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魔境

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「ん、んぁあ~あ、すっかり朝だなぁ。早く帰らないと、――ぃっつ!」

 疲れたのかうっかりページの端で指を切り、滴る血を止めるため、口にくわえて舐めながら、窓の外をみる。
 もう生徒たちが来てもおかしくない時間帯だ。早く戻らないと鉢合わせたくない。それに、優希は今すぐにでもベッドの温かみを欲している。数時間座りっぱなしだったため、体中が凝っている。
 優希は机に雑多に並べられた書物を急いでまとめ、元あった場所に戻す。そして、流れるようにそのまま図書館の外へ――出ようとした直後、図書館の扉を塞ぐように彼はそこに運命の悪戯の如く立っていた。

「ん、お前こんなところで何してんの?」

「え、あ、べ、別に……」

 数時間全く喋らずにいた優希が突然の会話に言葉がつっかえる。しかし、原因は他にもあった。
 頭を掻きながら優希を凝視する目は鋭く吊り上がっていて、特徴的な金髪は変わらず、服装は異世界式になっていた竜崎。武道服に近しい竜崎の服は、どこかの戦闘種族を思い浮かべる。
 これが友達なら元気玉打って見たいな振りもできるのだが、今の優希にそんな度胸も余裕もない。
 そして、優希がどうしようか、真っ白になりつつある思考を巡らせている間に、状況はどんどんと優希にとって嫌な方向に進んでいった。

「どうしたんだ竜崎? ……へぇまだ生きてたんだお前」

「竜崎に速攻金取られてたもんな。あれはウケたわ」

「おいおい取ったって人聞きの悪ぃ。あれは貰ったんだよ。なぁ?」

 威圧的に迫る竜崎に優希は「う、うん」としか答えられなかった。
 竜崎の後に来たのは、クラスでもよく竜崎と一緒にいた水上慎二《みずかみしんじ》と、葉倉冬馬《はくらとうま》だ。
 黒髪ストレートの水上は恩恵が剣士なため、与えられた資金で買ったのか、外見からもう立派な剣を背中に携えていた。防具も優希みたく革製の安い胸当てではなく、図書館の扉で立っている衛兵の装備と変わらないような鋼の防具を身に着けている。

 茶髪の葉倉は、恩恵が竜崎と同じ武闘家で、ジャケットのような服を着て、手にはサックのようなものをつけている。竜崎が動きやすさ重視なら、葉倉は攻守のバランス重視の装備だった。身体能力の高さが売りの武闘家は攻撃特化がほとんどなため、竜崎の装備が一般なのだが、どうやら葉倉は少し保身も兼ねている様だ。

「そうだ、お前もちょっと付き合えよ。どうせ全く町の外に出てねぇんだろ? 軽く運動しようぜ」

 竜崎の言葉は、傍から見れば普通かもしれないが、優希にとっては恐怖でしかなかった。町の外――つまりは魔境に行こうと言っているのだから。もちろん町の外がすべて魔境というわけではないが、外壁に囲まれたこの町から出る目的は、どこか別の町、もしくは都に行くか、魔境に潜るかの二択だ。竜崎たちもまだ他の場所に行くには準備が足りてないと考えると、外に出る目的は魔境に潜るほかない。そして、優希は魔境に潜れるほど、練度は高くない。

「いや、僕は別に……いいよ、ほら外は危ないし、みんなみたいに戦えるわけじゃないし」

 いろいろ思い浮かぶ理由は並べて断ろうとする優希。しかし、優希が口を開けば開くほど竜崎の目は険しく優希を睨みつける。
 優希の心は今にでも吐き出しそうな恐怖で埋め尽くされていく。
 ふざけと虐めの境は、やる側の限度が、やられる側の許容の内にあるかどうかだ。やられる側が冗談と認識できる範囲とやる側もやられる側の許容限度を知っているかどうかで話が変わる。やる側がこれくらい遊びの範疇と思っても、やられる側がそうとは限らない。
 そして、優希が持つ疑問は、その許容限度を竜崎が知っているかどうかだ。つまり、本当に命の危機に優希がさらされた時、悪態をつきながらも竜崎が助けてくれるかどうかだ。ただ単に、優希が魔族相手に逃げ回る姿を見たいだけならまだいい。しかし、優希が危険だということに竜崎が気付けるかどうか。それが分からなければ嫌でも行きたくない。行きたくないのだが、

