「……」
「ディートリヒが君たちのことを思いやってるのは本心だと思うよ? 君たちって不器用だよねぇ。互いに思い合って、気遣って、結局すれ違っちゃってるの。素直になればいいのに」
その言葉に思うところがあったのか、コルネリアは気が抜けたように、振り上げた拳を収めて馬車の座席に座り直した。
「君たちって、ホント真面目だよね。深く考えるだけムダだよ。もっと素直になりなよ。どんな状況でも楽しめばいいんだよ。女王やあのグリフォンみたいにされると迷惑だけど、ある程度はやりたいようにやらなきゃねぇ。疲れるでしょ?」
「はあ、カールハインツ王子殿下はいつも楽しそうですね」
もう王子として敬う気も失せてきている。コルネリアは自分を揶揄っているとしか思えないカールハインツに嫌味をぶつけた。
「これでも悩みはあるんだよ。やっと吹っ切れて、楽しめるようになってきたけどねぇ」
カールハインツは笑みを張り付けたまま、首筋に巻いているスカーフにそっと触れた。その下には、双子の魔狼に付けられた下僕紋がある。それは双子に従えられた証であり、自分の力を信じていたカールハインツには屈辱の印だ。
コルネリアはそこに下僕紋があることすら知らないが、浮かべている笑みが先ほどより陰りを含んだものだったため、何かを察して無言で視線を逸らした。
「さて、ない頭で色々思い悩んでるディートリヒくんには、これを飲んでもらおうかな」
話は終わったとばかりにカールハインツはディートリヒの方を向くと、懐から小瓶を取り出した。
「それは?」
「お酒。気付け用で味はあまり良くないけどねぇ。その代わり、酒精はキツイよ」
そう言いながら、瓶の蓋を開ける。
「そんな物をリーダーに飲ませたら……」
「我らの主はディートリヒの大暴れがお望みらしいからねぇ。仕方がないんだよ」
さらに深く影を含んだカールハインツの笑みに、コルネリアはそれ以上何も言えなくなった。
事情を知らないコルネリアは主を女王のことだと考えたが、今のカールハインツにはもう二匹、下僕呼ばわりしてくる主がいる。
「もうすぐ目的地に着くからね、大暴れして悩みを吹っ飛ばしてスッキリしなよ」
カールハインツは酒の瓶をディートリヒの唇に押し当てて流し込んだ。
「楽しい祭りにしようねぇ」
カールハインツは優しくささやいているのに、なぜかコルネリアは背筋に冷たいものを感じた。
第三十二話 彼方への遠吠え
その日の漁港は殺気立っていた。
ネレウス王国の王都の漁港は、獲った魚を船から降ろす場というだけではない。
作業場が併設されており、魚の仕分けから、競りと呼ばれる仲買の商人への販売までを一手に取り仕切っていた。
さらにはネレウス王国の漁業ギルドの本部も兼ねており、王国内で最も大きく、最も管理が行き届いている最先端の漁港だった。
漁師たちはその仕事の性質から気性の荒い者が多いが、王都の漁港で揉め事を起こす者はいない。
漁業ギルドのお膝元だけあって常に監視の目が光っており、少しでも騒動を起こそうとすればすぐに対処され、処罰が加えられる。
その処罰は数日の漁の禁止に始まり、重ければ漁業ギルドからの追放まで含まれている。
近郊の大きな港は全て漁業ギルドが取り仕切っているため、漁業ギルドからの追放は二度とネレウス王国内で漁ができなくなるのと同じ意味を持っていた。
どんな荒くれ者であっても、自分の仕事と引き換えにしてまで騒動を起こすことはない。だからこそ、漁港は規律の整った節度ある場所となっていた。
だが現在、その漁港が殺気立ち、一触即発の空気が漂っていた。
その原因はアダドの艦隊の襲来だ。
漁師たちは夜中に漁に出かけ、夜明けと共に漁港に帰って来る。軍経由でアダドの艦隊の襲来を告げられた時にはすでに多くの漁船が漁港に入っており、船から魚を降ろす作業が始まっていた。
いつもであれば、魚を降ろし切れば漁師たちの仕事はそこで終わりだ。
各々の地元の港に戻り、船の清掃や道具の片付けを終わらせて身体を休める。漁港で降ろされた魚は専門の職員たちによって仕分けされて売りに出されて、後日売り上げがギルドによって分配される仕組みになっていた。
そういう風に役割分担がされることで、個々の負担を減らすと同時に雇用を増やしているのだった。
しかし、アダドの艦隊が襲来してきたことで、その役割分担が大きく狂った。
