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1巻
1-2
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***
結果を先に言えば、問題なかった。
台所錬金術部の先輩たちはみんな気さくで、本当に普通の学生と変わらなかった。
ただ、やはり王子コンビは地位ある人なので、クラブ活動外ではそれなりに外面を整え、猫を被っているようだが、貴族とはそういうものだ。
ネモは二つ名持ちの錬金術師だが、彼女が二つ名持ちだということは本当に知られておらず、ただの女学生として学園生活を楽しんでいるらしい。
しかし、なぜ二つ名持ちの偉大な錬金術師である彼女が、わざわざ学園に通っているのだろうか? 不思議に思い聞いてみれば、意外な理由が返って来た。
「あー。それね。うーん……、確かに錬金術師はそこら辺の人間より知識量は多いけど、世の中、日々新しい技術とかが生まれてるわけ。百年前では最も効率的だった手法が、今ではやたらと手間がかかる手法に成り下がってたりするのよ。それを学んで比較して、今現在の最も良い方法を見つけるには、こうやって学園に入って学びなおすのが一番効率的だと思ったの」
なるほど、とレナは感心するように頷く。そして、やはり錬金術師とは『学び続ける人』なのだな、と尊敬の念を抱いた。
しかし、そこで口を挟んできたのがチアンだった。
「お前の場合はそれだけではないだろう。転生者のヘンリーが学園に入ると知って、奴を釣るために中庭でカレーの鍋をかき回してたではないか」
ネモはサッと視線を逸らし、知らんぷりをした。
どういうことかと尋ねれば、チアンは鉄面皮ながらも、瞳に悪戯っぽい光を湛えて言う。
「実はな、三年生の俺たちは全員転生者なのさ。それも、どうも同じ異世界らしくてな」
レナは目を丸くした。
転生者とは、前世の記憶を持つ者のことを指す。
転生者は町に行けば一人や二人はいると言われおり、珍しくはあるが騒ぐほどでもない。しかし、同じ異世界というのは珍しい。大体はこの世界か、無数にある異世界のどこかで、転生者同士の世界が重なることは滅多にない。
「こいつは『エアコン』という名の魔道具や、『漫画』を世に送り出した王子の話を聞いて、同じ異世界出身じゃないかと目を付けたんだ。全ては奴の金と権力を使って『醤油』や『味噌』を作るためにな」
思わずネモを見れば、彼女は明後日の方向を向いて、ぴっぷ~と下手な口笛を吹いていた。
チアンはそれを見て面白そうに微笑んだ。――顔が良すぎて目がくらみそうだ。
「ただ、やはりあいつも王子様だからな。そう簡単には近づけない。だから同じ学園に入って、この世界には存在しない料理であるカレーを作って奴を釣ったのさ」
「……まさか、アンタまで釣れるとは思わなかったけどね」
観念したようにネモは溜息をついた。
「まあ、良いのではないか? 奴も醤油や味噌に飢えていただろう」
「そうね。結果オーライかしら」
どうやら、今ヘンリーが行っているという新しい調味料造りの裏側にはネモがいたらしい。
ヘンリーは確かに政治的な地位は低いが、実は他の王族と比べても金持ちである。チアンが言うように『エアコン』を作り、絵も楽しめる物語である『漫画』を世に送り出している。
植物紙作りや印刷技術はその昔、どこかの転生者が創り出して世に広まり、今や庶民でも本が手に入りやすくなった。そこから漫画の普及という娯楽面での更なる発展を促したヘンリー王子は、その手の人間に神として崇められ、コアな信望者を獲得している。
「正直、某漫画の祭典の如き『漫画祭』が開催されてるとは知らなくて、何事かと思ったわ」
「あー……、私もそれには驚いた。奴はいったい何をしているのかと……」
微妙な顔をして苦笑し合う先輩二人に、レナは首を傾げる。
二人が言う『漫画祭』とは、ランタナ王国が夏に開催している漫画の祭典だ。素人からプロまで幅広い層の作家が描いた漫画が売られており、毎年各地から多くの人が訪れている。
「百合園の民や薔薇園の民が生まれちゃってさぁ……」
「うむ。あれはな……。なぜ私たちが申し訳なく思わねばならぬのか……」
深々と溜息をつく先輩二人に、百合やら薔薇だのとは何かと尋ねれば、知らなくて良い、むしろ知らないでくれ、と言われてしまった。
「それより、アレだ。味噌と醤油の進捗状況はどうなんだ?」
「あー、そうね。良い感じらしいわ。商品として売り出すのは来年くらいになるみたい。まあ、最初だから売れる数はお察しだけどね」
「そうか、楽しみだな」
あははーと、実にわざとらしい話題転換を経て、二人は空笑いする。
どうやら触れてほしくない話題のようだ、と察して、良い子のレナは先輩の話題転換に乗ることにした。
「その『ショウユ』や『ミソ』ってなんですか?」
二人は少しホッとした様子でそれに答えてくれた。
「醤油や味噌っていうのは、私たちが異世界で食べていた発酵調味料のことよ」
「まさに故郷の味というやつでな。探してもなくてなぁ……。魚醤ならあったんだが……」
やはり原料が違うと味が違う、と残念そうにチアンは言う。
「美味しいんですか?」
「美味しいわよ~」
「ネモ、お前は自家製味噌を作っていただろう。今度豚汁を作らないか?」
ああ、それも良いわね、とネモが頷く。
「今度食べさせてあげるから、楽しみにしててね」
「はい、楽しみにしてます!」
そして数日後、約束通りに作ってくれた『トンジル』という具沢山のスープはとても美味しくて、レナはヘンリーがショウユとミソを市場に売り出す日が待ち遠しくなった。
「そんなに気に入ったなら、同じクラブのよしみで直接売ってやるよ。多分、今のままだと店先に並ぶのはもう少し先になると思うからな」
ヘンリーのまさかの申し出に、レナが喜んだのは言うまでもない。
***
二年生の先輩、イヴァン・ウッドは心配性だ。
しかし、これはレナが入部早々に倒れたのがいけなかった。
どうにもイヴァンはレナのことをか弱い少女とでも思っているらしく、オドオドしながら色々と手助けしようとしてくれる。
「そ、その鍋、重いでしょ? 僕が持つよ」
「大丈夫ですよ、これくらい持てます!」
ネモによるとイヴァンは人付き合いが苦手で、ついオドオドした態度をとってしまうそうだ。慣れるまで待ってあげてと言われたこともあって、レナはのんびり待つつもりだ。
それに誤解とはいえ、レナのことを心配して気にかけてくれるのだから優しい人であることは分かっていた。
