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3巻

3-3

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 コルネリアとの模擬戦闘……と言っても、コルネリアは素手で避けて軽く手刀を振るうくらいだったが……を終わらせ、ロアは荒く息を吐きながら地面に座り込む。
 同じように身体を動かしていたはずのコルネリアは息も上がっておらず、汗すらかいていないようだった。同じ冒険者であっても、万能職のロアと高ランク冒険者のコルネリアでは体力に大きな差があった。
 ロアとて、環境の厳しい魔獣の森で自由に活動できるほどの体力はある。一般人に比べればかなり体力のある方だ。模擬戦闘とはいえ、数十分も体力、集中力を酷使する運動を続けられたのがその証拠だろう。
 ロア自身は自分が弱過ぎると思い込んでいるが、実際は彼の知る高ランク冒険者たちがバケモノじみた体力の持ち主だというだけだった。

「みなさん、おはようございます。精が出ますね」

 不意に声がかかった。ロアがそちらを見ると、訓練場の入り口にコラルドが立っていた。

〈商人、訓練の邪魔をするな。大事なところだ〉

 コラルドが訓練場に入る前から気が付いていたであろうグリおじさんが声をかける。言葉は荒いが、その声の響きに嫌な感じはない。ふざけている雰囲気すらある。
 ただ、それを見抜いているのはロアと双子の魔狼、そして他人の感情を見抜くのにけたコラルドだけだ。

「「「おはようございます!」」」
「おはよう、ございます……」
「……」

 ディートリヒ、コルネリア、クリストフは声を合わせて挨拶をし、一拍遅れて息切れ混じりに座り込んだままのロアが声を上げた。ベルンハルトは軽く頭を下げただけだ。双子の魔狼は足を振っていた。
 誰もグリおじさんの言葉に反応しないが、これはコラルドの後ろに一人の男が付き従っていたためだった。
 グリおじさんの『声』のことはコラルド商会でも秘密にされている。
 極一部……コラルドが家族のように信用している一部の人間だけが知っているが、その者たちも『契約の魔法』によって、他者に漏らさないようにしっかりと約束をさせられていた。
 そのため、それ以外の人間がいる場所では不審に思われないように、聞こえる者たちは聞こえていないフリをすることにしていた。グリおじさんもそのことは理解していて、全員に無視されたからといって怒るような真似はしない。
 グリおじさんの話では、従魔契約で結ばれた者同士であれば、いずれは口に出さなくても心で考えるだけで会話できたり、遠距離でも言葉を交わせるようになったりするらしい。しかし、今のロアにはそのきざしすらなかった。

「ロアさん。申し訳ないのですが、急な仕事が入りまして、予定を早めてよろしいでしょうか?」
「あ、はい……大丈夫です」

 ロアは大きく深呼吸し、息を整えると立ち上がる。

〈む? 訓練中だぞ?〉

 不満げにグリおじさんが近づいてくるが、ロアが首元を軽く撫でるとそれだけで表情を緩め、もっと撫でろとばかりにロアに身体を寄せた。

「帰ってから続きをやるから。ごめんね」
〈……訓練が終わったらブラッシングだ。それで許してやる〉
「はいはい」

 他の者に聞こえないように小声で話すと、もうひと撫でだけする。そして、ロアはコラルドの方へと向かった。
 それから、ロアとコラルドはもう一人の男と共に、ロアの家へと移動した。
 客間がないため、彼らは調理場のテーブルの席に着いた。ロアはとりあえずとばかりに、見事な手際でお茶をれる。

「ほう。これは良い香りですねぇ。何ですかな?」
薔薇ばらの実のお茶です。酸味が強いので蜂蜜はちみつを入れて飲んでくださいね」
「ほう!」

 コラルドが嬉しそうにカップを手に取る。ロアは新しい物が好きなコラルドのために、あえて新しく作った物の中で、味と香りが良かったものを出したのだった。
 ロアは以前から、気が向くと様々な植物で薬草茶ハーブティーを作っていた。魔法薬の材料として大量の植物を採取していたこともあり、それらを使って気分転換に作っていたのだ。
 ロア自身も薬草茶ハーブティーをよく飲んでいたことも理由の一つだろう。
 その中には、柑橘草かんきつそうのお茶などコラルド商会で売られるようになった物もあった。

