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第三章
61.雲の間の光①
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正午には着くだろうと思っていた。そう、今頃はアナスタシアに着いて、リナリアに会えていたかもしれない。
霞んだ青空を見上げる。おぼろ雲から透けて見える日は、もう真上を過ぎてしまった。後ろを振り向く。少し離れたところで歩く男へ、心の中で叫ぶ。
遅いっ!!
この男に合わせていなければ、もうとっくに着いていた。こいつはよく立ち止まり、後ろを振り返る。遠くに緑の山岳が見える平原、歩いてきた道しかないのに。
その後辺りを眺める。ボケっとした顔で。虚な目で何を見ているのだろう。やっと歩いたと思っても、ふらふらとした足取りでやる気がない。もういい加減置いていきたくなってきた。流石に言ってやりたい。
「おいっ!! 少し急げないのか!? 日が暮れるっ!!」
男は顔を上げ、頷くだけ。まったく、困った奴だな。こいつは何故、一緒に行こうなんて言ってきたんだ。あれから何も話さないないし。そういえばまだ、名を聞いていなかった。怪しい奴だし少し探ってみるか。やっとそばに来た男へ問いかける。
「お前名前は?」
「アトラス。あんたは」
「ヴァンだ。お前はファリュウスの人間か?」
「ああ」
「どこの生まれだ?」
「山の中の小さな村だ」
「山? どの辺りだ?」
「詳しくは言えない。ただ外界と交流が一切ない孤立した村だから、誰も知らない。あんたが聞いても分からないよ」
「そうなのか。もしかして、初めて村を出たのか?」
「そうだ」
なるほど。それで物珍しさからよく、辺りを眺めていたのだろうか?死んだ目で。
「山を降りてお前は、アナスタシアに何の用だ?」
「人に、会いに行く」
「誰に」
「あんたには関係ないよ」
そうだが、イラっとする返事だな。アトラスはふと立ち止まり、来た道を振り返りる。だから、止まるなっ!!
「嫌な雲だな」
アトラスから視線を外し、奴と同じ空を見る。まさにその通り。霞んだ青空に黒い雲が辺りを飲み込む様に広がり、こちらへ流れてくる。確かに嫌な感じだ。先日フォニと対峙した時を思い出す。
まさか、近くに!?
辺りを見回す。それらしい気配は感じない。それとも感じきれていないのだろうか。
立ち止まり探っていると、黒雲は異常な速さでみるみると頭上を覆う。明らかに自然の現象とは違う。
水分を含んだじめっとした風が吹く。土の匂いが強くなる。雷鳴が聞こえた。鼻先に水滴が当たる。それがポツポツと増え、ざぁっと大粒の激しい雨足になる。これは酷い。だが、辺りには雨を凌げる様な場所はない。このまま行くしかないか。はぁ、災難続きだ。
「あの木の下で凌ぐか」
アトラスが指刺す先に、背の高い一本の針葉樹が立っている。いや、さっきから雷鳴がする。高い木の下はダメだ。落雷する危険がある。
「ダメだ。落雷したらどうするんだ」
「その時は、その時だ」
「もう首都に着く。ポンチョをお前に貸してやるから、このまま行くぞ」
「人間いつか死ぬ。なら、死んだ時がその時ってだけだ」
「何を言ってる」
「もうここでいいよ。あんたは先に行ってくれ。俺に付き合わせて悪かった」
「おいっ!!」
去り際に青い瞳が俺を見る。俺を映す曇った瞳に、何かが見えた。胸を跳ねさせる、何か。よく分からないもの残し、奴は亀の様な足取りで去って行く。
行ってしまった。また、一段とたらたらと。
ああっもう、面倒な。もういい!!そう言うのなら、もう置いて行く!!フォニのような悪魔の手先ではないかと勘繰ったが、どうも違う気がする。ただ無気力なんだ。無駄に時間を食ったし、やはり他人と関わると碌な事がない。
行こうとした。でも、足が動かない。胸がぎゅっと締められる感覚。雨に濡れる弱々しい背を見つめる。
死にたがってるみたいだ。
生きる気力を感じない。未来を見てない。そう、行く事ができないのはその背が、どこかカイトを失った自分と重なった。
俺が辛い時には誰かそばにいて欲しいとカイト、お前は俺にそう言った。なら、奴には誰かいるのだろうか。他人の俺が聞くのは、余計なお世話だろう。でも最近、余計なお世話をしてくれた彼女に俺は救われた。だから今の俺は、奴を置いて行くことを躊躇ってしまう。それに。
あの目。
去り際のあの目、感じたんだ。暗い瞳の奥底にそう、光を。救いを求められる様な、希望を探している様な。奴は何かからまだ、諦めきれていないんだ。
気づけば手綱を打っていた。上げた腕で容赦なく降り注ぐ雨から顔を庇いながら、泣いている様に濡れた奴の背を追う。
木の下に入り込んだのはほぼ同時。アトラスが顔を上げる。
「あんた、来たのか」
「まったく。お互い随分濡れたな」
とにかく体を拭かないと。俺はサドルバッグから乾いた白い綿の布を取り一つは自分、もう一つをアトラスに差し出す。
「ほら、これで体を拭け」
「あ、あぁ」
受け取りはしたがこいつは、体を拭こうとせず小さく息を吐くだけ。暗いな。だいたいため息を吐きたいのは、こっちなんだ。
今度は濡れている事を気にする様子もなく木の根本へ座り、何かをボソボソと口にし出す。地に着けた奴の右手の腕輪が光った。まただ。子供の傷を治した時と同じ光。何をするつもりだ?
