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第三章
83.私の希望②(リナリア視点)
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無風の空間に、柔らかな風が吹いた。
その温かな風が頬を撫で、私に瞼を上げさせる。
黒い手の目隠しがとれた先に、刺す眩さに数回瞬きをし、開けた視界には青々とした葉を茂らせる木々。
雑木林の中に続く、砂道の上に私は立っていた。
でこぼこした砂道は水を含み、轍の跡や地面の浅い窪みには、濁った水が張っている。
じめっとした濃い土の匂いもするし、雨が降ったあとなのかな……ってあれ?匂いを感じる。
ううん、感じると言った方が正しいかも知れない。
息を吸わなくとも、この場に広がる澄んだ空気が頭の中にある、そんな変な感じ。
肌には感触も、感じない。
それは、背の高い木々たちの葉を揺らす風を私は感じることができなかったから。でもさっきは、風に撫でられた気がしたのに。
ざわざわとする葉の音の中に、せせらぎが微かに聞こえそちらを向くと、木々の中、ここから少し離れた距離に小川が流れているのが見えた。その流れはどこまでいくのか、並行し、同じ行き先の砂道同様に分からない。
でも、この景色、懐かしい……。
胸に込み上げる熱に促され、降る柔らかな日を浴びるように顔を上げる。
新緑を纏う長い枝が空を隠し、そこから落ちる木漏れ日が、冷え切った頬を柔らかく照らす。その光は私の細胞一つ一つに染み渡るように全身を巡り、まるで蘇らせてくれるような感覚に、胸が高鳴る。
何を思ったのか足元にある、濁った水たまりに足を入れる。
その水面は波紋を描かず、私自身も何も感じることはない。分かっていた無意味な行動に、思わず笑みが溢れる。
「ふふ、そうだよね」
「何を笑っているのですか」
「ひゃっ!」
独り言に返事を返してきた背後へ、慌てて振り向く。
なっ、フォニもいたんだ。
済ました顔でチラチラッと辺りに視線を配りながら、フォニは静かに私の横に立つ。
「ルゥレリアは、下界に降りたことはないはずです。ならばこれは、マリャの記憶でしょうか」
「違うよ。これは、私の記憶」
「貴方のですか?」
「だって私は、この景色を見たことがある気がするの」
バチャンっと、水が跳ねる音がまた後ろから聞こえ、その音は確かに私の胸に波紋を描かせた。
振り向こうとする最中、ふわりと横切る影に、一瞬で私の意識が奪われる。
まるでずっと探していた宝物を見つけたような高揚感に包まれた私は、不動のままでいることに気がつき、はっ、再び前を向く。
横切って行ったその子は白いローブを着て、今の私のように水たまりをわざと踏みつけながら歩いていく。
あれは……私。
見た瞬間に、そう理解した。
幼い私、それも自我を持つ前の私だと。
跳ねた泥水がかかり、幼い私の足元は汚れ、更に両足を勢いよく飛び入れて上がった飛沫で、白は徐々に茶へと変わっていく。
照らされる柔らかな木漏れ日に溶けてしまいそうな姿で、地を踏みつけて前へと進む懸命な歩みは躍動すら感じ、今すぐ駆け寄って、その小さな背を抱きしめてしまいたくなった。
「あれは、貴方ですか」
「たぶん」
「あの行動は、何を意味するのですかね」
「し、知らないよっ!」
くだらない事を真面目に尋ねてくるフォニは、私をこの場に居たくなくならせる。
背しか見えない幼い私は今、どんな表情を浮かべているのかも分からないけど、揺れるローブの裾は踊っているように見え、同時に私の記憶も揺さぶられた。
この先に、何かある。
確信めいたものが、私の足を動かした。
小さくなっていく幼い私を、今の私は追いかける。
一度こけたせいで、もうすっかり泥だらけになったローブを身に纏った幼い私は、森の終着が見える光の中へと入っていく。
私は跳ねる鼓動で少し遅れてそこへ入ると、抜けた先は森の終わりではなかった。
大きくひらけたここからは、青空にちぎったような白い雲が浮かんでいるのがよく見えた。
強い日が降り注ぎ、落ちる雲の影は濃く、地で揺れる青々とした緑は、付着した水滴に身を輝かせていた。