「あの…………私はいったい何の用で呼ばれたんでしょうか?」

 薬草茶ハーブティーを飲みながら、一人居心地が悪そうにしていた男が口を開く。
 コラルドと一緒にやってきた男……コラルド商会の御者頭ぎょしゃがしら、チャックだ。彼はアルドンの森の入り口までロアと一緒に行っており、それ以前から望郷のメンバーたちとも面識がある男だった。
 普段はかなりくだけた、荒くれ者っぽい言葉使いをしているが、さすがに自分の雇い主の前では丁寧になってしまっている。

「実はね、君にとある薬を試して欲しいんだよ」

 コラルドは薬草茶ハーブティーを飲み、その顔に浮かべた笑みを崩さずに答えた。

「薬、ですか?」

 薬と言われ、チャックはロアの顔を見つめる。ロアの家までわざわざやってきたということは、魔法薬なのだろう。
 コラルド商会に勤める者たちは、すでにロアが様々な魔法薬を作り出す一流の錬金術師だと知っている。なにせコラルドが商会の土地を格安で譲り、特別待遇で暮らせるようにした人物だ。一流でないはずがない。
 そしてまた、冒険者ギルドには認められていないものの、グリフォンと二匹の魔狼を従える一流の従魔師テイマーとしても知られていた。
 そんな人物と商会長のコラルドが、ロアの家で他の従業員から隠すように試してくれと言ってくる魔法薬……。
 ろくな物じゃない気がするな……。
 チャックは内心震えあがりながら、緊張からテーブルの下で拳を握りしめた。コラルドは従業員を大事にしてくれる雇い主だが、それでも商人だ。もうけのためなら多少の無茶は平気でするだろう。

「その薬はいったいどんなものなんですか?」

 チャックは不安な気持ちが湧き上がるのを抑え付け、察されないようにできるだけ平静を装った。

「ロアさん」
「はい」

 ロアはコラルドに軽く頷くと、二階に上がっていく。そして、戻ってきた時には一本の瓶をその手に持っていた。
 ロアの手より少し大きいくらいの透明な瓶。その中には、鮮やかな紫色の液体が入っていた。

超位ちょうい治癒魔法薬です」

 意外なその言葉に、チャックは耳を疑った。

「……えっと、中位治癒魔法薬……ですよね?」

 チャックはあえて聞き返す。自分の聞き間違えで、『中位』が『超位』と聞こえたと考えたのだ。しかし彼自身も、ロアの手にある魔法薬が見慣れた中位治癒魔法薬とは違うと理解していた。

「いえ、超位ですよ」

 あっさりと笑顔で言うロアを、チャックはバケモノでも見たかのように、大きく目を見開いて見つめた。
 治癒魔法薬は、公共性が高いため基本的な作成方法レシピが公開されており、効果ごとにランク付けがされている。おおまかな目安だが、皮膚表面の傷や軽い炎症なら低位治癒魔法薬で治癒可能、中位治療魔法薬であれば深い傷や骨折などの怪我、病気も寝て治せる程度のものなら完治可能だった。
 高位治癒魔法薬となると、切断部位が残っている状態の手足、神経系の破損、内臓の損傷などまで治癒可能で、病気もよほど悪質なものでない限り完治できる。
 そして、さらに上のランクの治癒魔法薬も存在する。それが、『超位治癒魔法薬』と呼ばれているものだ。
 ひとまとめに『超位』と呼ばれているが、これはありえないほどの高い効果を示す魔法薬の総称となっており、効果は様々だった。
 例えば、部位欠損治癒型、万病治癒型などの特化型が存在している。さらに上の『神位しんい』というランクも存在しているらしいが、それは全てを完全に治す万能薬で、現物どころか作成方法レシピすら現在では失われている、まさに神の薬と言っていい伝説の代物だった。

