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2巻
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憎悪で自分ごと全てを焼いてしまう前に王太子を捨てて国を離れたというのに、今、同種の女をこの目に入れている。
オルタンスは気を落ち着かせるために深く一つ呼吸し、告げた。
「リゼット、一つ言っておくわ。貴女がもし、カルメ公国に不利益をもたらすようなことをすれば、私は貴女を止めなくてはならないわ」
「オルタンス様、そんな心配は――」
「いいから聞きなさい、リゼット」
オルタンスの言葉に、リゼットは笑みを浮かべて心配いらないと告げようとする。オルタンスはそれを遮って、真剣な口調で言った。
「よく心に留めておきなさい。私はカルメ公国の筆頭公爵家、ルモワール公爵令嬢として、カルメ公国の利となる存在でなくてはならない。そして、それは貴族の血が流れる貴女もなのよ、リゼット」
諭すようにそう言ったが、リゼットは真面目に聞いているように見えて、内心では面倒だと思っているのが透けて見えた。
「その義務に反する行動を取るなら、それ相応の対応を取らざるを得ないわ。いいこと、繰り返して言うわよ。私に、貴女を止めさせるような行動を取らせないでちょうだい」
オルタンスの願い交じりの忠告を、リゼットは素直に頷いて受け入れた。しかし、その様子はあまりにも軽い。
この忠告は軽く受け止めてはならないものだ。何故なら、この『止める』という行為は、最悪命を奪う、と同義である。
流石に、そこまで取り返しのつかないことを仕出かす前に、本国へ強制送還するつもりではあるが、場合によってはその手段を取らねばならない。
話し合いを終え、リゼットが退室した後、オルタンスはどうしようもない苛立ちと脱力感を抱きながら、使用人に指示を出す。
「紙とペンを持ってきてちょうだい。お父様と、フォルジュ子爵へ手紙を書くわ」
リゼットはきっとやらかすだろう。確信があった。
オルタンスはさっさとリゼットを強制送還させ、子爵家に引き取らせるのが一番被害が少ないと考える。
「せっかく留学したのに、どうして再び非常識女に煩わされなければいけないのかしら……」
小さく零れた愚痴は、冷めた紅茶と共に喉の奥へ流し込まれた。
第四章
リゼットがフリオに付き纏い始めて半月ほどの時が流れた。
フリオはリゼットに話しかけられても、すぐに会話を切り、その場を離れるようにしているが、それでも追ってくるのだから堪らない。明らかに嫌がっているため、時折親切な人間が適当な用事を作って引き離したり匿ってくれたりするものの、リゼットがめげることはなかった。
「私のほうからも注意したんだが……」
そう言って溜息をついたのは、数学の教師であるローレンス・ガンドンだ。
昼休みにアレッタとフリオがリゼットの目から隠れるように弁当を持って移動しているところを、ローレンスが声をかけ、彼の研究室へ招いたのだ。
彼は、少なからずベルクハイツ家と縁のある人物だった。ベルクハイツ家次男のバーナードの同級生であり、友人でもある。
ローレンスはバーナードを友人だと思っているものの、在学中それはもう苦労を掛けられたため苦手意識も持っていた。できれば物理的な距離を置いておきたいというのが彼の本音だ。
そのため、バーナードの妹を職務から外れない程度に気にかけ、兄が王都に出てこなくて済むよう周囲に働きかけている。
そんなふうに、友人の妹だからと気にかけてくれるローレンスに対する素直な脳筋の信頼度はガンガン上がっていっており、バーナードのほうは彼を親友扱いしている。
「先生までそんなことを言うなんて、と話にならん。あれはリサ・ルジアより質が悪いぞ。少なくとも、彼女は途中で我に返る程度の客観性があったからな」
リサ・ルジアは、一学期で退学した元男爵令嬢であり、ウィンウッド王国の高位貴族の令息達を堕落させた例の女生徒だ。彼女はマデリーンの指摘によって我に返り、令息達と距離を置こうとした。しかし失敗に終わり、最終的に学園を去ったのだ。
「まあ、今のところアレッタとは積極的に関わるつもりがないのが不幸中の幸いですね」
「そうだなぁ」
男達はうんうん頷き合い、アレッタは唇を尖らせる。
「別に、絡まれても大丈夫ですよ。むしろ、向こうから手を出してほしいくらいです。そうしたら、私もやり返すのに……」
そんな彼女の言葉に、ローレンスは蒼褪め、フリオは遠い目をした。二人は、顔の形が変わったリゼットを想像したのだ。
フリオが一つ咳払いをし、話題を戻す。
「まあそれで、あのリゼット嬢は、貴方は自由になるべきだ、だの、権力に負けないで、だのと俺に言ってくるわけですが、それだけじゃなく、どういうわけか叶わぬ初恋を引きずっていると思われてるんですよ。俺の初恋、もう叶ってるんですけどね」
そう言って、チラ、と流し見られ、アレッタは恥ずかしくなって目を逸らした。
そんな若者達のやり取りに、イケメンなのに独り身という悲しい身の上のローレンスは、心に隙間風が吹くのを感じつつ、口を開く。
「話を聞かず、勘違いも酷いお嬢さんだな。これでその『初恋の人』の正体がベルクハイツと知ったら面倒なことになりそうだ」
