咲く君のそばで、もう一度

詩門

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第四章

89.霧の中の影

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 朧な月の光が、地上を照らす。
 昼間の水蒸気を含む生暖かな風を切り、緩やかな丘を駆け上がる。
 登った先で馬を止め、アデルダの町を眺望する。
 この国の栄華を象徴する町の灯りはまばらで、もう眠りにつこうとしている。
 そよいだ風が頬を撫で、草原に波を立てる。
 ざわざわと揺れる葉の音が、俺の不安を掻き立てる。
 彼女を連れてきて、本当によかったのか?
 今なら、まだ……。

「どうしたの? 何かあったの?」

 後ろにいるリナリアが背を引っ張る。
 彼女に悟られないように小さく息を吐き、肩越しに見る。
 見上げる青い瞳は俺の胸の内とは対照に、疑問を映すのみで迷いはなく真っ直ぐ。
 本当に行くのか、っと言いたかったが、この目を見れば安易に返答は想像できる。だが問うことが無意味だと分かっていても、決然とした意思を持つことができない。
 視線の会話。
 俺の意を察したのかリナリアは、淡い月の光に溶けていくようにゆるゆると瞳を歪める。これ以上沈黙を続けていると、彼女の方から問われそうだ。同じことを聞かれたなら、答えは俺も同じ。だからそう、やはり愚問なんだ。
 口を開かせぬよう不安を拭えるよう、彼女の頭の後ろに手を回し柔らかな金色の髪を撫でる。
 
「大丈夫だリナリア」

 不安気だった瞳がみるみると熱を帯び、彼女は俯きうん、っと消え入りそうな声で呟く。
 もう、覚悟を決めなければ。
 俺が彼女を守ればいいだけだ。
 手綱を打ち、再び馬を走らせ町へと向かう。

 
 
 徐々に近づく城門。
 松明の光に照らされる町への入り口は、まるで地獄へ誘われるように見えた。
 その前に数名の見張りが立っており、そのうちの一人が手を振っている。
 馬を止め話を聞くと、馬はここで引き取るからここで今日は帰っていいが、後日キルへ報告に行けとのこと。これは、王命。キルはどうなったのか気になっているようだ。お守りの件もあるし、ちょうどいい。明日会いに行くか。
 リナリアへ手を差し出し彼女が降りる間、見張りの男が労いの言葉と思ったよりも早いと驚きの声をかけてくる。
 トワが馬に与えた加護のおかげであるが、それを今説明するのは面倒だ。
 見張りの男は手綱を持ちながら、馬の体を撫で首を傾げる。酷使したのかと怪訝に馬を見る目が、リナリアへ向けられる。

「そちらは?」
「少し前に俺の対に所属していた」
「そんな方いましたかね」
「初めまして、リナリアです」
「……まぁ、貴方がそういうのなら」

 今まで必死に得ようとしてきた信頼。
 それを表す言葉は、今の俺に驚くほど何も感じさせなかった。
 信用される人間になりたかった。キルをそばで守れる立場になれるように、ずっと努力してきた。
 だが、俺は己の願いのために世界を危険にさらす文字通り悪魔になってしまった。
 そして、この町のどこかに悪魔がいるのかもしれない。いや、きっといる。
 それはまだ誰か分からないが、アトラスから借りた腕輪で分かるかもしれない。
 そうだ。今、試してみるか。
 内ポケットから腕輪を取り出そうと裾に手を入れる直前、リナリアに手首を掴かまれる。
 何故? 
 彼女をみると小さく首を振っている。
 え、ちょっと。
 そのまま手を引かれ、ひんやりとした空気を纏った城門を抜け町に入る。
 大通りに連ねる店の明かりもまばらで、人影もさほど多くない。
 手を離したリナリアは、立ち止まり辺りを見渡し始める。
 何かを探している様子。それともトワを待ってるのか?
 きっともういるはずだから、出迎えにくるのか。
 しかしさっき何故リナリアは、腕輪を見せることを止めた。