息を飲む。
この情景は、目隠しで見えなかったその先。
あともう少しでここがどこなのか、思い出せそうな気がする。
森の中に流れていた小川は、ここにも続いていた。
小川の上に、すれ違うのがやっとな小さな橋がかかっていて、そこには人がいる。
捲った白いシャツから見える逞しい腕で、竿をもった男の人と、そばにもう一人いるけど、その子は子供なのか欄干に隠されてよく見えない。
ただとても綺麗な黒い髪を、していることだけは分かった。
その黒に、私の中に淡い思いが燻り出す。
あの男の子、もしかして。
幼い私は水遊びを止め川路を外れ、小さな歩幅で二人の方へ向かう。そして、二人のそばでしゃがみ込み、何かをのぞいているのがまた欄干の間から見えた。
私は弾かれたように走り出し、徐々に輪郭が見え出す男の子の姿を、はっきりと捉えた橋の袂で足を止める。
やっぱり、ヴァン。
横顔しか見れてないけど、この男の子は間違いなく、彼だ。
私の脳裏に過った知るはずのない彼が今、目の前にいる。ううん、知っていたんだ。
だって、私はこの時に、ずっと前にヴァンと会っていたんだ。
ゆるゆると、涙腺が緩む。
それは、大好きな人に昔会えていた喜びなのか、それとも、もうこれからは会えないと悲観した悲しみなのか……うん、きっと、どっちもだね。
「……ヴァンっ」
振り向いてもらえない、幼いヴァンの元へ私は駆け寄る。
少し癖のある、柔らかなブロンドの髪をそよがせる男の人の隣に座るヴァンに、気づいもらいたかった。
「ヴァンっ! 私だよっ」
幼いヴァンは、細い木をロープで結び合わせただけの簡易な欄干の間から、頬を膨らませながら顔を出して下を覗き込んでいるだけで、バケツを覗き込む幼い私と同じように、気がついてくれない。
その切なさが、震える指先を、彼へと向かわせる。
結んだ艶やかな黒い髪へと撫でるように触れてみるが、この手に感触を感じることはなく、そのまま彼をすり抜ける。
戻ってきた手のひらを見つめると、苔の生えた手すりが朧げに透けて見えたので、また私は口角をあげた。
「これは記憶です。貴方に反応することはありませんよ」
「そんなこと、分かってる」
遅れて来たフォニの言葉は、もう理解していたことと諦められるのも、例え記憶でも貴方がそばにいてくれるから。
さっきまで押し寄せる絶望の中一人、現実を拒もうと塞ぎ込んでいたのに、今はそれを受け入れているのも、昔貴方と会っていた喜びが上回ったから。
もしかしたら、傷ついた心の応急処置かもしれないけど、でも今は貴方を見ていたいからそれでいいよね。
むくれた顔をして、何を思っていたのかな……そういえば、ヴァンに夢中で忘れてたけど、隣にいる人はもしかして、お父さんかな?
宝石のような青い瞳で、竿先を見つめているお父さんらしき人は、整った顔立ちをしていて、ヴァンとはまた違うかっこよさがある。
ヴァンはいつも涼しげな顔をしているけど、前髪がかかる黄金の瞳は、猛ったものを静かに秘めるような、凛々しさがある。そして普段は、内を見せないミステリアスな雰囲気を醸し出しているけど、時々見せてくれる柔らかな笑みが、私の胸をいつも燃え上がらせる。
お父さんは分けた前髪から、優しそうな垂れ目が見え、肌も白くて綺麗だし、実年齢よりもきっと若く見えるんじゃないかな。佇まいだけでも洗練された気品のようなものを感じ、それに、大人の余裕と懐の深さが垣間見える。
さすが、ヴァンのお父さん。
顔は似ていないけど、どことなく人を包むような柔らかさを纏う雰囲気は、似ているね。
お父さんの観察を終えた私も、二人と同じように小川を見下ろす。
水かさが増したのか、川の淵に生えている花や草が流水によって、横倒しにされ、日の光を反射させるその中は、若干砂が混じって見える。
ふと、緑の川辺に咲く、ピンク色の花が目に留まる。花弁を白から、ピンクに色を変える基部の黄色い花。
あの花は、押し花にしたお花と同じ……。
ガタッと、小さな衝撃音に、花に囚われていた私の意識が戻る間に、喫驚した悲鳴。
何があったか分からないけど、ヴァンはしゃがみ込んでいた、幼い私にやっと気がついてくれたみたい。
