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第1章 漁師町カリオラでの日々
1 秘密を抱えた依頼主(1)
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漁業が盛んな海沿いの小さな町カリオラ。
町の外れの小高い丘の上に建つこの小さな家からは、夜明け前に漁に出かけた漁師たちの舟が港に戻ってくる様子がよく見える。眼下に並ぶ家々の煙突からは、朝食の準備をしていると思われる煙が幾筋も立ち上っている。
代わり映えのないいつもの風景は、丘の上に一人で佇むフィリアを安心させた。朝露と潮の香りを胸一杯に吸い込んで深呼吸をする。
短い朝の日課を終えると、屈んで足元で毛繕いをしているうさぎの背を撫で、薄茶のガラス玉のような瞳を覗きこんだ。
「おはよう、うさぎさん」
『おはよう、フィリア』
滑らかな毛並みをもう一度堪能してから腰を上げ、家の裏手にある家庭菜園へと足を向けた。大きく立派な畑とはいえないが、手入れの行き届いた自慢の畑だ。自分が食べる分とたまにこうしてやってくる動物たちにお裾分けする分があれば十分で、半ば趣味のようになっている野菜作りである。
手頃なものを一つ引っこ抜き、鮮やかなオレンジ色をしたニンジンの泥を綺麗に落としてから、後ろをついてきた先程のうさぎに差し出した。
「さあどうぞ。いっぱいお食べ」
うさぎは器用に両手でニンジンを掴んでかじりついた。幸せそうに目を細め、もぐもぐと小さな口を一生懸命動かしている様子にいつもフィリアは癒されるのだ。
『んん~~~!やっぱりいつたべてもおいしいわ!あんたのにんじんだいすきよ』
「ありがとね。もう1本食べる?」
2本目を差し出すと、うさぎは真ん丸な瞳を一層輝かせてそれを受け取った。
『いただくわ。いくらでもはいっちゃう……って、のんきにたべてるばあいじゃなかった!!!』
突然後ろ足で立ち上がって両耳をぴんと伸ばしたうさぎは、フィリアの顔をじっと見つめた。うさぎの天敵でも現れたのかと思って周囲を見渡してみるが、それらしいものはどこにもいない。
「どうかした?」
『にんじんにむちゅうでかんじんなことをわすれてた!きょうはあんたにけいこくしなきゃとおもってきたんだったわ』
フィリアは警告といううさぎの言葉に思い当たる節があったので、いささか物騒な物言いだとは思ったが口を挟まずに話の先を促した。
『もうきづいてるとはおもうけど、なにかがここへちかづいてるの。もくげきじょうほうもあるのよ』
フィリアが一人で暮らすこの家は海岸からずっと上った先の開けた丘の上にあり、他の民家はすべて海沿いに集中しているため結構な距離がある。目と鼻の先には鬱蒼とした森が広がっていて、このうさぎをはじめとした動物の友人たちが大勢住んでいる。幼い頃から森の中を駆け回っていたフィリアにとっては庭のようなものだった。
ここ数日、そんな慣れ親しんだ森の様子に異変を感じていたのだが、それほど警戒はしていなかった。どこか別の場所から住人ではない動物でも迷いこんだか。せいぜいそれくらいに考えていた。もしそうであるなら、動物と言葉を交わすことのできる力をもったフィリアには何も怖いことはない。相手が狂暴になったくまでもオオカミでも、みんな話せばわかるいい子たちばかりなのだから。
そんなフィリアの心を見透かすようにうさぎは言った。
『ざんねんだけど、それはアタシたちとはちがうみたいなのよ』
「動物じゃないってこと?それじゃあ、人が迷いこんだんじゃない?」
この森は一度足を踏み入れれば二度と出てこられないと評判の迷いの森。この町の住人たちでさえ、フィリアを除いては誰も近寄ろうとしないほど。けれど実際のところ、森に住む悪戯好きな妖精たちが遊びであちこちに細工をして、迷路のような森をつくりだしているのである。人に直接危害を加えることもなく、気がすめば迷路から解放して目的地までの道を開いてあげるあたり、可愛いものだ。今回も運悪くターゲットにされた哀れな旅人が捕まっているのではないだろうか。
ところが、うさぎは小さな頭を左右に大きく振って否定の意を示した。
