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第三章
70.重なる面影
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恐怖が体を縛り、身動きが取れない。
愛しい人が体を寄せてくれているのに、抱きしめ返す事ができず、それを無念に思う事ができないほど、どうしてっという言葉が頭の中を埋める。
ぱっ、とリナリアが俺から離れる。
数歩下がった所で立ち止まり、俯きながらぎゅっとフードの裾を下に引っ張るので、強く結んだ口元しか見えなくなる。
ピクッ、と無意識に自分の指先が動く。
それをきっかけに視界が開け、色を感じ、音を感じ、匂いを感じ、自分が現実の世界に戻る感覚がした。
「あの、ごめんね。大丈夫って言ったけど、やっぱり少し不安で。だから、勇気をもらいたくて。それだけだから」
恥ずかしそうにぽつぽつと喋る姿は、今まで話していたリナリアと何も変わらない。
何も変わらない、なのに。
どうして、リナリアがあいつに重なる?
以前一度だけリナリアと、泥だらけのローブのあいつが重なって見えた事があった。
カイトが死んで、自身の闇に飲まれそうだったあの時、面をしていて女とすら知らなかったが、そばにいたリナリアがあいつに見えた。
「驚かせちゃったよね。あと、花の事も気にしないで」
もしかしたら、二人は同一人物ではないかと……希望になると言ったあいつが、リナリアであったらいいと淡い期待を寄せたが、あとあとリナリアの歳を知って、昔出会ったあいつとは歳が合わなかった。
それに泥だらけのローブのあいつと、リナリアはまるで別人。それこそあいつは人形のようだったが、リナリアはよく笑うし、好きな事もたくさんあっていつだって輝いている。
「どうしたの? も、もしかして、怒ってる!?」
それでも、この胸騒ぎ。
アトラスから約束の話を聞いた時に漠然とした不安が生まれた。その形のなかった不安の輪郭が、見えた気がした。
人形。
忘れていたあいつをまた、思い出す事をやめたが、人形という言葉を聞いた時に記憶から蘇った。
この不安、もしかしたら無意識に一度重なったリナリアとあいつ、そして人形を自分の中で結びつけていたのかもしれない。
フードの中から俺を伺う青い瞳を見つめる。
「ヴァン?」
リナリアが……そんなはずない。
だが、考えすぎだと思考を放棄できないほど、俺の中でリナリアとあいつが強く結びつく。
それが、とても恐ろしい。
「リナリア。何か、隠していることがあるのか?」
「えっ? どう言う事?」
「君は一体、何者なんだ?」
口に出してすぐに、聞いてはいけなかったと後悔した。傷つけたかも知れないと憂えるよりも、もう今までのような関係に戻れないような気がした。
恐れるようにリナリアは一歩、二歩と後ず去り、少し開いた口は沈黙する。
リナリアは何を考えてる。
何者なんだ、っとは失礼な問いだが何それ、っと言い返しもてこない。
罪が暴かれるのを、待つような時間。
胃がキリキリと痛み、浅い呼吸しかできなくて息苦しい。
ざわざわと木々の葉が揺れる音が、やけによく聞こえ耳障り。柔らかな木漏れ日が眩しすぎて、目を細めながらリナリアの様子を見ていると、引き攣らせたように口角を上げた。
「何を、言ってるの?」
震え、恐れが滲みでた声色と歪んだ笑み。
そのリナリアらしからぬ異様な雰囲気に、ぞわぞわと恐怖が背を這いずる。そして、気づいた。
ジュンは俺が止めてしまうかも知れないと言っていたが、それが今分かった。きっと、これだ。
リナリアが行く事を俺は止める。
リナリアは、何をしようとしている?
何処へ行く?
祈るように胸に手を当て静かに佇み、俺の様子を伺うようにしているリナリアの姿は、彼女自身もどこか不安気に見えるし、怯えているようにも見える。
自分の気がかりの為にこれ以上追求する事は、リナリアを傷つけるかもしれないと躊躇う気持ちもあるが、それでもここで引けば何かを失う気がした。
聞くしかないが、真意を確かめようとする口はやはり重い。
「今から、何処へ行くつもりだ」
「な、なんで」
「ジュンがリナリアがしようとする事を俺が、止めるかも知れないと言っていた。あの時は意味が分からなかったが今分かった。それは、この事だ」
ぎゅっとリナリアの小さな肩が強張った。
「そう。ジュンちゃんはそんな事、ヴァンに言ったんだね」
「リナリアは何をしようとしている」
「……あのね、見つかったの。私の中の闇を消せる人が。だからね、その人にこれから、会いに行くの」
見つかった?
しかし、何故今?