うん、私もすっかり忘れてた。
今の彼には想像もできない大きな悲鳴に、お父さんは体を跳ねらせ、慌てて竿をあげる。
竿先がくんくんと引いていたけど、上げた糸の針先に魚はいなかった。
針を手寄せ、足元にいる幼い私へ宥めるような優しい声でどうしたの、っと聞いてくれるけど、幼い私はそれを完全に無視しバケツの中の魚を見続ける。
そして今の私もまた、お父さんの足元に置いてある茶色の鞄からはみ出した物に、目が釘付けになる。
それは、私が大切にしているお守りの本。
私の、希望。
瞬間、猛烈な勢いで私の中に、バラバラになった思い出が帰ってきた。
私をつくる始めの一つ、そして最後の一つがはめられ、ずっと心に起き留めておきたい情景を、溢れる涙が隠してしまう。
思い出した、思い出したよ。
ここが私の始まりの場所。
そして、私に希望をくれた貴方と、初めて出会った場所。
頬へ一つ落ちたそれは、とても温かかった。
ヴァンとヴァンのお父さんが、バケツの中を見続ける幼い私に気を取られている中、私は一度、届きそうなくらい近くに見える雲へと手を伸ばす。
幻想のような手のひらは、日の光を浴びることはないけど、確かにじんわりと温もりを宿した。
血が巡り出した手のひらを握りしめ、涙を拭い、胸に手を置き、私はこの情景を噛み締めるように見つめる。
そうだったね。
ここで栞にしているお花と一緒に貴方が私に、生きる希望をくれた。
だから私も貴方の希望になると、初めて言葉というものを使って伝えた。
でも、そっか。
お守りにしていた本は、貴方の大切なものだったんだね。
それを私は、とっちゃったんだ。
知ったら貴方は怒るかな、私のこと嫌いになるかな……ごめんね、ヴァン。
消されていた記憶を、再び頬に涙を伝わせながら、私は静かに見ていた。
その温かな風が頬を撫で、私に瞼を上げさせる。
黒い手の目隠しがとれた先に、刺す眩さに数回瞬きをし、開けた視界には青々とした葉を茂らせる木々。
雑木林の中に続く、砂道の上に私は立っていた。
でこぼこした砂道は水を含み、轍の跡や地面の浅い窪みには、濁った水が張っている。
じめっとした濃い土の匂いもするし、雨が降ったあとなのかな……ってあれ?匂いを感じる。
ううん、感じると言った方が正しいかも知れない。
息を吸わなくとも、この場に広がる澄んだ空気が頭の中にある、そんな変な感じ。
肌には感触も、感じない。
それは、背の高い木々たちの葉を揺らす風を私は感じることができなかったから。でもさっきは、風に撫でられた気がしたのに。
ざわざわとする葉の音の中に、せせらぎが微かに聞こえそちらを向くと、木々の中、ここから少し離れた距離に小川が流れているのが見えた。その流れはどこまでいくのか、並行し、同じ行き先の砂道同様に分からない。
でも、この景色、懐かしい……。
胸に込み上げる熱に促され、降る柔らかな日を浴びるように顔を上げる。
新緑を纏う長い枝が空を隠し、そこから落ちる木漏れ日が、冷え切った頬を柔らかく照らす。その光は私の細胞一つ一つに染み渡るように全身を巡り、まるで蘇らせてくれるような感覚に、胸が高鳴る。
何を思ったのか足元にある、濁った水たまりに足を入れる。
その水面は波紋を描かず、私自身も何も感じることはない。分かっていた無意味な行動に、思わず笑みが溢れる。
「ふふ、そうだよね」
「何を笑っているのですか」
「ひゃっ!」
独り言に返事を返してきた背後へ、慌てて振り向く。
なっ、フォニもいたんだ。
済ました顔でチラチラッと辺りに視線を配りながら、フォニは静かに私の横に立つ。
「ルゥレリアは、下界に降りたことはないはずです。ならばこれは、マリャの記憶でしょうか」
「違うよ。これは、私の記憶」
「貴方のですか?」
「だって私は、この景色を見たことがある気がするの」
バチャンっと、水が跳ねる音がまた後ろから聞こえ、その音は確かに私の胸に波紋を描かせた。
振り向こうとする最中、ふわりと横切る影に、一瞬で私の意識が奪われる。
まるでずっと探していた宝物を見つけたような高揚感に包まれた私は、不動のままでいることに気がつき、はっ、再び前を向く。