「これは古傷を治すことに特化した超位治癒魔法薬です」

 何を言ってるんだコイツ? バカだろ。ロアの言葉に、チャックは内心で毒づいた。
 一度塞がってしまった傷は、不都合があろうと一生そのままなのが常識だ。治癒魔法薬は、人間の治癒力が働き始める前に飲まないといけないのだ。
 そうしないと、治った、もしくは治り始めた部分はと認識されてしまい、効果が出ない。それが治癒魔法薬の限界であり、簡単そうに見えて越えられない壁だった。
 一度治った部分に問題があり、それを治療しようと思うなら、その部分をナイフなどで切り取り、新しい傷にして治癒魔法薬を使わないといけない。そういった手段でなら治せるが、それは古傷を治すとは言わないだろう。それにその方法では、傷を受けた時よりさらに大きな傷を作ることになり、部位によっては即死の危険がある。
 古傷を治すなんてことをできるのは、超位の……あれ?
 そこまで考えて、チャックは自分が混乱していることに気付いた。
 ロアが言っていることは正しい。
 超位の治癒魔法薬で、古傷を治すことに特化しているなら、不完全な形で治りきった古傷でも治せるはずだ。しかし、チャックの中の常識では、がこんな平然と存在しているはずがないのだ。
 ましてや、自分の目に触れるはずがないし、目の前にいる十代の、まだ子供にしか見えない小僧が気楽に持って歩くようなものではない。

「その……超位? 古傷?」

 彼は混乱した頭で何とか考える。
 ロアとコラルドはそんなチャックが落ち着くまで、気長に待っていた。ロアはともかく、コラルドにはチャックの気持ちがよく分かった。
 コラルドもある日突然、ロアから「超位の治癒魔法薬を作ったんですが、誰か実験台に適当な人はいませんか?」などと軽く言われて混乱したのだ。それは作り過ぎた料理を食べてくれる人を探しているくらいの気楽さだった。
 おかげでコラルドは、混乱するチャックの姿を見ながら、ウンウンと頷き、優しい目で見ることができる。
 ロアがアルドンの森から帰って来てから、コラルドはとにかく驚かされてばかりだった。しかも、その全てが普通でない。常識はずれな驚きだ。
 コラルドはまだ混乱しているチャックを見つめながら、ため息を漏らした。
 しばらくして。
 やっとチャックが落ち着きを取り戻した。彼は落ち着くまでの間に薔薇の実の薬草茶ハーブティーを六杯お代わりしており、飲み過ぎて少し苦しそうだ。

「……それで、私の足を治していただけるのですね?」

 チャックはまだ疑っているのか、探るような目でロアのことを見つめていた。彼の足は昔受けた傷が原因で上手く動かない。そのため護衛を引退し、御者になったのだった。

「コラルドさんにも鑑定してもらったので、治るのは確実です。ただ……」
「ただ?」

 ほらきた! とばかりに、チャックはロアの言葉に言葉を重ねる。良い話ばかりで終わるはずがない。

「治る過程でどういった現象が起こるのか、予測がつかないんですよね。それもあって、確認のためにチャックさんに飲んでもらいたいんですよ」
「それはどういったことで?」
「ものすごい激痛がしたり、熱が出たり、そういった可能性があるかもしれないということです。もちろん、完全に治ってしまえば、全て収まると思います。そこは、コラルドさんの鑑定でも、副作用があるとは出てないので信用してもらって良いです」
「なんだ……」

 その程度のことかと、チャックはホッと胸を撫で下ろす。
 治癒魔法薬が効くまでの間にどうなろうと、最終的に収まるなら問題はない。冒険者や護衛をやってきたこともあって、彼自身も我慢強いつもりだった。