吉報ではあるはずなのに、どうしてと言う疑問しか浮かばない。それは、アトラスが約束の人を迎えに来たこのタイミングがそうさせる。
「どこのどいつだ。どうやって見つけた」
「それは、ヴァンは知らなくてもいい事だよ」
「リナリア」
「だからね、ヴァンは止めなくていいの。これでこの世界も、他の世界も救われる。神様がきっと、悪魔を倒してくれるから」
そう言って顔を上げ、やっと見えたリナリアの表情は柔らかくて目尻を下げ微笑んでいて、一見嬉しそうに見える。
これは、喜んでいいのか?
確かにリナリアの言う通り、今まではそう思っていた。リナリアの中にある闇を払い、神に力を返し、力の戻った神は悪魔を討つ。それで、全て解決する。
本当にこれで、終わるのか?
なら、行かせればいい。力こそ失いはするものの、これでリナリアも悪魔から狙われる事もなくなり、閉ざされた天への道もきっと、再び繋がるのではないか?
そうしたらカイトも、きっと。
そう、理解はできるのに、俺の直感と疑念のせいで納得ができない。
人形を返すと、アトラスは言った。
誰に返し、返した後どうなる?
リナリアは神に力を、返すだけで済むのか?
もし……それは、考えたくない。
頭を過ぎった最悪は、本当に最悪すぎて頭に残す事すら恐ろしい。
リナリアも世界も救う方法はこれしかないのだから、全て俺の杞憂であってほしい。
だから、言葉という形にもしたくない最悪を尋ねる代わりに、これだけを約束したい。
「そうか。終わったら、この国に戻ってくるのか? なら、またリナリアに会いに行く」
浄化が終われば、リナリアはちゃんと帰ってくると確かめたい。それさえ分れば俺も、待っているからと見送れる。
リナリアの事を、信じている。
だから、分かったと言って欲しい。
帰ってくるから、その時は会おうねって。
なのにリナリアは、静かに首を横に振る。
「私はもう、この国には戻って来ない」
「なっ、戻らない!? 何故」
「このまま、旅に出ようかなって思って。世界をずっと見てみたかったけど、今まで忙しくてそんな事出来なかったから。この機会に、いいかなって」
「そんな。だったら、リナリアが今から行く先でも、俺は」
「ごめんね。誰にもね、会わずに行きたいの。ここで、みんなとお別れしたい……寂しくなるから。この国の人達にも迷惑をかけるけど、力がなくなった私はいても役に立たないだろうし、聖王からお許しはもういただいたから」
なんだ、それ。
本当にそう言っているのか?
急に信じられない、もう会えないなんて。
リナリアは俺を置いて、本当に世界を見に行ってしまうのか?
別に、約束なんてしてない。
だけど、俺は。
「俺は……君と見たかった」
「えっ」
素敵な世界を見てみたいなんて、リナリア程焦がれる思いは俺にはない。
だけどリナリアと一緒に見られるなら、きっとどんな場所だって素晴らしいとそう、思えるから。
世界じゃなくても、どこだっていい。
今いるここだって。
リナリアがいる世界を俺は、見ていたいだけなのに。
「あの、ごめんなさい。私、ヴァンがそう思ってくれてたなんて、知らなくて。それはもう出来ないけど、ヴァンには世界を見て欲しいって、今もそう思ってるよ。私じゃなくて、他の誰かと。貴方の想う人やキルとか」
亀裂が走る音がした。
それは俺の世界に、崩壊が訪れる音。
だから、息を飲む。
だから、俺は戦慄する。
でも、王様だからやっぱり難しいかな、って悪戯っぽく話すリナリアの声が遠く聞こえる。
代わりに、大切な友の声が聞こえた。
『誰かがそばにいて欲しいんだ』
カイトが俺にそう言った。
今思えば、まるで死期でも悟っていたように思えてしまうこの言葉。
……誰かって、なんだ。
どうして知らない人間に俺を任せようとする。
そんなの必要ない。俺はただリナリアに、カイトにもそばにいて欲しいだけだった。
やはり、行かせてはいけない。
取り返しのつかない事になる予感がする。
ミツカゲもトワもジュンもダイヤも、そしてリナリアも皆、何か隠している。とても大切で重要な事。
それが、もしかしたらさっき頭を過った最悪なのではと考えてしまう。
「やめてくれ、行かないでくれないか」
「ヴァン。それは、出来ないよ。これで世界が救われるんだから」
「なら、絶対に帰ってくると言ってくれ」
「……あっ、そうだ。あのね、ヴァンに一つお願いしてもいいかな。時間がないから、キルにお返事書けないの。代わりに伝えてくれる。これは返すから、今度はちゃんと持っててねって」
キルがリナリアに宛てた手紙を、差し出される。
俺は勿論受け取らない。
「返事なんて、終わった後書けばいいだろ」
「これだけでいいの。返事を返さない事が、私の返事だから」
