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3巻
3-2
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「それでは、失礼しますね」
「あ、明日、例の実験をしたいと思ってるんですが、チャックさんをお借りして大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。チャックの時間を空けておきましょう。私も立ち会いますのでよろしくお願いしますね」
「はい!」
ロアの心中などまったく気にしていない素振りで軽く挨拶をすると、コラルドは帰って行った。
それを見送った後、ロアはグリおじさんに目を向ける。
「……その穴、まだ埋めないの?」
土間には依然として階段の付いた穴がぽっかりと開いていた。いつもなら地上に上がってきた時点で閉じていたはずだ。
グリおじさんの作ったロアの家の地下室には、固定された出入り口は存在しない。毎回、土魔法で適当な場所に穴を開け、そこから出入りしていた。
地下室の上部には硬い岩盤の層を作ってあるため、他の者では地下室の位置を調べるのは難しい。また、グリおじさんほどの魔力量と魔法操作に長けた者でなければ、地下室まで繋がる穴を開けることも困難である。
つまり、位置を知っていて、かつ穴が開けられるグリおじさんと一緒でないと出入りできないのだ。グリおじさん自身が地下室への扉であり、鍵であり、門番だった。
〈まあ、少し待て〉
「……?」
ロアが首を傾げていると、外からドタドタと足音が聞こえてきた。数拍おいて、玄関のドアが勢いよく開く。
「ロア! 水くれぇぇぇええええっ!?」
開いたドアから飛び込んできた大きな人影は、その勢いのままドア前に開いていた穴に転がり落ちていった……。
〈明日の危険探知の訓練は倍にするか……〉
人影が穴の奥の暗闇に完全に消えた後、グリおじさんの冷ややかな声が響いた。
「ん……」
望郷のリーダー・ディートリヒは暗闇の中で目覚めた。いつもの宿屋のベッドでの目覚めと違い、やけに心地好い。
ふと、実家に帰って来たのかと考えたが、そんなはずはなかった。
鼻孔をくすぐる乾いた草の香り、柔らかく温かい毛皮の感触……そこまで感じてどこに居るのか思い当たり、途端に心地好さが苛立ちに切り替わる。
〈目覚めたか、寝坊助。お前はいつも寝てばかりだな〉
聞こえた声に、苛立ちが加速した。周囲を見渡すが、わずかな月明かりしか入らない部屋の中は暗く、手元すら見えない。
「……何考えてるんだよ……」
モヤモヤとした気持ちの中、ディートリヒは寝惚けた頭で何とかその言葉を絞り出した。
〈何を考えてるとは、何のことだ?〉
「……オレを穴に落としただろ?」
夕刻に、ロアの家でグリおじさんが開けていた穴に落ちたのは、ディートリヒだった。
双子の魔狼と外で追いかけっこをして遊んだ後、喉が渇いたのでロアの家に飛び込んだところ、入り口のすぐ前にあった穴に落ちた。完全に油断していたため、見事に転がり落ちたディートリヒはそのまま気絶して夜まで寝てしまったのだった。
ディートリヒとの追いかけっこは双子のお気に入りの遊びだ。ディートリヒは気配を消してロアの家に近づき、敏感な魔狼がそれに気づいたら、玄関のドアの前で飛び掛かり、そのままディートリヒの息が切れるまで全力で追い掛け回すのである。
狩りゴッコと言っても良い。
ディートリヒの方もそれを楽しんでいて、気配を消す訓練を必死にしたり、飛び掛かられた時のリアクションがマンネリにならないように気を配ったりしていた。
グリおじさんはそんなディートリヒに呆れた様子だ。
〈落としたのではない。お前が迂闊だから勝手に落ちたのだ。常に周囲に注意して行動せよと教えたであろう〉
「……いや、だけど、家の中にこんな大穴があると思わないだろ!?」
〈あったではないか? なぜ文句を言うのだ? ありえないと思い込んで行動することがどれほど危険か思い知って、反省すべき場面であろう? 他者を責める前に自らの未熟さを省みよ〉
「……」
〈迷宮の罠であれば即死しているぞ? 階段で傷つかぬように風魔法で保護し、穴の底に柔らかな砂を敷き詰めてやった我の優しさに感謝して欲しいものだな……〉
迷宮とは魔素溜まり――別名魔力溜まりが存在し、魔獣が多くいる場所の総称である。
元々は魔素溜まりが発生して魔獣が住み着いた大型建築物を指す言葉だったが、使われていくうちに意味が広がってしまっていた。
『魔獣の森』も広い意味では迷宮にあたるが、この地域では昔から魔獣の森という呼び方で馴染まれているため、わざわざ迷宮と呼ぶ者は少ない。
その迷宮に住む魔獣の中には罠を使うものもいる。
蜘蛛や食虫植物のような単純な罠の使い手だけではなく、高い知能で人間顔負けの罠を作り、縄張りを守ろうとするものもいた。中でも定番なのは落とし穴で、そのことがあるからグリおじさんは引き合いに出したのだろう。
「…………」
自分が未熟なことを自覚しているディートリヒは言い返せない。その苛立ちをぶつけるように、自分が枕にしているものに顔をグイグイと押し付けてうずめる。
〈やめぬか! 我の毛皮が汚れるであろう!〉
グリおじさんは慌てたような声を上げた。
ディートリヒが寝ていたのは、グリおじさんの寝床だった。いや、半ばグリおじさん自身の上に寝ていた。腰から下を清潔な寝藁に横たえ、上半身を寝そべるグリおじさんの腹に預けている。
柔らかく温かい毛皮に覆われ、適度な弾力があるグリおじさんの腹は最高のクッションだ。
「……ぶはふえほ……」
〈顔をうずめたまま喋るのではない! 振動が気持ち悪い!〉