「どうです? 飲んでもらえますか?」

 その言葉に、チャックは短く「ハイ」と答えた。すると、ロアはまた事もなげに言う。

「それじゃ、飲んでください」
「え? 心の準備が……」
「治癒魔法薬を飲むだけですよ?」
「貴重な物では……?」
「調子に乗って作っちゃいましたから、まだ十本くらいあります」
「十? その……冗談ですよね? 小さな街が買えるくらいの値段になりますよ? ね?」
「それこそ、冗談でしょう。たかが薬ですよ? 作成方法レシピも既存のものでそれほど難しくなかったですし。苦しくなるような反応が出るなら改善してしまいたいので、早く飲んでくださいね」
「はあ……」
「飲んでください」

 チャックはすぐに飲ませようとするロアに抵抗するものの、まったく話が通じない。まるで、薬を飲むのを嫌がる子供扱いだ。ロアのしつこさに助けを求めてコラルドを見たが、コラルドは諦めきった表情で、薬草茶ハーブティーを飲んでいた。
 ロアは別に強気なわけではない。ただ、価値観がチャックと完全にズレているだけだ。
 ロアにしてみれば、既存の作成方法レシピ通りに作った、材料があれば別な人間でも作れる普通の薬という認識だった。
 そもそも古傷を治す超位治癒魔法薬を作ろうと思ったのも、「材料が揃っていたから」というだけに過ぎない。
 この魔法薬で最も重要な材料は、『聖水せいすい』だった。それ以外は普通に手に入る材料だったのだ。今のロアは、聖水をそれこそ使うことができる。作らない理由はなかった。
 そして一度作ってしまうと、ロアは持ち前の自己評価の低さから、自分の作った物に対する評価まで自分の中で下げてしまう傾向があるらしい。いくら周りに貴重な魔法薬だからと言われても、「自分が作った物だから」ということで、普通の物として扱ってしまうのである。
 とんでもない悪癖だが、彼の根本に染み付いてしまっているため、なかなか治せないだろう。

「そうですね、いきなり痛み出したり体調が崩れたりして、倒れて頭を打ったりしたら困りますから……申し訳ないですけど、そこの藁の山の前で飲んでもらって良いですか?」
「はあ……」

 チャックはそう言われ、仕方なく席を立って藁の前に移動する。そこはグリおじさんの寝床だったが、彼がそんなことを知っているはずもない。

「それじゃ、飲んでください」
「……はい」

 これ一本で豪邸が何軒建つんだろうな……。
 そんなことを考えながらも、手渡された瓶の中身を覚悟を決めて一気に飲み干した。

「ぷはっ」

 飲み干し、息を吐く。ロアとコラルドに見守られ、数秒待つが、何も起こらない。

「あの……何も……」

 何も変わりないですよ? と言いかけた時に、変化は起こった。

「痛っ、くぅ……」

 痛みが、動きの悪くなった古傷のある方の足に走り、思わずしゃがみ込む。足が根元から引き千切ちぎられたような痛みだった。足の筋肉全体がビクビクと痙攣けいれんして、耐え切れずに藁の上に倒れ込んだ。
 ロアが慌てて身体を支えたが、チャックは支えられたことすら意識できないほどの激痛で、全身から一気に汗が噴き出し、心臓だけでなく全身が激しく拍動しているような感覚におちいった。奥歯が割れそうなほど歯を食いしばり、藁が激しく飛び散るほどにのた打ち回る。

「大丈夫ですか!」
「大丈夫か!!」

 気付けば、ロアだけでなくコラルドまでチャックのかたわらにいて、彼の激しく暴れる身体を押さえ付けていた。
 すると、スッと、いきなり痛みが収まる。

「…………あれ?」

 あまりに急激だったため、チャックは拍子抜けしたような呟きを漏らしてしまった。先ほどまで身体に起こっていたことが嘘のように、普通の状態に戻っていた。嘘でなかった証拠に全身汗でぐっしょりと濡れているが、ただ、それだけだ。