重いため息しか出ない。
帰ってくると言ってくれなかった事に、ますます不安に胸が押し潰されそうになり、最悪が俺をじりじりと追い詰めてくる。
そう言えば、リナリアはキルの手紙を見て、おかしな反応をしていた。
赤い封蝋はそのままで蓋が破かれた、白い封筒を見つめる。
キル、お前はリナリアに何を伝えて、何をあげたのか。
気になるからって見るなよ、っと釘を刺されたが、リナリアにあんな顔をさせたんだ。今受け取れば中身を見られるかもしれない。
俺は手を伸ばす。
手紙を……受け取らない。
代わりにリナリアの腕を掴む。
「ヴァン?」
それはもう、どうでもいい。
行かせられない。
リナリアが無事に帰ってくると確信できるまで、この手は離さない。
「どうして」
「貴様っ!! 何をしているっ!!」
張り詰めていた空気に、怒号が響く。
この声は、ミツカゲ。
もう来てしまったのか。
振り返ると木々の間にミツカゲの姿が見え、慌ててこちらに駆け寄ってくる。
トワの姿も見えたが、アトラスはいない。
息を荒げ切迫した表情でミツカゲは俺の肩を掴み、リナリアから離れろと言わんばかりに強く引いてくる。
「どういうつもりだっ!! 貴様その手を離せ!!」
「ミツカゲ、違うの。ヴァンは私に何かしようとしてる訳じゃないから」
「ですが、こいつは」
「ミツカゲ」
リナリアの強い口調に、ミツカゲは口惜しそうに俺の肩から手を退ける。
「ならば、いい加減その手を離さないか」
「アトラスは、何処にいる」
「それは貴方が知る必要はないでしょう」
遅れて来たトワが冷たく答える。
この二人は面倒。
横槍を入れられそうで、余計にリナリアから話を聞き辛くなりそうだ。
せめてアトラスがここにいてくれれば、リナリアを迎えに来たのか、約束の真実も聞けたのかもしれなかった。
いや、もう邪魔をしてくるのなら、二人にも直接問い詰めればいい。
「ヴァン、どうしたの。そんな顔しないで。やっと平和な世界になるよ。瘴気も瘴魔も悪魔だって、今度は闇ビトもいない、みんなが幸せに生きられる世界に。ヴァンもこれで」
「そんな事、どうでもいいっ」
「どうでも、いい?」
くしゃっと紙が潰れる音。
手紙が強く握られ、歪な形になる。
「どうでも、良くないよ。キルだって、貴方の仲間だって危険な目に合わなくなるのに。どうして、ヴァンは喜んでくれないの」
「喜べるはずないだろ。こんな訳の分からない状況で」
「何が、分からないの」
何もかもだ。
フォニの話で真実に近づいたつもりであったのに、リナリアを取り巻く事柄の全てが、俺の中で疑念に変わってしまった。
そもそも俺にはリナリアの事で、一つ疑問があった。
「この世界に闇ビトが現れたのが、50年前。その時に悪魔の封印が解かれた。そうだよな」
「そうだけど……どうしたの、急に」
「フォニがリナリアは他の世界の人間のように、悪魔と対抗する為に神の力を授かった訳ではなく、神自身に入り込んだ闇を代わりに浄化してもらう為に、力と一緒にリナリアになすりつけたと言っていた。なら封印が解かれる前に神と悪魔の争いがあったはずだ。なのに何故19であるリナリアが選ばれている」
リナリアではなく、険しい表情で剣のグリップに手を添えているミツカゲに向けて、問いかける。
ミツカゲは信用できない。
こいつは何か隠している。
ずっとリナリアのそばにいたくせに、何も知らなかったなんて。理由もなくリナリアを守り続けてきた、そんな訳ない。
「言ったはずだ。貴様には、関係ない事だ」
「お前は疑問に思わないのか。そもそも、お前はずっとリナリアのそばにいて、何も知らなかったのか」
「悪魔風情が偉そうな口を聞くな」
「ミツカゲっ!!」
こいつは常に俺を蔑むようなことしか言わない。リナリアの周りにいる男は、本当に話がまともにできない奴ばかりなんだ。
それなら。
腕を組みながら、様子を伺っているトワに問う。
「約束の相手は、誰なんだ」
「……」
「アトラスを誰に合わせた」
いや、彼女を人形だと仮定した時、トワの見知った人間を照らし合わせると、もう一人しかいない。
忌々しいモノを見るような目で俺を見ている、ミツカゲを見返す。
「お前だろっ」
ミツカゲは目を見開いた。
そして、きっと目を釣り上げ、唇を噛み締める。
お前しかいない。
リナリアの事を何よりも大切にしている、お前しか。
「約束は、なんだ」
「ヴァンどうしたの? さっきからおかしいよ」
「ならこの話に、リナリアはどう関係している」
「わ、私は」
「アトラスはミツカゲが、人形を返してくれないと言っていた。それは大切なもので、誰かに返さないといけないと」
「もう、やめて」