仕分けや売り出しの作業を担っているのは、女性が多い。漁師をするのは男性が多いため、余りがちな女性の雇用を意図的に増やしていた。
また、ギルドとしては身元が確かな者たちを雇いたいため、ほとんどが漁師など関係者から紹介された人々だ。そのため、働いているのは妻や親族など漁師たちの身内が多かった。
漁港は当然ながら海に面しており、艦隊が襲来し戦闘になれば危険になる。
そんな場所に非戦闘員の、しかも漁業ギルドを支える大事な漁師たちの身内を集めておけるわけがなく、軍から連絡があってすぐに大多数を避難させることになった。王都まで攻め込まれるとは思っていないが、万が一の可能性は捨て切れなかったのだ。
だが、すでに漁は終わっており、幸か不幸か今日は大漁だった。
避難させたためその魚を処理するための人員が圧倒的に足りず、どこか安全な場所に移動させようにも、結局は人員不足の問題が付いて回ってくる。
だからと言って、捨てたりそのまま放置したりするわけにもいかない。生の魚は腐り易いし、氷の魔法を扱える魔術師を呼び出して保存するにも、経費が掛かり過ぎる。
魚を買うのはほとんどが庶民だ。経費を掛け過ぎて魚の値段が上がれば売れ残ってしまい、結局は廃棄する羽目になるだろう。
もし、今にも王都まで攻め込まれそうな切迫した状況なら、漁業ギルドも損得を考えるまでもなく全てを放置して逃げ出す選択をしていたかもしれない。
しかし、現状ではアダドの船が追い返される可能性の方が高い。それなのに恐れをなして大切な魚を放置したとなれば、漁業ギルドの名折れになる。見極めが必要だった。
検討に検討を重ね、その結果、ギリギリまで漁師たちと男性職員総出で対応することになった。
漁師たちなら腕っぷしに自信がある者ばかりだ。魔法を抜きにすれば軍人どころか騎士よりも強い人間もかなりいる。戦渦に巻き込まれても十分に生き残ることができるだろう。
何より、彼らは自分たちの仕事に矜持を持っている。獲って来た魚を放っておいて逃げ出すなどできるはずがなかった。
こうして、漁師たちは漁で疲れ切った身体を酷使して、仕分けなどの作業をする羽目になったのだった。
おかげで、全員が突如攻めて来たアダドの艦隊と、疲れ切っているにもかかわらず働かないといけない状況に殺気立っていたのだった。
「何とかなりそうだね」
そう呟いた女性は、ネレウスの漁業ギルドのギルドマスターだ。
女性ながら荒くれ者の漁師たちを纏めるに相応しい、力強さを持った人物だった。
ネレウスでは、要職に就いている女性が多い。
なにせ元々は海賊たちが寄り集まって作った国家だ。気概のある男は海を人生の舞台にしたがる。そういう男たちは一つ所に留まりたがらない。何かと理由を付けてフラフラと色々な場所に旅立っていくのだ。
そんな連中に要職を任せられるわけがなく、必然的に女性の比率が高くなっていた。
ギルドマスターは、広い作業場の全体を見下ろせる監視台の上にいた。
作業をしている者たちに指示を出したり、不正行為がないか見張ったりするための場所だ。作業場は仕分けから売買までを一貫して行うために、巨大な倉庫のようになっているが、高い位置に設けられた監視台に登れば一望できるようになっていた。
彼女の眺める先では、漁師たちが慣れない仕事に四苦八苦しながらも作業を進めている。
魚の仕分けはすでに終わり、後は運び出すための馬車への積み込みが残されているだけだ。それも間もなく終わるだろう。やっと終わりが見えたことで、ギルドマスターは胸を撫で下ろした。
「⁉」
不意に、視界に異物が映った。侵入者だ。
ギルドマスターは思わず息を呑む。既知であったために、一目で人物の特定ができてしまった。それは、ここにいるはずのない男だった。
「何しに来たんだい? あのバカは……」
見た目は漁師たちと大して変わらないが、纏っている雰囲気が異様だった。ギルドマスターは見つけてしまったことを後悔した。
今は非常時のため、警備員も作業場で作業をしている。それによって出来てしまった警備の穴を突いて、誰にも咎められず中に入って来てしまったのだろう。
「ありゃ、飲んでるね。厄介事の匂いがするよ」
侵入者は作業場の入り口から、ゆっくりと中へと進んで来ていた。作業に没頭している漁師たちは、まだ気付いていない。今ならまだ、誰にも気付かれずに排除できるかもしれない。急いで指示を出そうと、ギルドマスターは後ろに控えている秘書たちを振り向いた。
