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4巻
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〈小僧! 何を不安に感じる! 何も不安などないぞ! 我がいるのだからな!〉
まるで肩を抱くかのように、翼でロアの身体を包み込む。酒の臭いがして、ロアは顔をしかめた。
〈辛気臭い顔をするな! 何か楽しいこと……そうだ、先ほどは時が来たらと言ったが、今夜にでも行くか? あそこには小僧が好きそうな珍しい薬草があるからな! 小僧も元気が出ると思うぞ! 何せ『賢者の薬草園』と言われるくらいで……〉
「え?」
思わず、という風にロアが声を上げた。
〈ぬ? どうかしたか?〉
「グリおじさんって、やっぱり賢者様に縁がある人と知り合いだったんだね!」
〈ハァ⁉〉
自分の失言を悟ったのか、グリおじさんはあんぐりと口を開けて固まった。
「昔の賢者様のお弟子さん? ウサギの王はその従魔?」
〈何のことか分からぬが……〉
グリおじさんは視線をあらぬ方向に這わして必死に何かを考えているようだった。人間だったら顔色を変えて冷や汗を流しているところだろう。
「でも、グリおじさんって、姫騎士アイリーンの劇に出てくる、昔の賢者様みたいな詠唱を使ってたよね?」
姫騎士アイリーンは昔の有名人であり、現代でもよく演劇になっている人物だ。大きな劇場だけでなく、大衆演劇でも上演される。
その劇の中に、アイリーンと共に旅をしていた賢者が、歌のような詩のような不思議な詠唱を使う場面があった。
グリおじさんは、ロアの知る限り一度だけ詠唱魔法を使っていた。
アルドンの森の事件の最後に遭遇した、巨大なスライムを倒すために、最後に放った詠唱魔法がそれだ。
巨大スライムはあまりに巨大で、あまりに大量の魔力を蓄えていたためロアと双子の魔狼では倒しきれず、最後はグリおじさんの詠唱魔法で倒したのだった。
その時にグリおじさんが使った詠唱が、演劇で使われる詠唱にそっくりだったのである。
劇中でその詠唱は賢者独自の詠唱だと語られており、どんな魔法使いが真似をしてみても魔法が発動するはずがない詠唱だった。歌うような詠唱のため、最初にこの演劇が作られた時に、演劇用に演出されたものだというのが定説になっていた。
しかし、グリおじさんはそれにそっくりの詠唱を使って魔法を発動させてみせたのである。
ならば、グリおじさんが賢者に縁がある者と知り合いだとロアが勘繰るのも仕方ないだろう。
〈待て! あの時小僧は耳を塞いでたはずでは⁉〉
「え? まだ気付いてなかったの? グリおじさんの『声』は耳を塞いでも聞こえるよ?」
〈ぐっ……〉
グリおじさんの感覚では、魔獣が詠唱魔法を使うのはかなり恥ずかしいことらしく、詠唱を始める前に、ロアたちは耳を塞いで聞こえないようにしておけと言われた。
しかし、グリおじさんの『声』は本当の声とは違って、耳を塞いでも聞こえたため、ロアはその全てを聞いていたのだった。
ロアは、グリおじさんならすぐにそのことに気付くだろうと思っていたが、そうではなかったらしい。
肝心な時に抜けている憎めないグリおじさんを愛おしく感じ、ロアは微笑んだ。
ただ、微笑まれたグリおじさんはというと、ロアのそれが弱みを握った嘲笑に見えて、全身の羽毛と獣毛を恐怖で逆立てる。
〈……飲み過ぎたようだ、我は寝る!〉
ごまかすように大声を上げると、グリおじさんはまだ話したそうにしているロアを放置して、焦ったようにロアの下を離れていった。
「そんなに恥ずかしいことなのかな?」
ロアは不思議そうに首を傾げる。
何にせよ、うやむやのうちにロアの不安は吹き飛んだらしい。
ロアはいつもの調子に戻り、再び作業を始めるのだった。
その後、ロアたちが壊れた馬車を片付けた後も出発の号令はかからず、日は高くなり、深い森にも木漏れ日が差すほどの時間になっていた。
その原因は、今後をどうするかという会議にあった。
ジョエルが呼ばれたのはその会議をするためで、それが延びに延びているのだ。
騎士団長アイリーンと騎士たちは、天幕が張れないため馬車の陰に集まり、遮音の魔法を周囲にかけた状態で話し合っていた。意見が分かれ、無駄に時間だけを費やしている。
今後と言っても、議題はどうやって城塞迷宮まで行くかではない。
もっと根本的な話で、「この先に進むか」、「ここで諦めて帰るか」という話し合いだった。
普通の動物でも最弱の部類に入るウサギにやられ、ロアたち以外はまともに戦うことすらできなかったのだから、こういった話になるのは当然のことだろう。
ロアたちが撃退したことで、完全に心が折れるまでには至らなかったが、それでも先に進んで生き延びられるかを考える機会となった。
グリおじさんの言う「篩」が上手く機能したということだ。