横切って行ったその子は白いローブを着て、今の私のように水たまりをわざと踏みつけながら歩いていく。
あれは……私。
見た瞬間に、そう理解した。
幼い私、それも自我を持つ前の私だと。
跳ねた泥水がかかり、幼い私の足元は汚れ、更に両足を勢いよく飛び入れて上がった飛沫で、白は徐々に茶へと変わっていく。
照らされる柔らかな木漏れ日に溶けてしまいそうな姿で、地を踏みつけて前へと進む懸命な歩みは躍動すら感じ、今すぐ駆け寄って、その小さな背を抱きしめてしまいたくなった。
「あれは、貴方ですか」
「たぶん」
「あの行動は、何を意味するのですかね」
「し、知らないよっ!」
くだらない事を真面目に尋ねてくるフォニは、私をこの場に居たくなくならせる。
背しか見えない幼い私は今、どんな表情を浮かべているのかも分からないけど、揺れるローブの裾は踊っているように見え、同時に私の記憶も揺さぶられた。
この先に、何かある。
確信めいたものが、私の足を動かした。
小さくなっていく幼い私を、今の私は追いかける。
一度こけたせいで、もうすっかり泥だらけになったローブを身に纏った幼い私は、森の終着が見える光の中へと入っていく。
私は跳ねる鼓動で少し遅れてそこへ入ると、抜けた先は森の終わりではなかった。
大きくひらけたここからは、青空にちぎったような白い雲が浮かんでいるのがよく見えた。
強い日が降り注ぎ、落ちる雲の影は濃く、地で揺れる青々とした緑は、付着した水滴に身を輝かせていた。
息を飲む。
この情景は、目隠しで見えなかったその先。
あともう少しでここがどこなのか、思い出せそうな気がする。
森の中に流れていた小川は、ここにも続いていた。
小川の上に、すれ違うのがやっとな小さな橋がかかっていて、そこには人がいる。
捲った白いシャツから見える逞しい腕で、竿をもった男の人と、そばにもう一人いるけど、その子は子供なのか欄干に隠されてよく見えない。
ただとても綺麗な黒い髪を、していることだけは分かった。
その黒に、私の中に淡い思いが燻り出す。
あの男の子、もしかして。
幼い私は水遊びを止め川路を外れ、小さな歩幅で二人の方へ向かう。そして、二人のそばでしゃがみ込み、何かをのぞいているのがまた欄干の間から見えた。
私は弾かれたように走り出し、徐々に輪郭が見え出す男の子の姿を、はっきりと捉えた橋の袂で足を止める。
やっぱり、ヴァン。
横顔しか見れてないけど、この男の子は間違いなく、彼だ。
私の脳裏に過った知るはずのない彼が今、目の前にいる。ううん、知っていたんだ。
だって、私はこの時に、ずっと前にヴァンと会っていたんだ。
ゆるゆると、涙腺が緩む。
それは、大好きな人に昔会えていた喜びなのか、それとも、もうこれからは会えないと悲観した悲しみなのか……うん、きっと、どっちもだね。
「……ヴァンっ」
振り向いてもらえない、幼いヴァンの元へ私は駆け寄る。
少し癖のある、柔らかなブロンドの髪をそよがせる男の人の隣に座るヴァンに、気づいもらいたかった。
「ヴァンっ! 私だよっ」
幼いヴァンは、細い木をロープで結び合わせただけの簡易な欄干の間から、頬を膨らませながら顔を出して下を覗き込んでいるだけで、バケツを覗き込む幼い私と同じように、気がついてくれない。
その切なさが、震える指先を、彼へと向かわせる。
結んだ艶やかな黒い髪へと撫でるように触れてみるが、この手に感触を感じることはなく、そのまま彼をすり抜ける。
戻ってきた手のひらを見つめると、苔の生えた手すりが朧げに透けて見えたので、また私は口角をあげた。
「これは記憶です。貴方に反応することはありませんよ」
「そんなこと、分かってる」
遅れて来たフォニの言葉は、もう理解していたことと諦められるのも、例え記憶でも貴方がそばにいてくれるから。
さっきまで押し寄せる絶望の中一人、現実を拒もうと塞ぎ込んでいたのに、今はそれを受け入れているのも、昔貴方と会っていた喜びが上回ったから。
もしかしたら、傷ついた心の応急処置かもしれないけど、でも今は貴方を見ていたいからそれでいいよね。
むくれた顔をして、何を思っていたのかな……そういえば、ヴァンに夢中で忘れてたけど、隣にいる人はもしかして、お父さんかな?