「イヴァン先輩、私は別に病弱とかじゃないんですから、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ?」
「う、うん。それは分かってるんだけど……」
レナは小さいから……、と続いた言葉に、思わずムッとする。
「私の身長はこれから伸びるんです!」
「えっ、あっ、そうだね。ご、ごめんね?」
丸くなっていた背をますます縮こまらせて謝るイヴァンに、仕方ないなぁ、と小さく溜息をつく。
そんなやり取りをしていると、不意に部室のドアが開けられた。
ドアから顔を出し、部室に入ってきたのはネモだった。ネモは丸まっていたイヴァンの背を見て、柳眉を逆立てた。
「イヴァン、猫背!」
「は、はいぃぃぃ!」
バシーン! と景気よくひっ叩かれ、びょん、とイヴァンの背が伸びる。
目線が格段に上がったイヴァンを見て、レナは思わず口にした。
「イヴァン先輩は育ち過ぎじゃないですか?」
「えっ、えっと……」
どう見ても一八〇センチメートル近くあるだろうイヴァンに、嫉妬交じりの視線を突き刺せば、彼はやっぱりオロオロと挙動不審になる。
そのままじっとイヴァンの顔を見上げていると、あることに気づいた。この先輩、もしかすると結構な美男子かもしれない。
鳥の巣の如きボサボサ頭に気を取られて見落としていたが、よく見れば鼻筋も、顔の輪郭だって悪くないように見える。目元が見えればはっきりするのだが……
「……先輩、その前髪は邪魔じゃないんですか?」
「えっ? いや、えっと、別に気にならないし……、この方が落ち着く……」
ボソボソと小さい声での返答に、もったいないなぁ、と思う。
そして、再び丸まってきたその背中を、部長様に倣って「先輩、猫背!」と言ってひっ叩いたのだった。
第二章 恋のライバル
レナの学園生活はそれなりに充実し、特にクラブ活動は楽しいものだったが、それに反して、エドガーと過ごす時間はあまり良いものではなくなってきていた。
それというのも、彼はレナが知らぬ間に女の子の友人を増やし、その子たちが馴れ馴れしく彼に近づいて来たからだ。
そう、恋のライバルの登場であった。
「エド、その人、誰?」
買い物の約束をして、待ち合わせ場所で待っていると、エドガーが現れた。
――金の巻き毛が美しい、青い瞳の美少女を腕に引っ付けて。
思わず眦が釣り上がる。
嫉妬の滲む硬い声の問いに、エドガーは少し困ったように笑んだ。
「この人は俺たちと同じ学園に通うアニエス・プレストンさんだよ。ちょっと前、クラブ活動中に出会ったんだ」
エドガーが言うには、魔法剣士養成部の野外活動で森に入り、そこで魔物に襲われていたアニエスを助けたのだという。
「……それで?」
「えっと――」
「私から説明するわ!」
アニエスが胸を張って前に出る。その時にゆさっと揺れた胸と、ストンと凹凸が少ない自分の胸とを見比べて、思わず歯軋りしそうになる。
アニエスがなぜここにいるかというと、今回の買い物に、自分の実家が経営する商店を薦めに来たのだと言う。
「命を助けていただいたのですから、お礼に全て無料でお譲りするように、とお父様から言いつかっているの!」
アニエスは大商人の娘で、プレストン家の当主である彼女の父親は、三人の娘達をそれはもう目に入れても痛くない程に可愛がっている。
可愛いアニエスの命の恩人となれば、店にあるものなら幾らでも持って行ってくれ、と豪快なことを言っていたのだ。
「べ、別に、貰っていただくのは私でも良いのだけど……」
小さく付け加えられた言葉はエドガーには聞こえず、レナにだけ聞こえていた。
レナは鋭くアニエスを睨み付けるも、すぐに咳払いして内心を隠し、笑顔を張り付けて言う。
「まあ、そうだったの! エドは人助けをしたのね! 偉いわ! けど、エドはお礼が欲しくて貴女を助けたわけじゃないと思うの! そうよね、エド?」
ニッコリと圧のある笑顔を向けられ、エドガーは引き攣った笑みを浮かべて大人しく同意する。
「そ、そうだな。わざわざそんなお礼はいらないよ。気にしないでくれ」
エドガーはただの平民だ。何かしらお礼に一つちょっとした物をいただくというのならまだしも、全部タダというのはちょっと重い。
しかし、そこで引かないのが商人の娘だ。
利益を得るため、ありとあらゆる手段を用いるのは常識である。
「まあ。謙虚なのね。それじゃあ、割引するのはどうかしら? 貴方のお友達もせっかくだから割引するわ!」
『お友達』を強調し、お邪魔虫にも寛容な態度を示してあげるとばかりに見下され、レナの笑顔にヒビが入りそうになる。
「割引……」
腹立たしさに煮えくり返るレナの内心を知らず、エドガーはその誘いに心が揺り動かされていた。
「レナ、せっかくだし、割引なら良いんじゃないかな?」
「歓迎するわ!」
乗り気になったエドガーに、アニエスが笑顔で飛びついた。腕に胸を押し付けるようなスキンシップに、エドガーが赤くなってあわあわと慌てているのが腹立たしい。レナでは絶対にその反応は引き出せない。
レナはべりっと音がしそうな勢いでアニエスを引き剥がして、微笑んだ。
「ウフフ、私は遠慮しますね! 私がアニエスさんを助けたわけじゃないので、そんな厚かましいことはできないわ」
「あら、気にしなくても良いのに!」
笑顔は威嚇の動作とはよく言ったものだ。まさにその言葉の通り、笑顔の応酬の裏で、カーンと戦いのゴングが高らかに鳴ったのだった。
***
まさかの恋敵出現に、レナは焦った。
エドガーを取られまいと彼の傍にできる限りいるようにし、自分に磨きをかけた。
恋する乙女として美容に励むレナに協力してくれたのは、同じ乙女であるネモだった。
「十代の乙女の青春! うっ、眩しい……!」
「お前の青春は大昔の話だもんな」
余計なことを言ってヘンリーが尻を蹴飛ばされていたが、ネモは錬金術で作る素晴らしい効果がある美容液や、ヘアパックの作り方を教えてくれた。
おかげでレナの肌は赤ちゃんのようなたまご肌になり、黒のボブカットは艶を増した。
先輩たちはレナの努力の成果を口々に褒め、未だにレナに慣れないイヴァンですら、どもりながら「き、綺麗になったね」と言ってくれ、レナは自信を付けた。
そうやってレナとアニエスがエドガーを挟んで睨み合う日々がしばらく続いたが、ある日またしてもその日常に変化が訪れた。
「はじめまして。アヤメ・タチバナと申します」
増えた。
女が――恋敵が増えたのだ!