その言葉にフリオは嫌そうな顔をし、アレッタは手を出された日が相手の命日だ、と言わんばかりの輝く笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、リゼットをアレッタに近づけてはならないと確信したローレンスが、そっと胃を押さえる。学生時代によくお世話になった胃薬を買いに行かなくては……、と心の中で呟く。
「とりあえず、俺は現状維持で、できる限り逃げ回ります。オルタンス嬢がフォルジュ子爵家に連絡を入れたそうなので、もう少しすれば動きがあると思うんです。実家から何か言われて大人しくなるか、そのまま国に帰るなら、それで良いですからね」
関われば関わるだけ面倒になりそうだとフリオが言うのに、ローレンスが頷き、アレッタはできるなら一度ガツンと……、と零しつつも渋々首を縦に振った。
そんな彼女に苦笑いしながら、ローレンスが言う。
「まあ、そういうことなら、私の研究室を避難場所にしなさい。教師の研究室には許可がなければ入れないからな」
ローレンスは一見冷たそうな美形だが、緑の瞳を緩めれば、その人の好さが瞳に滲み出る、学園でも人気のある教師だ。
「私もできる限り協力する。くれぐれもバーナードが王都に来る事態にだけはならないよう、気をつけてくれ」
少しおどけたその物言いに、アレッタとフリオは苦笑する。
どんなに迷惑をかけられても、物理的に距離を置いておきたいと願っていても、それでもローレンスは未だにバーナードを友と呼んでいる。学生時代に、人が聞けば同情するような騒動に幾度も巻き込まれたのに、それでも友人関係を切らなかったのは、そのお人好しな性格故である。
「先生、そんなだからバーナード兄様に好かれるんですよ」
アレッタの言葉に、ローレンスはげっ、と嫌そうに呻き、大きな溜息をついた。
***
「――もう、また見失っちゃったわ!」
そう言って桃色の唇を尖らせるのは、サーモンピンクの髪色をしたカルメ公国からの留学生、リゼット・フォルジュ子爵令嬢だった。
彼女は中庭に面した廊下で辺りを見回すが、目的の人物――フリオは見つからない。
一つ溜息をついて廊下を歩き去る彼女の後ろで、そっと柱の陰から姿を現したフリオに気づくことはなかった。
一方、リゼットは歩きながら不満そうにポツリと呟く。
「最近はお昼もご一緒できないし、なんのためにウィンウッドへ来たのか分からないわ」
彼女は、フリオに会うためにウィンウッド王国に来たのだ。自国にいる時も、わざとヒロインが自分の婚約者を攻略するのを黙って見ていたのである。
「せっかく、『ナナホシ』の世界に転生したのに……」
リゼットは、『リゼット・フォルジュ』として生まれてくる前の記憶を持っていた。所謂、前世の記憶というものである。
前世の彼女は、乙女ゲームが大好きな少女だった。その少女が特に好んでいたのが、『七色の星』という名の乙女ゲームだ。中でも、隠しキャラの『フリオ・ブランドン』がお気に入りだった。
彼は全キャラを攻略した後、ゲームのヒロインが三年生になってから登場するのだ。
フリオはウィンウッド王国の王弟殿下の護衛騎士なのだが、たった一年で攻略しなければならずハードスケジュールなのと、そこに至るまでに他のキャラの確定ルートに入りやすいため、攻略が難しい。
そんな彼の肝心のキャラ設定だが、別の人間と婚約している初恋の人が忘れられず、他国を飛び回る外交官である王弟殿下の護衛騎士の一人として、乙女ゲームの舞台であるカルメ公国の情報収集をしているというキャラだ。
攻略方法は、ランダムにいろんな場所に出没する彼と決められた回数以上会い、起こるイベントでの選択を間違えず、間に入るミニゲームで高得点を出すこと。ここで一番難しいのが、出現場所がランダムでそう簡単には会えない、ということである。
「まさか、学園内でもなかなか会えないだなんて……」
リゼットは少し疲れたように溜息をついた。
彼女は自分が『七色の星』の世界に、悪役令嬢の一人である『リゼット・フォルジュ』として転生したのだと気づいてからというもの、フリオを攻略すると決めている。
ところが、ゲームの舞台である学園に入学した時に、予定外のことが起きた。ヒロインもリゼットと同じ転生者だったのだ。
彼女は効率良く、一年足らずの間に六人のキャラを落とす。
残るは隠しキャラのフリオだけとなり、まずいとリゼットは焦った。どうも、ヒロインはフリオも狙っているようなのだ。その証拠に、どれだけ攻略対象達にアプローチされても「ワタシ、ドンカンだから分からないナ?」とばかりにカマトトぶってそれを躱し、各キャラの確定ルートに入らないように調整している。
鼻につく女だが、男を落とす手腕は確かなもの。このままでは、フリオも落とされてしまう。そう考えたリゼットはフライングすることにした。
「フリオがカルメ公国に来たのは、学園を卒業してからすぐってゲーム中で言ってたのよね。だから、きっと今ならウィンウッド王国の学園にいると思ったのよ。アタリで良かったわ」
そう、リゼットはゲーム内でフリオが落とした情報を覚えていたのだ。それだけではなく、ゲーム内でフリオが仕えていた相手が、『七色の星』の前作である『七色の恋を抱いて』での隠しキャラ――ウィンウッド王国の王弟レオンであることも記憶している。
かくして、リゼットは自らウィンウッド王国へ乗り込んだ。
しかし、ここでも予想外なことが起きていた。