この先に進み、城塞迷宮へ行くことを推しているのは、瑠璃唐草騎士団の女騎士たち。対して、ここで諦めて帰ることを推しているのは、ジョエルを筆頭とする三人の臨時編入された男騎士たち。
都合のいい妄想に囚われている女騎士たちに向かって、男騎士たちは現実的に生き残ることを優先させるよう進言していた。
「絶対に無理だ。無駄死にすることになる。諦めて帰るべきだ」
ジョエルが声を荒らげて放った言葉に、女騎士たちは刺すような視線を返す。
「我ら瑠璃唐草騎士団の名誉はどうなる! このままでは帰れん!」
言ったのは、瑠璃唐草騎士団で最年長の女騎士だった。
彼女はアイリーンの片腕として、騎士団を創立当時から取り仕切っている人物だった。名はイヴリンという。
瑠璃唐草騎士団の中で、本当の意味で騎士として戦える実力を持った唯一の存在と言ってもいいが、アイリーンへの忠誠心が強過ぎて目が曇っている。
アイリーンの言動を全て肯定し、それを正しいと思い込んで行動する。彼女の騎士としての力もアイリーンを守ることに割かれるため、まともな戦闘をしない。実力に反して戦場では役立たずだ。
「我らがウサギにすら手も足も出なかったことを忘れたのか? 冒険者殿が撃退してくれなければ全滅していたのだぞ! せっかく拾った命だ、引き返すべきだ!」
「それは……」
ジョエルの言葉に、イヴリンは言葉を詰まらせる。
あの襲撃では、アイリーンがいる馬車を守るだけで必死だった。もう一人、魔法使いとしての才能が高い者と組んで、二人がかりで守っていたというのにボロボロにされたのだ。
「……冒険者とグリフォンがいるではないか! あれらがいれば問題ないだろう!」
言葉に詰まりながらもイヴリンが導き出した答えが、これだった。
「他人に頼り切って何が名誉だ!」
即座にジョエルの罵倒が飛んだ。
女騎士たちの鎧は無残にも歪んで傷つき、所々部品が欠けている状態だ。ウサギたちに執拗に攻撃された結果だ。光をやたらと反射する派手な鎧が、ウサギたちを刺激してしまったのだろう。
すでに治癒魔法薬で治っているが、ウサギの襲撃直後は、彼女たちの身体にも擦り傷と切り傷が付き、酷い状態だった。
それでも彼女たちが城塞迷宮行きを頑強に主張するのには理由があった。
もう、後がないからだ。
この城塞迷宮の調査を失敗すれば、瑠璃唐草騎士団は解散。そして、再編の可能性も潰すために騎士としての地位も剥奪されて一介の兵士にされてしまう。
そういう約束になっていた。
女騎士たちのほとんどは貴族の娘であり、そうなったら軍を辞めて親元に帰され、落ちこぼれとして扱われることになるだろう。上級貴族の使用人として働きに出される可能性もある。
今までの、式典の警護などで貴族たちから持て囃されていた、きらびやかな世界からいきなり底辺に落とされるのだ。
それを彼女たちは恐れていた。
今までは、調査が成功すれば名誉を得られるというアイリーンの言葉を信じ、輝かしい未来ばかりに目が行き、そういった負の要素を現実のものとしてまったく受け止めてこなかった。
これは彼女たちが、無駄に前向きで、自分たちの実力を理解していない者ばかりだったことだけが原因ではない。彼女たちを上手く始末できるように、アマダン伯爵が甘い言葉を駆使して丸めこんだ所為だ。言葉巧みに、良い方向にだけ考えるように誘導された。
しかしウサギたちに翻弄され、ボロボロにされてやっと自分たちの実力のなさを思い知った。現実を見てしまった。
曇っていた目が晴れ、失敗する未来が見えてしまったために、今度は調査の失敗を恐れるようになってしまったのである。
それが尚更、無謀な行動へと掻きたてる。
「ここから先へ行けば死ぬんだぞ? それでも良いのか?」
脅してでも無謀な行動を止めようと、ジョエルは女騎士全員を視線で制しながら言った。
「覚悟の上だ! 今までも何度か危険な状態にはなったことがある。それでも何とかなってきたのだ、今回も……」
「今までも貴殿たちの無謀な行動の所為で、どれだけの犠牲が出ていたか分かっているのか!」
覚悟の上と言いながら、甘い考えが透けて見えるイヴリンの言葉を、ジョエルは怒鳴りつけた。
「……戦いの場で犠牲が出るのは当たり前でしょう⁉ 騎士も兵士も戦うのが仕事なのですから!」
苛立ちを含んだ声でそう発言したのは、アイリーンだった。
彼女は今まで押し黙り、周りの意見を聞いていただけだった。
いや、何も言えなくなっていたと言った方が正しい。ジョエルの意見が正しいと理解しているにもかかわらず、後に引けない状況に言うべき言葉が見つからなかったのだ。
「……それは確かにそうです。しかし、それは守るもののためだ。無駄死には許されない!」
国や、そこに住む人々を守るための戦いであれば、ジョエルは臆したりはしない。
しかし今回はあくまで調査であり、失敗したからと言って、国民が死んだり損害が出たりするわけではないのだ。最悪でも、自分たちが職を失う程度だ。
だが、死ねば無駄死にでしかない。
「わたくしたちは名誉を……」
「命を失えばそれまでです。勝手に死んだ役立たずと罵られ、恥辱を雪ぐ機会さえ失うのですよ?」