よろしゅうおたの申します、とはんなり微笑んだのは、癖の無い長い艶やかな黒髪に黒い目をした美少女だった。一目で東方の出と分かるいでたちで、垂れた目が優しげなのに、左眼の下の泣き黒子のせいで妙に色気を感じる。
愕然とするレナの隣で、アニエスがアヤメを睨み付けている。
「それで、その子がどうしたの?」
「ああ、うん、実は……」
エドガーが言うには、彼女は東方の島国の貴族の出で、望まぬ婚姻から逃れるためにここ、ランタナ王国の魔法学園に留学して来たのだという。
「ですけど、ここでも困ったお方に目を付けられて……」
憂鬱そうに溜息をつく姿が色っぽい。
「うちの実家もそこそこええ家なんですけど、その方にはよう分からんかったようで、無理やり妾にされそうになったんどす」
東方の貴族の階級はランタナ王国周辺とは違う上、遠方故に付き合いが薄い。そのためランタナ王国の貴族の中には知識不足なせいで向こうの官職や位階を言われても分からない者もいる。今回アヤメが出会った男も、そういう部類の無礼な人間だったのだろう。
後日それを知ったヘンリーが、「アヤメ嬢は大納言の娘だぞ!? 政治を司ることのできる上層部――つまり、上流貴族だ! 外交問題じゃないか!」と激怒し、部室を飛び出すことになるのだが、それはまた別の話だ。
とにかくアヤメはそんな男に絡まれて困っていたところをエドガーの機転にて脱し、撒いて来たのだという。
「実家に連絡して抗議しようにも、時間がかかるし、それまでに実力行使されそうで……」
青ざめ、鳥肌を立てた腕をさするアヤメに、さすがにレナやアニエスも同情した。
「大変じゃない。大丈夫?」
「あの、私が所属するクラブに地位のある方がいるので、相談してみましょうか?」
二人の気遣いに彼女は眉を下げ、レナの申し出には、「頼みます」と申し訳なさそうに頷いた。
その後、レナはヘンリーに助けを求めて走ったが、ヘンリーは残念ながら用事で学園を休んでいた。帰って来るのがいつになるか分からず、ただの平民であるレナは待つことしかできない。
「あー……、それは困ったわね。チアン、アンタはなんとかできない?」
「無茶を言うな。他国であるうえ、私は第十八皇子なのだぞ? ヘンリーに連絡を入れることすら時間がかかる」
難しい顔をするネモとチアンに、レナは思わずイヴァンを見るが、高速で首を横に振られてしまった。
「皇子殿下であるチアン殿下ですら時間がかかるんだよ? うちは伯爵といえど、実情は名ばかりの木っ端貴族なんだ。しかも、五男坊の僕の進言なんて、ヘンリー殿下のところまで行くのにどれだけ時間がかかるか!」
確かに事は外交問題に繋がる危険性をはらむが、それを理解せずに絡む貴族がいるように、途中に入る役人に重大さが理解されず、進言が後に回されたり、悪くすればなかったことにされる可能性すらある。
ネモは二つ名持ちの錬金術師だし、チアンは他国の皇族だ。公にして交流をすれば面倒が起こる可能性があったため、これまで彼等はあくまで気楽なクラブ仲間というスタンスを崩さなかった。公務中に連絡を入れるなどという記録に残りそうな手段をとったことがなく、その必要も今まではなかった。そのためすぐに連絡ができるような手段を持っておらず、今日初めて困った事態に遭遇していた。
「まずいことになったわ。ヘンリーは王城暮らしだから、家に乗り込むなんて無理だしね……」
「奴のビジネスパートナーのところへ行くか? 印刷所や商家から連絡を入れてもらった方が早そうだ」
先輩たちの話し合いをハラハラしながら聞いていたレナの隣で、イヴァンが何かに気づいたようにポツリと零した。
「そういえば、ショウユやミソの原料って、東方の豆ですよね? これで何かあれば、豆の輸入がストップするんじゃ?」
それを聞いたネモとチアンは一瞬固まり、悲鳴を上げた。
「そうよ! そうだったわ! 大豆はまだ東方に頼ってたわ!」
「まずいぞ。この国で大豆の生産はまだ試験段階だ。ここで大豆の輸入に制限をかけられたら……」
二人の真剣味が増した。悲しいかな、この二人を動かすには、良心よりも食欲で釣るべきだと確信させられる光景だった。実に酷い光景である。
それぞれが伝手を辿り、ヘンリーに連絡を入れようと動いたが、ヘンリーに連絡が行く前に、件の知識不足の貴族の坊ちゃんが仕掛けて来た。
力ずくでアヤメを奪おうとしたのだ。
しかし、エドガーはそれをどうにか防ぎ、アヤメを守り切った。
現場にいなかったレナがその報告を聞いた時、アヤメはうっとりと頬を上気させていた。
「本当に、ステキでしたわぁ」
「いや、俺はただソウメイさんが来るまで時間稼ぎしただけで……」
ソウメイというのはアヤメの使用人の一人なのだが、かなりの剣の腕前で、護衛を兼ねて彼女についている一人だ。本来なら彼がずっとアヤメについていたのだが、隙をつかれて分断され、アヤメとエドガーで逃げ回る羽目に陥ったそうだ。
しかしソウメイが来るまでエドガーが彼女を守り切ったらしい。
「俺なんか切り結ぶのが精いっぱいだったのに、ソウメイさんは一瞬であいつらを叩き伏せてたし……」
どうやらエドガーは己の力不足をまざまざと感じさせられたらしい。
俯いて悔しそうな顔をするエドガーの手を、レナはそっと握る。
「ねえ、エド。エドはまだ学園に入って剣を学び始めたばかりでしょう?」
「うん……」
故郷で剣を振り、魔法を独学で学んでいたが、正式に学び始めたのは学園に入ってからだ。特に彼が入った魔法剣士養成部は、良い学びの場になっていると聞いていた。
「貴方はまだ歩き始めたばかりなのよ? これからなの。これからどうするかで、未来の貴方が決まる。ここで剣を振るのをやめるなんてこと、しないでしょう?」