「まさか、この国にも転生者がいて、フリオに婚約者ができてるだなんて……」
淑女らしからぬ舌打ちをして、リゼットは忌々しげに呟く。
「どうも、レーヌ・ブルクネイラが転生者っぽいのよね、『ざまぁ』し返してるし……。前作の乙女ゲームの舞台だったから調べればすぐに分かったけど、まったく、余計なことをしないでほしいわ。お陰で、フリオに余波が行ってるじゃないの」
前作の悪役令嬢の一人であるレーヌが転生者ではないかと見当をつけるのは、とても簡単だった。何故なら、彼女は一学期の夏至祭で婚約者だった元王太子に冤罪を吹っ掛けられ、断罪されそうになるも助かっているからだ。
レーヌは自らにかけられた疑惑を払拭し、真実愛する人の手を取り――失敗した。
「せっかく『ざまぁ』したのに、肝心なところでコケるとか笑っちゃうわ。婚約者に浮気された被害者が、婚約者持ちの男に粉かけてるんだから、バカみたい!」
リゼットはそう言ってレーヌを馬鹿にするが、それ以上に自分が愚かなことをしている自覚はない。質の悪さは比べるべくもなかった。
「もう、どうしようかしら。フリオとはなかなか会えないし、オルタンスは五月蠅いし……」
最初はオルタンスもリゼットの恋に協力的だったのだ。もしかして、彼女はお助けキャラになるのではないかと思っていたのだが、フリオに婚約者がいると知るや否や、リゼットをやんわりと止め、最終的には咎めるようになっている。
その上、実家に連絡したらしく、両親から叱るような手紙が届いた。鬱陶しいもののただの手紙なので、火をつけて暖炉に放り込んでスッキリする。
オルタンスがお助けキャラじゃなくてがっかりしたが、元々彼女は悪役令嬢の一人。仕方がないと思い、リゼットは彼女の説教を聞き流している。
使えないのは周りのモブもそうだ。学園の生徒達はリゼットを蔑ろにはしないものの、やんわりと距離を置き、壁一枚挟んだような付き合いしかしない。誰もリゼットの恋を手助けしてくれず、むしろやめておけ、と阻む者が多かった。
「きっと、それだけフリオの婚約者の権力が大きいんだわ」
その結論は間違いではないが、正解でもなかった。周りの生徒達は、ただ単純に、生物的な本能で、触らぬ神に祟りなし、という態度をとっているだけである。
ベルクハイツは恐ろしい力を持っているが、その力を振りかざす時は、理不尽な不利益を被った時だけの、善良な貴族である。善良でなければ『深魔の森』を有する領を治め続けるなどしないだろう。
そんなことは知らない――知ろうともしないリゼットは、フリオの婚約者を『悪役令嬢』として扱い、自らは『ヒロイン』らしい行動を心掛けていた。あくまで目的はフリオの解放であり、誰かを傷つけることではない。
フリオに権力に抗おう、力を貸すと訴え続ける。しかし、彼はいつもリゼットの話を遮り、さっさと姿を消す。最近では話しかけることも難しくなってしまった。
「やっぱり、婚約者のほうに接触するしかないのかしら……」
今まで、リゼットはフリオの婚約者に接触しようとはしなかった。何故なら、悪役令嬢に自分から積極的に絡みに行くヒロインはあまりいないからだ。
「あっちから絡んできてくれれば楽なのに」
悪役令嬢がヒロインに文句を言い、ヒロインがそれを受け傷つくか言い返すかして、物語が盛り上がるのだ。
「その時にフリオがその場にいて、私を庇うのよね。それで悪役令嬢が怒って、いじめが始まるのよ」
フリオさえいれば、いじめになんかに負けないと浮かれるリゼットの、的外れな妄想は続く。
「いじめに抗い続ける私にしびれを切らした悪役令嬢によって命の危機に曝されるけど、フリオが颯爽と助けに来てくれるのよね。その事件が原因で悪役令嬢が断罪されて、私とフリオはハッピーエンド! 完璧だわ!」
リゼットはスカートを翻し、くるりとターンして笑う。
「断罪はやっぱり卒業式かしら? あ、その前に文化祭があるから、デートイベントがあるわね! 文化祭は十月の終わり頃だし、デートイベントでヘイトが溜まって十一月に爆発、ってところかしら?」
リゼットは足取り軽く、人気のない暗い廊下を歩く。
「やっぱり、物語が盛り上がるために『悪役令嬢』は必要よね。仕方ない、あっちが来てくれないんですもの、私から行ってあげなくちゃ!」
あまりにも自分勝手な、第三者が聞けば正気を疑うようなことを言いながら、リゼットは今後の予定を立てた。
「えっと、確か『悪役令嬢』は一年生だったわね。家柄はどうだったかしら? 権力があるんだから、公爵家とか? けど、一年生にそんな家柄の子いた?」
流石のリゼットも、高位貴族の所属学年や、名前くらいは覚えている。彼らに目を付けられれば自分の行動に差し障りが出るからだ。
それを思い付く頭があるのに、目的のために他の全てを無視している彼女は気づいていなかった。そもそも、前提が破綻していることに……
フリオの初恋の人――アレッタの婚約は解消され、フリオと結ばれることになり、彼は愛する人を手に入れている。既に満たされ、我が世の春を謳歌するフリオに、『ヒロイン』が埋める心の隙間などない。当然、『ヒロイン』も必要ないのだ。
それを知らぬリゼットは、上機嫌に笑う。
「まあ、なんでもいいわ。所詮、踏み台だもの」
そんな悍ましいことを言いながら、リゼットは進み続けた。その先が、行き止まりとは知らずに……