「君は人形」
「私は、人形じゃない」
言葉を飲みこむ。
とても深い、悲痛な声。
そんな声で否定を吐いたのに、すぐにまたリナリアは何でもない、っと笑みを作る。
見ていてとても痛々しい。まるで、リナリアが壊れてしまったみたいだ。
どうして、そこまで。
いきなり強い力で胸元が引っ張られる。それでもリナリアの腕だけは離さないと、握る手に力を込める。
目の前には激昂した青い瞳。
息が苦しい。
ミツカゲに、胸ぐらを掴まれてるのかとやっと理解できた。
ミツカゲの背後にいるトワは、眉間を寄せ静観している。
「ミツカゲ、やめてっ。そんな事しないで」
「ですがっ」
「ヴァンを離して」
不服そうな顔で俺を突き飛ばし、ミツカゲは胸ぐらを離す。
何するんだ、っと怒る感情も湧かない。
乱れた襟を正す余裕すらない。
大丈夫っ、と心配そうに声をかけてくれるリナリアに返事も返せない。
俺がどんなに聞いても、誰も安堵する答えをくれない事に恐怖と焦りと怒り。そして絶望が胸の中で混濁し、溢れもう、限界。
「ヴァン。何が真実でも、これでもう終わる。私が力を返せば、平和な世界になる。それだけだよ。だからね」
掴んでいる俺の手の上に、そっとリナリアが手を乗せる。
「もう、手を、離して」
「離せない」
「どうして」
「行かせられないっ。リナリアはどうなる。本当にただ力を失ってしまうだけなのか!? 違うだろっ!! 他に何かリナリアの身に起るだろっ」
何も根拠はない。
だが、ずっと俺の中でそう叫んでいる。
「世界を旅するなんて、嘘だっ」
「嘘じゃ、ない」
リナリアはきっと、いなくなる。
「なら、どうして帰ってきてくれない? どうして会えると言ってくれない!? それは、リナリアがこの世界からいなくなるだろっ!!」
俺の叫びが響いた後、森が黙り込むように静寂する。
風すら吹かず、誰も何も音を出さない。
まるで時が止まったような空間で、自分の壊れたように鳴る心拍だけが聞こえる。
掴んでいるリナリアの腕が震えている。
いや、もしかしたら俺の方かも知れない。
答えが欲しい。
でも、その答えを聞くのはやはり恐ろしい。肯定されたら……俺は。
頼むから、絶対に大丈夫とそう、言ってくれ。君がそう言ってくれるなら、俺は信じるから。
リナリアはおもむろに顔を下げ、小さく息を吐く。
それは、諦めたように聞こえた。
「どうしてかな。ジュンちゃんが教えてくれた通りにしたのに……うまくできてたと思ってたのに、どこがダメだったのかな」
視界に映る景色が、色褪せて見えた。
全身が震え、口も利けず、顔を伏せる。
あぁ、そうか。
その言葉だけで、理解してしまう。
俺の最悪は、現実だと。
リナリアが無事に帰るのを確信するまではと掴んでいた腕を、俺は静かに離した。
「リナリア様」
「知ってほしくなかった。優しい貴方は知ったらきっと、また悲しい思いをしてしまうから。私はそれが嫌だった。最後まで隠し通せなくて、ごめんなさい。でもね、やっぱり嘘つきになりたくなかったの。私が貴方に言った言葉を全部、これからも信じて欲しかったから」
もう、聞きたくない。
俺がリナリアを、問い詰めたのに。
だって、否定して欲しかった。
俺の最悪を消して欲しかった。
絶対に大丈夫だからって、無事に帰ってくるって知りたかっただけなんだ。
どうして……また。
やり場の無い気持ちが、空虚に変わっていく。痛みを薄れさせようとするように、感情が自分から抜け落ちていく。
自分の足元と白い花を映していたぼやけた視界に、不意に泥の付いた茶色い靴が入り込む。
おもむろに顔を上げる。
「リナリア」
「でもね、これだけは嘘を……ついちゃったのかな。貴方の言う通り私が、人形だよ。ごめんなさい、私がそう思いたくなかっただけなの」
フードの中から俺を見上げるリナリアの青い瞳は無機質な人形とは程遠い、悲しみという感情を宿した瞳だった。
愛しい人が体を寄せてくれているのに、抱きしめ返す事ができず、それを無念に思う事ができないほど、どうしてっという言葉が頭の中を埋める。
ぱっ、とリナリアが俺から離れる。
数歩下がった所で立ち止まり、俯きながらぎゅっとフードの裾を下に引っ張るので、強く結んだ口元しか見えなくなる。
ピクッ、と無意識に自分の指先が動く。
それをきっかけに視界が開け、色を感じ、音を感じ、匂いを感じ、自分が現実の世界に戻る感覚がした。
「あの、ごめんね。大丈夫って言ったけど、やっぱり少し不安で。だから、勇気をもらいたくて。それだけだから」
恥ずかしそうにぽつぽつと喋る姿は、今まで話していたリナリアと何も変わらない。
何も変わらない、なのに。
どうして、リナリアがあいつに重なる?