『それがヒトでもないみたいよ』
「動物でも人でもないものか…」
うさぎの言うことが本当だとすれば、ここへ向かってくる者の正体は一体何なのだろうか。真剣に考えたのはほんの一瞬で、すぐに思考を放棄した。
「まぁ、ここまで来たら来たで、どうにでもなるでしょ」
物事を楽観的に捉えることができるのは、フィリアの長所のひとつでもある。考えても結論が出ないことをいつまでも考えるのは時間の無駄としか思えない。
一人立ちして日は浅いが、これでも一人前の呪い師なのだ。危険を察知する能力は一般人よりも優れている。フィリアに流れる呪い師としての血は、今すぐ逃げろとは言っていない。
「焦ってはいけないよ。どんな時でも落ち着いて、周りの声によく耳を傾けてごらん」
何か失敗をするたびに、尊敬する母はいつもそう言って背中を押してくれた。迷った時に大切なのは自分の勘を信じること。それを教えてくれたのも母だった。
うさぎは開き直ったフィリアの様子を見て、やれやれという風に首を横に振った。
『いいわよ。どうせフィリアのことだから、そういうはんのうをするとおもってた』
「よくわかってるじゃない。でも、心配してくたのはすごく嬉しいよ」
心優しいこのうさぎと出会ってからもう4年になる。特にフィリアがこの家に1人になってからは、毎日のようにやって来てはニンジンを強請り、よき話し相手になってくれている。愛らしいうさぎの存在には何度も助けられてきた。
耳の間を掻くように撫でてやると、うさぎは気持ち良さそうに目を細めて鼻を鳴らした。
「さあ、もうお行き」
お土産用にと、さらにニンジンを2本程引っこ抜き、赤く熟したイチゴもいくつか摘んで、うさぎ用の小さなバスケットに入れた。
「みんなで食べるんだよ」
うさぎはお礼を言うと、バスケットの取手の間に頭を入れて器用に首にぶら下げた。
『なにかあればすぐによんで。フィリアはアタシたちのだいじななかまなんだから』
「うん。なにもないことを祈るけど、その時はよろしくね」
最後までうさぎは心配そうな目を向けてきたが、名残惜しそうにしながらも背を向けて住み処の森へと帰っていった。
それから2日後のことだった。フィリアの元へと不思議な男がやって来たのは。
町の外れの小高い丘の上に建つこの小さな家からは、夜明け前に漁に出かけた漁師たちの舟が港に戻ってくる様子がよく見える。眼下に並ぶ家々の煙突からは、朝食の準備をしていると思われる煙が幾筋も立ち上っている。
代わり映えのないいつもの風景は、丘の上に一人で佇むフィリアを安心させた。朝露と潮の香りを胸一杯に吸い込んで深呼吸をする。
短い朝の日課を終えると、屈んで足元で毛繕いをしているうさぎの背を撫で、薄茶のガラス玉のような瞳を覗きこんだ。
「おはよう、うさぎさん」
『おはよう、フィリア』
滑らかな毛並みをもう一度堪能してから腰を上げ、家の裏手にある家庭菜園へと足を向けた。大きく立派な畑とはいえないが、手入れの行き届いた自慢の畑だ。自分が食べる分とたまにこうしてやってくる動物たちにお裾分けする分があれば十分で、半ば趣味のようになっている野菜作りである。
手頃なものを一つ引っこ抜き、鮮やかなオレンジ色をしたニンジンの泥を綺麗に落としてから、後ろをついてきた先程のうさぎに差し出した。
「さあどうぞ。いっぱいお食べ」
うさぎは器用に両手でニンジンを掴んでかじりついた。幸せそうに目を細め、もぐもぐと小さな口を一生懸命動かしている様子にいつもフィリアは癒されるのだ。
『んん~~~!やっぱりいつたべてもおいしいわ!あんたのにんじんだいすきよ』
「ありがとね。もう1本食べる?」
2本目を差し出すと、うさぎは真ん丸な瞳を一層輝かせてそれを受け取った。
『いただくわ。いくらでもはいっちゃう……って、のんきにたべてるばあいじゃなかった!!!』
突然後ろ足で立ち上がって両耳をぴんと伸ばしたうさぎは、フィリアの顔をじっと見つめた。うさぎの天敵でも現れたのかと思って周囲を見渡してみるが、それらしいものはどこにもいない。
「どうかした?」
『にんじんにむちゅうでかんじんなことをわすれてた!きょうはあんたにけいこくしなきゃとおもってきたんだったわ』