第五章
アレッタは不満に思っていた。
何をかというと、フリオが徹底してリゼットと接触させないように手を回していることに気づいたのだ。
彼の手回しが上手くいっているのは、これまでリゼットが積極的にアレッタに接触しようとしていないことと、アレッタが受け身の姿勢だったお陰だ。
しかし、こうも長期間に亘って婚約者に付き纏うなら、話は別である。流石に不快だし、苦情を言わねばなるまい。
フリオがあからさまに迷惑がり避けているにもかかわらず、リゼットがしつこく絡みに行っているのだ。彼女の実家にも話が行き、もう、何かしらのアクションがあってもおかしくない頃合いなのに、付き纏いが続いている。態度を改める気がなく、事態は膠着していると見て間違いない。
事態を動かすためにアレッタが一石投じる必要があった。
ところが、どうもフリオはその一石でリゼットの顔面をかち割ろうとしているとでも思っているらしく、先回りしてアレッタとリゼットの接触を邪魔するのだ。
全くもって心外である。口では色々言うが、武人の端くれたるアレッタには、リゼットに手を上げるつもりはない。アレッタが手を出せば、フリオの予想通りリゼットの顔の形が変わるからである。
やるなら口で戦い、威圧するだけだ。
なお、アレッタの威圧は、中級下位の狼型の魔物が尻尾を足の間に挟んで全速力で逃げ出すほどの威力があるが、顔の形が変わるよりはきっとマシである。……多分。
まあ、そういうわけでアレッタはリゼットと接触したいのだが、フリオの手回しで遮られていた。まずフリオを説得しなければならない。
アレッタは彼を人気のない場所に呼び出す。
「フリオ」
「どうした、アレッタ。アレッタのほうから会いたいと言ってくるなんて珍しいな」
笑顔でこちらに近づいてくるフリオだったが、アレッタの微笑みに何かうすら寒いものを感じたのか、途中で笑顔を固まらせた。
「フリオ」
アレッタの再びの呼びかけに、反射的に逃げの体勢を取ろうとする。けれど、彼女のほうが早い。
アレッタは一瞬でフリオの懐に飛び込み、そのまま壁に押し付けて流れるように足払いをかけ、尻もちをつかせた。
そして最後に、逃げられないよう腕で囲い込む。
背後の壁。前面のアレッタ。フリオを囲い込む腕。
つまり、乙女の夢、『壁ドン』である。
――あれ、俺がされるほうなの?
そう言わんばかりの顔をするフリオに、アレッタはにっこり笑いかける。
「ねえ、フリオ。なんで、私がリゼットさんとお話ししようとするのを邪魔するの?」
「え。いや、それは……」
気まずそうに視線を泳がせる彼に、告げる。
「私、フリオが心配するみたいに、リゼットさんに手を上げるような真似はしないわよ? これでも武人ですもの。どんなに不快な方でも、力のない令嬢に手を上げたりしない」
「まあ……、そうだな」
武人であることを前面に持っていくと、ベルクハイツたるアレッタをよく知るフリオは頷く。けれど、完全には納得していないらしく、その声音には苦いものが混じっている。
「……フリオはそんなにあの人と私が関わるのが不安……いや、違うわね。嫌なの?」
何故? と首を傾げるアレッタに、フリオは暫し呻いた後、観念したように口を開いた。
「あのな、俺はずっとお前が好きだったんだよ。それなのに、横からかっ攫われて、最近ようやく手に入れられたわけだ。それがたった数か月でこの有様だ。面倒を大きくするより、静観して流れを見極め、あのお嬢さんが勝手にコケるのを待つほうが……お前を失う可能性は低い、と考えたんだよ」
その言葉に、アレッタは目を丸くする。
フリオが言うには、リゼットの実家は子爵家ながら、国元ではそれなりに大きな権力を有しているらしい。それこそ、婚約者がいる他国の伯爵家の三男坊を娘の婿にする程度、容易いくらいには……
「まあ、俺はベルクハイツ家の次期当主の婚約者だから、実際にはできないだろうが、小さな可能性でも潰しておきたいんだよ」
つまり、アレッタと別れたくないから、我慢しているし、我慢してほしいらしい。
なんともまあ弱気で、可愛らしいことだ。アレッタは呆れつつ苦笑する。
「フリオ」
彼の両頬を手で包み、俯き気味だった顔を上げさせた。
「ねえ、フリオ。貴方、ちょっとベルクハイツ家を分かってないわ。あのね、そんな小さな可能性なんて、見なくて良いの。潰すのは、そんな小さな可能性じゃないのよ」
彼女は獰猛に嗤う。
「潰すなら、相手の全てよ」
言い切ると、フリオは身を固くする。
「我がベルクハイツは、ウィンウッド王国の生命線。何者にも侵されず、全てを薙ぎ払う者でなければならない。たとえ我が国の王であっても、理不尽を許してはならない。何故なら、我らが折れれば、その時が国の終わりだから」
その瞬間、『深魔の森』から魔物が溢れ出し、この国を呑み込むだろう。
「敵は全て薙ぎ払い、叩き潰す。二度と、我らに手を出そうと思えなくなるまで」
アレッタはひたり、とフリオの目を見つめて言う。
「フリオ。私は貴方のモノだけど、貴方は私のモノなんでしょう? ベルクハイツは、自分のモノに手を出されるのをとても嫌がるのよ」
知ってるでしょう? と言われてフリオが思い出すのは、現ベルクハイツ家の当主アウグストだ。妻に寄ってくる虫は、豪快かつ派手に追い払う。彼はガチで物理的に複数の男を薙ぎ倒したことがあるのだ。