半透明な薄青い膜が宙から降りてきた。腕輪の力か?この木を覆う様に張られた膜の中は、不思議な感じ。なんだかやけに静かだ。そうか、雨風が入らないからか。ありがたいがこんな事ができるなら、初めからそう言ってくれればよかったのに。
「これで、落雷もしない」
「こんな事も出来るのか」
「あぁ。彼女の加護の力だ」
「一体何者なんだ、その人は」
「俺たちの、絶対的な存在だ」
「絶対的? なんだそれは。まるで神だな」
「神……あぁ、そうだな。神だな」
「真面目に答えろ」
「……」
無視か。まったく、こいつとは会話が続かない。もともと話をしたがる様子もない。どうしてこんなにも塞ぎ込んでいるのか事情を聞きたかったが、これじゃあ無理かも知れない。そもそも人の気持ちを推し量る事が苦手な俺に、何が出来るのか。
乾いた布を頭に被せたアトラスは空を仰ぐ。そのまましばらくお互い何も話さない。奴は変わらず、ずっと虚な目で空を眺めている。俺はといえば会話の糸口を探しながら、自分の体を拭いているだけ。
勢いが衰えない雨音の中、アトラスのか細い声が聞こえる。
「まるで慟哭してるようだ」
「この雨がか?」
「あぁ。怒りと、酷い悲しみ。そんな空だ」
慟哭か。空を見上げる。黒雲の中で光る、轟く雷鳴。地へと打ちつける、大粒の激しい雨。この空模様を感情に例えるなら確かに、そう言ってもいいのかも知れない。
「なぁあんた。普段は何してる」
なんだ、世間話か?一応そう言った話をする気はあるのか。
「瘴気の調査と瘴魔の討伐していた。だが、最近は落ち着いて特にやる事もない」
「瘴気って、最近まで起こっていた霧のことか。怪我とかしないのか」
「大きな怪我はした事がない」
「じゃあ、仲間は? そんな大変な仕事をしてると、命を落とす奴もいるだろ」
カイトの笑顔が浮かんだ。胸が詰まる。言葉を出すのが、重い。
「そうだな」
「嫌にならないか?」
「何が」
「この世界だ。いっそ全部無くなればいいと思わないか? 全部一気に無くなれば、誰かが誰かを失う悲しみも、自分が誰かを失う悲しみも、何もかもなくなる。大切な人がいなくなっても、もうそれすら気づくことはない」
また暗い事を、ってやはりアトラスはあの時の自分と似ている。カイトを失って生きていくことが辛かった。でも、それでも生きていけと、まだ自分には残されているものがあるからと、リナリアが教えてくれた。
「悲しみは大きいが、大切な人を失っても誰もが死にたいと思っていない。それにまだ、大切な人がいるのなら、生きていけるだろ」
「いいな、あんたは」
「何が」
「持ってるものが沢山あるんだろう。大切な人や、心の拠り所が」
「俺だって数えるほどしかない。お前にだってあるだろ」
「ないよ」
随分きっぱりと。なら絶対的な存在の彼女とやらは、こいつとって大した存在ではないのか。
「なら、その神の様な女はお前にとって、大した存在ではないんだな」
「違うっ!! 彼女は……大切だ」
「何だ、いるじゃないか。一人いれば十分だろ」
アトラスは空を見るのをやめた。今度は抱え込んだ膝の間に顔を埋め、塞ぎ込む。
「そうだな。彼女がいれば、俺はそれでいい。それなのに」
「なんだ?」
「気にしないでくれ」
「言いたい事があるなら、言えばいいじゃないか」
「あんたには関係ない。それにもうどうしようもないんだ」
どうしようもないなんて、きっと本当はそんな事思っていない。あの目がそう言っていたんだ。希望を探している。そんな目で俺を見たんだ。