そろりと顔を上げたエドガーの目に、優しく、そして心からエドガーを信じているレナの緑色の瞳が飛び込んでくる。
「……ああ、もちろんだよ。俺は、これからも剣を振り続ける!」
決意を新たにしたエドガーに、レナは嬉しそうに微笑んだ。
その後、アニエスとアヤメが二人の間に割り込み、グダグダになって報告会は終了した。
翌日にヘンリーが学園に戻ってきたため、連絡よりも前にその場での報告が行われた。激怒したヘンリーによって例の貴族のボンボンは王族直々に叱責され、屋敷に蟄居の身となった。
こうしてアヤメの問題は解決し、エドガーはアヤメから是非お礼をさせてほしいとの申し出を受けた。
それを聞いたエドガーは遠慮することなくソウメイからの稽古をお願いした。
「これを逃したら、ソウメイさんみたいな剣豪に稽古してもらうなんて機会はなさそうだったから……」
そう言って苦笑いしながら頬を掻くエドガーに、確かに、とレナは頷いた。
それからの生活にはアヤメが加わるようになり、エドガーの周りは更に騒がしくなった。
エドガーを中心にして彼を取り合うことが続く日々。冬休みに突入し、レナとエドガーは帰省することになった。
レナの家族はやはりレナをぞんざいに扱ったし、家族の中心は兄と姉だった。
兄は仕事でどんな地位につき、手柄を立てたかを誇らしげに話し、姉は自分の研究の成果を自慢していた。
しかし、それを聞いたレナは思わず首をひねった。
昔は凄いと思って聞いていたそれを、今は凄いとは思えなくなっていたのだ。
「ネモ先輩たちの方が凄い……」
思わずこぼれた本音は、その小ささ故に家族には聞こえなかった。
そう。レナは兄や姉より、凄い人を知ってしまったのだ。
まず、王族二人。ヘンリー王子は手広く様々な事業に関わっており、常に忙しそうに仕事をしている。例えば趣味の延長線上だったはずが、馬鹿にできない規模になった漫画業界の事業。爆発的に広がったエアコンなどの魔道具。ショウユやミソなどの調味料。二年前には洗濯機なんてものも誕生し、お陰でヘンリー王子は主婦層から人気が高くなった。
チアン皇子はまずその美貌に目が行きがちだが、とにかくあの人は要領が良い。なんというか、人の使い方が上手いのだ。
人をよく見ていて、誰に何が向いているのかを把握しており、助言して恩を売り、学内でなかなか良い地位を築いている。顔の良さもさることながら、魅力ある人で、カリスマ性もある。人の上に立つことに向いている人間だろう。
二つ名持ちの錬金術師であるネモは、もちろんとんでもない錬金術の腕前を持っている。
『台所錬金術部』の名の通り、彼女は台所でできる錬金術を行うのだが、そのレベルが明らかにおかしいのだ。
ある日、小鍋を使って何かを作っている彼女にレナが鍋の中身を尋ねたところ、返って来た答えに仰天したことがあった。
「ああ、これ? これはマジックポーションよ」
マジックポーションの製作は錬金術師や薬師が一流になるための登竜門と呼ばれているくらいで、作るのが難しいポーションだ。加える魔力の操作が難しく、なかなか成功しないのだ。
それを、三分クッキングばりの気軽さでネモは作っていた。
呆然とするレナに、イヴァンが黙って首を横に振っていたのが印象に残っている。
さて、そんなネモを師匠と呼び慕い、ネモに天才と言わしめるイヴァンもまた、普通ではない。
レナには欠片も分からない高度な議論をネモと交わし、ネモから出された途轍もなく難しい課題を次々とこなしていくのを何度も見た。
もちろんその課題をこなすのはイヴァンといえど簡単ではなく、尋常ならざる集中力と努力でもって乗り越えているのをレナは知っている。
天才がどうやって作られるのかを、レナは彼を見て知った。
そうやってもの凄い速さで走り続けている人たちを知っていると、兄や姉の話を聞いても、ふーん、頑張ってるんだ、という感想しか出てこなかった。昔、確かに感じていたはずの嫉妬心を欠片も抱かなくなっているのが少し不思議だった。
それが家族への執着が薄くなっていたからだと気づいたのは、もう少し後になってからだ。
結果を先に言えば、問題なかった。
台所錬金術部の先輩たちはみんな気さくで、本当に普通の学生と変わらなかった。
ただ、やはり王子コンビは地位ある人なので、クラブ活動外ではそれなりに外面を整え、猫を被っているようだが、貴族とはそういうものだ。
ネモは二つ名持ちの錬金術師だが、彼女が二つ名持ちだということは本当に知られておらず、ただの女学生として学園生活を楽しんでいるらしい。
しかし、なぜ二つ名持ちの偉大な錬金術師である彼女が、わざわざ学園に通っているのだろうか? 不思議に思い聞いてみれば、意外な理由が返って来た。
「あー。それね。うーん……、確かに錬金術師はそこら辺の人間より知識量は多いけど、世の中、日々新しい技術とかが生まれてるわけ。百年前では最も効率的だった手法が、今ではやたらと手間がかかる手法に成り下がってたりするのよ。それを学んで比較して、今現在の最も良い方法を見つけるには、こうやって学園に入って学びなおすのが一番効率的だと思ったの」
なるほど、とレナは感心するように頷く。そして、やはり錬金術師とは『学び続ける人』なのだな、と尊敬の念を抱いた。
しかし、そこで口を挟んできたのがチアンだった。
「お前の場合はそれだけではないだろう。転生者のヘンリーが学園に入ると知って、奴を釣るために中庭でカレーの鍋をかき回してたではないか」
ネモはサッと視線を逸らし、知らんぷりをした。