ディートリヒが動じていないことで分かる通り、彼がグリおじさんの寝床で寝るのは初めてではない。むしろ、ロアの家に泊まる時の定位置だ。
別に仲が良いというわけではなく、それはお互いの妥協の結果だ。
最初、ディートリヒは双子の魔狼の寝床で寝ようとしたのだが、グリおじさんは双子がけがれると言って絶対に許さなかった。次にロアと寝ようとしたがそれも許さず、床や外で寝させるのはロアが許さなかったため、妥協案としてグリおじさんの寝床で寝ることになったのだった。
最初はお互いに嫌がっていたのだが、ディートリヒはグリおじさんの毛皮の手触りの良さに負け、グリおじさんの方も人肌の温かさに負け、今では違和感なく受け入れている。
……ロアは後で、双子かロアがディートリヒに寝床を貸し、貸した者がグリおじさんと一緒に寝れば良かったと気が付いたが、ディートリヒとグリおじさんはまだそのことに気付いていない……。
「……敵はもう来たのか?」
ディートリヒはグリおじさんの毛皮から顔を上げ、静かに呟く。半ば自分の未熟さへの腹立ちをごまかすための質問だったが、その目は真剣だ。
〈寝坊助がグースカ寝ている間に来たぞ。今日のやつはどこの者だ?〉
「北方の国のようだが、ハッキリとは分からない」
〈お前と違ってあのチャラいやつは優秀だな。どこでそのような情報を得るのだ?〉
「さあな、どこかに情報屋でも飼ってるんだろ?」
〈ふむ……〉
ディートリヒは目的もなく何回もロアの家に泊まり込んでいるわけではない。一応表向きは、ロアの家が居心地好く、双子やロアと遊ぶために入り浸っているだけを装っているが、実際はロアを目的にやってくる連中の排除が狙いだった。
〈まあ、チャラいやつの正体については追及せずに済ませてやろう。斥候と剣士などと言っておったが……仕事ぶりから別の本職がありそうだが、探ったところで仕方ないのでな。密偵、間者、諜報員、そのあたりであろうが気にはせぬ〉
「……十分、追及してるじゃねーか……」
ディートリヒは吐き捨てるように言う。
あの森での事件の後から、ロアを狙ってコラルド商会に侵入する者が出てきていた。
その情報を事前に、チャラいやつこと望郷の斥候・剣士のクリストフが集めてきたため、該当する日にはディートリヒが無理やり泊まり込み、自主的にロアの警護をしていたのだった。
〈あのチャラいやつと違って、お前はまったく役に立っておらぬのだから、来なくていいのだぞ? むしろ我らの平穏な生活に入ってくる邪魔者でしかない〉
ロアには従魔たちがおり、コラルド商会にはこの街きっての警備も付いている。今までコラルド商会に侵入した者のほとんどは警備で捕まえられるか処分されていたため、従魔たちの出番も滅多にない。
ディートリヒに出番が回ってくることなど一生なさそうだが、それでも彼は泊まり込んで護衛を続けている。森の事件でも最終的には良いところを見せられず、ロアに助けられた形になったため、若干意地になっている部分もあるのだろう。
ロアはというと、自分が狙われていることに気付くどころか想像すらしていない。アルドンの森での出来事と、従魔たちのことが話題になっているため出歩くのは控えているが、あくまで話題の中心は望郷のメンバーと従魔たちであって、自分だとは思っていない。
相変わらず、自分は注目を浴びるような人物ではないと思い込んでいた。
そのため、侵入者がいたと聞いても、単純にコラルド商会を狙っているのだと決めつけていた。ディートリヒのことも、やたらと遊びに来て夕食をたかり泊まっていく、嫌いじゃないけどちょっと迷惑な友達のような目で見ている。
「好きに言ってろ」
ディートリヒはそう言うと、ふて腐れたように、またグリおじさんの毛皮に顔をうずめた。
〈今は小僧がお前のことを気にかけているから敵対はしておらぬがな、調子に乗るでないぞ。お前は我らにとって邪魔者だ。小僧にとって害悪だと思ったら排除するからな〉
「……」
グリおじさんの冷たい言葉に、ディートリヒは毛皮に顔をうずめたまま動かない。
〈我に情を期待するでないぞ。こうやって肌を寄せ合って眠っていても、お前には興味すらない。訓練をしてやっているのも、小僧と双子に良い影響を与えると思っただけだ。単なる使い捨ての道具に過ぎぬ。我は魔獣。不要となれば親や兄弟ですら殺す生き物だぞ〉
グリおじさんの声は重く、夜の闇の中に染みわたっていく。
ディートリヒはゆっくりと顔を上げると、グリおじさんの顔があるはずの方向を見つめた。暗くてディートリヒからは見えないが、魔獣であり夜目が利くグリおじさんには、彼の顔が見えているはずだった。
「……なあ、ロアは暁の光のことを何か言ってたか?」
〈……何も言わぬな……〉
またつまらない反論が来ると思っていたグリおじさんは、突然話題が変わったことに困惑しながらも答える。
「だろうな、あいつはまだ色々気持ちの整理がついてないんだよ。優しいからな。もし、自分が追い出されていなかったら、ひょっとしたら暁の光の連中も助けられたんじゃないかと、考えてると思う」
それは憶測に過ぎない。
しかし、ディートリヒは自信があった。
この一カ月、ロアは不自然なほど勇者パーティー・暁の光の話題を出さなかった。むしろ、話題が出たら適当に誤魔化して話が続かないようにしていた。森の中でグリフォンと合流した後もそうだったし、街に戻ってきても同じだった。
最初ディートリヒは、過去に受けた仕打ちから、話題にしたくないほどロアが暁の光を嫌っているのかと思ったが、しかし様子を見ていると違っていた。ロアは暁の光に起こった惨状を、もしも、自分がそこにいたら止められたのではないかと考え、後悔していた。
ディートリヒはそういった状態になった人間を今まで多く見てきている。そして、彼自身もそういう考えに囚われ続けたことがあった。