フィリアは警告といううさぎの言葉に思い当たる節があったので、いささか物騒な物言いだとは思ったが口を挟まずに話の先を促した。
『もうきづいてるとはおもうけど、なにかがここへちかづいてるの。もくげきじょうほうもあるのよ』
フィリアが一人で暮らすこの家は海岸からずっと上った先の開けた丘の上にあり、他の民家はすべて海沿いに集中しているため結構な距離がある。目と鼻の先には鬱蒼とした森が広がっていて、このうさぎをはじめとした動物の友人たちが大勢住んでいる。幼い頃から森の中を駆け回っていたフィリアにとっては庭のようなものだった。
ここ数日、そんな慣れ親しんだ森の様子に異変を感じていたのだが、それほど警戒はしていなかった。どこか別の場所から住人ではない動物でも迷いこんだか。せいぜいそれくらいに考えていた。もしそうであるなら、動物と言葉を交わすことのできる力をもったフィリアには何も怖いことはない。相手が狂暴になったくまでもオオカミでも、みんな話せばわかるいい子たちばかりなのだから。
そんなフィリアの心を見透かすようにうさぎは言った。
『ざんねんだけど、それはアタシたちとはちがうみたいなのよ』
「動物じゃないってこと?それじゃあ、人が迷いこんだんじゃない?」
この森は一度足を踏み入れれば二度と出てこられないと評判の迷いの森。この町の住人たちでさえ、フィリアを除いては誰も近寄ろうとしないほど。けれど実際のところ、森に住む悪戯好きな妖精たちが遊びであちこちに細工をして、迷路のような森をつくりだしているのである。人に直接危害を加えることもなく、気がすめば迷路から解放して目的地までの道を開いてあげるあたり、可愛いものだ。今回も運悪くターゲットにされた哀れな旅人が捕まっているのではないだろうか。
ところが、うさぎは小さな頭を左右に大きく振って否定の意を示した。
『それがヒトでもないみたいよ』
「動物でも人でもないものか…」
うさぎの言うことが本当だとすれば、ここへ向かってくる者の正体は一体何なのだろうか。真剣に考えたのはほんの一瞬で、すぐに思考を放棄した。
「まぁ、ここまで来たら来たで、どうにでもなるでしょ」
物事を楽観的に捉えることができるのは、フィリアの長所のひとつでもある。考えても結論が出ないことをいつまでも考えるのは時間の無駄としか思えない。
一人立ちして日は浅いが、これでも一人前の呪い師なのだ。危険を察知する能力は一般人よりも優れている。フィリアに流れる呪い師としての血は、今すぐ逃げろとは言っていない。
「焦ってはいけないよ。どんな時でも落ち着いて、周りの声によく耳を傾けてごらん」
何か失敗をするたびに、尊敬する母はいつもそう言って背中を押してくれた。迷った時に大切なのは自分の勘を信じること。それを教えてくれたのも母だった。
うさぎは開き直ったフィリアの様子を見て、やれやれという風に首を横に振った。
『いいわよ。どうせフィリアのことだから、そういうはんのうをするとおもってた』
「よくわかってるじゃない。でも、心配してくたのはすごく嬉しいよ」
心優しいこのうさぎと出会ってからもう4年になる。特にフィリアがこの家に1人になってからは、毎日のようにやって来てはニンジンを強請り、よき話し相手になってくれている。愛らしいうさぎの存在には何度も助けられてきた。
耳の間を掻くように撫でてやると、うさぎは気持ち良さそうに目を細めて鼻を鳴らした。
「さあ、もうお行き」
お土産用にと、さらにニンジンを2本程引っこ抜き、赤く熟したイチゴもいくつか摘んで、うさぎ用の小さなバスケットに入れた。
「みんなで食べるんだよ」
うさぎはお礼を言うと、バスケットの取手の間に頭を入れて器用に首にぶら下げた。
『なにかあればすぐによんで。フィリアはアタシたちのだいじななかまなんだから』
「うん。なにもないことを祈るけど、その時はよろしくね」
最後までうさぎは心配そうな目を向けてきたが、名残惜しそうにしながらも背を向けて住み処の森へと帰っていった。
それから2日後のことだった。フィリアの元へと不思議な男がやって来たのは。
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