どういうことかと尋ねれば、チアンは鉄面皮ながらも、瞳に悪戯っぽい光を湛えて言う。
「実はな、三年生の俺たちは全員転生者なのさ。それも、どうも同じ異世界らしくてな」
レナは目を丸くした。
転生者とは、前世の記憶を持つ者のことを指す。
転生者は町に行けば一人や二人はいると言われおり、珍しくはあるが騒ぐほどでもない。しかし、同じ異世界というのは珍しい。大体はこの世界か、無数にある異世界のどこかで、転生者同士の世界が重なることは滅多にない。
「こいつは『エアコン』という名の魔道具や、『漫画』を世に送り出した王子の話を聞いて、同じ異世界出身じゃないかと目を付けたんだ。全ては奴の金と権力を使って『醤油』や『味噌』を作るためにな」
思わずネモを見れば、彼女は明後日の方向を向いて、ぴっぷ~と下手な口笛を吹いていた。
チアンはそれを見て面白そうに微笑んだ。――顔が良すぎて目がくらみそうだ。
「ただ、やはりあいつも王子様だからな。そう簡単には近づけない。だから同じ学園に入って、この世界には存在しない料理であるカレーを作って奴を釣ったのさ」
「……まさか、アンタまで釣れるとは思わなかったけどね」
観念したようにネモは溜息をついた。
「まあ、良いのではないか? 奴も醤油や味噌に飢えていただろう」
「そうね。結果オーライかしら」
どうやら、今ヘンリーが行っているという新しい調味料造りの裏側にはネモがいたらしい。
ヘンリーは確かに政治的な地位は低いが、実は他の王族と比べても金持ちである。チアンが言うように『エアコン』を作り、絵も楽しめる物語である『漫画』を世に送り出している。
植物紙作りや印刷技術はその昔、どこかの転生者が創り出して世に広まり、今や庶民でも本が手に入りやすくなった。そこから漫画の普及という娯楽面での更なる発展を促したヘンリー王子は、その手の人間に神として崇められ、コアな信望者を獲得している。
「正直、某漫画の祭典の如き『漫画祭』が開催されてるとは知らなくて、何事かと思ったわ」
「あー……、私もそれには驚いた。奴はいったい何をしているのかと……」
微妙な顔をして苦笑し合う先輩二人に、レナは首を傾げる。
二人が言う『漫画祭』とは、ランタナ王国が夏に開催している漫画の祭典だ。素人からプロまで幅広い層の作家が描いた漫画が売られており、毎年各地から多くの人が訪れている。
「百合園の民や薔薇園の民が生まれちゃってさぁ……」
「うむ。あれはな……。なぜ私たちが申し訳なく思わねばならぬのか……」
深々と溜息をつく先輩二人に、百合やら薔薇だのとは何かと尋ねれば、知らなくて良い、むしろ知らないでくれ、と言われてしまった。
「それより、アレだ。味噌と醤油の進捗状況はどうなんだ?」
「あー、そうね。良い感じらしいわ。商品として売り出すのは来年くらいになるみたい。まあ、最初だから売れる数はお察しだけどね」
「そうか、楽しみだな」
あははーと、実にわざとらしい話題転換を経て、二人は空笑いする。
どうやら触れてほしくない話題のようだ、と察して、良い子のレナは先輩の話題転換に乗ることにした。
「その『ショウユ』や『ミソ』ってなんですか?」
二人は少しホッとした様子でそれに答えてくれた。
「醤油や味噌っていうのは、私たちが異世界で食べていた発酵調味料のことよ」
「まさに故郷の味というやつでな。探してもなくてなぁ……。魚醤ならあったんだが……」
やはり原料が違うと味が違う、と残念そうにチアンは言う。
「美味しいんですか?」
「美味しいわよ~」
「ネモ、お前は自家製味噌を作っていただろう。今度豚汁を作らないか?」
ああ、それも良いわね、とネモが頷く。
「今度食べさせてあげるから、楽しみにしててね」
「はい、楽しみにしてます!」
そして数日後、約束通りに作ってくれた『トンジル』という具沢山のスープはとても美味しくて、レナはヘンリーがショウユとミソを市場に売り出す日が待ち遠しくなった。
「そんなに気に入ったなら、同じクラブのよしみで直接売ってやるよ。多分、今のままだと店先に並ぶのはもう少し先になると思うからな」
ヘンリーのまさかの申し出に、レナが喜んだのは言うまでもない。
***
二年生の先輩、イヴァン・ウッドは心配性だ。
しかし、これはレナが入部早々に倒れたのがいけなかった。
どうにもイヴァンはレナのことをか弱い少女とでも思っているらしく、オドオドしながら色々と手助けしようとしてくれる。
「そ、その鍋、重いでしょ? 僕が持つよ」
「大丈夫ですよ、これくらい持てます!」
ネモによるとイヴァンは人付き合いが苦手で、ついオドオドした態度をとってしまうそうだ。慣れるまで待ってあげてと言われたこともあって、レナはのんびり待つつもりだ。
それに誤解とはいえ、レナのことを心配して気にかけてくれるのだから優しい人であることは分かっていた。
「イヴァン先輩、私は別に病弱とかじゃないんですから、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ?」
「う、うん。それは分かってるんだけど……」
レナは小さいから……、と続いた言葉に、思わずムッとする。
「私の身長はこれから伸びるんです!」
「えっ、あっ、そうだね。ご、ごめんね?」
丸くなっていた背をますます縮こまらせて謝るイヴァンに、仕方ないなぁ、と小さく溜息をつく。
そんなやり取りをしていると、不意に部室のドアが開けられた。
ドアから顔を出し、部室に入ってきたのはネモだった。ネモは丸まっていたイヴァンの背を見て、柳眉を逆立てた。
「イヴァン、猫背!」
「は、はいぃぃぃ!」
バシーン! と景気よくひっ叩かれ、びょん、とイヴァンの背が伸びる。