「さっき何故止めたんだ」
「あまり見せない方がいいと思って……こっちだよ」
「何処へ行く?」
「トワのいるところ」

 やはりもういるのか。
 リナリアはまた俺の手を握る。
 別に繋がなくてもついて行くのに。
 小さくて、温かな手に触れると、胸がそわそわして落ち着かない。
 無言で歩く間、繋がれる手を見つめる。
 すれ違う人間に俺たちは、どう見えているだろう。
 ずっとそばにいたい。守りたい。君のためなら死ねると途方もなく溢れる思いは、この繋がれる手だけでは見えることはない。
 世界の理から見ても、悪魔の俺と神である彼女に愛があるなんて……見えないのだろう。
 不意に揺れるローブについた泥に目がゆく。
 それにしても、どうしてもこんなに泥だらけなのか。風邪を引いたことはないと言っていたが、流石に着替えた方が……思い出した。これをずっと、聞こうと思っていた。

「リナリア」
「何?」
「俺たちは前に会ったことがないか?」
「えっ!?」

 立ち止まり振り向いたリナリアの顔は、目を開いてかなり驚いている。
 握った手を怯えたように離し、今度は複雑そうに目を伏せる。そして、歩き出す。
 急にどうしたんだ?なんだか様子がおかしい。
 とにかくついていかないと。
 リナリアから少し後に着く。

「ヴァン」
「なんだ?」
「それっていつのこと」
「え? あぁ……幼い頃、もう10年以上前か」
「そんな前のこと、覚えてるんだね。私に似ていたの?」
「似ていたというか、泥だらけのローブを着ていたんだ。今の君と同じような格好。それだけじゃなく会った時から、そいつとリナリアが結びついていた」

 そう、君に斬ってくれと懇願したあの時から。


「歳の違いで違うかと思っていたが、その、君は……」
「そう」

 っと言ったっきり、何も喋らない。
 俺は何か考え込んでいるリナリアの背を、後ろから黙って見つめる。思い出してくれてるのか?

「リナリア?」
「……今は、ごめんね。昔の記憶はよく思い出せない」
「そうか」

 歯切れが良くない。
 彼女から、揺らぎを感じる。
 何か隠してるのか?
 
「そういやお守りは? 見せてくれるって言っただろ」
「お守り? あ、あの……それも今、持ってないの」
「ジュンが肌身離さず持ってると言っていた。トワに返してもらったんじゃないのか?」
「慌てて出てきたから、家に置きっぱなしにしちゃって。だからね、また今度」

 そう言ったあとごめんなさい、っと謝罪の言葉がぽつりと溢れる。
 なんだろう、この気持ちは。
 落胆と疑念。一番は不満。
 やはり何か隠してるのか?
 だが、隠す意味ってあるのだろうか?
 問い詰めたら白状するか、それともこれはただ困らせているだけなのだろうか……分からない。
 路地の中へ入る。
 リナリアは迷いなく進む。
 しばらく歩いて宿の看板を掲げる建物に入る。
 中にいた主人に声をかけられると、先に知り合いがいるからとリナリアは言い、廊下の先一番奥の部屋の扉を、自分の家入るかのように開ける。