「……」
「それに貴方たちはウサギに……小動物に襲われても、兵たちに指示を出すことすらできなかったではないですか。団長殿に至っては、襲撃中は怯えて馬車の外に出られなかったのですよ? そんな体たらくで守れるような安い名誉なのですか!」
そう言ってから、自分の言った内容に気付いて、ジョエルは自身の顔を引き攣らせた。
またやってしまった。説得のつもりだったのに言い過ぎた。
言ったことは間違っていないが、今のは間違いなく余計な一言だった。また、やってしまった。
ジョエルは後悔しながらも、どうやって挽回するかを必死で考える。
彼が死地へと向かう城塞迷宮調査団に追いやられたのは、この一言多い癖が原因だった。
騎士として平均以上の能力と強い忠誠心を持っているものの、余計なことを言ってしまい、上司どころか騎士団の上層部にさえ煙たがられてしまったのだ。
たとえ正論であっても、言うべき場を間違うとそれは暴言になる。ましてや、騎士団長が怯えて馬車から出てこなかったなどと言えば、侮辱でしかない。
「うるさい‼」
アイリーンが叫んだ。
ジョエルを睨み付ける彼女の目には、涙が溜まっている。
「うるさい! うるさい! この調査団は戻ることは許されないのよ! 先に進むしかないの! これは決定よ! 引き返すと言うのなら、脱走兵として扱うわ! 脱走兵は死罪よ!」
「ですが!」
「うるさい! 大丈夫よ! わたくしはアイリーンよ! アイリーンなのだわ。何かあればグリフォンが救ってくれます!」
アイリーンは自らを、グリフォンを従えた伝説の姫騎士アイリーンに重ね合わせるように、そして自身に言い聞かせるように言い切った。
この調査団の団長は、たとえ役に立たなくてもアイリーンだ。行動の決定権はアイリーンにある。
その彼女が言い切ってしまったのだから、逆らうことは許されない。逆らえば、彼女の言葉通り脱走兵として扱われ、帰還後に報告されれば犯罪者として扱われる。
こうして、今後の行動が決定されてしまった。
それも、冒険者とその従魔に調査団の命運を預ける形で、だ。
しかし、彼女たちは忘れている。いや、その事実に気付いてすらいないのかもしれない。
彼女が頼ろうとしているグリフォンが、ウサギの襲撃の時に、主人である冒険者のことすら守ろうとせずに、呑気に寝そべって眺めていたことを。
ロアたちと調査団が森を抜けるために動き出そうとしていた頃。
小さな砦の前に、冒険者パーティー『望郷』のメンバーはいた。
この砦は、ロアのいるペルデュ王国と北方連合国との国境近くにある、北方連合国側の砦である。城塞迷宮周辺の中立地域からも半日足らずの距離にあり、ペルデュ王国と城塞迷宮の両方を監視する砦となっていた。
北方連合国はその名の通り、北方の小国が大国と対等の力を持つために連合した国家だ。
大陸の東方にあるペルデュ王国とは、高い山脈と城塞迷宮を中心としたグリフォンの縄張りでほとんど隔てられている。
その中でわずかに残された、人が行き来できる平地に、この監視砦はあった。
小さな砦だが、名目上はペルデュ王国との国交の重要拠点として扱われている。
望郷のメンバーがここへ来たのは、城塞迷宮周辺に入るにはここに来るしかなかったからだ。
城塞迷宮周辺は、各国が協力して管理している中立地域である。
しかし、望郷の母国であるネレウス王国は面している部分がないため、許可があっても、指定された他国の拠点から入るしかないのだった。
望郷がロアたちと別行動だったのは、ここに立ち寄る必要があったからだった。
「貴方たちがネレウス王国から依頼を受けた冒険者ですね?」
「そうだ。ネレウス王国の冒険者パーティー『望郷』だ。よろしく頼む」
望郷のリーダー・ディートリヒは握手するために手を差し出したが、それはあっさりと無視された。
彼が向かい合っているのは、北方連合国の役人だ。後ろに二人、護衛を従えている。
向こうは自己紹介をする気がないらしく、名前どころか身分も言わない。ただ、服装などから、それなりに高い地位にいる人間に見えた。痩せこけて不健康そうな見た目から、文官だろう。
「城塞迷宮に行けるほどの実力があるようには見えませんが、死にに行くつもりですか?」
「む……」
ディートリヒは眉根を寄せるが、さすがにここまで露骨だと怒りを煽られているのは分かるので我慢する。
今のディートリヒは人見知りが発動しており、自分本来の直情的な性格を見破られないように、真面目で冷静な性格を演じている。いつもよりは感情を抑えることができた。
「顔に痣など作って、実力が知れますよね」
「……」
顔の痣は、道中でクリストフとケンカした時に殴られたものだ。この旅の準備のほとんどをクリストフに押し付け、ダメ押しにズボンの穴の繕いを頼んだ所為で起こったケンカだった。
実にくだらないケンカだが、被害は下手な魔獣との戦闘より大きい。
赤く腫れていたのが、腫れが引いて青痣として残ってしまった。