そこに、まるでその時を狙ったかのように、階段から続く通路を抜けて事務員の一人が飛び出してきた。
「お知らせしたいことが」
事務員は息を切らせている。よほど慌てて監視台に上がって来たのだろう。
「何だい? それよりアイツを……」
「そのことは把握しております。それについて至急の相談があります」
ギルドマスターは事務員を無視して指示を出そうとしたが、彼はその言葉を遮った。
「相談だって?」
「はい。ギルドマスターが気になさっている人物の関係者が訪れて、とあるお願いをしていかれました」
「……きな臭いね」
「お耳を拝借」
あまり他人に聞かせたくない内容なのか、事務員はギルドマスターの耳に顔を近づけると口元を手で隠して何かを告げた。
「!!? ……そうかい。あの方がね。それで内容は?」
事務員が告げた内容に、ギルドマスターの顔色が変わる。しかしそれは一瞬だけで、ギルドマスターの口元は興味深げに緩んだ。
「……そうかい。……なるほど! ……え?」
事務員が小声で何かを伝える度に、ギルドマスターの表情は変わっていく。
「それで報酬は? 半端な報酬じゃ引き受けないよ?」
「なんと! 超位が二本に、高位が三十本。そして負った傷の治療に使う分は、無制限に提供してくれるそうです!」
興奮して、耳元でささやくのも忘れて事務員は声を上げた。
「は!!? 超位⁉ 無制限!!?」
ギルドマスターも事務員に負けず劣らずの大声で叫んでしまう。目は溢れ落ちそうなほどに大きく見開かれていた。それから、我に返って周囲を見渡した。
幸い、その声は作業場まで届いていなかったのだろう。作業場の様子に変化はない。ギルドマスターは誰にも気付かれなかったことに、ホッと息を吐く。ただ、控えている秘書たちだけは、ギルドマスターにあるまじき失態に目を丸くしていた。
だが、ギルドマスターが思わず大声を出して驚くのも当然だろう。二人が言っている超位とは超位の治癒魔法薬のことだった。
それは国王であっても滅多に手に入れられず、金を積めば手に入る物ではなかった。
それを二本だ。あり得ない。
さらに高位の治癒魔法薬も、比較的入手し易いとはいえ高価な物だ。漁業ギルドの本部を兼ねているこの漁港であっても数本の備蓄がある程度で、常に不足していた。
漁師は命懸けの仕事である。魔獣のいる海で漁をするのだから、冒険者と比べても引けを取らないほど危険と隣り合わせだ。
当然、大ケガを負って運び込まれてくる人間も多く、高位の治癒魔法薬は喉から手が出るほど欲しかった。それが三十本も手に入るのだから、それだけでも十分に叫ぶ価値はある。
目的地である漁港へと向かうためだ。
双子の魔狼には、誘拐されたロアを取り戻すための計画があるらしい。その条件に合うのが漁港だった。
漁港は街の外れにあり、今までいた軍港と反対の位置にあって遠い。普段であれば船で海沿いに移動するのが一番早いのだが、今はアダドが攻めて来ている非常時で船は出せない。軍船の動きの妨げにならないように出航が制限されている。
王子であっても軍事に口を出す権限はないため、仕方なく馬車での移動となった。
あり得ない速さで、馬車は進む。
王子権限で公務と緊急事態の旗を掲げているため咎められることはないが、それでも街中を進むには危険な速さだ。
幸いと言っていいかは分からないが、王都全体にアダドが攻めて来たことが伝わっているらしく、進む道に人影はない。海竜祭の最中だというのに、店なども全て扉を閉じている。
避難するためか馬車は走っていたがそれも疎らで、危険な速さで馬車を走らせても何とか事故を起こさずに進めているのだった。
念のために、御者はベルンハルトが引き受けている。彼ならば魔法で事故を予防することができるからだ。
双子の魔狼は焦りから落ち着かないらしく、馬車に並走して障害物を取り除く役割をしていた。
必然的に、馬車の中にはディートリヒとカールハインツ、コルネリアが乗ることとなった。
馬車の中は気まずい雰囲気が漂っていた。三人とも無言だ。カールハインツが手慰みに吹いている草笛の音だけが、ピーピーと響いている。
ディートリヒはコルネリアに怒られてまだ落ち込んでいるし、コルネリアはカールハインツの手前出しゃばった行動もとれず、大人しく座っていた。