だからこそ、気付けたのだろう。
ディートリヒの知る限り、ロアはかなり強情で、意地っ張りだ。
他人に気を使われるのを嫌うあまり、すっぱり割り切ったフリをして、何事もなかったように取り繕おうとする。勇者パーティーを追い出された時がまさにそうで、平気なフリをしていたが、その内心は酷く傷ついており、ディートリヒに優しい言葉をかけられただけで泣き出してしまった。
「あいつはアンタやオレたちに、そんな風に悩んでいるって気付かれないように必死に隠して、下手なことを話して気付かれたら嫌だから、暁の光の話題を避けてるんだ。分かるか?」
〈……〉
グリおじさんはディートリヒの言葉に答えず、暗闇の中でその目を真っ直ぐに見つめている。
「アンタはアンタなりの考えがあってロアのことを守ろうとしてるんだろうが、後であいつがどんな気持ちになるか考えてから行動してくれ……」
ディートリヒは言い切ると、そっとグリおじさんの顔があるはずの場所から視線を外し、身体を起こして立ち上がる。
「……ちょっと周囲の見回りに行ってくる……」
そして、わずかに差し込む月明かりを頼りに玄関のドアを開け、外へと出て行った。ディートリヒの足音が遠ざかっていき、また、夜の静寂が訪れる。
〈……いずれ敵対する時に備えて、我の心を乱そうとしているのか? 我に全てバレていると思って開き直ったか? いや、本気のバカか? ……まあ、よい……〉
グリおじさんはそう小さく呟くと、口元をわずかに歪め、少し楽しげな笑みを漏らしたのだった。
外に出たディートリヒは月明かりの下、ロアの家から離れてコラルド商会の敷地を歩く。
ロアの家は元々コラルド商会の敷地だったこともあり、ロアが購入した後も壁や仕切りは作っていない。お互いに出入りは自由だった。
しばらく歩き、ロアの家から十分な距離を取ってから、ディートリヒは建物の陰でおもむろにしゃがみ込んだ。そして、頭を抱えて、大きなため息を吐き出した。
「……ああ……何やってんだよ、オレ。魔獣に人間の気持ちを考えろって説教かますとか、バカかよ……」
グリおじさんに対して思わず言ってしまったことに後悔する。
そもそも人間の気持ちなど考えないからこそ、魔獣なのだ。同じようなことを考えていそうでも、まったく別の論理で動いている。それは理解していたつもりだったのに、なぜか人間に対して抱くような感情が湧き上がり、勢いで言ってしまった。
暗闇で、グリおじさんの顔がまともに見えなかったことも一役買っているだろう。
さらに、力量差も考えず、小物な自分が絶対的強者に偉そうなことを言った恥ずかしさも加わって、悶えることしかできない。
「あのグリフォンは人間臭過ぎるんだよなぁ。こっちの理屈が通じるんじゃないかと、ついつい思っちまう……」
言葉が交わせるのが原因かとも考えたが、それだけではなかった。グリおじさんは人間の知識や風習などに詳し過ぎるのだ。
とても魔獣とは思えないほど人間のことを知っている。そのせいで、人間の感情も分かってくれるのではないかと思ってしまうのだった。
「敵には……なりたくないよな……」
本国がどう指示してくるかが問題だ……。
明確に敵対することはないだろうが、ロアと仲良くなっていることを利用して取り込むよう指示されるかもしれない。そうなれば、グリおじさんにはロアの自由を奪おうとする人間として、敵認定されてしまうだろう……。
そう考えながら、彼は抱えていた頭を上げ、天空に輝く月を見た。
次の日、ロアたちが朝食を取った後に来客があった。望郷のディートリヒ以外のメンバーだ。
ディートリヒは泊まり込み、あまつさえ朝食もコラルド商会の従業員食堂で当たり前のように食べていたため、これで望郷のメンバーが全員集合したことになる。
彼らは数日に一度のペースでロアの家を訪れ、コラルド商会の護衛たちが使っている訓練場を借りてグリおじさんからの指導を受けていた。
当然というか何というか、それを言い出したのは魔法至上主義の魔術師・ベルンハルトだ。グリおじさんの魔法に惚れこんだ彼が土下座をしてお願いし、慕ってくる者にはやたらと寛容なグリおじさんが二つ返事で引き受けたのである。
……自分で引き受けたものの、訓練の場所の手配やスケジュール調整などの面倒事は、ロアに丸投げしたのだが……。
また、ベルンハルトは指導を願い出る時に、望郷のパーティーを抜けるどころか国を捨てる覚悟だと言ってしまった。そのせいで、彼がこれ以上暴走しないように、監視の意味も兼ねて望郷のメンバー全員で指導を受けることになったのだった。
〈暗そうなのは我が魔法の指導をしてやる。寝坊助とチャラいのは双子の相手だ。うるさい女はまずは小僧の指導をしてやれ〉
望郷のメンバーたちはもう、グリおじさんに『寝坊助』や『うるさい女』などと不名誉な渾名で呼ばれることに慣れてしまっていて、その言葉に素直に従った。
渾名に対しては言いたいことが色々あるのだが、言い返しても仕方ないし、グリおじさんが人間を名前で呼ぶ気がないことは、ロアですら『小僧』としか呼んでいないことからも分かっていたので諦めていた。
この指導はもちろん、無償というわけではない。対価は、双子の魔狼に対人戦闘の経験を積ませることと、ロアを指導することだった。
双子の魔狼は戦闘力は高いが、対人戦闘の経験は少ない。身体能力だけなら並の軍隊にも負けないだろうが、それだけでは対応し切れない強い人間の敵が現れる可能性は十分にある。
そのため、グリおじさんは、今の内に人間との戦い方を学ばせておきたかったのだ。
またロアにも、従魔たちがいるとはいえ、自分の身を守れる程度の力は持っておいて欲しかった。しかしグリおじさんでは、小柄で非力なロアに合った戦い方を教えることはできない。