ほとんど消えているものの、それでも目立つのは間違いない。治癒魔法薬で簡単に治せるが、行動に支障がないのと、薬が勿体ないという理由から使っていない。
「それになんですか、その変な模様のズボンは。冒険者は傾いて派手な格好をする者が多いですが、それは年甲斐もなく可愛過ぎるのではないですか?」
ズボンの模様と言うのは、双子の魔狼の足跡のことだ。双子の足跡の形に開いた穴に、布地の裏から真っ赤な布を当てて縫ってあるため、そういう模様のズボンに見える。
真っ赤な足跡模様の付いたズボンは、ディートリヒの外見にはいささか可愛らし過ぎた。
「……これは、こいつが勝手にやった」
ディートリヒは真顔で、後ろに控えていたクリストフを指差す。
すると、男はわずかに目を細めた。
「なるほど、チャラけた感じの者がいると思いましたが、乙女心に満ちた方でしたか」
「なっ!」
「そんなことはどうでもいいだろう。本国から許可証が届いているはずだ。早く城塞迷宮に入る許可を出して欲しい」
男の言葉にクリストフは思わず声を上げたが、まるで興味がないといったようにディートリヒは話を続けた。
「そうですね。私も忙しい身です。つまらない業務に時間を取られたくありません。手早く済ませましょうか」
「頼む」
「では。北方連合国はネレウス王国の要請により、貴方たち望郷が城塞迷宮を中心とした中立地域へ立ち入ることを許可します。これはあくまでネレウス王国の要請によるものであり、北方連合国は一切の責任を負いません。よろしいですね?」
「もちろんだ」
「では、ご自由に。どこへでも行ってください」
「分かった」
許可自体はあっさりとしたものだった。
もっとも、北方連合国には、事前に書類で望郷のメンバーの身元を知らせており、ここで手間がかかるようでは問題である。
「失礼する」
「御武運を」
とても武運を祈っているとは思えない冷めた表情の男を一瞥してから、望郷のメンバーはその場を離れた。
望郷が馬車に乗り込み、城塞迷宮に向かう街道を進む姿を見送りながら、男は今までの冷たい表情が嘘だったかのように頬を緩めた。
「……あれが王子なのですか?」
男の後ろにいた護衛の一人が尋ねる。
「一応ね。王子に、宮廷魔術師に、騎士が二人とは豪華な冒険者パーティーですね。まったくそうとは見えませんけど」
男は護衛の言葉に答えたが、その視線は離れていく望郷の馬車を追っていた。
「……何か目的があって偽りを伝えられたのでしょうか?」
「いえ、他国に提出する公文書にわざわざ嘘を書くような真似はしないでしょう。むしろ冒険者として隠れて活動していた者たちが、今回の件で仕方なく本当の身分を晒したと考える方が自然ですね」
「なるほど」
城塞迷宮を中心とした中立地域への立ち入りは、国同士の協定によって監視されており、嘘が発覚した時のリスクが大き過ぎる。それに、無意味だ。
「よんどころない事情があって、高い地位にいる彼らを捨て駒にしたんでしょうね」
「王子を捨て駒ですか?」
城塞迷宮は、並の冒険者や騎士では生きて帰って来られない場所だ。
そこに派遣されるのだから、捨て駒という表現は間違っていない。
「あの国は女王からして頭がおかしいですからね。元々は海賊たちが無理やり建てた国です。王族の血に尊さはないんですよ。そもそも女王は未婚ですから、王子と言っても養子らしいですしね。海賊船の船長が、目的のために養子の一人を切り捨てたようなものだと考えれば、まあ、普通の出来事ですね」
男が他国を海賊呼ばわりしたことに、護衛たちは納得いかないような表情を浮かべたが、それ以上に疑問の言葉を続けることはなかった。
もちろん、望郷の城塞迷宮行きは彼ら――中でもディートリヒの独断であり、ネレウス王国に指示されたものではない。
「さて、国に帰りましょうか」
「「はい!」」
「面白そうだったので見物のつもりで来ましたが、たいしたことはなかったですね。あの国の人間にしては比較的まともそうな人たちでしたし」
そう言うと、男もまた、その場を立ち去るのだった。
「何だよ、あいつ。いけすかねぇ」
馬車がその場を離れてすぐに、ディートリヒは声を荒らげた。自分と仲間をバカにされたのだから、この怒りは正当なものだ。
御者はコルネリアがやっており、ベルンハルトも御者台に座って周囲の警戒をしていた。
城塞迷宮の周辺に入ったばかりでまだ魔獣の影はないが、それでもすでに魔獣の領域なのだから警戒する必要がある。
そういうわけで、馬車の中はディートリヒとクリストフだけだった。
「八の国の国王。連合国の地位としては、公爵の爵位を持ってるお貴族様だよ」
「はぁ? 何でそんな大物が?」
クリストフがあっさりと先ほどの男の正体を告げたことで、ディートリヒは驚きの声を上げた。
北方連合国に参加している国は、各国を平等に統治するという建前の下に、本来の名前とは別に、割り振られた番号を持っている。公式にはそちらの名前で呼ばれることが多い。