「ねえ、フリオ。少し不思議に思ってたんだけど、どうして私のお母様に相談しないの?」
「え?」
アレッタの疑問に、フリオは目を丸くする。
オルタンスは気を落ち着かせるために深く一つ呼吸し、告げた。
「リゼット、一つ言っておくわ。貴女がもし、カルメ公国に不利益をもたらすようなことをすれば、私は貴女を止めなくてはならないわ」
「オルタンス様、そんな心配は――」
「いいから聞きなさい、リゼット」
オルタンスの言葉に、リゼットは笑みを浮かべて心配いらないと告げようとする。オルタンスはそれを遮って、真剣な口調で言った。
「よく心に留めておきなさい。私はカルメ公国の筆頭公爵家、ルモワール公爵令嬢として、カルメ公国の利となる存在でなくてはならない。そして、それは貴族の血が流れる貴女もなのよ、リゼット」
諭すようにそう言ったが、リゼットは真面目に聞いているように見えて、内心では面倒だと思っているのが透けて見えた。
「その義務に反する行動を取るなら、それ相応の対応を取らざるを得ないわ。いいこと、繰り返して言うわよ。私に、貴女を止めさせるような行動を取らせないでちょうだい」
オルタンスの願い交じりの忠告を、リゼットは素直に頷いて受け入れた。しかし、その様子はあまりにも軽い。
この忠告は軽く受け止めてはならないものだ。何故なら、この『止める』という行為は、最悪命を奪う、と同義である。
流石に、そこまで取り返しのつかないことを仕出かす前に、本国へ強制送還するつもりではあるが、場合によってはその手段を取らねばならない。
話し合いを終え、リゼットが退室した後、オルタンスはどうしようもない苛立ちと脱力感を抱きながら、使用人に指示を出す。
「紙とペンを持ってきてちょうだい。お父様と、フォルジュ子爵へ手紙を書くわ」
リゼットはきっとやらかすだろう。確信があった。
オルタンスはさっさとリゼットを強制送還させ、子爵家に引き取らせるのが一番被害が少ないと考える。
「せっかく留学したのに、どうして再び非常識女に煩わされなければいけないのかしら……」
小さく零れた愚痴は、冷めた紅茶と共に喉の奥へ流し込まれた。
第四章
リゼットがフリオに付き纏い始めて半月ほどの時が流れた。
フリオはリゼットに話しかけられても、すぐに会話を切り、その場を離れるようにしているが、それでも追ってくるのだから堪らない。明らかに嫌がっているため、時折親切な人間が適当な用事を作って引き離したり匿ってくれたりするものの、リゼットがめげることはなかった。
「私のほうからも注意したんだが……」
そう言って溜息をついたのは、数学の教師であるローレンス・ガンドンだ。
昼休みにアレッタとフリオがリゼットの目から隠れるように弁当を持って移動しているところを、ローレンスが声をかけ、彼の研究室へ招いたのだ。
彼は、少なからずベルクハイツ家と縁のある人物だった。ベルクハイツ家次男のバーナードの同級生であり、友人でもある。
ローレンスはバーナードを友人だと思っているものの、在学中それはもう苦労を掛けられたため苦手意識も持っていた。できれば物理的な距離を置いておきたいというのが彼の本音だ。
そのため、バーナードの妹を職務から外れない程度に気にかけ、兄が王都に出てこなくて済むよう周囲に働きかけている。
そんなふうに、友人の妹だからと気にかけてくれるローレンスに対する素直な脳筋の信頼度はガンガン上がっていっており、バーナードのほうは彼を親友扱いしている。
「先生までそんなことを言うなんて、と話にならん。あれはリサ・ルジアより質が悪いぞ。少なくとも、彼女は途中で我に返る程度の客観性があったからな」
リサ・ルジアは、一学期で退学した元男爵令嬢であり、ウィンウッド王国の高位貴族の令息達を堕落させた例の女生徒だ。彼女はマデリーンの指摘によって我に返り、令息達と距離を置こうとした。しかし失敗に終わり、最終的に学園を去ったのだ。
「まあ、今のところアレッタとは積極的に関わるつもりがないのが不幸中の幸いですね」
「そうだなぁ」
男達はうんうん頷き合い、アレッタは唇を尖らせる。
「別に、絡まれても大丈夫ですよ。むしろ、向こうから手を出してほしいくらいです。そうしたら、私もやり返すのに……」
そんな彼女の言葉に、ローレンスは蒼褪め、フリオは遠い目をした。二人は、顔の形が変わったリゼットを想像したのだ。
フリオが一つ咳払いをし、話題を戻す。
「まあそれで、あのリゼット嬢は、貴方は自由になるべきだ、だの、権力に負けないで、だのと俺に言ってくるわけですが、それだけじゃなく、どういうわけか叶わぬ初恋を引きずっていると思われてるんですよ。俺の初恋、もう叶ってるんですけどね」
そう言って、チラ、と流し見られ、アレッタは恥ずかしくなって目を逸らした。
そんな若者達のやり取りに、イケメンなのに独り身という悲しい身の上のローレンスは、心に隙間風が吹くのを感じつつ、口を開く。
「話を聞かず、勘違いも酷いお嬢さんだな。これでその『初恋の人』の正体がベルクハイツと知ったら面倒なことになりそうだ」
その言葉にフリオは嫌そうな顔をし、アレッタは手を出された日が相手の命日だ、と言わんばかりの輝く笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、リゼットをアレッタに近づけてはならないと確信したローレンスが、そっと胃を押さえる。学生時代によくお世話になった胃薬を買いに行かなくては……、と心の中で呟く。