口で説明する程度なら可能だろうが、魔獣の身体では手ずから教えられない。それでは時間がかかり過ぎてしまう。
その点、背格好がロアと近く、女性ゆえに非力な者でも扱える護身術を学んでいるコルネリアであれば、自身の経験も踏まえた丁寧な指導が期待できた。
基礎と合わせて、コルネリアに魔法で身体を強化して戦う技術を教えてもらうこともできる。切っ掛けはベルンハルトのお願いだったが、グリおじさんとしても実にありがたい状況になっていた。
「それじゃ、私たちは向こうでやろうか!」
「はい!」
ロアはコルネリアが指示した訓練場のひらけた場所に移動する。
この一カ月、何度となく行ってきた訓練のため、ロアに緊張している雰囲気はない。暁の光を追い出され、冒険者を続けられるか分からない状況になってから、丁寧な戦闘訓練を受けられるというのは皮肉な話だが、それでも不満はない。コルネリアの指導のおかげで自分が上達している実感があるためか、嬉々として訓練を受けていた。
ロアたちがいるコラルド商会の訓練場は、屋根がある石造りのものだ。立派とは言い難いが、数十人が訓練できる程度には広さもある。
今は朝食後……商会の従業員たちが活動を始める忙しい時間であり、普段この場所を使って訓練している護衛たちもそれに沿って行動しているため、訓練場にはロアたち以外は誰もいない。
どうせグリおじさんの声は他の人には聞くことはできないし、見られたところで問題はないだろうが、やはりグリフォンが指導している姿に違和感を覚える者が出るかもしれない。グリフォンがロアの従魔だということは知れ渡っているが、会話ができる上に知能も高いということは、一部の者たち以外には秘密にしている。
そのため、彼らはこの人気のない時間を選んで訓練をしていた。
「今日はナイフでの模擬戦からね。私を倒すつもりで攻撃してきて」
ロアがコルネリアと訓練しているのは、攻撃を避ける技術と、捕まった時のための急所狙いの打撃系、そしてナイフでの戦闘だ。それに加えて、コルネリアが得意な身体強化の魔法も指導してもらっている。特に、ナイフでの戦闘は魔獣相手でも応用が利くため、一番長く訓練時間がとられていた。
「はい!」
返事と同時にロアは腰に下げていたナイフを取り出す。それは普通のナイフより少し大きな、魔獣解体用も兼ねたものだった。解体がしやすいように刃の部分が少し波打つような形になっている。
そして目立つのは刃の部分に走る一条の筋だろう。鉄とは違う濡れたような質感。他の部分と同じく金属の輝きを持っているが、透き通るようで、そこだけが異質なものとなっている。
魔法銀だ。
普通の鉄の刃に、針金一本程度のミスリルがはめ込まれている。このナイフは、ミスリルに魔法を纏わせることで、魔法の武器に変化するのだ。ロアが仲良くしている鍛冶屋に依頼し、一週間ほど前に出来上がってきたばかりのものだった。
「お願いします」
「好きに攻撃してきてね。受けながら指導するから」
「はい!」
ロアは少し腰を落として構えると、素手のコルネリアに向けてナイフを振り始める。
訓練なのに練習用ではなく普通のナイフを使っているのは、コルネリア曰く、「人に刃物を向けることに慣れるための訓練」を兼ねているためだった。
戦い慣れていない人間は、どんなに覚悟を決めていても人に刃物を向けることを躊躇してしまう。そういった感情が残っていると一瞬の迷いが生じ、命取りになりかねない。それを払拭するためには、訓練の時から普通のナイフに慣れるしかないとコルネリアは考えていた。
「今のはいい感じだけど、視線で狙いがバレバレだから気を付けて……そのナイフ、やっぱり良いわね……」
斬りつけられるロアのナイフをあえて紙一重で避けながら、コルネリアが呟く。
「ねぇ、やっぱり紹介してもらえないかしら? あ、足さばきが疎かになってきてるわよ」
そう言いながら、彼女は踏み込み過ぎたロアの足先をコツリと軽く蹴る。
ロアは話しかけてくるコルネリアの言葉に何とか答えようとするが、口を開くのを邪魔するようにコルネリアの手刀が飛んでくるため、それを避けるだけで精一杯で上手く話せない。コルネリアが話しかけているのも、それに答えようとしているロアの邪魔をするのも訓練の一環だ。
並列思考に、同時対応。
戦闘時に複数のことを同時に考え、こなせるようにするのが目的だった。
「紹介、するのは、いいんですっ!! がぁ!」
何とか答えようとするものの、今のロアでは途切れ途切れに声を発するだけでやっとだった。
元々、ロアは一つのことに集中すると、周りが見えなくなるタイプだ。何かをしながら別のことをこなすのは得意ではない。ましてや戦いながら会話するなど無茶に等しい。
「その鍛冶屋って、そんなに変わり者なの?」
「はっ、はい! くっ!」
「ふーん。でも、やっぱり紹介して欲しいな。今使ってる剣は間に合わせで買った物だから不満もあるし、こないだのゴーレムとの戦闘で、打撃武器も持っておいた方が良いかなって思ってたところだしね」
「はい!」
「その鍛冶屋の腕がいいのは、そのナイフを見れば分かるしね。ロアに鎧の調整方法を教えてくれたのもその人なんでしょ? あ、今のダメ。狙うなら手首の内側ね。腱を切れば相手は武器を持てなくなるし、出血も多いから、攻撃が決まれば一気に有利になるわよ」
「はい!」
「今なら懐も温かいし、ぜひ新しい武器を手に入れたいのよね」
「はい!」
「さっきから『はい』ばっかりになってきてるわよ。ちゃんと考えて話して」
「分かりまし、たっ!」
ナイフで攻撃するロアと、それを避け続けて話しかけるコルネリア。そんなやり取りが数十分続く。