この番号は建国された順番に振られており、国力とはまったく関係なかった。
八の国というのは、わりと新しい国だろう。
まるで肩を抱くかのように、翼でロアの身体を包み込む。酒の臭いがして、ロアは顔をしかめた。
〈辛気臭い顔をするな! 何か楽しいこと……そうだ、先ほどは時が来たらと言ったが、今夜にでも行くか? あそこには小僧が好きそうな珍しい薬草があるからな! 小僧も元気が出ると思うぞ! 何せ『賢者の薬草園』と言われるくらいで……〉
「え?」
思わず、という風にロアが声を上げた。
〈ぬ? どうかしたか?〉
「グリおじさんって、やっぱり賢者様に縁がある人と知り合いだったんだね!」
〈ハァ⁉〉
自分の失言を悟ったのか、グリおじさんはあんぐりと口を開けて固まった。
「昔の賢者様のお弟子さん? ウサギの王はその従魔?」
〈何のことか分からぬが……〉
グリおじさんは視線をあらぬ方向に這わして必死に何かを考えているようだった。人間だったら顔色を変えて冷や汗を流しているところだろう。
「でも、グリおじさんって、姫騎士アイリーンの劇に出てくる、昔の賢者様みたいな詠唱を使ってたよね?」
姫騎士アイリーンは昔の有名人であり、現代でもよく演劇になっている人物だ。大きな劇場だけでなく、大衆演劇でも上演される。
その劇の中に、アイリーンと共に旅をしていた賢者が、歌のような詩のような不思議な詠唱を使う場面があった。
グリおじさんは、ロアの知る限り一度だけ詠唱魔法を使っていた。
アルドンの森の事件の最後に遭遇した、巨大なスライムを倒すために、最後に放った詠唱魔法がそれだ。
巨大スライムはあまりに巨大で、あまりに大量の魔力を蓄えていたためロアと双子の魔狼では倒しきれず、最後はグリおじさんの詠唱魔法で倒したのだった。
その時にグリおじさんが使った詠唱が、演劇で使われる詠唱にそっくりだったのである。
劇中でその詠唱は賢者独自の詠唱だと語られており、どんな魔法使いが真似をしてみても魔法が発動するはずがない詠唱だった。歌うような詠唱のため、最初にこの演劇が作られた時に、演劇用に演出されたものだというのが定説になっていた。
しかし、グリおじさんはそれにそっくりの詠唱を使って魔法を発動させてみせたのである。
ならば、グリおじさんが賢者に縁がある者と知り合いだとロアが勘繰るのも仕方ないだろう。
〈待て! あの時小僧は耳を塞いでたはずでは⁉〉
「え? まだ気付いてなかったの? グリおじさんの『声』は耳を塞いでも聞こえるよ?」
〈ぐっ……〉
グリおじさんの感覚では、魔獣が詠唱魔法を使うのはかなり恥ずかしいことらしく、詠唱を始める前に、ロアたちは耳を塞いで聞こえないようにしておけと言われた。
しかし、グリおじさんの『声』は本当の声とは違って、耳を塞いでも聞こえたため、ロアはその全てを聞いていたのだった。
ロアは、グリおじさんならすぐにそのことに気付くだろうと思っていたが、そうではなかったらしい。
肝心な時に抜けている憎めないグリおじさんを愛おしく感じ、ロアは微笑んだ。
ただ、微笑まれたグリおじさんはというと、ロアのそれが弱みを握った嘲笑に見えて、全身の羽毛と獣毛を恐怖で逆立てる。
〈……飲み過ぎたようだ、我は寝る!〉
ごまかすように大声を上げると、グリおじさんはまだ話したそうにしているロアを放置して、焦ったようにロアの下を離れていった。
「そんなに恥ずかしいことなのかな?」
ロアは不思議そうに首を傾げる。
何にせよ、うやむやのうちにロアの不安は吹き飛んだらしい。
ロアはいつもの調子に戻り、再び作業を始めるのだった。
その後、ロアたちが壊れた馬車を片付けた後も出発の号令はかからず、日は高くなり、深い森にも木漏れ日が差すほどの時間になっていた。
その原因は、今後をどうするかという会議にあった。
ジョエルが呼ばれたのはその会議をするためで、それが延びに延びているのだ。
騎士団長アイリーンと騎士たちは、天幕が張れないため馬車の陰に集まり、遮音の魔法を周囲にかけた状態で話し合っていた。意見が分かれ、無駄に時間だけを費やしている。
今後と言っても、議題はどうやって城塞迷宮まで行くかではない。
もっと根本的な話で、「この先に進むか」、「ここで諦めて帰るか」という話し合いだった。
普通の動物でも最弱の部類に入るウサギにやられ、ロアたち以外はまともに戦うことすらできなかったのだから、こういった話になるのは当然のことだろう。
ロアたちが撃退したことで、完全に心が折れるまでには至らなかったが、それでも先に進んで生き延びられるかを考える機会となった。
グリおじさんの言う「篩」が上手く機能したということだ。
この先に進み、城塞迷宮へ行くことを推しているのは、瑠璃唐草騎士団の女騎士たち。対して、ここで諦めて帰ることを推しているのは、ジョエルを筆頭とする三人の臨時編入された男騎士たち。
都合のいい妄想に囚われている女騎士たちに向かって、男騎士たちは現実的に生き残ることを優先させるよう進言していた。
