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一章
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しおりを挟む自分の理解が及ばない事に対して人間は恐怖する。それが目の前にあり、さらには自分よりも立派な体躯で且つ力も強ければさらに増す。
突然泣き出されたあげく、両手まで掴まれてアニタの恐怖は一瞬の内に頂点に達した。あまりの展開に悲鳴を上げる事すらできず、反射的に手を引き離そうとするが当然それは不可能だ。相手は成人男性、しかも国内最強と言われる騎士。そんな相手が渾身の力で掴んでいるのだからアニタごときの力で抵抗できるはずもない。それどころか痛みに顔を顰めてしまう。
「こ……侯爵、侯……、エヴァンデル侯!」
ギリギリと骨が軋む音が聞こえてきそうだ。アニタはそれでも必死に体面を取り繕って侯爵に訴える。せめてこの手を離す、のがむりなら力を緩めて欲しい。だが、彼は余程興奮しているのか全く聞く耳を持たず、それどころかアニタが逃げようとしているのを察知してさらに力を強めてくる。これにはさすがにアニタも耐えきれなかった。
「いッ……、た」
けして大きいわけではなかったはずが、しかし侯爵の耳には響いたらしい。ハッとなって顔を上げると、慌ててアニタから手を離す。
「っ、申し訳ない!」
本人にとっても不測の事態だったのだろう。目に見えて狼狽えている姿に、逆にアニタの頭は冷静になっていく。
一番の正解はこの場からすぐに逃げ出す事だろう。が、しかしそうするには目の前の相手の立場が上すぎるし、それ以上に彼の発言とその様子――いまだ両目から涙を流したままなのが気になりすぎて動けない。
これ絶対面倒ごとの気配しかしないんだけどなあと思いつつ、それでも放置できるほどアニタは冷たくもなければそんな度胸もないので、仕方なしに預けていた手荷物の小さなポーチからハンカチを取り出した。
「あの……ひとまず、これをどうぞ」
話を聞くにも逃げ出すにも、とにかくまずは侯爵自身に落ち着いてもらわなければならない。アニタにハンカチを差し出された事で、彼もようやく自分がいまだ泣き続けている事に気付いたらしく、大変申し訳なさそうに受け取った。耳の縁がほんのりと朱に染まっているのはアニタの見間違いではないだろう。アニタは淑女の嗜みとして当然そこに突っ込みを入れる事はせず、静かに侯爵の気が落ち着くのを待った。
それからしばらくして侯爵は完全に落ち着きを取り戻したのか、まずはまっ先にアニタに詫びの言葉を向ける。
「本当に申し訳ないダルトン嬢。手は大丈夫だろうか? かなり本気で掴んでしまっていたから、痛めたりは」
「だっ、いじょうぶですご心配には及びません」
アニタは両の掌をヒラヒラと振ってみせる。たしかにジンジンと今も痛みはするし、若干の痺れは残っているけれども心配される様なものでもない。自分は無事であるし、侯爵も落ち着きを取り戻しているからじゃあ今日はこれで、と続けようとしたアニタであるが、赤毛の騎士はそれを許さない。
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