宝石のような青い瞳で、竿先を見つめているお父さんらしき人は、整った顔立ちをしていて、ヴァンとはまた違うかっこよさがある。
ヴァンはいつも涼しげな顔をしているけど、前髪がかかる黄金の瞳は、猛ったものを静かに秘めるような、凛々しさがある。そして普段は、内を見せないミステリアスな雰囲気を醸し出しているけど、時々見せてくれる柔らかな笑みが、私の胸をいつも燃え上がらせる。
お父さんは分けた前髪から、優しそうな垂れ目が見え、肌も白くて綺麗だし、実年齢よりもきっと若く見えるんじゃないかな。佇まいだけでも洗練された気品のようなものを感じ、それに、大人の余裕と懐の深さが垣間見える。
さすが、ヴァンのお父さん。
顔は似ていないけど、どことなく人を包むような柔らかさを纏う雰囲気は、似ているね。
お父さんの観察を終えた私も、二人と同じように小川を見下ろす。
水かさが増したのか、川の淵に生えている花や草が流水によって、横倒しにされ、日の光を反射させるその中は、若干砂が混じって見える。
ふと、緑の川辺に咲く、ピンク色の花が目に留まる。花弁を白から、ピンクに色を変える基部の黄色い花。
あの花は、押し花にしたお花と同じ……。
ガタッと、小さな衝撃音に、花に囚われていた私の意識が戻る間に、喫驚した悲鳴。
何があったか分からないけど、ヴァンはしゃがみ込んでいた、幼い私にやっと気がついてくれたみたい。
うん、私もすっかり忘れてた。
今の彼には想像もできない大きな悲鳴に、お父さんは体を跳ねらせ、慌てて竿をあげる。
竿先がくんくんと引いていたけど、上げた糸の針先に魚はいなかった。
針を手寄せ、足元にいる幼い私へ宥めるような優しい声でどうしたの、っと聞いてくれるけど、幼い私はそれを完全に無視しバケツの中の魚を見続ける。
そして今の私もまた、お父さんの足元に置いてある茶色の鞄からはみ出した物に、目が釘付けになる。
それは、私が大切にしているお守りの本。
私の、希望。
瞬間、猛烈な勢いで私の中に、バラバラになった思い出が帰ってきた。
私をつくる始めの一つ、そして最後の一つがはめられ、ずっと心に起き留めておきたい情景を、溢れる涙が隠してしまう。
思い出した、思い出したよ。
ここが私の始まりの場所。
そして、私に希望をくれた貴方と、初めて出会った場所。
頬へ一つ落ちたそれは、とても温かかった。
ヴァンとヴァンのお父さんが、バケツの中を見続ける幼い私に気を取られている中、私は一度、届きそうなくらい近くに見える雲へと手を伸ばす。
幻想のような手のひらは、日の光を浴びることはないけど、確かにじんわりと温もりを宿した。
血が巡り出した手のひらを握りしめ、涙を拭い、胸に手を置き、私はこの情景を噛み締めるように見つめる。
そうだったね。
ここで栞にしているお花と一緒に貴方が私に、生きる希望をくれた。
だから私も貴方の希望になると、初めて言葉というものを使って伝えた。
でも、そっか。
お守りにしていた本は、貴方の大切なものだったんだね。
それを私は、とっちゃったんだ。
知ったら貴方は怒るかな、私のこと嫌いになるかな……ごめんね、ヴァン。
消されていた記憶を、再び頬に涙を伝わせながら、私は静かに見ていた。
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