かれこれ数十分はその状態だっただろうか。不意に、カールハインツの鳴らす草笛の音が止まった。
「そろそろかな?」
突然のカールハインツの発言に、コルネリアは首を傾げた。まだ目的の漁港までは距離があるはずだ。何がそろそろなのかよく分からない。
そんなコルネリアにカールハインツは目を合わせると、イタズラ小僧のようなやけに思わせぶりな笑みを浮かべて見せた。
「ディートリヒ、右手を上げて」
「……」
カールハインツの声に従い、ディートリヒは無言で右手を上げた。
その眼は虚ろで、焦点が定まっていない。まるで動く死体のようで、自分の意思で右手を上げたようには見えない。
コルネリアはその様子に驚いて目を見開いた。いつからディートリヒがそんな状態になっていたのかまったく気付いていなかった。落ち込んではいたものの、普通だったはずだ。
慌ててカールハインツの方を向くと、疑いの目を向けた。
「ちょっとした、催眠術みたいなものだよ。色々考えたけど、これが一番手っ取り早そうだったからねぇ」
まるで悪びれることなく言う。
「……草笛ですか?」
馬車の中でカールハインツがしていたことと言えば、草笛を吹いていただけだ。それが催眠術をかける道具になっていたのだろう。ただの暇潰しだと思っていたため、コルネリアも油断していた。
カールハインツは女王の密偵である。情報収集が専門のため、こういった手段はお手の物だ。もちろん違法だが、そもそも密偵として非合法活動に従事しているカールハインツは躊躇なく使う。
「そうだよ。魔法だと抵抗されるからね、ディートリヒみたいな人間は、こっちの方がかかり易いみたいなんだよねぇ。目的地に着くまでまだ時間があるから、ディートリヒに聞いてみたいこともあるし、質問でもして時間を潰そうか」
何でもないことのように軽く言うと、カールハインツはディートリヒと向き合う位置に移動した。
「ねえ、ディートリヒ。君は薬を使うような真似をする男じゃないよねぇ? 何で女王に薬を盛るような真似をしたのかな?」
「え?」
思いもよらない質問に、コルネリアが思わず声を上げた。
「何で驚いてるの? ディートリヒはいっつも女王に真正面からケンカ売ってたでしょ? 剣で斬りかかるのはあり得ても、薬を使うなんてあり得ないでしょ?」
カールハインツが言ったのは、昨夜のパーティーでディートリヒが起こした騒ぎについてのことだ。
「……そう言われればそうですね。惚れ薬だから、その、あり得るかなーと、思ってました」
「なにそれ?」
コルネリアも、ディートリヒが使ったのが毒だったのならば違和感を覚えていただろう。だが、使ったのは惚れ薬だ。壊滅的にモテないディートリヒがずっと欲しがっていた薬だ。
欲しがっていたということは使うつもりがあるということで、そのことを知っていたコルネリアはすんなりと受け入れていた。
それに何より、もっと効果が弱い、効くかどうかも分からないような惚れ薬なら、ディートリヒは使った前科がすでにある。疑う余地はなかった。
しかし、改めて考えると、可愛い女性相手ならともかく、女王に対して惚れ薬を使うというのはおかしい。今までの腹いせに女王を言いなりにしようとディートリヒが企んでいたとしても、嫌っている人間に自分を惚れさせる利点はない。
「うちの義兄弟は仲間に信用されてないんだね。悲しいなぁ」
「すみません」
いかにもディートリヒのことを理解していると言いたげな口ぶりにムッとしながらも、コルネリアは形だけは謝罪して見せた。カールハインツ相手に口答えをしたところで、面白がられて遊ばれるのがオチだろう。
「ディートリヒ。君は女王に薬物が効かないのは知ってたはずだよねぇ? それなのに何でわざわざあんなことしたの?」
「……オレが薬を使うような卑怯なやつなら、離れたいと思ってくれるかもしれないから……」
カールハインツに質問され、ディートリヒはゆっくりと口を開いた。その言葉を聞いた瞬間、コルネリアの顔色が変わった。
「離れる? 誰が?」
「そりゃ、コルネリア嬢、君たちだろ?」
コルネリアの問い掛けに答えたのはカールハインツだった。彼はディートリヒの答えを聞いても平然としていた。どうやらカールハインツは全てを分かっていて、コルネリアに聞かせるために質問をしたらしい。