「絶対に無理だ。無駄死にすることになる。諦めて帰るべきだ」
ジョエルが声を荒らげて放った言葉に、女騎士たちは刺すような視線を返す。
「我ら瑠璃唐草騎士団の名誉はどうなる! このままでは帰れん!」
言ったのは、瑠璃唐草騎士団で最年長の女騎士だった。
彼女はアイリーンの片腕として、騎士団を創立当時から取り仕切っている人物だった。名はイヴリンという。
瑠璃唐草騎士団の中で、本当の意味で騎士として戦える実力を持った唯一の存在と言ってもいいが、アイリーンへの忠誠心が強過ぎて目が曇っている。
アイリーンの言動を全て肯定し、それを正しいと思い込んで行動する。彼女の騎士としての力もアイリーンを守ることに割かれるため、まともな戦闘をしない。実力に反して戦場では役立たずだ。
「我らがウサギにすら手も足も出なかったことを忘れたのか? 冒険者殿が撃退してくれなければ全滅していたのだぞ! せっかく拾った命だ、引き返すべきだ!」
「それは……」
ジョエルの言葉に、イヴリンは言葉を詰まらせる。
あの襲撃では、アイリーンがいる馬車を守るだけで必死だった。もう一人、魔法使いとしての才能が高い者と組んで、二人がかりで守っていたというのにボロボロにされたのだ。
「……冒険者とグリフォンがいるではないか! あれらがいれば問題ないだろう!」
言葉に詰まりながらもイヴリンが導き出した答えが、これだった。
「他人に頼り切って何が名誉だ!」
即座にジョエルの罵倒が飛んだ。
女騎士たちの鎧は無残にも歪んで傷つき、所々部品が欠けている状態だ。ウサギたちに執拗に攻撃された結果だ。光をやたらと反射する派手な鎧が、ウサギたちを刺激してしまったのだろう。
すでに治癒魔法薬で治っているが、ウサギの襲撃直後は、彼女たちの身体にも擦り傷と切り傷が付き、酷い状態だった。
それでも彼女たちが城塞迷宮行きを頑強に主張するのには理由があった。
もう、後がないからだ。
この城塞迷宮の調査を失敗すれば、瑠璃唐草騎士団は解散。そして、再編の可能性も潰すために騎士としての地位も剥奪されて一介の兵士にされてしまう。
そういう約束になっていた。
女騎士たちのほとんどは貴族の娘であり、そうなったら軍を辞めて親元に帰され、落ちこぼれとして扱われることになるだろう。上級貴族の使用人として働きに出される可能性もある。
今までの、式典の警護などで貴族たちから持て囃されていた、きらびやかな世界からいきなり底辺に落とされるのだ。
それを彼女たちは恐れていた。
今までは、調査が成功すれば名誉を得られるというアイリーンの言葉を信じ、輝かしい未来ばかりに目が行き、そういった負の要素を現実のものとしてまったく受け止めてこなかった。
これは彼女たちが、無駄に前向きで、自分たちの実力を理解していない者ばかりだったことだけが原因ではない。彼女たちを上手く始末できるように、アマダン伯爵が甘い言葉を駆使して丸めこんだ所為だ。言葉巧みに、良い方向にだけ考えるように誘導された。
しかしウサギたちに翻弄され、ボロボロにされてやっと自分たちの実力のなさを思い知った。現実を見てしまった。
曇っていた目が晴れ、失敗する未来が見えてしまったために、今度は調査の失敗を恐れるようになってしまったのである。
それが尚更、無謀な行動へと掻きたてる。
「ここから先へ行けば死ぬんだぞ? それでも良いのか?」
脅してでも無謀な行動を止めようと、ジョエルは女騎士全員を視線で制しながら言った。
「覚悟の上だ! 今までも何度か危険な状態にはなったことがある。それでも何とかなってきたのだ、今回も……」
「今までも貴殿たちの無謀な行動の所為で、どれだけの犠牲が出ていたか分かっているのか!」
覚悟の上と言いながら、甘い考えが透けて見えるイヴリンの言葉を、ジョエルは怒鳴りつけた。
「……戦いの場で犠牲が出るのは当たり前でしょう⁉ 騎士も兵士も戦うのが仕事なのですから!」
苛立ちを含んだ声でそう発言したのは、アイリーンだった。
彼女は今まで押し黙り、周りの意見を聞いていただけだった。
いや、何も言えなくなっていたと言った方が正しい。ジョエルの意見が正しいと理解しているにもかかわらず、後に引けない状況に言うべき言葉が見つからなかったのだ。
「……それは確かにそうです。しかし、それは守るもののためだ。無駄死には許されない!」
国や、そこに住む人々を守るための戦いであれば、ジョエルは臆したりはしない。
しかし今回はあくまで調査であり、失敗したからと言って、国民が死んだり損害が出たりするわけではないのだ。最悪でも、自分たちが職を失う程度だ。
だが、死ねば無駄死にでしかない。
「わたくしたちは名誉を……」
「命を失えばそれまでです。勝手に死んだ役立たずと罵られ、恥辱を雪ぐ機会さえ失うのですよ?」
「……」
「それに貴方たちはウサギに……小動物に襲われても、兵たちに指示を出すことすらできなかったではないですか。団長殿に至っては、襲撃中は怯えて馬車の外に出られなかったのですよ? そんな体たらくで守れるような安い名誉なのですか!」