「お待たせ、トワ」
「リナリア様、ヴァンさん。お疲れ様でした」

 明かりが灯る簡素な部屋の中で、トワが出迎えてくれる。その顔はほっとした様子。心配であったならすぐに来てくれればいいのに。

「どうしてすぐに来なかったんだ」
「少しばかり気を遣ったつもりでしたが、不要でしたか」
「どういう意味だ」
「コホンッ」

 リナリアは咳払いで会話を遮ると俺に向き直る。僅かに頬を赤く染め上げながら手を前に出す。

「ヴァン、腕輪見せてもらってもいいかな」
「あぁ、そうだな」
 
 布に包んだまま、リナへ腕輪を差し出す。

「君なら大丈夫だと思うが、一応気を付けてくれ。母はまだ君の中にいるからな」

 うん、っと答えたわりに躊躇いを見せずに布をひっぺはがし、露わになった腕輪を鑑定人のように観察しだす。警戒のない行動は、元から安全だと理解しているよう。
 彼女が熱心に見ている間、首を傾げ状況が飲み込めていないトワへ簡潔に腕輪について説明する。
 エリンという神が、使いのアトラスに贈った腕輪。
 清く眩く石に拒絶されたのは、多分俺の悪魔の血に反応したという推測。
 聞き終わりトワがなるほど、っと唸り、上品な仕草で顎に手を添え考え込む。
 リナに視線を映す。
 掲げて腕輪を見つめる瞳は恍惚の色を見せ、形の良い唇は綺麗、っと吐息のような声を漏らす。

「アトラスさんのことを守りたいって強い思いが伝わってくる。エリン様は、それほど大切に思ってるんだね」
「そうか。それを聞いたらアトラスは喜ぶだろうな」

 物悲しげに微笑んだリナは手を下ろし、そのまま俯きながら腕輪を見つめている。
 胸がざわざわする。
 何を考えているのか分からないが、この胸騒ぎはあまりいい予感がしない。
 彼女に気を配りながら、話し出すトワの声を聞く。

「この腕輪があれば、悪魔を炙り出すことができるかもしれませんね」
「そうだな」
「しかし、カルディアに関しては未だ雲を掴むような状況にあります。貴方を見ているという曖昧な悪魔の証言しかないのですからね」

 話だけ聞けばなんて愚かで無謀なのだろう。それだけを頼りに、こんな行動を起こしたんだ。だが、少しでも希望があるのなら俺はそれに縋りたい。

「常に貴方の周りを精霊に監視させます。何か不審な動きをする人物がいれば貴方にお伝えしますし、向こうから仕掛けて来るようでしたらすぐに向かいます。よろしいですね」
「構わないが、あとはどうする」
「今のところ、特には」
「はっ?」
「今日は帰宅し、休んでいただいて結構ですよ」
「冗談だろ。この腕輪で、悪魔を炙り出せるかもしれない。時間はないんだ。今からでも手当たり次第に触れさせればいいだろ」

 先ほどはリナリアに阻止されできなかったが、そうしていけば辿り着くかもしれない。
 トワは小さく吐息を吐く。
 あからさまに呆れた態度だ。かもしれないなんて悠長で、策とも呼べるものではないのは分かっているが、ぼけっと家で寝て過ごすよりずっとマシだ。
 
「闇雲に多数の人間に触れさせれば、必ず悪魔に先手を打たれます。この腕輪は切り札。我々には何もできないと驕っているこの隙にしか機会はないかと。ですから、貴方には」
「確信できた奴に触らせるのか? その確信を得るためにこの腕輪を使うんだろっ!?」
「率直に申し上げますが、私はヴァンさんのそばにいる可能性が高いと思われます」

 皮膚にピリっと痛みが走った。
 考えていなかった訳ではなかったが、他人からはっきり言われると急に現実味を帯びる。
 そうでなければいいという願いが、その可能性を希薄にさせていた。

「それをするのならば、貴方の近しい人間からしていただきたいのです。もしそうであった場合、あとは我々が処理いたします」
「我々だと? 俺に、戦うなというのか」
「ならば貴方は、親しいと思っていた者に刃を向けることができるのですか?」

 それはまるで俺自身に、刃を向けられたようだ。
 キルの顔が浮かぶ。
 カイリにアル。
 グレミオにマリー、カミュン。
 セラート、ヘイダム。
 他に関わってきた人たち。
 その人達に俺は、切先を向けることができるのだろうか。
 悲痛な目をしているリナリア。
 それができないのなら、彼女を救うことなんてできない。

「……できるさ」
「ヴァン」
「だから、それを返してくれないか」

 リナリアへ手を差し出すと、顔を背け腕輪をぎゅっと胸に抱く。
 彼女にこのまま腕輪を持たせておくのは何故かよくない気がする。
 まさか俺にやらせるのではなく、彼女がする気なのか。