「君たちがこの国に入ってからずっと女王の命で監視していたけどねぇ、我が義兄弟はこの国に帰って来たのを切っ掛けにして、コルネリア嬢たちから離れようとしてたみたいだよ? これ以上迷惑を掛けたくないみたいだね。『オレがいなくなった方が、幸せになれそうな気がしないか?』なーんて、カッコつけて呟いてたらしいよ。まあ、状況から考えるに、あのグリフォンと話してたみたいなんだけどねぇ。あのグリフォンの声が聞こえない連中からしたら、不気味な独り言だよねぇ」
それは様々な騒動が起こる前の話だ。
ディートリヒはグリおじさんと空き地で日向ぼっこをしながら話し合っていた。
その時の会話……と言ってもグリおじさんの声が聞こえない者たちには大きな独り言としか見えなかったが……は、周囲でディートリヒを監視していた騎士たちに聞かれており、カールハインツに報告されていた。
ディートリヒはその時に、望郷の他のメンバーと離れることを匂わせる発言をしていたのだ。そして、それがコルネリア、クリストフ、ベルンハルトの三人のためになると考えていた。
ヘラヘラと笑いながらそのことを告げるカールハインツを、コルネリアは睨みつけた。
「そんな怖い顔をしたらせっかくの美人が台なしだよ」
睨みつけても表情一つ変えないカールハインツを見て、コルネリアは表情を緩めると大きくため息をついた。
「どうして私にそんな話を聞かせるんですか?」
コルネリアにはカールハインツの目的が分からない。そんな話を聞かせる利点が思い付かない。
「君たちに今後のことを考えておいて欲しくてねぇ。まだ内緒の話なんだけど、君たちがディートリヒと別れたら、コルネリア嬢には近衛騎士に、クリストフにはうちの密偵部隊に入ってもらう話が出てるんだよ。だから、その前振り。今のところは国は君たちをディートリヒから離すつもりはないけど、ディートリヒ自身が離れた方が良いと考えてるなら早まるかもしれないしねぇ。覚悟しといてねってことだよ。あ、ベルンハルト師はもちろんそのまま宮廷魔術師ね」
そう言われて、コルネリアは唇を噛み締める。
ずっと今まで通りとはいかないことは分かっていた。だが、まだまだ先の話だと思っていたのだ。まさかすでに自分たちをディートリヒから引き離す計画があり、ディートリヒ自身も離れようとしているとは考えてもみなかった。
「私は、自分でも意外だったんですが、冒険者としての生活を気に入ってしまっているようです。ベルンハルトも同じです。クリストフは……よく分からないですけど」
ベルンハルトが冒険者生活を気に入っているのは間違いない。というか、グリおじさんと行動を共にすることを気に入っている。もしディートリヒと別行動となっても、国の管理下から逃げ出してグリおじさんにくっ付いて冒険者を続けるだろう。
クリストフのことは、コルネリアにはよく分からなかった。
ディートリヒのことを慕っているようだが、それは昔のディートリヒの影を追いかけているからだ。今のディートリヒから昔の凶暴な頃の面影が完全に消えてしまったら、どういう行動を取るのか予測できない。バカな今のディートリヒを見下しているような雰囲気すらあるのだ。
コルネリアは、自分はどうなのだろうと考える。
今、ディートリヒと行動を共にしているのは国からの命令によるものだ。ディートリヒの監視と護衛という役割があり、給料もちゃんと出ている。それがなければ? やはりリーダーに付いていくのだろうか?
確かに冒険者生活は気に入っている。騎士の重責から解放され、自由に行動する楽しさを覚えた。身分に関係なくバカなことを言い合い、時には殴り合ったりしながら楽しく過ごせていた。
だが、騎士としての身分を捨ててまで冒険者を続けたいかと言われると、悩んでしまう。
騎士爵の娘であり、騎士になるために育てられたコルネリアは、その責任を捨ててまで自らの自由を選ぶことはできない。もし、自由を選んでしまったら、後悔するだろう。
もちろん責任からだけではなく、騎士としての生き方も気に入っている。
あくまで一時的な冒険者生活だからこそ、楽しめていたのだ。騎士を捨ててまで冒険者を選べない。
リーダーはいい加減に見えても、仲間のことを考えていてくれる。そんなリーダーが思い詰め、離れた方が良いと考えているのなら、やはりその思いを受け入れて快く離れるべきなのだろうか? それがお互いにとって一番良い選択なのだろうか?