そう言ってから、自分の言った内容に気付いて、ジョエルは自身の顔を引き攣らせた。
またやってしまった。説得のつもりだったのに言い過ぎた。
言ったことは間違っていないが、今のは間違いなく余計な一言だった。また、やってしまった。
ジョエルは後悔しながらも、どうやって挽回するかを必死で考える。
彼が死地へと向かう城塞迷宮調査団に追いやられたのは、この一言多い癖が原因だった。
騎士として平均以上の能力と強い忠誠心を持っているものの、余計なことを言ってしまい、上司どころか騎士団の上層部にさえ煙たがられてしまったのだ。
たとえ正論であっても、言うべき場を間違うとそれは暴言になる。ましてや、騎士団長が怯えて馬車から出てこなかったなどと言えば、侮辱でしかない。
「うるさい‼」
アイリーンが叫んだ。
ジョエルを睨み付ける彼女の目には、涙が溜まっている。
「うるさい! うるさい! この調査団は戻ることは許されないのよ! 先に進むしかないの! これは決定よ! 引き返すと言うのなら、脱走兵として扱うわ! 脱走兵は死罪よ!」
「ですが!」
「うるさい! 大丈夫よ! わたくしはアイリーンよ! アイリーンなのだわ。何かあればグリフォンが救ってくれます!」
アイリーンは自らを、グリフォンを従えた伝説の姫騎士アイリーンに重ね合わせるように、そして自身に言い聞かせるように言い切った。
この調査団の団長は、たとえ役に立たなくてもアイリーンだ。行動の決定権はアイリーンにある。
その彼女が言い切ってしまったのだから、逆らうことは許されない。逆らえば、彼女の言葉通り脱走兵として扱われ、帰還後に報告されれば犯罪者として扱われる。
こうして、今後の行動が決定されてしまった。
それも、冒険者とその従魔に調査団の命運を預ける形で、だ。
しかし、彼女たちは忘れている。いや、その事実に気付いてすらいないのかもしれない。
彼女が頼ろうとしているグリフォンが、ウサギの襲撃の時に、主人である冒険者のことすら守ろうとせずに、呑気に寝そべって眺めていたことを。
ロアたちと調査団が森を抜けるために動き出そうとしていた頃。
小さな砦の前に、冒険者パーティー『望郷』のメンバーはいた。
この砦は、ロアのいるペルデュ王国と北方連合国との国境近くにある、北方連合国側の砦である。城塞迷宮周辺の中立地域からも半日足らずの距離にあり、ペルデュ王国と城塞迷宮の両方を監視する砦となっていた。
北方連合国はその名の通り、北方の小国が大国と対等の力を持つために連合した国家だ。
大陸の東方にあるペルデュ王国とは、高い山脈と城塞迷宮を中心としたグリフォンの縄張りでほとんど隔てられている。
その中でわずかに残された、人が行き来できる平地に、この監視砦はあった。
小さな砦だが、名目上はペルデュ王国との国交の重要拠点として扱われている。
望郷のメンバーがここへ来たのは、城塞迷宮周辺に入るにはここに来るしかなかったからだ。
城塞迷宮周辺は、各国が協力して管理している中立地域である。
しかし、望郷の母国であるネレウス王国は面している部分がないため、許可があっても、指定された他国の拠点から入るしかないのだった。
望郷がロアたちと別行動だったのは、ここに立ち寄る必要があったからだった。
「貴方たちがネレウス王国から依頼を受けた冒険者ですね?」
「そうだ。ネレウス王国の冒険者パーティー『望郷』だ。よろしく頼む」
望郷のリーダー・ディートリヒは握手するために手を差し出したが、それはあっさりと無視された。
彼が向かい合っているのは、北方連合国の役人だ。後ろに二人、護衛を従えている。
向こうは自己紹介をする気がないらしく、名前どころか身分も言わない。ただ、服装などから、それなりに高い地位にいる人間に見えた。痩せこけて不健康そうな見た目から、文官だろう。
「城塞迷宮に行けるほどの実力があるようには見えませんが、死にに行くつもりですか?」
「む……」
ディートリヒは眉根を寄せるが、さすがにここまで露骨だと怒りを煽られているのは分かるので我慢する。
今のディートリヒは人見知りが発動しており、自分本来の直情的な性格を見破られないように、真面目で冷静な性格を演じている。いつもよりは感情を抑えることができた。
「顔に痣など作って、実力が知れますよね」
「……」
顔の痣は、道中でクリストフとケンカした時に殴られたものだ。この旅の準備のほとんどをクリストフに押し付け、ダメ押しにズボンの穴の繕いを頼んだ所為で起こったケンカだった。
実にくだらないケンカだが、被害は下手な魔獣との戦闘より大きい。
赤く腫れていたのが、腫れが引いて青痣として残ってしまった。
ほとんど消えているものの、それでも目立つのは間違いない。治癒魔法薬で簡単に治せるが、行動に支障がないのと、薬が勿体ないという理由から使っていない。