目線が格段に上がったイヴァンを見て、レナは思わず口にした。
「イヴァン先輩は育ち過ぎじゃないですか?」
「えっ、えっと……」
どう見ても一八〇センチメートル近くあるだろうイヴァンに、嫉妬交じりの視線を突き刺せば、彼はやっぱりオロオロと挙動不審になる。
そのままじっとイヴァンの顔を見上げていると、あることに気づいた。この先輩、もしかすると結構な美男子かもしれない。
鳥の巣の如きボサボサ頭に気を取られて見落としていたが、よく見れば鼻筋も、顔の輪郭だって悪くないように見える。目元が見えればはっきりするのだが……
「……先輩、その前髪は邪魔じゃないんですか?」
「えっ? いや、えっと、別に気にならないし……、この方が落ち着く……」
ボソボソと小さい声での返答に、もったいないなぁ、と思う。
そして、再び丸まってきたその背中を、部長様に倣って「先輩、猫背!」と言ってひっ叩いたのだった。
第二章 恋のライバル
レナの学園生活はそれなりに充実し、特にクラブ活動は楽しいものだったが、それに反して、エドガーと過ごす時間はあまり良いものではなくなってきていた。
それというのも、彼はレナが知らぬ間に女の子の友人を増やし、その子たちが馴れ馴れしく彼に近づいて来たからだ。
そう、恋のライバルの登場であった。
「エド、その人、誰?」
買い物の約束をして、待ち合わせ場所で待っていると、エドガーが現れた。
――金の巻き毛が美しい、青い瞳の美少女を腕に引っ付けて。
思わず眦が釣り上がる。
嫉妬の滲む硬い声の問いに、エドガーは少し困ったように笑んだ。
「この人は俺たちと同じ学園に通うアニエス・プレストンさんだよ。ちょっと前、クラブ活動中に出会ったんだ」
エドガーが言うには、魔法剣士養成部の野外活動で森に入り、そこで魔物に襲われていたアニエスを助けたのだという。
「……それで?」
「えっと――」
「私から説明するわ!」
アニエスが胸を張って前に出る。その時にゆさっと揺れた胸と、ストンと凹凸が少ない自分の胸とを見比べて、思わず歯軋りしそうになる。
アニエスがなぜここにいるかというと、今回の買い物に、自分の実家が経営する商店を薦めに来たのだと言う。
「命を助けていただいたのですから、お礼に全て無料でお譲りするように、とお父様から言いつかっているの!」
アニエスは大商人の娘で、プレストン家の当主である彼女の父親は、三人の娘達をそれはもう目に入れても痛くない程に可愛がっている。
可愛いアニエスの命の恩人となれば、店にあるものなら幾らでも持って行ってくれ、と豪快なことを言っていたのだ。
「べ、別に、貰っていただくのは私でも良いのだけど……」
小さく付け加えられた言葉はエドガーには聞こえず、レナにだけ聞こえていた。
レナは鋭くアニエスを睨み付けるも、すぐに咳払いして内心を隠し、笑顔を張り付けて言う。
「まあ、そうだったの! エドは人助けをしたのね! 偉いわ! けど、エドはお礼が欲しくて貴女を助けたわけじゃないと思うの! そうよね、エド?」
ニッコリと圧のある笑顔を向けられ、エドガーは引き攣った笑みを浮かべて大人しく同意する。
「そ、そうだな。わざわざそんなお礼はいらないよ。気にしないでくれ」
エドガーはただの平民だ。何かしらお礼に一つちょっとした物をいただくというのならまだしも、全部タダというのはちょっと重い。
しかし、そこで引かないのが商人の娘だ。
利益を得るため、ありとあらゆる手段を用いるのは常識である。
「まあ。謙虚なのね。それじゃあ、割引するのはどうかしら? 貴方のお友達もせっかくだから割引するわ!」
『お友達』を強調し、お邪魔虫にも寛容な態度を示してあげるとばかりに見下され、レナの笑顔にヒビが入りそうになる。
「割引……」
腹立たしさに煮えくり返るレナの内心を知らず、エドガーはその誘いに心が揺り動かされていた。
「レナ、せっかくだし、割引なら良いんじゃないかな?」
「歓迎するわ!」
乗り気になったエドガーに、アニエスが笑顔で飛びついた。腕に胸を押し付けるようなスキンシップに、エドガーが赤くなってあわあわと慌てているのが腹立たしい。レナでは絶対にその反応は引き出せない。
レナはべりっと音がしそうな勢いでアニエスを引き剥がして、微笑んだ。
「ウフフ、私は遠慮しますね! 私がアニエスさんを助けたわけじゃないので、そんな厚かましいことはできないわ」
「あら、気にしなくても良いのに!」
笑顔は威嚇の動作とはよく言ったものだ。まさにその言葉の通り、笑顔の応酬の裏で、カーンと戦いのゴングが高らかに鳴ったのだった。
***
まさかの恋敵出現に、レナは焦った。
エドガーを取られまいと彼の傍にできる限りいるようにし、自分に磨きをかけた。
恋する乙女として美容に励むレナに協力してくれたのは、同じ乙女であるネモだった。
「十代の乙女の青春! うっ、眩しい……!」
「お前の青春は大昔の話だもんな」
余計なことを言ってヘンリーが尻を蹴飛ばされていたが、ネモは錬金術で作る素晴らしい効果がある美容液や、ヘアパックの作り方を教えてくれた。
おかげでレナの肌は赤ちゃんのようなたまご肌になり、黒のボブカットは艶を増した。
先輩たちはレナの努力の成果を口々に褒め、未だにレナに慣れないイヴァンですら、どもりながら「き、綺麗になったね」と言ってくれ、レナは自信を付けた。
そうやってレナとアニエスがエドガーを挟んで睨み合う日々がしばらく続いたが、ある日またしてもその日常に変化が訪れた。
「はじめまして。アヤメ・タチバナと申します」
増えた。
女が――恋敵が増えたのだ!