……そんな風に思い悩んでいるコルネリアを見て、カールハインツはニッコリと微笑んだ。
「そうそう、その時に我が義兄弟は『オレを蹴り飛ばす女じゃなくて、オレに優しくしてくれる人を探すんだ‼』とも言ってたらしいよ? 酷い話だよねぇ」
「死ねこのバカリーダー!」
思わず、コルネリアは叫んだ。自分たちのことを考えてくれていると思って悩んでいたのに、台なしだ。
「悩んだ自分が恥ずかしいわ! バカ!」
結局は優しい女目当てかよと、激高して思わず拳を振り上げた。だが、その拳はカールハインツに止められた。
「まあ、グリフォンと話してた時だからね。照れ隠しもあるでしょ。それに今殴られちゃうと、せっかくかけた術が解けるからやめてね」
「……」
「ディートリヒが君たちのことを思いやってるのは本心だと思うよ? 君たちって不器用だよねぇ。互いに思い合って、気遣って、結局すれ違っちゃってるの。素直になればいいのに」
その言葉に思うところがあったのか、コルネリアは気が抜けたように、振り上げた拳を収めて馬車の座席に座り直した。
「君たちって、ホント真面目だよね。深く考えるだけムダだよ。もっと素直になりなよ。どんな状況でも楽しめばいいんだよ。女王やあのグリフォンみたいにされると迷惑だけど、ある程度はやりたいようにやらなきゃねぇ。疲れるでしょ?」
「はあ、カールハインツ王子殿下はいつも楽しそうですね」
もう王子として敬う気も失せてきている。コルネリアは自分を揶揄っているとしか思えないカールハインツに嫌味をぶつけた。
「これでも悩みはあるんだよ。やっと吹っ切れて、楽しめるようになってきたけどねぇ」
カールハインツは笑みを張り付けたまま、首筋に巻いているスカーフにそっと触れた。その下には、双子の魔狼に付けられた下僕紋がある。それは双子に従えられた証であり、自分の力を信じていたカールハインツには屈辱の印だ。
コルネリアはそこに下僕紋があることすら知らないが、浮かべている笑みが先ほどより陰りを含んだものだったため、何かを察して無言で視線を逸らした。
「さて、ない頭で色々思い悩んでるディートリヒくんには、これを飲んでもらおうかな」
話は終わったとばかりにカールハインツはディートリヒの方を向くと、懐から小瓶を取り出した。
「それは?」
「お酒。気付け用で味はあまり良くないけどねぇ。その代わり、酒精はキツイよ」
そう言いながら、瓶の蓋を開ける。
「そんな物をリーダーに飲ませたら……」
「我らの主はディートリヒの大暴れがお望みらしいからねぇ。仕方がないんだよ」
さらに深く影を含んだカールハインツの笑みに、コルネリアはそれ以上何も言えなくなった。
事情を知らないコルネリアは主を女王のことだと考えたが、今のカールハインツにはもう二匹、下僕呼ばわりしてくる主がいる。
「もうすぐ目的地に着くからね、大暴れして悩みを吹っ飛ばしてスッキリしなよ」
カールハインツは酒の瓶をディートリヒの唇に押し当てて流し込んだ。
「楽しい祭りにしようねぇ」
カールハインツは優しくささやいているのに、なぜかコルネリアは背筋に冷たいものを感じた。
第三十二話 彼方への遠吠え
その日の漁港は殺気立っていた。
ネレウス王国の王都の漁港は、獲った魚を船から降ろす場というだけではない。
作業場が併設されており、魚の仕分けから、競りと呼ばれる仲買の商人への販売までを一手に取り仕切っていた。
さらにはネレウス王国の漁業ギルドの本部も兼ねており、王国内で最も大きく、最も管理が行き届いている最先端の漁港だった。
漁師たちはその仕事の性質から気性の荒い者が多いが、王都の漁港で揉め事を起こす者はいない。
漁業ギルドのお膝元だけあって常に監視の目が光っており、少しでも騒動を起こそうとすればすぐに対処され、処罰が加えられる。
その処罰は数日の漁の禁止に始まり、重ければ漁業ギルドからの追放まで含まれている。
近郊の大きな港は全て漁業ギルドが取り仕切っているため、漁業ギルドからの追放は二度とネレウス王国内で漁ができなくなるのと同じ意味を持っていた。