「それになんですか、その変な模様のズボンは。冒険者は傾いて派手な格好をする者が多いですが、それは年甲斐もなく可愛過ぎるのではないですか?」
ズボンの模様と言うのは、双子の魔狼の足跡のことだ。双子の足跡の形に開いた穴に、布地の裏から真っ赤な布を当てて縫ってあるため、そういう模様のズボンに見える。
真っ赤な足跡模様の付いたズボンは、ディートリヒの外見にはいささか可愛らし過ぎた。
「……これは、こいつが勝手にやった」
ディートリヒは真顔で、後ろに控えていたクリストフを指差す。
すると、男はわずかに目を細めた。
「なるほど、チャラけた感じの者がいると思いましたが、乙女心に満ちた方でしたか」
「なっ!」
「そんなことはどうでもいいだろう。本国から許可証が届いているはずだ。早く城塞迷宮に入る許可を出して欲しい」
男の言葉にクリストフは思わず声を上げたが、まるで興味がないといったようにディートリヒは話を続けた。
「そうですね。私も忙しい身です。つまらない業務に時間を取られたくありません。手早く済ませましょうか」
「頼む」
「では。北方連合国はネレウス王国の要請により、貴方たち望郷が城塞迷宮を中心とした中立地域へ立ち入ることを許可します。これはあくまでネレウス王国の要請によるものであり、北方連合国は一切の責任を負いません。よろしいですね?」
「もちろんだ」
「では、ご自由に。どこへでも行ってください」
「分かった」
許可自体はあっさりとしたものだった。
もっとも、北方連合国には、事前に書類で望郷のメンバーの身元を知らせており、ここで手間がかかるようでは問題である。
「失礼する」
「御武運を」
とても武運を祈っているとは思えない冷めた表情の男を一瞥してから、望郷のメンバーはその場を離れた。
望郷が馬車に乗り込み、城塞迷宮に向かう街道を進む姿を見送りながら、男は今までの冷たい表情が嘘だったかのように頬を緩めた。
「……あれが王子なのですか?」
男の後ろにいた護衛の一人が尋ねる。
「一応ね。王子に、宮廷魔術師に、騎士が二人とは豪華な冒険者パーティーですね。まったくそうとは見えませんけど」
男は護衛の言葉に答えたが、その視線は離れていく望郷の馬車を追っていた。
「……何か目的があって偽りを伝えられたのでしょうか?」
「いえ、他国に提出する公文書にわざわざ嘘を書くような真似はしないでしょう。むしろ冒険者として隠れて活動していた者たちが、今回の件で仕方なく本当の身分を晒したと考える方が自然ですね」
「なるほど」
城塞迷宮を中心とした中立地域への立ち入りは、国同士の協定によって監視されており、嘘が発覚した時のリスクが大き過ぎる。それに、無意味だ。
「よんどころない事情があって、高い地位にいる彼らを捨て駒にしたんでしょうね」
「王子を捨て駒ですか?」
城塞迷宮は、並の冒険者や騎士では生きて帰って来られない場所だ。
そこに派遣されるのだから、捨て駒という表現は間違っていない。
「あの国は女王からして頭がおかしいですからね。元々は海賊たちが無理やり建てた国です。王族の血に尊さはないんですよ。そもそも女王は未婚ですから、王子と言っても養子らしいですしね。海賊船の船長が、目的のために養子の一人を切り捨てたようなものだと考えれば、まあ、普通の出来事ですね」
男が他国を海賊呼ばわりしたことに、護衛たちは納得いかないような表情を浮かべたが、それ以上に疑問の言葉を続けることはなかった。
もちろん、望郷の城塞迷宮行きは彼ら――中でもディートリヒの独断であり、ネレウス王国に指示されたものではない。
「さて、国に帰りましょうか」
「「はい!」」
「面白そうだったので見物のつもりで来ましたが、たいしたことはなかったですね。あの国の人間にしては比較的まともそうな人たちでしたし」
そう言うと、男もまた、その場を立ち去るのだった。
「何だよ、あいつ。いけすかねぇ」
馬車がその場を離れてすぐに、ディートリヒは声を荒らげた。自分と仲間をバカにされたのだから、この怒りは正当なものだ。
御者はコルネリアがやっており、ベルンハルトも御者台に座って周囲の警戒をしていた。
城塞迷宮の周辺に入ったばかりでまだ魔獣の影はないが、それでもすでに魔獣の領域なのだから警戒する必要がある。
そういうわけで、馬車の中はディートリヒとクリストフだけだった。
「八の国の国王。連合国の地位としては、公爵の爵位を持ってるお貴族様だよ」
「はぁ? 何でそんな大物が?」
クリストフがあっさりと先ほどの男の正体を告げたことで、ディートリヒは驚きの声を上げた。
北方連合国に参加している国は、各国を平等に統治するという建前の下に、本来の名前とは別に、割り振られた番号を持っている。公式にはそちらの名前で呼ばれることが多い。
この番号は建国された順番に振られており、国力とはまったく関係なかった。
八の国というのは、わりと新しい国だろう。
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