コルネリアが、渋るロアから半ば強引に鍛冶屋を紹介する約束を取り付けた頃には、ロアは息切れで、言葉を発することすらできなくなっていた。
「あ、明日、例の実験をしたいと思ってるんですが、チャックさんをお借りして大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。チャックの時間を空けておきましょう。私も立ち会いますのでよろしくお願いしますね」
「はい!」
ロアの心中などまったく気にしていない素振りで軽く挨拶をすると、コラルドは帰って行った。
それを見送った後、ロアはグリおじさんに目を向ける。
「……その穴、まだ埋めないの?」
土間には依然として階段の付いた穴がぽっかりと開いていた。いつもなら地上に上がってきた時点で閉じていたはずだ。
グリおじさんの作ったロアの家の地下室には、固定された出入り口は存在しない。毎回、土魔法で適当な場所に穴を開け、そこから出入りしていた。
地下室の上部には硬い岩盤の層を作ってあるため、他の者では地下室の位置を調べるのは難しい。また、グリおじさんほどの魔力量と魔法操作に長けた者でなければ、地下室まで繋がる穴を開けることも困難である。
つまり、位置を知っていて、かつ穴が開けられるグリおじさんと一緒でないと出入りできないのだ。グリおじさん自身が地下室への扉であり、鍵であり、門番だった。
〈まあ、少し待て〉
「……?」
ロアが首を傾げていると、外からドタドタと足音が聞こえてきた。数拍おいて、玄関のドアが勢いよく開く。
「ロア! 水くれぇぇぇええええっ!?」
開いたドアから飛び込んできた大きな人影は、その勢いのままドア前に開いていた穴に転がり落ちていった……。
〈明日の危険探知の訓練は倍にするか……〉
人影が穴の奥の暗闇に完全に消えた後、グリおじさんの冷ややかな声が響いた。
「ん……」
望郷のリーダー・ディートリヒは暗闇の中で目覚めた。いつもの宿屋のベッドでの目覚めと違い、やけに心地好い。
ふと、実家に帰って来たのかと考えたが、そんなはずはなかった。
鼻孔をくすぐる乾いた草の香り、柔らかく温かい毛皮の感触……そこまで感じてどこに居るのか思い当たり、途端に心地好さが苛立ちに切り替わる。
〈目覚めたか、寝坊助。お前はいつも寝てばかりだな〉
聞こえた声に、苛立ちが加速した。周囲を見渡すが、わずかな月明かりしか入らない部屋の中は暗く、手元すら見えない。
「……何考えてるんだよ……」
モヤモヤとした気持ちの中、ディートリヒは寝惚けた頭で何とかその言葉を絞り出した。
〈何を考えてるとは、何のことだ?〉
「……オレを穴に落としただろ?」
夕刻に、ロアの家でグリおじさんが開けていた穴に落ちたのは、ディートリヒだった。
双子の魔狼と外で追いかけっこをして遊んだ後、喉が渇いたのでロアの家に飛び込んだところ、入り口のすぐ前にあった穴に落ちた。完全に油断していたため、見事に転がり落ちたディートリヒはそのまま気絶して夜まで寝てしまったのだった。
ディートリヒとの追いかけっこは双子のお気に入りの遊びだ。ディートリヒは気配を消してロアの家に近づき、敏感な魔狼がそれに気づいたら、玄関のドアの前で飛び掛かり、そのままディートリヒの息が切れるまで全力で追い掛け回すのである。
狩りゴッコと言っても良い。
ディートリヒの方もそれを楽しんでいて、気配を消す訓練を必死にしたり、飛び掛かられた時のリアクションがマンネリにならないように気を配ったりしていた。
グリおじさんはそんなディートリヒに呆れた様子だ。
〈落としたのではない。お前が迂闊だから勝手に落ちたのだ。常に周囲に注意して行動せよと教えたであろう〉
「……いや、だけど、家の中にこんな大穴があると思わないだろ!?」
〈あったではないか? なぜ文句を言うのだ? ありえないと思い込んで行動することがどれほど危険か思い知って、反省すべき場面であろう? 他者を責める前に自らの未熟さを省みよ〉
「……」
〈迷宮の罠であれば即死しているぞ? 階段で傷つかぬように風魔法で保護し、穴の底に柔らかな砂を敷き詰めてやった我の優しさに感謝して欲しいものだな……〉
迷宮とは魔素溜まり――別名魔力溜まりが存在し、魔獣が多くいる場所の総称である。
元々は魔素溜まりが発生して魔獣が住み着いた大型建築物を指す言葉だったが、使われていくうちに意味が広がってしまっていた。
『魔獣の森』も広い意味では迷宮にあたるが、この地域では昔から魔獣の森という呼び方で馴染まれているため、わざわざ迷宮と呼ぶ者は少ない。
その迷宮に住む魔獣の中には罠を使うものもいる。
蜘蛛や食虫植物のような単純な罠の使い手だけではなく、高い知能で人間顔負けの罠を作り、縄張りを守ろうとするものもいた。中でも定番なのは落とし穴で、そのことがあるからグリおじさんは引き合いに出したのだろう。
「…………」
自分が未熟なことを自覚しているディートリヒは言い返せない。その苛立ちをぶつけるように、自分が枕にしているものに顔をグイグイと押し付けてうずめる。
〈やめぬか! 我の毛皮が汚れるであろう!〉
グリおじさんは慌てたような声を上げた。
ディートリヒが寝ていたのは、グリおじさんの寝床だった。いや、半ばグリおじさん自身の上に寝ていた。腰から下を清潔な寝藁に横たえ、上半身を寝そべるグリおじさんの腹に預けている。
柔らかく温かい毛皮に覆われ、適度な弾力があるグリおじさんの腹は最高のクッションだ。
「……ぶはふえほ……」
〈顔をうずめたまま喋るのではない! 振動が気持ち悪い!〉
ディートリヒが動じていないことで分かる通り、彼がグリおじさんの寝床で寝るのは初めてではない。むしろ、ロアの家に泊まる時の定位置だ。
別に仲が良いというわけではなく、それはお互いの妥協の結果だ。
