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【16】バッハの旋律を夜に聴いたせいです

まじなんなんコイツ(心の声)

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 寮に帰っても、久坂と高杉はずっとため息をついていた。
「そんなに嫌がらなくても、離れにでも行って貰ったらいいんじゃないんすか?」
 幾久が言うも高杉は首を横に振った。
「殿に言うてみたんじゃが、絶対にこの御門寮泊まると言って聞かんらしい」
「なんでッスかね?」
 後輩とはいえ、よく知りもしない高校生がいる御門寮より外の離れのほうがよっぽどゆっくりできるだろう。
 五月に来たあの面々みたいに、みんなで遊びたい、騒ぎたいと言うなら話は別だが、一人なら別に離れでもいいだろうに。
 高杉は首を横に振った。
「知らん。そもそも、アイツがそこまで御門寮に思い入れがあるなんて聞いちょらんし、良い話なんぞ聞いたこともない」
 高杉の話を聞くに、長井はあまり御門寮になじまなかったらしい。
 しかし、長井の身内が寄付金を御門に出したせいで、出るに出られず、寮生とうまくいかないまま三年を過ごしてしまったとの事だ。
 寮を移動できる報国院ではあまりないパターンだ。
「居づらかったなら、わざわざなんでまた来るんスかねえ?」
 幾久が首を傾げるが、高杉は「知らん」とうんざりした顔で言う。
「仕方がないとはいえ、ホンっと、嫌だなあ」
 久坂がめずらしく愚痴をこぼす。
 この二人がこんな風に弱るなんて初めてで、幾久は楽しくすらなってくる。
「なんかあったらオレらがなんとかしますって!」
 そう楽しげに幾久が言うと児玉が言った。
「いま俺も混ぜたか?」
「そうだけど?」
 当然じゃないか、と言う幾久に児玉は苦笑する。
「確かに、先輩らが嫌なら、俺らでなんとかしなくちゃな」
 そうそう、と幾久は頷く。
「そこまで心配しなくったって大丈夫ッスよ!ここはどーんとオレとタマに任せてくださいって!大船に乗ったつもりで!」
 幾久が言うと久坂が唸った。
「絶対沈没する」
「瑞祥先輩ヒデーっす。タマがいるんすよ、安心してください」
「そういういっくんが一番巻き込まれそうなんだけどさ」
 久坂がため息をつくと同時に、玄関の呼び出しブザーが鳴った。
 がばっと久坂と高杉が顔を上げ、互いを見た。
 例の先輩がやってきたのだろう。

 幾久は立ち上がった。
「オレが出ますよ」

 全く、世話のやける先輩達なんだから、と幾久は玄関へと向かった。
 鍵をかけているので、閉まったままの扉ガラス越しの人影が見えた。
「ごめんください。長井と申します」
 丁寧な言葉に幾久は返事を返した。
「はいはーい、聞いてまーす」
 そう言って玄関のカギを開け、がらりと扉を開けた。

 玄関に立っていたのは、なるほど、三吉や犬養と同世代くらいの、こぎれいな、どちらかといえば整った、ともすれば軽薄な雰囲気すらする男性が立っていた。

「こんばんは。御門出身の長井と申します。お世話になり……」
「はい聞いてます。いらっしゃいませ」
 そう言って顔を上げた幾久だったが、男性はひどく驚いて、しかも嫌そうなしかめっつらの表情で、幾久に向かって言ったのだった。


「……杉松?!」


 幾久の前に立った、長井と名乗った男はさっきまでの一応はにこやかな雰囲気はどこへやら、幾久に向かって言った。
「いや、違う。まさかお前、瑞祥か?」
「瑞祥先輩ではないっす」
 幾久が答えると、長井はむっとしたまま言った。
「じゃあ誰なんだよお前」
「誰って。御門寮の一年鷹、乃木幾久っす」
 どうも、と一応頭を下げると長井は幾久を品定めするようにじろじろと眺める。
「他人のくせになんで似てるんだよ」
「そんなん知らないッスよ。他人のそら似って奴じゃないっすか」
 面倒くさい人だな、と幾久は思った。
「瑞祥先輩なら中にいるっすよ」
 そう幾久が言うと、やっと長井はふん、とだけ言って中へ入ってきた。
 荷物を置き、そして再び外に出ると大きなものを抱えて持ってきた。楽器のケースだ。
(そういや、楽器やってる人って言ってたな)
「荷物は中に運ぶんすか?」
 手伝おうと幾久が声をかけると、長井は言った。
「そっちのスーツケースを運んどけ。楽器には触るな」
 あれ?こういう場合、ありがとうとかすまないな、じゃないのかな。
 幾久は引っかかったが、運ぶと言ったのは自分なので大人しく言われた通りスーツケースを抱えた。