「よく分からないが、何でお前はそんなに悲観してる」
「……」
「話せば少し楽になる、かも知れない」
「なんで他人のお前に」
「他人だから、話せる事もあるだろ」
「あんた、見た目の割にお節介な奴だな」
見た目の割にって、そうかもしれないが。確かにお節介なんて初めて言われた。そんな事をしたことがないから。いつも周りがしてくれた。それが、俺を生かしてくれたんだ。
「俺の周りはそういう人ばかりだ。だから、俺も少し感化されたのかもしれない」
「俺にはあんたのお節介は必要ない」
「なら何故、アナスタシアまで俺を誘ったんだ?」
「それは」
「何故俺を、あんな目で見たんだ」
「知らない。俺が一体、どんな目であんたを見たって言うんだ」
「希望を探している様に見えた。別に俺じゃなくてもいい。その人に抱えているものを、打ち明けられないのか?」
俺にはやはりいい言葉が見つからない。これが精一杯だ。それでも届けばいいと思った。まだ、生きる事を諦めていないのなら。アトラスは口を閉ざしたまま俯く。俺は待った。こいつの本当の答えを。
「彼女には、話せない」
「何故?」
「もうすぐ……いなくなるんだ」
「いなくなる? どういう事だ?」
「遠くへ、いってしまう。俺があの人を迎えに行くと、彼女はいってしまう。俺は街に行きたくない。だから、ゆっくり歩いたんだ。道草をして、何も見えない世界を眺めながら」
「そうか」
「でも、約束をしたから、それは破りたくはなかった。お前を誘ったのは自分を、無理にでも連れて行かせたかった。一人だといつまでも着けそうになかったんだ」
霞んだ青空を見上げる。おぼろ雲から透けて見える日は、もう真上を過ぎてしまった。後ろを振り向く。少し離れたところで歩く男へ、心の中で叫ぶ。
遅いっ!!
この男に合わせていなければ、もうとっくに着いていた。こいつはよく立ち止まり、後ろを振り返る。遠くに緑の山岳が見える平原、歩いてきた道しかないのに。
その後辺りを眺める。ボケっとした顔で。虚な目で何を見ているのだろう。やっと歩いたと思っても、ふらふらとした足取りでやる気がない。もういい加減置いていきたくなってきた。流石に言ってやりたい。
「おいっ!! 少し急げないのか!? 日が暮れるっ!!」
男は顔を上げ、頷くだけ。まったく、困った奴だな。こいつは何故、一緒に行こうなんて言ってきたんだ。あれから何も話さないないし。そういえばまだ、名を聞いていなかった。怪しい奴だし少し探ってみるか。やっとそばに来た男へ問いかける。
「お前名前は?」
「アトラス。あんたは」
「ヴァンだ。お前はファリュウスの人間か?」
「ああ」
「どこの生まれだ?」
「山の中の小さな村だ」
「山? どの辺りだ?」
「詳しくは言えない。ただ外界と交流が一切ない孤立した村だから、誰も知らない。あんたが聞いても分からないよ」
「そうなのか。もしかして、初めて村を出たのか?」
「そうだ」
なるほど。それで物珍しさからよく、辺りを眺めていたのだろうか?死んだ目で。
「山を降りてお前は、アナスタシアに何の用だ?」
「人に、会いに行く」
「誰に」
「あんたには関係ないよ」
そうだが、イラっとする返事だな。アトラスはふと立ち止まり、来た道を振り返りる。だから、止まるなっ!!
「嫌な雲だな」
アトラスから視線を外し、奴と同じ空を見る。まさにその通り。霞んだ青空に黒い雲が辺りを飲み込む様に広がり、こちらへ流れてくる。確かに嫌な感じだ。先日フォニと対峙した時を思い出す。
まさか、近くに!?