よろしゅうおたの申します、とはんなり微笑んだのは、癖の無い長い艶やかな黒髪に黒い目をした美少女だった。一目で東方の出と分かるいでたちで、垂れた目が優しげなのに、左眼の下の泣き黒子のせいで妙に色気を感じる。
愕然とするレナの隣で、アニエスがアヤメを睨み付けている。
「それで、その子がどうしたの?」
「ああ、うん、実は……」
エドガーが言うには、彼女は東方の島国の貴族の出で、望まぬ婚姻から逃れるためにここ、ランタナ王国の魔法学園に留学して来たのだという。
「ですけど、ここでも困ったお方に目を付けられて……」
憂鬱そうに溜息をつく姿が色っぽい。
「うちの実家もそこそこええ家なんですけど、その方にはよう分からんかったようで、無理やり妾にされそうになったんどす」
東方の貴族の階級はランタナ王国周辺とは違う上、遠方故に付き合いが薄い。そのためランタナ王国の貴族の中には知識不足なせいで向こうの官職や位階を言われても分からない者もいる。今回アヤメが出会った男も、そういう部類の無礼な人間だったのだろう。
後日それを知ったヘンリーが、「アヤメ嬢は大納言の娘だぞ!? 政治を司ることのできる上層部――つまり、上流貴族だ! 外交問題じゃないか!」と激怒し、部室を飛び出すことになるのだが、それはまた別の話だ。
とにかくアヤメはそんな男に絡まれて困っていたところをエドガーの機転にて脱し、撒いて来たのだという。
「実家に連絡して抗議しようにも、時間がかかるし、それまでに実力行使されそうで……」
青ざめ、鳥肌を立てた腕をさするアヤメに、さすがにレナやアニエスも同情した。
「大変じゃない。大丈夫?」
「あの、私が所属するクラブに地位のある方がいるので、相談してみましょうか?」
二人の気遣いに彼女は眉を下げ、レナの申し出には、「頼みます」と申し訳なさそうに頷いた。
その後、レナはヘンリーに助けを求めて走ったが、ヘンリーは残念ながら用事で学園を休んでいた。帰って来るのがいつになるか分からず、ただの平民であるレナは待つことしかできない。
「あー……、それは困ったわね。チアン、アンタはなんとかできない?」
「無茶を言うな。他国であるうえ、私は第十八皇子なのだぞ? ヘンリーに連絡を入れることすら時間がかかる」
難しい顔をするネモとチアンに、レナは思わずイヴァンを見るが、高速で首を横に振られてしまった。
「皇子殿下であるチアン殿下ですら時間がかかるんだよ? うちは伯爵といえど、実情は名ばかりの木っ端貴族なんだ。しかも、五男坊の僕の進言なんて、ヘンリー殿下のところまで行くのにどれだけ時間がかかるか!」
確かに事は外交問題に繋がる危険性をはらむが、それを理解せずに絡む貴族がいるように、途中に入る役人に重大さが理解されず、進言が後に回されたり、悪くすればなかったことにされる可能性すらある。
ネモは二つ名持ちの錬金術師だし、チアンは他国の皇族だ。公にして交流をすれば面倒が起こる可能性があったため、これまで彼等はあくまで気楽なクラブ仲間というスタンスを崩さなかった。公務中に連絡を入れるなどという記録に残りそうな手段をとったことがなく、その必要も今まではなかった。そのためすぐに連絡ができるような手段を持っておらず、今日初めて困った事態に遭遇していた。
「まずいことになったわ。ヘンリーは王城暮らしだから、家に乗り込むなんて無理だしね……」
「奴のビジネスパートナーのところへ行くか? 印刷所や商家から連絡を入れてもらった方が早そうだ」
先輩たちの話し合いをハラハラしながら聞いていたレナの隣で、イヴァンが何かに気づいたようにポツリと零した。
「そういえば、ショウユやミソの原料って、東方の豆ですよね? これで何かあれば、豆の輸入がストップするんじゃ?」
それを聞いたネモとチアンは一瞬固まり、悲鳴を上げた。
「そうよ! そうだったわ! 大豆はまだ東方に頼ってたわ!」
「まずいぞ。この国で大豆の生産はまだ試験段階だ。ここで大豆の輸入に制限をかけられたら……」
二人の真剣味が増した。悲しいかな、この二人を動かすには、良心よりも食欲で釣るべきだと確信させられる光景だった。実に酷い光景である。
それぞれが伝手を辿り、ヘンリーに連絡を入れようと動いたが、ヘンリーに連絡が行く前に、件の知識不足の貴族の坊ちゃんが仕掛けて来た。
力ずくでアヤメを奪おうとしたのだ。
しかし、エドガーはそれをどうにか防ぎ、アヤメを守り切った。
現場にいなかったレナがその報告を聞いた時、アヤメはうっとりと頬を上気させていた。
「本当に、ステキでしたわぁ」
「いや、俺はただソウメイさんが来るまで時間稼ぎしただけで……」
ソウメイというのはアヤメの使用人の一人なのだが、かなりの剣の腕前で、護衛を兼ねて彼女についている一人だ。本来なら彼がずっとアヤメについていたのだが、隙をつかれて分断され、アヤメとエドガーで逃げ回る羽目に陥ったそうだ。
しかしソウメイが来るまでエドガーが彼女を守り切ったらしい。