どんな荒くれ者であっても、自分の仕事と引き換えにしてまで騒動を起こすことはない。だからこそ、漁港は規律の整った節度ある場所となっていた。
だが現在、その漁港が殺気立ち、一触即発の空気が漂っていた。
その原因はアダドの艦隊の襲来だ。
漁師たちは夜中に漁に出かけ、夜明けと共に漁港に帰って来る。軍経由でアダドの艦隊の襲来を告げられた時にはすでに多くの漁船が漁港に入っており、船から魚を降ろす作業が始まっていた。
いつもであれば、魚を降ろし切れば漁師たちの仕事はそこで終わりだ。
各々の地元の港に戻り、船の清掃や道具の片付けを終わらせて身体を休める。漁港で降ろされた魚は専門の職員たちによって仕分けされて売りに出されて、後日売り上げがギルドによって分配される仕組みになっていた。
そういう風に役割分担がされることで、個々の負担を減らすと同時に雇用を増やしているのだった。
しかし、アダドの艦隊が襲来してきたことで、その役割分担が大きく狂った。
仕分けや売り出しの作業を担っているのは、女性が多い。漁師をするのは男性が多いため、余りがちな女性の雇用を意図的に増やしていた。
また、ギルドとしては身元が確かな者たちを雇いたいため、ほとんどが漁師など関係者から紹介された人々だ。そのため、働いているのは妻や親族など漁師たちの身内が多かった。
漁港は当然ながら海に面しており、艦隊が襲来し戦闘になれば危険になる。
そんな場所に非戦闘員の、しかも漁業ギルドを支える大事な漁師たちの身内を集めておけるわけがなく、軍から連絡があってすぐに大多数を避難させることになった。王都まで攻め込まれるとは思っていないが、万が一の可能性は捨て切れなかったのだ。
だが、すでに漁は終わっており、幸か不幸か今日は大漁だった。
避難させたためその魚を処理するための人員が圧倒的に足りず、どこか安全な場所に移動させようにも、結局は人員不足の問題が付いて回ってくる。
だからと言って、捨てたりそのまま放置したりするわけにもいかない。生の魚は腐り易いし、氷の魔法を扱える魔術師を呼び出して保存するにも、経費が掛かり過ぎる。
魚を買うのはほとんどが庶民だ。経費を掛け過ぎて魚の値段が上がれば売れ残ってしまい、結局は廃棄する羽目になるだろう。
もし、今にも王都まで攻め込まれそうな切迫した状況なら、漁業ギルドも損得を考えるまでもなく全てを放置して逃げ出す選択をしていたかもしれない。
しかし、現状ではアダドの船が追い返される可能性の方が高い。それなのに恐れをなして大切な魚を放置したとなれば、漁業ギルドの名折れになる。見極めが必要だった。
検討に検討を重ね、その結果、ギリギリまで漁師たちと男性職員総出で対応することになった。
漁師たちなら腕っぷしに自信がある者ばかりだ。魔法を抜きにすれば軍人どころか騎士よりも強い人間もかなりいる。戦渦に巻き込まれても十分に生き残ることができるだろう。
何より、彼らは自分たちの仕事に矜持を持っている。獲って来た魚を放っておいて逃げ出すなどできるはずがなかった。
こうして、漁師たちは漁で疲れ切った身体を酷使して、仕分けなどの作業をする羽目になったのだった。
おかげで、全員が突如攻めて来たアダドの艦隊と、疲れ切っているにもかかわらず働かないといけない状況に殺気立っていたのだった。
「何とかなりそうだね」
そう呟いた女性は、ネレウスの漁業ギルドのギルドマスターだ。
女性ながら荒くれ者の漁師たちを纏めるに相応しい、力強さを持った人物だった。
ネレウスでは、要職に就いている女性が多い。
なにせ元々は海賊たちが寄り集まって作った国家だ。気概のある男は海を人生の舞台にしたがる。そういう男たちは一つ所に留まりたがらない。何かと理由を付けてフラフラと色々な場所に旅立っていくのだ。
そんな連中に要職を任せられるわけがなく、必然的に女性の比率が高くなっていた。
ギルドマスターは、広い作業場の全体を見下ろせる監視台の上にいた。
作業をしている者たちに指示を出したり、不正行為がないか見張ったりするための場所だ。作業場は仕分けから売買までを一貫して行うために、巨大な倉庫のようになっているが、高い位置に設けられた監視台に登れば一望できるようになっていた。