辺りを見回す。それらしい気配は感じない。それとも感じきれていないのだろうか。
立ち止まり探っていると、黒雲は異常な速さでみるみると頭上を覆う。明らかに自然の現象とは違う。
水分を含んだじめっとした風が吹く。土の匂いが強くなる。雷鳴が聞こえた。鼻先に水滴が当たる。それがポツポツと増え、ざぁっと大粒の激しい雨足になる。これは酷い。だが、辺りには雨を凌げる様な場所はない。このまま行くしかないか。はぁ、災難続きだ。
「あの木の下で凌ぐか」
アトラスが指刺す先に、背の高い一本の針葉樹が立っている。いや、さっきから雷鳴がする。高い木の下はダメだ。落雷する危険がある。
「ダメだ。落雷したらどうするんだ」
「その時は、その時だ」
「もう首都に着く。ポンチョをお前に貸してやるから、このまま行くぞ」
「人間いつか死ぬ。なら、死んだ時がその時ってだけだ」
「何を言ってる」
「もうここでいいよ。あんたは先に行ってくれ。俺に付き合わせて悪かった」
「おいっ!!」
去り際に青い瞳が俺を見る。俺を映す曇った瞳に、何かが見えた。胸を跳ねさせる、何か。よく分からないもの残し、奴は亀の様な足取りで去って行く。
行ってしまった。また、一段とたらたらと。
ああっもう、面倒な。もういい!!そう言うのなら、もう置いて行く!!フォニのような悪魔の手先ではないかと勘繰ったが、どうも違う気がする。ただ無気力なんだ。無駄に時間を食ったし、やはり他人と関わると碌な事がない。
行こうとした。でも、足が動かない。胸がぎゅっと締められる感覚。雨に濡れる弱々しい背を見つめる。
死にたがってるみたいだ。
生きる気力を感じない。未来を見てない。そう、行く事ができないのはその背が、どこかカイトを失った自分と重なった。
俺が辛い時には誰かそばにいて欲しいとカイト、お前は俺にそう言った。なら、奴には誰かいるのだろうか。他人の俺が聞くのは、余計なお世話だろう。でも最近、余計なお世話をしてくれた彼女に俺は救われた。だから今の俺は、奴を置いて行くことを躊躇ってしまう。それに。
あの目。
去り際のあの目、感じたんだ。暗い瞳の奥底にそう、光を。救いを求められる様な、希望を探している様な。奴は何かからまだ、諦めきれていないんだ。
気づけば手綱を打っていた。上げた腕で容赦なく降り注ぐ雨から顔を庇いながら、泣いている様に濡れた奴の背を追う。
木の下に入り込んだのはほぼ同時。アトラスが顔を上げる。
「あんた、来たのか」
「まったく。お互い随分濡れたな」
とにかく体を拭かないと。俺はサドルバッグから乾いた白い綿の布を取り一つは自分、もう一つをアトラスに差し出す。
「ほら、これで体を拭け」
「あ、あぁ」
受け取りはしたがこいつは、体を拭こうとせず小さく息を吐くだけ。暗いな。だいたいため息を吐きたいのは、こっちなんだ。
今度は濡れている事を気にする様子もなく木の根本へ座り、何かをボソボソと口にし出す。地に着けた奴の右手の腕輪が光った。まただ。子供の傷を治した時と同じ光。何をするつもりだ?