「大丈夫ですか?」
「……はい。大丈夫、です」

 ゆっくりと身体を動かし、問題がないか確かめる。今まで足に覚えていた違和感も消えている。

「じゃあ、立ってみましょうか」

 ロアに言われ、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がる動作でも、足が楽に動く。突っ張るような感じも、しびれも、踏ん張りが利かなくなるようなこともない。
 立ち上がった後に、チャックはピョンピョンとその場で飛び跳ねてみた。今までは飛びあがると古傷のある足では支え切れずバランスを崩していたのだが、そういったこともまったくない。

「……ぉおおお! 治ってる! チャック治ってるぞ!!」

 コラルドが歓声を上げる。
 そして、チャックは飛び跳ねながら号泣していた。飛び跳ねる度に涙が周囲に飛び散るが、そんなことを気にしていられない。
 その場で激しく足踏みをしてみたり、軽い剣舞のような動きをしたりしてもまったく問題ない。昔の動きができる。それだけで、とてつもなく嬉しかった。

「ちゃんと治ったみたいですね。でも、あの痛がり方は尋常じゃなかったなぁ。痛みがなくなるように改良できないかな?」
「ありがとう! 本当にありがとう!! スゲーやつだな! あんたは天才だ!!」

 チャックはすでに次のことを考えているロアの両手を握り、涙を流しながら感謝の言葉を述べ続けた。そして、感動から大きく両手を広げ、ロアに抱きつこうとした時……。
 背後に強烈な重圧を感じた。

「あ、グリおじさん」

 その言葉で、チャックは後ろを振り向いた。

〈お前ら、我の寝床で何をやっておるのだ?〉

 かけられた声はチャックには聞こえない。しかし、突然間近に現れた高位の魔獣グリフォンにチャックは驚き、そして、そのまま気を失って藁の山へと倒れ込んだ。


〈ぬううううううう。なぜ我が怒られねばならぬのだ!!〉

 グリフォンは不機嫌だった。
 ガッガッガッと前足で地面を掻いて寝床の寝藁を撒き散らし、ブツブツと呟いている。グリおじさんの首には、首輪のように板が紐でぶら下げてあり、それにはこう書かれていた。

「私は突然現れて人を驚かせ、気絶させてしまいました。反省しています。すみません」

 時間はすでに夜中。チャックを驚かせて気絶させたのは午前中だが、その後からずっとこの板をぶら下げさせられていた。
 これを付けさせたのは、もちろんロアだ。
 反省を促すために、グリおじさんにこの板を付けさせ、人の目に触れるように家の外を歩かせたのだった。予定ではほぼ丸一日、明日の昼ごろまで付けていないといけない。
 これは勿論、チャックを気絶させたことへの罰だ。グリおじさんは日頃から、人を驚かせたりしないように、注意深く行動するようにと、ロアから飽きるほどに何度も繰り返し言われており、罰についても言い聞かされていた。
 グリおじさんはコラルド商会の敷地の一部、ロアの家がある周辺だけは自由に出歩くことを許されている。
 この区画はコラルド商会で雇っている職人たちの作業用の建物があり、機密を守る意味で厳しく管理されていた。商会の外壁のように、他の場所と隔てる高い壁があるわけではないが、部外者の出入りは極力制限されている。
 そのおかげで、グリおじさんは誰にとがめられることなく自由に動き回れ、職人、従業員たちも遠巻きに見ていられる程度には、高位の魔獣がいる異常な状況に慣れてきていた。グリおじさんにとっては、自由に動きやすくなる好ましい変化だった。
 しかし、今回に限り、その慣れは望ましくない結果を招いていた。
 なにせ、この板をぶら下げたまま多くの人前を歩かされ、あまつさえ笑われる結果になったのだから……。