以前一度だけリナリアと、泥だらけのローブのあいつが重なって見えた事があった。
カイトが死んで、自身の闇に飲まれそうだったあの時、面をしていて女とすら知らなかったが、そばにいたリナリアがあいつに見えた。
「驚かせちゃったよね。あと、花の事も気にしないで」
もしかしたら、二人は同一人物ではないかと……希望になると言ったあいつが、リナリアであったらいいと淡い期待を寄せたが、あとあとリナリアの歳を知って、昔出会ったあいつとは歳が合わなかった。
それに泥だらけのローブのあいつと、リナリアはまるで別人。それこそあいつは人形のようだったが、リナリアはよく笑うし、好きな事もたくさんあっていつだって輝いている。
「どうしたの? も、もしかして、怒ってる!?」
それでも、この胸騒ぎ。
アトラスから約束の話を聞いた時に漠然とした不安が生まれた。その形のなかった不安の輪郭が、見えた気がした。
人形。
忘れていたあいつをまた、思い出す事をやめたが、人形という言葉を聞いた時に記憶から蘇った。
この不安、もしかしたら無意識に一度重なったリナリアとあいつ、そして人形を自分の中で結びつけていたのかもしれない。
フードの中から俺を伺う青い瞳を見つめる。
「ヴァン?」
リナリアが……そんなはずない。
だが、考えすぎだと思考を放棄できないほど、俺の中でリナリアとあいつが強く結びつく。
それが、とても恐ろしい。
「リナリア。何か、隠していることがあるのか?」
「えっ? どう言う事?」
「君は一体、何者なんだ?」
口に出してすぐに、聞いてはいけなかったと後悔した。傷つけたかも知れないと憂えるよりも、もう今までのような関係に戻れないような気がした。
恐れるようにリナリアは一歩、二歩と後ず去り、少し開いた口は沈黙する。
リナリアは何を考えてる。
何者なんだ、っとは失礼な問いだが何それ、っと言い返しもてこない。
罪が暴かれるのを、待つような時間。
胃がキリキリと痛み、浅い呼吸しかできなくて息苦しい。
ざわざわと木々の葉が揺れる音が、やけによく聞こえ耳障り。柔らかな木漏れ日が眩しすぎて、目を細めながらリナリアの様子を見ていると、引き攣らせたように口角を上げた。
「何を、言ってるの?」
震え、恐れが滲みでた声色と歪んだ笑み。
そのリナリアらしからぬ異様な雰囲気に、ぞわぞわと恐怖が背を這いずる。そして、気づいた。
ジュンは俺が止めてしまうかも知れないと言っていたが、それが今分かった。きっと、これだ。
リナリアが行く事を俺は止める。
リナリアは、何をしようとしている?
何処へ行く?
祈るように胸に手を当て静かに佇み、俺の様子を伺うようにしているリナリアの姿は、彼女自身もどこか不安気に見えるし、怯えているようにも見える。
自分の気がかりの為にこれ以上追求する事は、リナリアを傷つけるかもしれないと躊躇う気持ちもあるが、それでもここで引けば何かを失う気がした。
聞くしかないが、真意を確かめようとする口はやはり重い。
「今から、何処へ行くつもりだ」
「な、なんで」
「ジュンがリナリアがしようとする事を俺が、止めるかも知れないと言っていた。あの時は意味が分からなかったが今分かった。それは、この事だ」
ぎゅっとリナリアの小さな肩が強張った。
「そう。ジュンちゃんはそんな事、ヴァンに言ったんだね」
「リナリアは何をしようとしている」
「……あのね、見つかったの。私の中の闇を消せる人が。だからね、その人にこれから、会いに行くの」
見つかった?
しかし、何故今?