「安心しろって。危なくなったら助けてやるから」

 優希が言ってほしくなかったことを言われてしまった。これで、危険だから行きたくないという理由はあまり使えない。竜崎の言葉に信憑性があるかどうかだが、結局は行かなければ分からないし、行く以外に選択肢が消えつつある今、優希は覚悟を決めなければならない。それほどまでに、優希は竜崎を恐れている。命が危ないと感じながらも、目の前の恐怖に臆するほどに。

「……分かったよ」

 優希の返答に、竜崎の表情は柔らかくなり、それと同時に不敵な笑みを浮かべていた。それは後ろの二人も同じで、優希の中にはいつにもまして不安と恐怖心で支配されていた。
 
 その後、優希は気が向かないながらも、外へ出る準備をした。いつにもまして鉄製のタガーは重く感じ、外の自然に近しい綺麗な空気は、不安というフィルターを通して気持ち悪い空気へと変わる。紙で切った指に布を巻こうとしたが、いつの間にか傷は無かったかのように塞がっていた。
 
「いつまで準備にかかってんだよ。とっとと行くぞ」

 優希を軽く睥睨した竜崎は先導するかのように歩き出す。
 この町は大陸の中心にある帝都から南東の方向にある通称『始まりの町』。最低限の物資が調達でき、勇者が召喚されるあの協会は有名らしい。八大都市に比べれば田舎の部類に入る『始まりの町』だが、高さ数十メートルの城壁で囲まれた円形の町で、あまり田舎と言われてもピンとこないほどだ。それほどまでに八大都市は発展しているのだろう。

 そして、『始まりの町』に一番近い魔境は割とすぐそこにある森だった。『始まりの町』を囲う城壁の門をくぐってすぐに、左を向けば視界一面の平原に不自然に広がる森がある。この魔境は戦闘の経験を積むにはうってつけの場所だ。魔族のレベルも低く、魔族自体森から出ないので、逃げようと思えばすぐに逃げられる。

「まあ、あくまでもそれは入ってすぐの場所だけどな。この下級魔境は低級魔界にもつながっているみたいだから」

 水上が進行方向に体を向けたまま、首だけ振り向きそう語る。聞きたくもない情報に、優希は周囲を見渡し、最大限の警戒心を持って竜崎達の後に続く。森に入って数分、先頭を歩く竜崎の後ろに水上と葉倉が並んで歩く。優希も彼らの数歩後ろに置いていかれないように続いていく。

 森の中は薄暗いほどに木の密度は高いが、数人歩ける程度に木々の間はあり、優希達が歩いている場所は、草木が踏みつぶされて簡単な道になっている。

 静かな森は、鳥の鳴き声すらも聞こえず、優希達が歩く度に落ちている小枝を踏んでパキッという乾いた音が鮮明に耳に残る。
 ――このまま魔族が出なければなぁ。
 そう願う優希。だが、神様の悪戯はフラグ立ったと言わんばかりに唐突で、

「グルルルルルル……」

「うわぁっ!? なんか出てきた!」

「騒ぐな鬱陶しい」

 優希は驚きながらとっさに近くの木に隠れ、竜崎が本気で鬱陶しそな目を優希に向ける。
 彼らにそうさせた相手は、灰色の体毛が全身を覆い、鋭く光る金色の瞳は優希達を餌として認識し、口からはみ出た二本の牙は、鉄板さへも貫きそうだ。元の世界で言ううならサーベルタイガーだ。しかし、サーベルタイガーよりも少しばかりい大きく、色も異色だ。

「狩猟虎《ハンティングタイガー》か……まあ俺たちなら、いやこれくらいなら一人でも倒せるな」

 竜崎が腕を回しながら呟いた。竜崎が考える一人に、優希は自分が含まれていないことを木影から願うばかりだ。まあ言うまでもなく、その願いは届かない。

「そんじゃ桜木、お前がやれ。俺たちはここで見とくから」

「い、いやいや無理だよ! だってあれ虎でしょ、簡単に殺されちゃうよ!」 
 
 身振り手振りで拒む優希を、葉倉は無理やり狩猟虎の前へと引っ張りだす。
 勢いあまってよろめく優希を出迎えるのは、大きい牙から伝って落ちる唾液を、包丁かと誤認するほどに鋭い爪を持つ前足で踏みつける狩猟虎。
 あまりの迫力に思わず尻餅をつく優希。何せ普通の虎でさへこれ程間近に対面したことが無いのだ。元の世界など、せいぜい子猫に近づいて引っかかれるだけでなく、そのまま溝に足がはまる体験をしたぐらいだ。
 思えばまだ笑えそうな話だが、そんな過去を回想ができるほど今の優希に余裕の二文字は無い。