「とりあえず、俺は現状維持で、できる限り逃げ回ります。オルタンス嬢がフォルジュ子爵家に連絡を入れたそうなので、もう少しすれば動きがあると思うんです。実家から何か言われて大人しくなるか、そのまま国に帰るなら、それで良いですからね」
関われば関わるだけ面倒になりそうだとフリオが言うのに、ローレンスが頷き、アレッタはできるなら一度ガツンと……、と零しつつも渋々首を縦に振った。
そんな彼女に苦笑いしながら、ローレンスが言う。
「まあ、そういうことなら、私の研究室を避難場所にしなさい。教師の研究室には許可がなければ入れないからな」
ローレンスは一見冷たそうな美形だが、緑の瞳を緩めれば、その人の好さが瞳に滲み出る、学園でも人気のある教師だ。
「私もできる限り協力する。くれぐれもバーナードが王都に来る事態にだけはならないよう、気をつけてくれ」
少しおどけたその物言いに、アレッタとフリオは苦笑する。
どんなに迷惑をかけられても、物理的に距離を置いておきたいと願っていても、それでもローレンスは未だにバーナードを友と呼んでいる。学生時代に、人が聞けば同情するような騒動に幾度も巻き込まれたのに、それでも友人関係を切らなかったのは、そのお人好しな性格故である。
「先生、そんなだからバーナード兄様に好かれるんですよ」
アレッタの言葉に、ローレンスはげっ、と嫌そうに呻き、大きな溜息をついた。
***
「――もう、また見失っちゃったわ!」
そう言って桃色の唇を尖らせるのは、サーモンピンクの髪色をしたカルメ公国からの留学生、リゼット・フォルジュ子爵令嬢だった。
彼女は中庭に面した廊下で辺りを見回すが、目的の人物――フリオは見つからない。
一つ溜息をついて廊下を歩き去る彼女の後ろで、そっと柱の陰から姿を現したフリオに気づくことはなかった。
一方、リゼットは歩きながら不満そうにポツリと呟く。
「最近はお昼もご一緒できないし、なんのためにウィンウッドへ来たのか分からないわ」
彼女は、フリオに会うためにウィンウッド王国に来たのだ。自国にいる時も、わざとヒロインが自分の婚約者を攻略するのを黙って見ていたのである。
「せっかく、『ナナホシ』の世界に転生したのに……」
リゼットは、『リゼット・フォルジュ』として生まれてくる前の記憶を持っていた。所謂、前世の記憶というものである。
前世の彼女は、乙女ゲームが大好きな少女だった。その少女が特に好んでいたのが、『七色の星』という名の乙女ゲームだ。中でも、隠しキャラの『フリオ・ブランドン』がお気に入りだった。
彼は全キャラを攻略した後、ゲームのヒロインが三年生になってから登場するのだ。
フリオはウィンウッド王国の王弟殿下の護衛騎士なのだが、たった一年で攻略しなければならずハードスケジュールなのと、そこに至るまでに他のキャラの確定ルートに入りやすいため、攻略が難しい。
そんな彼の肝心のキャラ設定だが、別の人間と婚約している初恋の人が忘れられず、他国を飛び回る外交官である王弟殿下の護衛騎士の一人として、乙女ゲームの舞台であるカルメ公国の情報収集をしているというキャラだ。
攻略方法は、ランダムにいろんな場所に出没する彼と決められた回数以上会い、起こるイベントでの選択を間違えず、間に入るミニゲームで高得点を出すこと。ここで一番難しいのが、出現場所がランダムでそう簡単には会えない、ということである。
「まさか、学園内でもなかなか会えないだなんて……」
リゼットは少し疲れたように溜息をついた。
彼女は自分が『七色の星』の世界に、悪役令嬢の一人である『リゼット・フォルジュ』として転生したのだと気づいてからというもの、フリオを攻略すると決めている。
ところが、ゲームの舞台である学園に入学した時に、予定外のことが起きた。ヒロインもリゼットと同じ転生者だったのだ。
彼女は効率良く、一年足らずの間に六人のキャラを落とす。
残るは隠しキャラのフリオだけとなり、まずいとリゼットは焦った。どうも、ヒロインはフリオも狙っているようなのだ。その証拠に、どれだけ攻略対象達にアプローチされても「ワタシ、ドンカンだから分からないナ?」とばかりにカマトトぶってそれを躱し、各キャラの確定ルートに入らないように調整している。
鼻につく女だが、男を落とす手腕は確かなもの。このままでは、フリオも落とされてしまう。そう考えたリゼットはフライングすることにした。
「フリオがカルメ公国に来たのは、学園を卒業してからすぐってゲーム中で言ってたのよね。だから、きっと今ならウィンウッド王国の学園にいると思ったのよ。アタリで良かったわ」
そう、リゼットはゲーム内でフリオが落とした情報を覚えていたのだ。それだけではなく、ゲーム内でフリオが仕えていた相手が、『七色の星』の前作である『七色の恋を抱いて』での隠しキャラ――ウィンウッド王国の王弟レオンであることも記憶している。
かくして、リゼットは自らウィンウッド王国へ乗り込んだ。
しかし、ここでも予想外なことが起きていた。
「まさか、この国にも転生者がいて、フリオに婚約者ができてるだなんて……」
淑女らしからぬ舌打ちをして、リゼットは忌々しげに呟く。