〈オジちゃーん。うるさい……〉

 双子の魔狼が声を揃えて実に鬱陶うっとうしそうに呟く。双子はグリおじさんのすぐ隣の自分たちの寝床で、お互いの身体を枕にして、丸まって寝ていた。薄目を開けてグリおじさんを見るが、その視線は冷たい。

〈文句があるならその場で言おうよぉ……〉

 グリおじさんがこんな風に怒り出したのは、夕食が終わり、ロアが魔法薬を作るために二階に引っ込んでからだ。ずっと言い聞かされてきた内容であるし、ロアに口答えをすると飯抜きにされかねないからと、ロアの姿が見えなくなるのを待ってグチグチと文句を垂れ流し始めたのである。
 そのグリおじさんのセコさに双子は呆れていたのだった……。

〈いや、だがな双子よ、小僧は卑怯だと思わぬか? 我に食事を与える権利を握って脅してくるのだぞ? ぬぬぬ……我に害されることがないと思って調子に乗りおって! 我に屈辱を与えるとは! 我を一体何者だと思っておるのだ?〉

 グリおじさんが憤慨ふんがいして前足を激しく動かすと、寝藁が周囲に大きく飛び散る。その首では「反省しています」と書かれた板が大きく揺れた。
 双子の魔狼はそれを眺めながら、まったく反省している素振りのないグリおじさんに対して、ため息をつく。

〈……何者って……従魔……〉

 双子がポツリと漏らすように言う。
 その言葉に、グリおじさんは双子を見た。怒っている最中にもかかわらず、その時の二匹の少し寂しげな表情を見逃さなかった。

〈まだ気にしておるのか?〉

 一瞬で切り替わったその表情は、保護者の顔をしている。愚痴ぐちを垂れ流していた時の情けないものではない。心配しているようであり、優しさも含んでいた。

〈……〉

 顔を上げることもせず、黙り込む双子の魔狼に対して、グリおじさんは真っ直ぐに視線を向ける。

〈小僧も言っておったであろう。お前たちが不要なわけではない、今はまだ自信がないと。お前たちも小僧もまだ若い。少し時間をやるくらい、何の問題もないであろうが……〉
〈うん……〉

 双子の魔狼はまだロアと従魔契約をしていない。ロアが自分に自信を持てずにいるのが原因で、もう少し待っていて欲しいと言ったためだった。そのことは双子にも話しており、一応は納得していたが、目の前にすでに従魔契約を成して従魔となっているグリおじさんがいるため、釈然しゃくぜんとしないものが残っているらしい。
 今までも従魔の話題が出る度に、グリおじさんに淡い嫉妬の視線を向けていたのだった。
 双子の魔狼としては完全に従魔契約をする準備はできている。あとはロアに名前を呼んでもらい、それを自分たちの名前として認識するだけで終わる。
 それなのに従魔にしてもらえない状況は、餌を前に出されて「待て」をさせられているよりも辛かった。

〈嫌われて、ないよね?〉
〈小僧がお前たちのことを嫌っているわけがないであろう! むしろ好き過ぎて悩んでおるのだ。大事なことだからな〉
〈そうかな?〉
〈そうに決まっておる〉

 自信ありげにグリおじさんが頷くのを見て、双子も少しは気が晴れたのか頭を上げた。

〈そもそも自信をなくすのも仕方ないであろう? 我に『グリおじさん』などと酷い名を付けたのだぞ? その感性のまま自信満々にお前たちの名を付けられたら困ってしまうわ!!〉

 グリおじさんはロアの「自信がない」という言葉を「名付けの自信がない」と受け取っていた。

〈うん、ひどいね〉
〈で、あろう? あやつには名付けの才能がないのだ。自信をなくして悩むくらいの方が良い〉
〈でも、オジちゃんに似合ってる!〉
〈ぐ……〉

 双子の悪気のない一言で、グリおじさんは言葉を詰まらせた。

〈……似合ってなぞ……いないであろう?〉

 探るように、グリおじさんが呟く。しかし、双子の魔狼は屈託くったくのない笑顔を向けた。

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