吉報ではあるはずなのに、どうしてと言う疑問しか浮かばない。それは、アトラスが約束の人を迎えに来たこのタイミングがそうさせる。
「どこのどいつだ。どうやって見つけた」
「それは、ヴァンは知らなくてもいい事だよ」
「リナリア」
「だからね、ヴァンは止めなくていいの。これでこの世界も、他の世界も救われる。神様がきっと、悪魔を倒してくれるから」
そう言って顔を上げ、やっと見えたリナリアの表情は柔らかくて目尻を下げ微笑んでいて、一見嬉しそうに見える。
これは、喜んでいいのか?
確かにリナリアの言う通り、今まではそう思っていた。リナリアの中にある闇を払い、神に力を返し、力の戻った神は悪魔を討つ。それで、全て解決する。
本当にこれで、終わるのか?
なら、行かせればいい。力こそ失いはするものの、これでリナリアも悪魔から狙われる事もなくなり、閉ざされた天への道もきっと、再び繋がるのではないか?
そうしたらカイトも、きっと。
そう、理解はできるのに、俺の直感と疑念のせいで納得ができない。
人形を返すと、アトラスは言った。
誰に返し、返した後どうなる?
リナリアは神に力を、返すだけで済むのか?
もし……それは、考えたくない。
頭を過ぎった最悪は、本当に最悪すぎて頭に残す事すら恐ろしい。
リナリアも世界も救う方法はこれしかないのだから、全て俺の杞憂であってほしい。
だから、言葉という形にもしたくない最悪を尋ねる代わりに、これだけを約束したい。
「そうか。終わったら、この国に戻ってくるのか? なら、またリナリアに会いに行く」
浄化が終われば、リナリアはちゃんと帰ってくると確かめたい。それさえ分れば俺も、待っているからと見送れる。
リナリアの事を、信じている。
だから、分かったと言って欲しい。
帰ってくるから、その時は会おうねって。
なのにリナリアは、静かに首を横に振る。
「私はもう、この国には戻って来ない」
「なっ、戻らない!? 何故」
「このまま、旅に出ようかなって思って。世界をずっと見てみたかったけど、今まで忙しくてそんな事出来なかったから。この機会に、いいかなって」
「そんな。だったら、リナリアが今から行く先でも、俺は」
「ごめんね。誰にもね、会わずに行きたいの。ここで、みんなとお別れしたい……寂しくなるから。この国の人達にも迷惑をかけるけど、力がなくなった私はいても役に立たないだろうし、聖王からお許しはもういただいたから」
なんだ、それ。
本当にそう言っているのか?
急に信じられない、もう会えないなんて。
リナリアは俺を置いて、本当に世界を見に行ってしまうのか?
別に、約束なんてしてない。
だけど、俺は。
「俺は……君と見たかった」
「えっ」
素敵な世界を見てみたいなんて、リナリア程焦がれる思いは俺にはない。
だけどリナリアと一緒に見られるなら、きっとどんな場所だって素晴らしいとそう、思えるから。
世界じゃなくても、どこだっていい。
今いるここだって。
リナリアがいる世界を俺は、見ていたいだけなのに。
「あの、ごめんなさい。私、ヴァンがそう思ってくれてたなんて、知らなくて。それはもう出来ないけど、ヴァンには世界を見て欲しいって、今もそう思ってるよ。私じゃなくて、他の誰かと。貴方の想う人やキルとか」
亀裂が走る音がした。
それは俺の世界に、崩壊が訪れる音。
だから、息を飲む。
だから、俺は戦慄する。
でも、王様だからやっぱり難しいかな、って悪戯っぽく話すリナリアの声が遠く聞こえる。
代わりに、大切な友の声が聞こえた。
『誰かがそばにいて欲しいんだ』
カイトが俺にそう言った。
今思えば、まるで死期でも悟っていたように思えてしまうこの言葉。
……誰かって、なんだ。
どうして知らない人間に俺を任せようとする。
そんなの必要ない。俺はただリナリアに、カイトにもそばにいて欲しいだけだった。
やはり、行かせてはいけない。
取り返しのつかない事になる予感がする。
ミツカゲもトワもジュンもダイヤも、そしてリナリアも皆、何か隠している。とても大切で重要な事。
それが、もしかしたらさっき頭を過った最悪なのではと考えてしまう。
「やめてくれ、行かないでくれないか」
「ヴァン。それは、出来ないよ。これで世界が救われるんだから」
「なら、絶対に帰ってくると言ってくれ」
「……あっ、そうだ。あのね、ヴァンに一つお願いしてもいいかな。時間がないから、キルにお返事書けないの。代わりに伝えてくれる。これは返すから、今度はちゃんと持っててねって」