「どうも、レーヌ・ブルクネイラが転生者っぽいのよね、『ざまぁ』し返してるし……。前作の乙女ゲームの舞台だったから調べればすぐに分かったけど、まったく、余計なことをしないでほしいわ。お陰で、フリオに余波が行ってるじゃないの」
前作の悪役令嬢の一人であるレーヌが転生者ではないかと見当をつけるのは、とても簡単だった。何故なら、彼女は一学期の夏至祭で婚約者だった元王太子に冤罪を吹っ掛けられ、断罪されそうになるも助かっているからだ。
レーヌは自らにかけられた疑惑を払拭し、真実愛する人の手を取り――失敗した。
「せっかく『ざまぁ』したのに、肝心なところでコケるとか笑っちゃうわ。婚約者に浮気された被害者が、婚約者持ちの男に粉かけてるんだから、バカみたい!」
リゼットはそう言ってレーヌを馬鹿にするが、それ以上に自分が愚かなことをしている自覚はない。質の悪さは比べるべくもなかった。
「もう、どうしようかしら。フリオとはなかなか会えないし、オルタンスは五月蠅いし……」
最初はオルタンスもリゼットの恋に協力的だったのだ。もしかして、彼女はお助けキャラになるのではないかと思っていたのだが、フリオに婚約者がいると知るや否や、リゼットをやんわりと止め、最終的には咎めるようになっている。
その上、実家に連絡したらしく、両親から叱るような手紙が届いた。鬱陶しいもののただの手紙なので、火をつけて暖炉に放り込んでスッキリする。
オルタンスがお助けキャラじゃなくてがっかりしたが、元々彼女は悪役令嬢の一人。仕方がないと思い、リゼットは彼女の説教を聞き流している。
使えないのは周りのモブもそうだ。学園の生徒達はリゼットを蔑ろにはしないものの、やんわりと距離を置き、壁一枚挟んだような付き合いしかしない。誰もリゼットの恋を手助けしてくれず、むしろやめておけ、と阻む者が多かった。
「きっと、それだけフリオの婚約者の権力が大きいんだわ」
その結論は間違いではないが、正解でもなかった。周りの生徒達は、ただ単純に、生物的な本能で、触らぬ神に祟りなし、という態度をとっているだけである。
ベルクハイツは恐ろしい力を持っているが、その力を振りかざす時は、理不尽な不利益を被った時だけの、善良な貴族である。善良でなければ『深魔の森』を有する領を治め続けるなどしないだろう。
そんなことは知らない――知ろうともしないリゼットは、フリオの婚約者を『悪役令嬢』として扱い、自らは『ヒロイン』らしい行動を心掛けていた。あくまで目的はフリオの解放であり、誰かを傷つけることではない。
フリオに権力に抗おう、力を貸すと訴え続ける。しかし、彼はいつもリゼットの話を遮り、さっさと姿を消す。最近では話しかけることも難しくなってしまった。
「やっぱり、婚約者のほうに接触するしかないのかしら……」
今まで、リゼットはフリオの婚約者に接触しようとはしなかった。何故なら、悪役令嬢に自分から積極的に絡みに行くヒロインはあまりいないからだ。
「あっちから絡んできてくれれば楽なのに」
悪役令嬢がヒロインに文句を言い、ヒロインがそれを受け傷つくか言い返すかして、物語が盛り上がるのだ。
「その時にフリオがその場にいて、私を庇うのよね。それで悪役令嬢が怒って、いじめが始まるのよ」
フリオさえいれば、いじめになんかに負けないと浮かれるリゼットの、的外れな妄想は続く。
「いじめに抗い続ける私にしびれを切らした悪役令嬢によって命の危機に曝されるけど、フリオが颯爽と助けに来てくれるのよね。その事件が原因で悪役令嬢が断罪されて、私とフリオはハッピーエンド! 完璧だわ!」
リゼットはスカートを翻し、くるりとターンして笑う。
「断罪はやっぱり卒業式かしら? あ、その前に文化祭があるから、デートイベントがあるわね! 文化祭は十月の終わり頃だし、デートイベントでヘイトが溜まって十一月に爆発、ってところかしら?」
リゼットは足取り軽く、人気のない暗い廊下を歩く。
「やっぱり、物語が盛り上がるために『悪役令嬢』は必要よね。仕方ない、あっちが来てくれないんですもの、私から行ってあげなくちゃ!」
あまりにも自分勝手な、第三者が聞けば正気を疑うようなことを言いながら、リゼットは今後の予定を立てた。
「えっと、確か『悪役令嬢』は一年生だったわね。家柄はどうだったかしら? 権力があるんだから、公爵家とか? けど、一年生にそんな家柄の子いた?」
流石のリゼットも、高位貴族の所属学年や、名前くらいは覚えている。彼らに目を付けられれば自分の行動に差し障りが出るからだ。
それを思い付く頭があるのに、目的のために他の全てを無視している彼女は気づいていなかった。そもそも、前提が破綻していることに……
フリオの初恋の人――アレッタの婚約は解消され、フリオと結ばれることになり、彼は愛する人を手に入れている。既に満たされ、我が世の春を謳歌するフリオに、『ヒロイン』が埋める心の隙間などない。当然、『ヒロイン』も必要ないのだ。
それを知らぬリゼットは、上機嫌に笑う。
「まあ、なんでもいいわ。所詮、踏み台だもの」
そんな悍ましいことを言いながら、リゼットは進み続けた。その先が、行き止まりとは知らずに……
第五章
アレッタは不満に思っていた。
何をかというと、フリオが徹底してリゼットと接触させないように手を回していることに気づいたのだ。
彼の手回しが上手くいっているのは、これまでリゼットが積極的にアレッタに接触しようとしていないことと、アレッタが受け身の姿勢だったお陰だ。