「少しだけ、この腕輪を貸して欲しいの」
「まさかリナリアがするつもりなのか? 俺はやれる。それに俺の方が警戒されにくいだろ」
「そうじゃないの。カルディアを見つけることができたら、この町が戦場になってしまうかもしれない。そうならないように少し、この腕輪の力を借りたいの」
「その腕輪でどうするつもりなんだ」
「それをミツカゲに相談したい。そうしたら返すから……お願い」
「リナリア」
「私は貴方のことも、貴方の大切な人だって傷ついてほしくない」

 言い返せない。
 世界を危険にさらしてまで彼女を救うと選択したが、キルのことや隊の皆がどうでもいいわけではない。
 勿論危険な目に合わせたくないし、何よりここはキルが懸命に守ってきた町だ。
 俺には町も人も守る方法は思いつかない。ここはリナリアに任せる他ないのか……。

「分かった。だが、一人で先走るようなことはしないでくれ」
「うん」
「ヴァンさんもお疲れになったでしょう。ですから、今日のところは帰ってお休み下さい」
「しかし」
「お気持ちは分かりますが、今はリナリア様の用件が済むまでお待ち下さい。それに悪魔と戦うつもりならば、自身の管理を怠ってはなりませんよ。弱った体で戦える相手ではありません」
「――っ分かってる」
「リナリア様のことは無論、貴方自身も守ることをお考えください」

 自分を守る?
 何をいってるんだ。そんなことを考えていたら、それこそ悪魔と戦えない。

「明日会いに行くから。何かあったらすぐに駆けつけるし……あの、よかったら家まで送って行こうか?」
「あのな、悪魔の狙いは君なんだ。それにトワが精霊に見張らせているだろ」
「分かってるよ。だけど……離れると、不安になるの」
「リナリア、そんなに心配しなくて大丈夫だ」
「でも」
「なら精霊じゃなく、君がいてくれればいいんじゃないか」

 これは、冗談。
 少しでも不安な思いがなくなればいい。
 もうっ!と言って笑ってくれればいいと思った。
 ぽかんとした顔をする彼女は、きっとこのあと予想通り顔を赤くする。
 っと、思いきや真剣な面持ちに変わる。
 
「うん、そうだね。そうしたらいつでもヴァンを守れるね」
「なっ」
「……リナリア様」

 もうっ本気にしないでくれ。
 ここはそれは無理だよ、ってそう言ってくれないと収拾がつかなくなってしまう。
 はぁ。こっちが困らされるなんて。

「冗談だ」
「え? でも」
「いくら恋人同士とはいえ、一つ屋根の下はまだ早いのではありませんか」

 微笑みながら言ったトワの言葉に、リナリアの顔は一気に赤くなる。
 俯き、頬に両手を当て恥ずかしがっている彼女。
 俺まで赤面してしまうが、嬉しくもなる。
 恋人という言葉が、現実に見せたかった愛を形にした気がした。
 そう、誰がなんと言おうと目の前にいるのは俺の愛する人で、彼女もまた俺を好きだと言ってくれた。
 神である彼女が、悪魔の俺を。
 そのがどれほど幸福か。失いたくない。俺は絶対にリナリアを守る。己の身を犠牲にしたって。

「なにも心配いらない。俺のことも君自身のことも。リナリアのことは俺が命に変えても……」

 言いかけた言葉が止まる。
 赤面していたリナリアの表情が、みるみると青ざめていく。
 しまったな。つい本音が漏れてしまった。
 今言った言葉は、彼女とした守れない約束に反してしまう。
 恐怖という感情に染まる彼女に、次にかける言葉が見当たらず、俺の足は自然とこの場去ろうとする。

「すまない。もう、行くよ」
「ヴァン、お願いだから危険なことはしないで」
「分かってる。トワ、リナリアのことを頼む。リナリアも用心するんだぞ。あと、明日には腕輪を返してくれ」

 心苦しそうに胸を押さえるリナリアが、閉じる扉に隠される。最後に見えたトワの鋭い眼光は、俺を咎めるようであった。
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