最初、ディートリヒは双子の魔狼の寝床で寝ようとしたのだが、グリおじさんは双子がけがれると言って絶対に許さなかった。次にロアと寝ようとしたがそれも許さず、床や外で寝させるのはロアが許さなかったため、妥協案としてグリおじさんの寝床で寝ることになったのだった。
最初はお互いに嫌がっていたのだが、ディートリヒはグリおじさんの毛皮の手触りの良さに負け、グリおじさんの方も人肌の温かさに負け、今では違和感なく受け入れている。
……ロアは後で、双子かロアがディートリヒに寝床を貸し、貸した者がグリおじさんと一緒に寝れば良かったと気が付いたが、ディートリヒとグリおじさんはまだそのことに気付いていない……。
「……敵はもう来たのか?」
ディートリヒはグリおじさんの毛皮から顔を上げ、静かに呟く。半ば自分の未熟さへの腹立ちをごまかすための質問だったが、その目は真剣だ。
〈寝坊助がグースカ寝ている間に来たぞ。今日のやつはどこの者だ?〉
「北方の国のようだが、ハッキリとは分からない」
〈お前と違ってあのチャラいやつは優秀だな。どこでそのような情報を得るのだ?〉
「さあな、どこかに情報屋でも飼ってるんだろ?」
〈ふむ……〉
ディートリヒは目的もなく何回もロアの家に泊まり込んでいるわけではない。一応表向きは、ロアの家が居心地好く、双子やロアと遊ぶために入り浸っているだけを装っているが、実際はロアを目的にやってくる連中の排除が狙いだった。
〈まあ、チャラいやつの正体については追及せずに済ませてやろう。斥候と剣士などと言っておったが……仕事ぶりから別の本職がありそうだが、探ったところで仕方ないのでな。密偵、間者、諜報員、そのあたりであろうが気にはせぬ〉
「……十分、追及してるじゃねーか……」
ディートリヒは吐き捨てるように言う。
あの森での事件の後から、ロアを狙ってコラルド商会に侵入する者が出てきていた。
その情報を事前に、チャラいやつこと望郷の斥候・剣士のクリストフが集めてきたため、該当する日にはディートリヒが無理やり泊まり込み、自主的にロアの警護をしていたのだった。
〈あのチャラいやつと違って、お前はまったく役に立っておらぬのだから、来なくていいのだぞ? むしろ我らの平穏な生活に入ってくる邪魔者でしかない〉
ロアには従魔たちがおり、コラルド商会にはこの街きっての警備も付いている。今までコラルド商会に侵入した者のほとんどは警備で捕まえられるか処分されていたため、従魔たちの出番も滅多にない。
ディートリヒに出番が回ってくることなど一生なさそうだが、それでも彼は泊まり込んで護衛を続けている。森の事件でも最終的には良いところを見せられず、ロアに助けられた形になったため、若干意地になっている部分もあるのだろう。
ロアはというと、自分が狙われていることに気付くどころか想像すらしていない。アルドンの森での出来事と、従魔たちのことが話題になっているため出歩くのは控えているが、あくまで話題の中心は望郷のメンバーと従魔たちであって、自分だとは思っていない。
相変わらず、自分は注目を浴びるような人物ではないと思い込んでいた。
そのため、侵入者がいたと聞いても、単純にコラルド商会を狙っているのだと決めつけていた。ディートリヒのことも、やたらと遊びに来て夕食をたかり泊まっていく、嫌いじゃないけどちょっと迷惑な友達のような目で見ている。
「好きに言ってろ」
ディートリヒはそう言うと、ふて腐れたように、またグリおじさんの毛皮に顔をうずめた。
〈今は小僧がお前のことを気にかけているから敵対はしておらぬがな、調子に乗るでないぞ。お前は我らにとって邪魔者だ。小僧にとって害悪だと思ったら排除するからな〉
「……」
グリおじさんの冷たい言葉に、ディートリヒは毛皮に顔をうずめたまま動かない。
〈我に情を期待するでないぞ。こうやって肌を寄せ合って眠っていても、お前には興味すらない。訓練をしてやっているのも、小僧と双子に良い影響を与えると思っただけだ。単なる使い捨ての道具に過ぎぬ。我は魔獣。不要となれば親や兄弟ですら殺す生き物だぞ〉
グリおじさんの声は重く、夜の闇の中に染みわたっていく。
ディートリヒはゆっくりと顔を上げると、グリおじさんの顔があるはずの方向を見つめた。暗くてディートリヒからは見えないが、魔獣であり夜目が利くグリおじさんには、彼の顔が見えているはずだった。
「……なあ、ロアは暁の光のことを何か言ってたか?」
〈……何も言わぬな……〉
またつまらない反論が来ると思っていたグリおじさんは、突然話題が変わったことに困惑しながらも答える。
「だろうな、あいつはまだ色々気持ちの整理がついてないんだよ。優しいからな。もし、自分が追い出されていなかったら、ひょっとしたら暁の光の連中も助けられたんじゃないかと、考えてると思う」
それは憶測に過ぎない。
しかし、ディートリヒは自信があった。
この一カ月、ロアは不自然なほど勇者パーティー・暁の光の話題を出さなかった。むしろ、話題が出たら適当に誤魔化して話が続かないようにしていた。森の中でグリフォンと合流した後もそうだったし、街に戻ってきても同じだった。
最初ディートリヒは、過去に受けた仕打ちから、話題にしたくないほどロアが暁の光を嫌っているのかと思ったが、しかし様子を見ていると違っていた。ロアは暁の光に起こった惨状を、もしも、自分がそこにいたら止められたのではないかと考え、後悔していた。
ディートリヒはそういった状態になった人間を今まで多く見てきている。そして、彼自身もそういう考えに囚われ続けたことがあった。
だからこそ、気付けたのだろう。
ディートリヒの知る限り、ロアはかなり強情で、意地っ張りだ。