「あわわわわわわぁあぁあああ!! 無理無理助けてぇえ!!」

「グルウァアァアア!!」

 慌てふためく優希に襲い掛かる狩猟虎。必死に鬼ごっこ、いや虎ごっこを繰り広げる優希を見て、腹を抱えて笑う戦闘系恩恵者の御三方。
 不幸中の幸いは優希もまた恩恵者だということ。出なければ今頃狩猟虎の腹の中だ。
 恩恵者になるには例外はあるものの、基本は肉体的、精神的に鍛錬された者が初めて、体内にマナを生成し貯蓄する器官、魄籠《はくろう》を生み出せる。魄籠は心臓の下あたり、鳩尾付近に生成され、そこからマナを流れるための道、魄脈《はくみゃく》が全身を廻る。元の人体で言えば、マナは血液、魄籠は心臓、魄脈は血管だ。そして、マナは新しいエネルギーとして、細胞へと廻り活性化され、爆発的な身体能力が手に入る。
 
 優希もまた、身体能力が上がっているため、ギリギリではあるもののどうにか逃げ切っている。
 振り下ろされる大爪は、優希の視界には案外と遅く感じた。人間は死が近づくと潜在的な力が解放される。これはそれなのだろうと優希は思った。しかし、それは違うと少しづつ感じつつある。
 思えば、優希は一度も『始まりの町』を出ていない。つまり、実際に魔族と対面したのはこれが初めてなのだ。優希は自分の体が多少は戦闘できる程に強くなっていることを今初めて体感した。

「おいおい、逃げてばっかだと殺されるぞー。頑張れ頑張れー」

 笑みを浮かべながら、本気かからかっているのかわっからない応援を届ける竜崎。観戦している三人は木に登り、太い枝に座ってまさに高みの見物だ。
 竜崎の挑発じみた応援のせいか、恐怖からくる興奮のせいなのか、普通なら思いもしない考えが、優希の脳裏を過った。

 ――戦わなくちゃ……殺される。

 殺される前に殺す。この考えが浮かんだとき、優希は心の中で驚いた。命を奪うという行為は優希には程遠いものだったからだ。実際、元の世界でも血を見ることが嫌いな優希は、蚊すらも殺すことを躊躇した。しかし、この状況においては自分が最も嫌いなことが、生存への選択肢だった。

 恐い。今にも逃げ出したい。心臓の鼓動が高鳴り続ける。脳が焼き焦げそうなくらいに頭が熱い。呼吸も荒い。早く、早く何とかしなければ。

 そこまでの思考を無意識且一瞬に繰り広げた優希は、今振り下ろされた攻撃をかわしたところで、二賀から攻撃の姿勢へと置き換える。
 その行動に、笑いが絶えなかった竜崎達に驚愕という感情を張り付けた。

「お、やるみたいだぜ」

「こっからが見どこだな」

「楽しませろよぉー」

 そんな期待のセリフを木の上から吐き捨てる竜崎達。しかし、今の裕にその言葉は届いておらず、優希の五感は目の前の敵、狩猟虎へと集中される。
 アドレナリンをフル活用した極限集中は、自分の鼓動で支配される音も、木々の臭いと獣臭が混じった匂いも、肌で感じるわずかな風の感触も、水分を欲す乾いた喉も、あらゆる条件を目の前の敵を無力化することにそそぐ。

 そして、一度心を落ち着かせるために深呼吸。

 たった一回の深呼吸。このわずかな時間が、優希には長く感じられた。木々の騒めきが優希を応援しているように感じられて、
 そして――

「グルゥルァアア!!」

 唾液を吐き散らして襲い掛かる狩猟虎を、優希は決死の覚悟で迎え撃つ。
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