半透明な薄青い膜が宙から降りてきた。腕輪の力か?この木を覆う様に張られた膜の中は、不思議な感じ。なんだかやけに静かだ。そうか、雨風が入らないからか。ありがたいがこんな事ができるなら、初めからそう言ってくれればよかったのに。
「これで、落雷もしない」
「こんな事も出来るのか」
「あぁ。彼女の加護の力だ」
「一体何者なんだ、その人は」
「俺たちの、絶対的な存在だ」
「絶対的? なんだそれは。まるで神だな」
「神……あぁ、そうだな。神だな」
「真面目に答えろ」
「……」
無視か。まったく、こいつとは会話が続かない。もともと話をしたがる様子もない。どうしてこんなにも塞ぎ込んでいるのか事情を聞きたかったが、これじゃあ無理かも知れない。そもそも人の気持ちを推し量る事が苦手な俺に、何が出来るのか。
乾いた布を頭に被せたアトラスは空を仰ぐ。そのまましばらくお互い何も話さない。奴は変わらず、ずっと虚な目で空を眺めている。俺はといえば会話の糸口を探しながら、自分の体を拭いているだけ。
勢いが衰えない雨音の中、アトラスのか細い声が聞こえる。
「まるで慟哭してるようだ」
「この雨がか?」
「あぁ。怒りと、酷い悲しみ。そんな空だ」
慟哭か。空を見上げる。黒雲の中で光る、轟く雷鳴。地へと打ちつける、大粒の激しい雨。この空模様を感情に例えるなら確かに、そう言ってもいいのかも知れない。
「なぁあんた。普段は何してる」
なんだ、世間話か?一応そう言った話をする気はあるのか。
「瘴気の調査と瘴魔の討伐していた。だが、最近は落ち着いて特にやる事もない」
「瘴気って、最近まで起こっていた霧のことか。怪我とかしないのか」
「大きな怪我はした事がない」
「じゃあ、仲間は? そんな大変な仕事をしてると、命を落とす奴もいるだろ」
カイトの笑顔が浮かんだ。胸が詰まる。言葉を出すのが、重い。
「そうだな」
「嫌にならないか?」
「何が」
「この世界だ。いっそ全部無くなればいいと思わないか? 全部一気に無くなれば、誰かが誰かを失う悲しみも、自分が誰かを失う悲しみも、何もかもなくなる。大切な人がいなくなっても、もうそれすら気づくことはない」
また暗い事を、ってやはりアトラスはあの時の自分と似ている。カイトを失って生きていくことが辛かった。でも、それでも生きていけと、まだ自分には残されているものがあるからと、リナリアが教えてくれた。
「悲しみは大きいが、大切な人を失っても誰もが死にたいと思っていない。それにまだ、大切な人がいるのなら、生きていけるだろ」
「いいな、あんたは」
「何が」
「持ってるものが沢山あるんだろう。大切な人や、心の拠り所が」
「俺だって数えるほどしかない。お前にだってあるだろ」
「ないよ」
随分きっぱりと。なら絶対的な存在の彼女とやらは、こいつとって大した存在ではないのか。
「なら、その神の様な女はお前にとって、大した存在ではないんだな」
「違うっ!! 彼女は……大切だ」
「何だ、いるじゃないか。一人いれば十分だろ」
アトラスは空を見るのをやめた。今度は抱え込んだ膝の間に顔を埋め、塞ぎ込む。
「そうだな。彼女がいれば、俺はそれでいい。それなのに」
「なんだ?」
「気にしないでくれ」
「言いたい事があるなら、言えばいいじゃないか」
「あんたには関係ない。それにもうどうしようもないんだ」
どうしようもないなんて、きっと本当はそんな事思っていない。あの目がそう言っていたんだ。希望を探している。そんな目で俺を見たんだ。
「よく分からないが、何でお前はそんなに悲観してる」
「……」
「話せば少し楽になる、かも知れない」
「なんで他人のお前に」
「他人だから、話せる事もあるだろ」
「あんた、見た目の割にお節介な奴だな」
見た目の割にって、そうかもしれないが。確かにお節介なんて初めて言われた。そんな事をしたことがないから。いつも周りがしてくれた。それが、俺を生かしてくれたんだ。
「俺の周りはそういう人ばかりだ。だから、俺も少し感化されたのかもしれない」
「俺にはあんたのお節介は必要ない」
「なら何故、アナスタシアまで俺を誘ったんだ?」
「それは」
「何故俺を、あんな目で見たんだ」
「知らない。俺が一体、どんな目であんたを見たって言うんだ」
「希望を探している様に見えた。別に俺じゃなくてもいい。その人に抱えているものを、打ち明けられないのか?」
俺にはやはりいい言葉が見つからない。これが精一杯だ。それでも届けばいいと思った。まだ、生きる事を諦めていないのなら。アトラスは口を閉ざしたまま俯く。俺は待った。こいつの本当の答えを。
「彼女には、話せない」
「何故?」
「もうすぐ……いなくなるんだ」
「いなくなる? どういう事だ?」
「遠くへ、いってしまう。俺があの人を迎えに行くと、彼女はいってしまう。俺は街に行きたくない。だから、ゆっくり歩いたんだ。道草をして、何も見えない世界を眺めながら」
「そうか」
「でも、約束をしたから、それは破りたくはなかった。お前を誘ったのは自分を、無理にでも連れて行かせたかった。一人だといつまでも着けそうになかったんだ」
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