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5、ふたりだけの庭園

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王子が助かるなら、と結婚を承諾したというのに。
リルの言葉を聞いてからも、王子は複雑そうな表情を浮かべたまま硬い表情を崩さなかった。

それがどうしてなのか気になったが、きっと聞いてもまた答えてはくれないだろう。
そこで初めて、彼がリルの瞳を真っ直ぐに見つめてこう言った。

「……マイリスだ」

「え?」

「マイリス・アブリコ14世。私の名だ」

「はぁ」

「王太子ではなく、名前で呼んでくれ」

王子にそう言われても、恐れ多くて呼び捨てになど到底できそうにない。

「……努力、いたします」

そう言うだけで、精いっぱいだった。

「お願いがございます」

「なんだ?」

「結婚式までの一か月間、殿下の出来うる限りの時間を私にいただけませんか!」

「なぜだ」

「夫婦になるのですから。あなたのことを、少しでも多く知りたいのです」

「ーー分かった。できるだけ努力しよう」

それから、彼は食事の時間と午後のこのお茶の時間を一緒に過ごすことを約束してくれた。
年齢はリルより少し年上らしい。
生きることに精一杯で、目の前にあることしか見ていなかったから、リルは自分の国の王子様の年齢さえ知らなかった。

王が肺の病で空気の綺麗な田舎の別邸で静養中であること。
王妃も着いて行っているため、不在だということ。
婚約式も結婚式もお二人は参列できないだろうこと。
近親者のみの小さな式になることを彼から謝られた。

確かに結婚式の主役は花嫁だと言うけれど。
この場合、リルはお飾りの妻なのだから主役はどう見ても王子だろう。

ぽっと出のリルを見世物パンダにして、国中を上げて盛大な結婚式をされるよりは全然、マシのような気がする。

しばらく話すとお互いの緊張感もだんだんと解けていき、王子の硬い表情も見る見るうちに優しくなってきた。

「良かったら、庭園を歩かないか?」

「ーーえぇ、喜んで」

王子がリルに手を差し出す。
一瞬戸惑ったが、ここはありがたく甘えることにした。

彼の手を借り、椅子から立ち上がる。
水仕事で荒れた手がなんだか恥ずかしくなった。
こんなときココなら、きっとこう言うだろう。

『一生懸命、働いた手だ。恥ずかしいことなんかあるもんか』

リルは背筋をピンと伸ばして王子の隣を歩いた。
心地の良い風が頬をかすめる。
緑の香りが鼻をくすぐる。

何も持っていなくたって、自分自身さえ信じていれば、どこにいたってなんとかなるものだ。

「ーーそのドレスよく似合っている」

「えっ、あ、ありがとうございます。レトロな形がお気に入りなんです」

王子の唐突な誉め言葉に恥ずかしくなって、思わず頬を赤らめた。

最近の流行は胸元の大きく開いたデザインだが、リルが着ていたドレスはシルバーグレーの光沢のある布地に襟元が詰まったアンティークなデザインだった。

特別な時にしか着ないと決めている唯一のよそいきのドレス。

「孤児院の近くに住む年配の奥様が、若い頃に大事に着ていたドレスを寄付してくださったんです」

「古着なのか?」

「はい。孤児院では皆そうです」

その時、スカートの裾を踏んでしまいリルは態勢を崩してしまった。

――転んでしまう!

そう思った瞬間、王子がリルの手首と腰をしっかりと支えてくれていた。

「ごめんなさい!」

「いや、大丈夫だ」

恥ずかしくて思わず遠くに離れる。
せっかく物理的にも心理的にも、二人の距離が近付いた気がしていたのに。

「……どうしてそんなに細いのだ」

「え?それは……。その日、食べる物にも困っているからです」

「孤児院には国から慈善金が支払われているだろう?」

「慈善金ですか?ーーその様な話は聞いたこともありません。孤児院は、地域の方の善意と自給自足でなんとか暮らしているのですから」

リルのその言葉を聞いて、マイリスは眉間に皺を寄せ厳しい表情を作った。
最初にお城の前で会った時の怪訝そうな表情とは明らかに違っていたが、リルは自分の鼓動を抑えることに必死で彼の表情の変化に全く気付かなかった。

「……もうすぐ職務に戻る時間だ。部屋まで送ろう」

「ありがとうございます」

言葉でそう言いながらも、リルはガッカリしている自分の気持ちに驚いた。
もっと彼と色々な話をしながら歩いていたかったのだ。

その日の夜の夕食は、王子の仕事が終わらないことを理由に、部屋で一人きりで食べることになった。

早速、約束を破られたことにガッカリはしたが、一人でゆっくり考える時間ができてホッとしたのも事実だ。

いつもお腹を空かせていたのに。
今日は胸がいっぱいで食べられそうにないからと夕食を丁重に断ったが、クレモンティーヌが何も食べないのは体に悪いからと胃に優しいスープを持って来てくれた。

温かいスープには沢山の野菜とチキンがゴロゴロと入っている。

孤児院の皆にも食べさせたい。
そう、思った。
明日には、お給金の話を王子に聞いてみよう。

孤児院に帰ることはできなくても、仕送りだけは必ずできるように。

食事を終え寝支度を整えると、一目散にフカフカなベッドに飛び込んだ。
いつもは、固いベッドと薄い布団で眠っていたのに。
天蓋付きのベッドなんて、まるでお伽噺のお姫様にでもなった気分だ。

布団の中で、昼間の王子のはにかんだ表情を思い出す。
掴まれた時の手首と腰の熱さ。
広い部屋で一人きり。反芻する。

眠れないかもしれない、という心配をよそにリルはいつの間にか、ぐっすりと眠りに落ちてしまっていたようだ。

次に目を開いたときには、メイド達が慌ただしく朝の支度に取り組んでいたから。
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