「俺なんか切り結ぶのが精いっぱいだったのに、ソウメイさんは一瞬であいつらを叩き伏せてたし……」
どうやらエドガーは己の力不足をまざまざと感じさせられたらしい。
俯いて悔しそうな顔をするエドガーの手を、レナはそっと握る。
「ねえ、エド。エドはまだ学園に入って剣を学び始めたばかりでしょう?」
「うん……」
故郷で剣を振り、魔法を独学で学んでいたが、正式に学び始めたのは学園に入ってからだ。特に彼が入った魔法剣士養成部は、良い学びの場になっていると聞いていた。
「貴方はまだ歩き始めたばかりなのよ? これからなの。これからどうするかで、未来の貴方が決まる。ここで剣を振るのをやめるなんてこと、しないでしょう?」
そろりと顔を上げたエドガーの目に、優しく、そして心からエドガーを信じているレナの緑色の瞳が飛び込んでくる。
「……ああ、もちろんだよ。俺は、これからも剣を振り続ける!」
決意を新たにしたエドガーに、レナは嬉しそうに微笑んだ。
その後、アニエスとアヤメが二人の間に割り込み、グダグダになって報告会は終了した。
翌日にヘンリーが学園に戻ってきたため、連絡よりも前にその場での報告が行われた。激怒したヘンリーによって例の貴族のボンボンは王族直々に叱責され、屋敷に蟄居の身となった。
こうしてアヤメの問題は解決し、エドガーはアヤメから是非お礼をさせてほしいとの申し出を受けた。
それを聞いたエドガーは遠慮することなくソウメイからの稽古をお願いした。
「これを逃したら、ソウメイさんみたいな剣豪に稽古してもらうなんて機会はなさそうだったから……」
そう言って苦笑いしながら頬を掻くエドガーに、確かに、とレナは頷いた。
それからの生活にはアヤメが加わるようになり、エドガーの周りは更に騒がしくなった。
エドガーを中心にして彼を取り合うことが続く日々。冬休みに突入し、レナとエドガーは帰省することになった。
レナの家族はやはりレナをぞんざいに扱ったし、家族の中心は兄と姉だった。
兄は仕事でどんな地位につき、手柄を立てたかを誇らしげに話し、姉は自分の研究の成果を自慢していた。
しかし、それを聞いたレナは思わず首をひねった。
昔は凄いと思って聞いていたそれを、今は凄いとは思えなくなっていたのだ。
「ネモ先輩たちの方が凄い……」
思わずこぼれた本音は、その小ささ故に家族には聞こえなかった。
そう。レナは兄や姉より、凄い人を知ってしまったのだ。
まず、王族二人。ヘンリー王子は手広く様々な事業に関わっており、常に忙しそうに仕事をしている。例えば趣味の延長線上だったはずが、馬鹿にできない規模になった漫画業界の事業。爆発的に広がったエアコンなどの魔道具。ショウユやミソなどの調味料。二年前には洗濯機なんてものも誕生し、お陰でヘンリー王子は主婦層から人気が高くなった。
チアン皇子はまずその美貌に目が行きがちだが、とにかくあの人は要領が良い。なんというか、人の使い方が上手いのだ。
人をよく見ていて、誰に何が向いているのかを把握しており、助言して恩を売り、学内でなかなか良い地位を築いている。顔の良さもさることながら、魅力ある人で、カリスマ性もある。人の上に立つことに向いている人間だろう。
二つ名持ちの錬金術師であるネモは、もちろんとんでもない錬金術の腕前を持っている。
『台所錬金術部』の名の通り、彼女は台所でできる錬金術を行うのだが、そのレベルが明らかにおかしいのだ。
ある日、小鍋を使って何かを作っている彼女にレナが鍋の中身を尋ねたところ、返って来た答えに仰天したことがあった。
「ああ、これ? これはマジックポーションよ」
マジックポーションの製作は錬金術師や薬師が一流になるための登竜門と呼ばれているくらいで、作るのが難しいポーションだ。加える魔力の操作が難しく、なかなか成功しないのだ。
それを、三分クッキングばりの気軽さでネモは作っていた。
呆然とするレナに、イヴァンが黙って首を横に振っていたのが印象に残っている。
さて、そんなネモを師匠と呼び慕い、ネモに天才と言わしめるイヴァンもまた、普通ではない。
レナには欠片も分からない高度な議論をネモと交わし、ネモから出された途轍もなく難しい課題を次々とこなしていくのを何度も見た。
もちろんその課題をこなすのはイヴァンといえど簡単ではなく、尋常ならざる集中力と努力でもって乗り越えているのをレナは知っている。
天才がどうやって作られるのかを、レナは彼を見て知った。
そうやってもの凄い速さで走り続けている人たちを知っていると、兄や姉の話を聞いても、ふーん、頑張ってるんだ、という感想しか出てこなかった。昔、確かに感じていたはずの嫉妬心を欠片も抱かなくなっているのが少し不思議だった。
それが家族への執着が薄くなっていたからだと気づいたのは、もう少し後になってからだ。
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