キルがリナリアに宛てた手紙を、差し出される。
俺は勿論受け取らない。
「返事なんて、終わった後書けばいいだろ」
「これだけでいいの。返事を返さない事が、私の返事だから」
重いため息しか出ない。
帰ってくると言ってくれなかった事に、ますます不安に胸が押し潰されそうになり、最悪が俺をじりじりと追い詰めてくる。
そう言えば、リナリアはキルの手紙を見て、おかしな反応をしていた。
赤い封蝋はそのままで蓋が破かれた、白い封筒を見つめる。
キル、お前はリナリアに何を伝えて、何をあげたのか。
気になるからって見るなよ、っと釘を刺されたが、リナリアにあんな顔をさせたんだ。今受け取れば中身を見られるかもしれない。
俺は手を伸ばす。
手紙を……受け取らない。
代わりにリナリアの腕を掴む。
「ヴァン?」
それはもう、どうでもいい。
行かせられない。
リナリアが無事に帰ってくると確信できるまで、この手は離さない。
「どうして」
「貴様っ!! 何をしているっ!!」
張り詰めていた空気に、怒号が響く。
この声は、ミツカゲ。
もう来てしまったのか。
振り返ると木々の間にミツカゲの姿が見え、慌ててこちらに駆け寄ってくる。
トワの姿も見えたが、アトラスはいない。
息を荒げ切迫した表情でミツカゲは俺の肩を掴み、リナリアから離れろと言わんばかりに強く引いてくる。
「どういうつもりだっ!! 貴様その手を離せ!!」
「ミツカゲ、違うの。ヴァンは私に何かしようとしてる訳じゃないから」
「ですが、こいつは」
「ミツカゲ」
リナリアの強い口調に、ミツカゲは口惜しそうに俺の肩から手を退ける。
「ならば、いい加減その手を離さないか」
「アトラスは、何処にいる」
「それは貴方が知る必要はないでしょう」
遅れて来たトワが冷たく答える。
この二人は面倒。
横槍を入れられそうで、余計にリナリアから話を聞き辛くなりそうだ。
せめてアトラスがここにいてくれれば、リナリアを迎えに来たのか、約束の真実も聞けたのかもしれなかった。
いや、もう邪魔をしてくるのなら、二人にも直接問い詰めればいい。
「ヴァン、どうしたの。そんな顔しないで。やっと平和な世界になるよ。瘴気も瘴魔も悪魔だって、今度は闇ビトもいない、みんなが幸せに生きられる世界に。ヴァンもこれで」
「そんな事、どうでもいいっ」
「どうでも、いい?」
くしゃっと紙が潰れる音。
手紙が強く握られ、歪な形になる。
「どうでも、良くないよ。キルだって、貴方の仲間だって危険な目に合わなくなるのに。どうして、ヴァンは喜んでくれないの」
「喜べるはずないだろ。こんな訳の分からない状況で」
「何が、分からないの」
何もかもだ。
フォニの話で真実に近づいたつもりであったのに、リナリアを取り巻く事柄の全てが、俺の中で疑念に変わってしまった。
そもそも俺にはリナリアの事で、一つ疑問があった。
「この世界に闇ビトが現れたのが、50年前。その時に悪魔の封印が解かれた。そうだよな」
「そうだけど……どうしたの、急に」
「フォニがリナリアは他の世界の人間のように、悪魔と対抗する為に神の力を授かった訳ではなく、神自身に入り込んだ闇を代わりに浄化してもらう為に、力と一緒にリナリアになすりつけたと言っていた。なら封印が解かれる前に神と悪魔の争いがあったはずだ。なのに何故19であるリナリアが選ばれている」
リナリアではなく、険しい表情で剣のグリップに手を添えているミツカゲに向けて、問いかける。
ミツカゲは信用できない。
こいつは何か隠している。
ずっとリナリアのそばにいたくせに、何も知らなかったなんて。理由もなくリナリアを守り続けてきた、そんな訳ない。
「言ったはずだ。貴様には、関係ない事だ」
「お前は疑問に思わないのか。そもそも、お前はずっとリナリアのそばにいて、何も知らなかったのか」
「悪魔風情が偉そうな口を聞くな」
「ミツカゲっ!!」
こいつは常に俺を蔑むようなことしか言わない。リナリアの周りにいる男は、本当に話がまともにできない奴ばかりなんだ。
それなら。
腕を組みながら、様子を伺っているトワに問う。
「約束の相手は、誰なんだ」
「……」
「アトラスを誰に合わせた」
いや、彼女を人形だと仮定した時、トワの見知った人間を照らし合わせると、もう一人しかいない。
忌々しいモノを見るような目で俺を見ている、ミツカゲを見返す。
「お前だろっ」
ミツカゲは目を見開いた。