しかし、こうも長期間に亘って婚約者に付き纏うなら、話は別である。流石に不快だし、苦情を言わねばなるまい。
フリオがあからさまに迷惑がり避けているにもかかわらず、リゼットがしつこく絡みに行っているのだ。彼女の実家にも話が行き、もう、何かしらのアクションがあってもおかしくない頃合いなのに、付き纏いが続いている。態度を改める気がなく、事態は膠着していると見て間違いない。
事態を動かすためにアレッタが一石投じる必要があった。
ところが、どうもフリオはその一石でリゼットの顔面をかち割ろうとしているとでも思っているらしく、先回りしてアレッタとリゼットの接触を邪魔するのだ。
全くもって心外である。口では色々言うが、武人の端くれたるアレッタには、リゼットに手を上げるつもりはない。アレッタが手を出せば、フリオの予想通りリゼットの顔の形が変わるからである。
やるなら口で戦い、威圧するだけだ。
なお、アレッタの威圧は、中級下位の狼型の魔物が尻尾を足の間に挟んで全速力で逃げ出すほどの威力があるが、顔の形が変わるよりはきっとマシである。……多分。
まあ、そういうわけでアレッタはリゼットと接触したいのだが、フリオの手回しで遮られていた。まずフリオを説得しなければならない。
アレッタは彼を人気のない場所に呼び出す。
「フリオ」
「どうした、アレッタ。アレッタのほうから会いたいと言ってくるなんて珍しいな」
笑顔でこちらに近づいてくるフリオだったが、アレッタの微笑みに何かうすら寒いものを感じたのか、途中で笑顔を固まらせた。
「フリオ」
アレッタの再びの呼びかけに、反射的に逃げの体勢を取ろうとする。けれど、彼女のほうが早い。
アレッタは一瞬でフリオの懐に飛び込み、そのまま壁に押し付けて流れるように足払いをかけ、尻もちをつかせた。
そして最後に、逃げられないよう腕で囲い込む。
背後の壁。前面のアレッタ。フリオを囲い込む腕。
つまり、乙女の夢、『壁ドン』である。
――あれ、俺がされるほうなの?
そう言わんばかりの顔をするフリオに、アレッタはにっこり笑いかける。
「ねえ、フリオ。なんで、私がリゼットさんとお話ししようとするのを邪魔するの?」
「え。いや、それは……」
気まずそうに視線を泳がせる彼に、告げる。
「私、フリオが心配するみたいに、リゼットさんに手を上げるような真似はしないわよ? これでも武人ですもの。どんなに不快な方でも、力のない令嬢に手を上げたりしない」
「まあ……、そうだな」
武人であることを前面に持っていくと、ベルクハイツたるアレッタをよく知るフリオは頷く。けれど、完全には納得していないらしく、その声音には苦いものが混じっている。
「……フリオはそんなにあの人と私が関わるのが不安……いや、違うわね。嫌なの?」
何故? と首を傾げるアレッタに、フリオは暫し呻いた後、観念したように口を開いた。
「あのな、俺はずっとお前が好きだったんだよ。それなのに、横からかっ攫われて、最近ようやく手に入れられたわけだ。それがたった数か月でこの有様だ。面倒を大きくするより、静観して流れを見極め、あのお嬢さんが勝手にコケるのを待つほうが……お前を失う可能性は低い、と考えたんだよ」
その言葉に、アレッタは目を丸くする。
フリオが言うには、リゼットの実家は子爵家ながら、国元ではそれなりに大きな権力を有しているらしい。それこそ、婚約者がいる他国の伯爵家の三男坊を娘の婿にする程度、容易いくらいには……
「まあ、俺はベルクハイツ家の次期当主の婚約者だから、実際にはできないだろうが、小さな可能性でも潰しておきたいんだよ」
つまり、アレッタと別れたくないから、我慢しているし、我慢してほしいらしい。
なんともまあ弱気で、可愛らしいことだ。アレッタは呆れつつ苦笑する。
「フリオ」
彼の両頬を手で包み、俯き気味だった顔を上げさせた。
「ねえ、フリオ。貴方、ちょっとベルクハイツ家を分かってないわ。あのね、そんな小さな可能性なんて、見なくて良いの。潰すのは、そんな小さな可能性じゃないのよ」
彼女は獰猛に嗤う。
「潰すなら、相手の全てよ」
言い切ると、フリオは身を固くする。
「我がベルクハイツは、ウィンウッド王国の生命線。何者にも侵されず、全てを薙ぎ払う者でなければならない。たとえ我が国の王であっても、理不尽を許してはならない。何故なら、我らが折れれば、その時が国の終わりだから」
その瞬間、『深魔の森』から魔物が溢れ出し、この国を呑み込むだろう。
「敵は全て薙ぎ払い、叩き潰す。二度と、我らに手を出そうと思えなくなるまで」
アレッタはひたり、とフリオの目を見つめて言う。
「フリオ。私は貴方のモノだけど、貴方は私のモノなんでしょう? ベルクハイツは、自分のモノに手を出されるのをとても嫌がるのよ」
知ってるでしょう? と言われてフリオが思い出すのは、現ベルクハイツ家の当主アウグストだ。妻に寄ってくる虫は、豪快かつ派手に追い払う。彼はガチで物理的に複数の男を薙ぎ倒したことがあるのだ。
「ねえ、フリオ。少し不思議に思ってたんだけど、どうして私のお母様に相談しないの?」
「え?」
アレッタの疑問に、フリオは目を丸くする。
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