他人に気を使われるのを嫌うあまり、すっぱり割り切ったフリをして、何事もなかったように取り繕おうとする。勇者パーティーを追い出された時がまさにそうで、平気なフリをしていたが、その内心は酷く傷ついており、ディートリヒに優しい言葉をかけられただけで泣き出してしまった。
「あいつはアンタやオレたちに、そんな風に悩んでいるって気付かれないように必死に隠して、下手なことを話して気付かれたら嫌だから、暁の光の話題を避けてるんだ。分かるか?」
〈……〉
グリおじさんはディートリヒの言葉に答えず、暗闇の中でその目を真っ直ぐに見つめている。
「アンタはアンタなりの考えがあってロアのことを守ろうとしてるんだろうが、後であいつがどんな気持ちになるか考えてから行動してくれ……」
ディートリヒは言い切ると、そっとグリおじさんの顔があるはずの場所から視線を外し、身体を起こして立ち上がる。
「……ちょっと周囲の見回りに行ってくる……」
そして、わずかに差し込む月明かりを頼りに玄関のドアを開け、外へと出て行った。ディートリヒの足音が遠ざかっていき、また、夜の静寂が訪れる。
〈……いずれ敵対する時に備えて、我の心を乱そうとしているのか? 我に全てバレていると思って開き直ったか? いや、本気のバカか? ……まあ、よい……〉
グリおじさんはそう小さく呟くと、口元をわずかに歪め、少し楽しげな笑みを漏らしたのだった。
外に出たディートリヒは月明かりの下、ロアの家から離れてコラルド商会の敷地を歩く。
ロアの家は元々コラルド商会の敷地だったこともあり、ロアが購入した後も壁や仕切りは作っていない。お互いに出入りは自由だった。
しばらく歩き、ロアの家から十分な距離を取ってから、ディートリヒは建物の陰でおもむろにしゃがみ込んだ。そして、頭を抱えて、大きなため息を吐き出した。
「……ああ……何やってんだよ、オレ。魔獣に人間の気持ちを考えろって説教かますとか、バカかよ……」
グリおじさんに対して思わず言ってしまったことに後悔する。
そもそも人間の気持ちなど考えないからこそ、魔獣なのだ。同じようなことを考えていそうでも、まったく別の論理で動いている。それは理解していたつもりだったのに、なぜか人間に対して抱くような感情が湧き上がり、勢いで言ってしまった。
暗闇で、グリおじさんの顔がまともに見えなかったことも一役買っているだろう。
さらに、力量差も考えず、小物な自分が絶対的強者に偉そうなことを言った恥ずかしさも加わって、悶えることしかできない。
「あのグリフォンは人間臭過ぎるんだよなぁ。こっちの理屈が通じるんじゃないかと、ついつい思っちまう……」
言葉が交わせるのが原因かとも考えたが、それだけではなかった。グリおじさんは人間の知識や風習などに詳し過ぎるのだ。
とても魔獣とは思えないほど人間のことを知っている。そのせいで、人間の感情も分かってくれるのではないかと思ってしまうのだった。
「敵には……なりたくないよな……」
本国がどう指示してくるかが問題だ……。
明確に敵対することはないだろうが、ロアと仲良くなっていることを利用して取り込むよう指示されるかもしれない。そうなれば、グリおじさんにはロアの自由を奪おうとする人間として、敵認定されてしまうだろう……。
そう考えながら、彼は抱えていた頭を上げ、天空に輝く月を見た。
次の日、ロアたちが朝食を取った後に来客があった。望郷のディートリヒ以外のメンバーだ。
ディートリヒは泊まり込み、あまつさえ朝食もコラルド商会の従業員食堂で当たり前のように食べていたため、これで望郷のメンバーが全員集合したことになる。
彼らは数日に一度のペースでロアの家を訪れ、コラルド商会の護衛たちが使っている訓練場を借りてグリおじさんからの指導を受けていた。
当然というか何というか、それを言い出したのは魔法至上主義の魔術師・ベルンハルトだ。グリおじさんの魔法に惚れこんだ彼が土下座をしてお願いし、慕ってくる者にはやたらと寛容なグリおじさんが二つ返事で引き受けたのである。
……自分で引き受けたものの、訓練の場所の手配やスケジュール調整などの面倒事は、ロアに丸投げしたのだが……。
また、ベルンハルトは指導を願い出る時に、望郷のパーティーを抜けるどころか国を捨てる覚悟だと言ってしまった。そのせいで、彼がこれ以上暴走しないように、監視の意味も兼ねて望郷のメンバー全員で指導を受けることになったのだった。
〈暗そうなのは我が魔法の指導をしてやる。寝坊助とチャラいのは双子の相手だ。うるさい女はまずは小僧の指導をしてやれ〉
望郷のメンバーたちはもう、グリおじさんに『寝坊助』や『うるさい女』などと不名誉な渾名で呼ばれることに慣れてしまっていて、その言葉に素直に従った。
渾名に対しては言いたいことが色々あるのだが、言い返しても仕方ないし、グリおじさんが人間を名前で呼ぶ気がないことは、ロアですら『小僧』としか呼んでいないことからも分かっていたので諦めていた。
この指導はもちろん、無償というわけではない。対価は、双子の魔狼に対人戦闘の経験を積ませることと、ロアを指導することだった。
双子の魔狼は戦闘力は高いが、対人戦闘の経験は少ない。身体能力だけなら並の軍隊にも負けないだろうが、それだけでは対応し切れない強い人間の敵が現れる可能性は十分にある。
そのため、グリおじさんは、今の内に人間との戦い方を学ばせておきたかったのだ。
またロアにも、従魔たちがいるとはいえ、自分の身を守れる程度の力は持っておいて欲しかった。しかしグリおじさんでは、小柄で非力なロアに合った戦い方を教えることはできない。
口で説明する程度なら可能だろうが、魔獣の身体では手ずから教えられない。それでは時間がかかり過ぎてしまう。