彼女の眺める先では、漁師たちが慣れない仕事に四苦八苦しながらも作業を進めている。
魚の仕分けはすでに終わり、後は運び出すための馬車への積み込みが残されているだけだ。それも間もなく終わるだろう。やっと終わりが見えたことで、ギルドマスターは胸を撫で下ろした。
「⁉」
不意に、視界に異物が映った。侵入者だ。
ギルドマスターは思わず息を呑む。既知であったために、一目で人物の特定ができてしまった。それは、ここにいるはずのない男だった。
「何しに来たんだい? あのバカは……」
見た目は漁師たちと大して変わらないが、纏っている雰囲気が異様だった。ギルドマスターは見つけてしまったことを後悔した。
今は非常時のため、警備員も作業場で作業をしている。それによって出来てしまった警備の穴を突いて、誰にも咎められず中に入って来てしまったのだろう。
「ありゃ、飲んでるね。厄介事の匂いがするよ」
侵入者は作業場の入り口から、ゆっくりと中へと進んで来ていた。作業に没頭している漁師たちは、まだ気付いていない。今ならまだ、誰にも気付かれずに排除できるかもしれない。急いで指示を出そうと、ギルドマスターは後ろに控えている秘書たちを振り向いた。
そこに、まるでその時を狙ったかのように、階段から続く通路を抜けて事務員の一人が飛び出してきた。
「お知らせしたいことが」
事務員は息を切らせている。よほど慌てて監視台に上がって来たのだろう。
「何だい? それよりアイツを……」
「そのことは把握しております。それについて至急の相談があります」
ギルドマスターは事務員を無視して指示を出そうとしたが、彼はその言葉を遮った。
「相談だって?」
「はい。ギルドマスターが気になさっている人物の関係者が訪れて、とあるお願いをしていかれました」
「……きな臭いね」
「お耳を拝借」
あまり他人に聞かせたくない内容なのか、事務員はギルドマスターの耳に顔を近づけると口元を手で隠して何かを告げた。
「!!? ……そうかい。あの方がね。それで内容は?」
事務員が告げた内容に、ギルドマスターの顔色が変わる。しかしそれは一瞬だけで、ギルドマスターの口元は興味深げに緩んだ。
「……そうかい。……なるほど! ……え?」
事務員が小声で何かを伝える度に、ギルドマスターの表情は変わっていく。
「それで報酬は? 半端な報酬じゃ引き受けないよ?」
「なんと! 超位が二本に、高位が三十本。そして負った傷の治療に使う分は、無制限に提供してくれるそうです!」
興奮して、耳元でささやくのも忘れて事務員は声を上げた。
「は!!? 超位⁉ 無制限!!?」
ギルドマスターも事務員に負けず劣らずの大声で叫んでしまう。目は溢れ落ちそうなほどに大きく見開かれていた。それから、我に返って周囲を見渡した。
幸い、その声は作業場まで届いていなかったのだろう。作業場の様子に変化はない。ギルドマスターは誰にも気付かれなかったことに、ホッと息を吐く。ただ、控えている秘書たちだけは、ギルドマスターにあるまじき失態に目を丸くしていた。
だが、ギルドマスターが思わず大声を出して驚くのも当然だろう。二人が言っている超位とは超位の治癒魔法薬のことだった。
それは国王であっても滅多に手に入れられず、金を積めば手に入る物ではなかった。
それを二本だ。あり得ない。
さらに高位の治癒魔法薬も、比較的入手し易いとはいえ高価な物だ。漁業ギルドの本部を兼ねているこの漁港であっても数本の備蓄がある程度で、常に不足していた。
漁師は命懸けの仕事である。魔獣のいる海で漁をするのだから、冒険者と比べても引けを取らないほど危険と隣り合わせだ。
当然、大ケガを負って運び込まれてくる人間も多く、高位の治癒魔法薬は喉から手が出るほど欲しかった。それが三十本も手に入るのだから、それだけでも十分に叫ぶ価値はある。
応援ありがとうございます!
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