 スーツケースを抱えて運び入れると、長井は言った。
「俺の部屋は」
 てっきり、今日泊まる部屋の事なのかな、と思い幾久は答えた。
「別にないんで、どこでも空いてる所使ってもらったら。なんなら離れでも」
 すると長井はまた露骨に顔を歪めて言った。
「は?俺の部屋だよ。防音室あるだろ」
「防音室……」
 そこで幾久は気づく。
 山縣が使っている部屋だけはなぜか防音になっている。
 ということはまさかその部屋の事を言っているのか。
「え、防音の部屋ならガタ……三年の先輩が使ってますけど」
 幾久が言うと、長井は「はぁ?」と言った。
 幾久は思った。
(オレ、こいつ嫌い)
 なんなんだこの礼儀のなさと失礼さは。
 いくら先輩でもこれはねーわ。
 しかし長井はすたすたと廊下を歩き、山縣の部屋の前で止まるといきなり扉を開いた。
 当然、いきなり開けられた山縣はびっくりしている。
 長井は山縣に言った。
「なんでお前が勝手に俺の部屋使ってんの?誰に断ってんだ?」
 後ろに居る幾久の表情、そして態度、あからさまな言葉に山縣は状況と、これが誰であるのかを一瞬で理解したらしい。
 山縣はにこやかに、すばらしい笑顔で長井に言った。
「受験勉強の邪魔しないでいただけますか?ぼく、鳳クラスなんで現役合格しないと立場がなくて。あ、志望校は東京大学です」
 すると長井はかーっと顔を真っ赤にして、音を立てて乱暴に山縣の部屋の扉を閉め、幾久に言った。
「空いてる部屋、どこでもいいから案内しろ!」
「……ウス」
 よくわからないが、多分山縣の勝ちだ。
(ガタ先輩、グッジョブ)
 幾久は心の中で親指を立てたのだった。

 空いている部屋のうち、ドアと鍵がついている部屋がひとつあったので、幾久はその部屋へ案内した。
 ぶつくさ文句を言っていたが、荷物は置いたのでここで納得したのだろう。
 フローリングの部屋なので、布団ではなく簡易ベッドがクローゼットにしまってある。
 幾久がクローゼットからベッドを出し、寝具をセッティングしていると長井が言った。
「メシは?」
「え?夕食っすか?」
「どこに準備してあるんだ」
「いや、食べるとか聞いてないっす」
「はぁ?普通いるってわかるだろ?」
 横柄な長井の態度に、幾久はだんだん苛立ってきた。
 最初の挨拶こそ、そこそこまともに見えたけれど、この態度は一体何だ。
 いくら先輩だとしても酷過ぎる。
「先輩が連絡されてるんなら、あるんじゃないっすかね」
 言外にお前が連絡してないなら知らない、と幾久はそっけなく言うと嫌味はすぐに判ったらしい。
「お前生意気だな」
「先輩ほどではないです」
 長井は頬をひくつかせながら言った。
「お前みてーなヤツ知ってるぞ。俺がここに住んでた時も生意気な口聞いてたけど、そいつすぐ死んだぞ」
「話の関連性が理解できないっす」
 成程、これは毛利も三吉も相手をするのは嫌だろうなと幾久は納得した。
 自分だって嫌だけど、それにしたって嫌味の内容があまりにお粗末だ。
 面倒なのでもうダイニングに移動しようと歩き出した幾久の後を長井がついてくる。
「一年のくせに先輩を敬おうって気がねーのかよ」
「オレ、めちゃめちゃ先輩敬ってますよ」
 毎日久坂にお茶を入れているし、吉田の手伝いも結局的にやっているし山縣のカフェオレづくりだって幾久の仕事だし、高杉の事は心から尊敬している。
 なので堂々と幾久が言うと長井は「嘘つけ」と毒づく。
「俺も先輩なんだけど」
「みたいっすね」
「覚えねーのかよ。頭わりぃな」
「たかが鷹レベルなんで」
「バカじゃねーか」
「次は鳳なんで」
 幾久がそう言うと長井は不機嫌に大きく足音を鳴らした。
「てめーみてーな礼儀知らずのバカが鳳に入れるわけねーだろ!」
「それ決めるの先輩じゃないっすよね?」
 幾久はにこにこと笑いながら、ダイニングの扉を開けた。
 二年生全員と児玉はすでにテーブルについていた。
 長井は鼻で笑って肩をいからせた。
「泊まるけど、俺に迷惑かけるなよ」
 泊まらせて貰う方の態度じゃない。
 寮の主導権はあくまで生徒にあるというのに、長井はまるで自分が歓迎されて招かれたかのような態度だ。
 久坂と高杉は長井を見ると、露骨に表情を歪め、児玉は露骨に不機嫌な表情になった。
 しかし幾久が言った。
「先輩が来てる時点でもう迷惑っす。大人しく席についてくれます?」
 驚く全員を置いてけぼりで幾久はにこにこと長井に言った。
「ごはんですよ?先輩。おなかすいてるんですよね?」
 幾久の態度に長井はなにか言いたげだったが、ちっと舌打ちすると空いている席に座った。
 久坂を見つけると、ニヤッと笑って言った。
「なんだ、やっぱり瑞祥がそっちか。お前杉松にちっとも似てねーな。最初はこの生意気が瑞祥かと思ったけど違うんだな。コハルちゃんも元気そうでなによりだ」
「その呼び方はするな」
 高杉が言うと、長井が笑った。
「まだカスタネットで遊んでんのか?あいつらとレベルは丁度いいけどな」
「黙れよ」
 久坂が言うと長井は笑う。
「フン。図体でかくなっても中身はかわらないみたいだな」
「それはお前のほうじゃろう」
 高杉が言うと長井が眉を顰めた。
「大先輩に向かってなんだその態度は」
「なにが大先輩じゃ。勝手に来ておいて」
「泊まっていいって許可出したのは報国院だぜ?文句あるならとっとと院長に連絡入れろよ。大先輩を追い出してくださいーって」
 ニヤニヤしながら長井が言う。
 高杉はらしくなく、むっとしたままそれ以上は反論しない。
 いつもなら誰相手でも歯切れよく返す二人が、まるでいつもらしくなくて、幾久は首を傾げた。
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