そして、きっと目を釣り上げ、唇を噛み締める。
お前しかいない。
リナリアの事を何よりも大切にしている、お前しか。
「約束は、なんだ」
「ヴァンどうしたの? さっきからおかしいよ」
「ならこの話に、リナリアはどう関係している」
「わ、私は」
「アトラスはミツカゲが、人形を返してくれないと言っていた。それは大切なもので、誰かに返さないといけないと」
「もう、やめて」
「君は人形」
「私は、人形じゃない」
言葉を飲みこむ。
とても深い、悲痛な声。
そんな声で否定を吐いたのに、すぐにまたリナリアは何でもない、っと笑みを作る。
見ていてとても痛々しい。まるで、リナリアが壊れてしまったみたいだ。
どうして、そこまで。
いきなり強い力で胸元が引っ張られる。それでもリナリアの腕だけは離さないと、握る手に力を込める。
目の前には激昂した青い瞳。
息が苦しい。
ミツカゲに、胸ぐらを掴まれてるのかとやっと理解できた。
ミツカゲの背後にいるトワは、眉間を寄せ静観している。
「ミツカゲ、やめてっ。そんな事しないで」
「ですがっ」
「ヴァンを離して」
不服そうな顔で俺を突き飛ばし、ミツカゲは胸ぐらを離す。
何するんだ、っと怒る感情も湧かない。
乱れた襟を正す余裕すらない。
大丈夫っ、と心配そうに声をかけてくれるリナリアに返事も返せない。
俺がどんなに聞いても、誰も安堵する答えをくれない事に恐怖と焦りと怒り。そして絶望が胸の中で混濁し、溢れもう、限界。
「ヴァン。何が真実でも、これでもう終わる。私が力を返せば、平和な世界になる。それだけだよ。だからね」
掴んでいる俺の手の上に、そっとリナリアが手を乗せる。
「もう、手を、離して」
「離せない」
「どうして」
「行かせられないっ。リナリアはどうなる。本当にただ力を失ってしまうだけなのか!? 違うだろっ!! 他に何かリナリアの身に起るだろっ」
何も根拠はない。
だが、ずっと俺の中でそう叫んでいる。
「世界を旅するなんて、嘘だっ」
「嘘じゃ、ない」
リナリアはきっと、いなくなる。
「なら、どうして帰ってきてくれない? どうして会えると言ってくれない!? それは、リナリアがこの世界からいなくなるだろっ!!」
俺の叫びが響いた後、森が黙り込むように静寂する。
風すら吹かず、誰も何も音を出さない。
まるで時が止まったような空間で、自分の壊れたように鳴る心拍だけが聞こえる。
掴んでいるリナリアの腕が震えている。
いや、もしかしたら俺の方かも知れない。
答えが欲しい。
でも、その答えを聞くのはやはり恐ろしい。肯定されたら……俺は。
頼むから、絶対に大丈夫とそう、言ってくれ。君がそう言ってくれるなら、俺は信じるから。
リナリアはおもむろに顔を下げ、小さく息を吐く。
それは、諦めたように聞こえた。
「どうしてかな。ジュンちゃんが教えてくれた通りにしたのに……うまくできてたと思ってたのに、どこがダメだったのかな」
視界に映る景色が、色褪せて見えた。
全身が震え、口も利けず、顔を伏せる。
あぁ、そうか。
その言葉だけで、理解してしまう。
俺の最悪は、現実だと。
リナリアが無事に帰るのを確信するまではと掴んでいた腕を、俺は静かに離した。
「リナリア様」
「知ってほしくなかった。優しい貴方は知ったらきっと、また悲しい思いをしてしまうから。私はそれが嫌だった。最後まで隠し通せなくて、ごめんなさい。でもね、やっぱり嘘つきになりたくなかったの。私が貴方に言った言葉を全部、これからも信じて欲しかったから」
もう、聞きたくない。
俺がリナリアを、問い詰めたのに。
だって、否定して欲しかった。
俺の最悪を消して欲しかった。
絶対に大丈夫だからって、無事に帰ってくるって知りたかっただけなんだ。
どうして……また。
やり場の無い気持ちが、空虚に変わっていく。痛みを薄れさせようとするように、感情が自分から抜け落ちていく。
自分の足元と白い花を映していたぼやけた視界に、不意に泥の付いた茶色い靴が入り込む。
おもむろに顔を上げる。
「リナリア」
「でもね、これだけは嘘を……ついちゃったのかな。貴方の言う通り私が、人形だよ。ごめんなさい、私がそう思いたくなかっただけなの」
フードの中から俺を見上げるリナリアの青い瞳は無機質な人形とは程遠い、悲しみという感情を宿した瞳だった。
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