その点、背格好がロアと近く、女性ゆえに非力な者でも扱える護身術を学んでいるコルネリアであれば、自身の経験も踏まえた丁寧な指導が期待できた。
基礎と合わせて、コルネリアに魔法で身体を強化して戦う技術を教えてもらうこともできる。切っ掛けはベルンハルトのお願いだったが、グリおじさんとしても実にありがたい状況になっていた。
「それじゃ、私たちは向こうでやろうか!」
「はい!」
ロアはコルネリアが指示した訓練場のひらけた場所に移動する。
この一カ月、何度となく行ってきた訓練のため、ロアに緊張している雰囲気はない。暁の光を追い出され、冒険者を続けられるか分からない状況になってから、丁寧な戦闘訓練を受けられるというのは皮肉な話だが、それでも不満はない。コルネリアの指導のおかげで自分が上達している実感があるためか、嬉々として訓練を受けていた。
ロアたちがいるコラルド商会の訓練場は、屋根がある石造りのものだ。立派とは言い難いが、数十人が訓練できる程度には広さもある。
今は朝食後……商会の従業員たちが活動を始める忙しい時間であり、普段この場所を使って訓練している護衛たちもそれに沿って行動しているため、訓練場にはロアたち以外は誰もいない。
どうせグリおじさんの声は他の人には聞くことはできないし、見られたところで問題はないだろうが、やはりグリフォンが指導している姿に違和感を覚える者が出るかもしれない。グリフォンがロアの従魔だということは知れ渡っているが、会話ができる上に知能も高いということは、一部の者たち以外には秘密にしている。
そのため、彼らはこの人気のない時間を選んで訓練をしていた。
「今日はナイフでの模擬戦からね。私を倒すつもりで攻撃してきて」
ロアがコルネリアと訓練しているのは、攻撃を避ける技術と、捕まった時のための急所狙いの打撃系、そしてナイフでの戦闘だ。それに加えて、コルネリアが得意な身体強化の魔法も指導してもらっている。特に、ナイフでの戦闘は魔獣相手でも応用が利くため、一番長く訓練時間がとられていた。
「はい!」
返事と同時にロアは腰に下げていたナイフを取り出す。それは普通のナイフより少し大きな、魔獣解体用も兼ねたものだった。解体がしやすいように刃の部分が少し波打つような形になっている。
そして目立つのは刃の部分に走る一条の筋だろう。鉄とは違う濡れたような質感。他の部分と同じく金属の輝きを持っているが、透き通るようで、そこだけが異質なものとなっている。
魔法銀だ。
普通の鉄の刃に、針金一本程度のミスリルがはめ込まれている。このナイフは、ミスリルに魔法を纏わせることで、魔法の武器に変化するのだ。ロアが仲良くしている鍛冶屋に依頼し、一週間ほど前に出来上がってきたばかりのものだった。
「お願いします」
「好きに攻撃してきてね。受けながら指導するから」
「はい!」
ロアは少し腰を落として構えると、素手のコルネリアに向けてナイフを振り始める。
訓練なのに練習用ではなく普通のナイフを使っているのは、コルネリア曰く、「人に刃物を向けることに慣れるための訓練」を兼ねているためだった。
戦い慣れていない人間は、どんなに覚悟を決めていても人に刃物を向けることを躊躇してしまう。そういった感情が残っていると一瞬の迷いが生じ、命取りになりかねない。それを払拭するためには、訓練の時から普通のナイフに慣れるしかないとコルネリアは考えていた。
「今のはいい感じだけど、視線で狙いがバレバレだから気を付けて……そのナイフ、やっぱり良いわね……」
斬りつけられるロアのナイフをあえて紙一重で避けながら、コルネリアが呟く。
「ねぇ、やっぱり紹介してもらえないかしら? あ、足さばきが疎かになってきてるわよ」
そう言いながら、彼女は踏み込み過ぎたロアの足先をコツリと軽く蹴る。
ロアは話しかけてくるコルネリアの言葉に何とか答えようとするが、口を開くのを邪魔するようにコルネリアの手刀が飛んでくるため、それを避けるだけで精一杯で上手く話せない。コルネリアが話しかけているのも、それに答えようとしているロアの邪魔をするのも訓練の一環だ。
並列思考に、同時対応。
戦闘時に複数のことを同時に考え、こなせるようにするのが目的だった。
「紹介、するのは、いいんですっ!! がぁ!」
何とか答えようとするものの、今のロアでは途切れ途切れに声を発するだけでやっとだった。
元々、ロアは一つのことに集中すると、周りが見えなくなるタイプだ。何かをしながら別のことをこなすのは得意ではない。ましてや戦いながら会話するなど無茶に等しい。
「その鍛冶屋って、そんなに変わり者なの?」
「はっ、はい! くっ!」
「ふーん。でも、やっぱり紹介して欲しいな。今使ってる剣は間に合わせで買った物だから不満もあるし、こないだのゴーレムとの戦闘で、打撃武器も持っておいた方が良いかなって思ってたところだしね」
「はい!」
「その鍛冶屋の腕がいいのは、そのナイフを見れば分かるしね。ロアに鎧の調整方法を教えてくれたのもその人なんでしょ? あ、今のダメ。狙うなら手首の内側ね。腱を切れば相手は武器を持てなくなるし、出血も多いから、攻撃が決まれば一気に有利になるわよ」
「はい!」
「今なら懐も温かいし、ぜひ新しい武器を手に入れたいのよね」
「はい!」
「さっきから『はい』ばっかりになってきてるわよ。ちゃんと考えて話して」
「分かりまし、たっ!」
ナイフで攻撃するロアと、それを避け続けて話しかけるコルネリア。そんなやり取りが数十分続く。
コルネリアが、渋るロアから半ば強引に鍛冶屋を紹介する約束を取り付けた頃には、ロアは息切れで、言葉を発することすらできなくなっていた。
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