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捕まえた
しおりを挟む行こう、と腕を引かれた時に走って逃げ出すとか、大きな声で助けを呼ぶとか、そういうことはしなかった。俺はただ項垂れて、腕を掴まれたままキョウジに着いてくことを選んだ。予想もしていなかった事態に見舞われて、上手く頭が働かなかったというのもあるし、きっと一時的に逃げたとしても、キョウジはまた俺の元へ現れるだろう、という気がしていたからだ。
コートとスーツ、というコーディネートのキョウジを見るのは初めてだった。サラリーマンになったのかな、そんなことも聞けずにいる俺の腕を掴んだままキョウジはキビキビと歩いていく。運動をしていて体力があるからなのか、相変わらず俺よりも少しだけ歩くペースが速い。
迷うことなく真っ直ぐ進んでいくということは、どこか行くあてがあるんだろう。そう思っていたから、横断歩道を渡るのも、人ごみの中をすり抜けるのも黙って着いていった。けれど、キョウジは勢いよく歩き続けるばかりで、一向にどこかへたどり着く様子はない。カフェやバーの前をいくつも通りすぎて、どんどん駅から遠ざかっていくキョウジに、痺れを切らした俺は「ねえ!」と声をかけずにはいられなかった。
「なに?」
「なんのつもりか知らないけど、話があるなら適当な場所に入ればいいじゃん。どこまで行くつもり?」
ちょうどしばらく歩いた先に、濃いオレンジ色の建物が「Cafe」の看板を掲げているのが見える。入ったことはないけれど、店内は暖かくて静かで、コーヒーや紅茶やジュースが出てくるような、ありふれているけど安心出来る、きっとそういう店だ。
足を止めた後、「ああ」とキョウジは頷いてみせた。まるで、なんだそんなことを気にしているのか、とでも言いたげな様子に舌打ちしたい気持ちを堪える。真冬なのに早足で歩いていたせいなのか、両頬が熱い。それなのに、俺をじっと見つめるキョウジの目や頬は、冬の空気にさらされて冷えているように見えた。
「さっきまでユウマくんが、行こうとしていたところ」
「えっ……」
「ユウマくんが女と行こうとしていたところだよ」
パクパクと滑らかに動いた後、キョウジの唇の両端は、きゅっと上がった。微笑みかけられているのだ、とわかるまで時間がかかった。目が一切笑っていなかったからだ。
本人に直接聞いて確かめたわけじゃないけど、キョウジは俺が女性に身体を売っていることも、待ち合わせた客とラブホテルに行こうとしていたことも、たぶん知っている。それどころか、家の場所も、ファンシーショップで働いていることも、何もかもバレているのかもしれない。背中を嫌な汗がつたう。
「……ホテルには行かない。いやだ、無理。俺に言いたいことがあるなら他の場所にして」
絶対にこのまま二人きりになったらダメだ、と俺の頭の中で警報が鳴り響いていた。やっとの思いで俺がそう伝えるのを聞いている間、キョウジは顔の筋肉をピクリとも動かさなかった。なんというか、これからラブホテルへ行くのはキョウジの中ではすでに決まっていることで、俺の言葉はただの一人言として聞き流されているような、そんな気がした。
「……ユウマくんってさあ」
何を言われるのだろうと身を固くするのを確かめるように、俺の腕を掴むキョウジの手に力が込められる。
「俺のラインはずうっとブロックしてるのに、客の女へのメッセージにはハートマークも使うんだね」
「それは……」
「あんず」はお前だったのか、と聞き返すことは出来なかった。どこで嗅ぎつけたのかは知らないけど、客のふりをしてこそこそ俺を呼び出すなんて、ふざけるな。……予約をキャンセルされた挙げ句、ホテルへ連れ込まれようとしているんだから、そうやって怒鳴ってやるぐらいの権利なら俺にはある。でも、出来なかった。
切り離してとっくに決別出来ているつもりだった過去が、自分を探して、ここまで追いかけてきたことが、ただただ恐ろしかったし、それに、ここまでキョウジを追い詰めたのは俺だということがわかっていたからだ。「怖い」という感情と後悔する気持ちは、怒鳴るという行為に必要なエネルギーを俺から根こそぎ奪っていく。
「……お金さえ払えば、ユウマくんはまた俺ともそういうことをしてくれるの?」
「やめて、そういう話は、ここではしたくない……」
「そう。でも、俺がしたいのはそういう話なんだ」
だから行こうか、と肩を叩かれる。何度か首を横に振ってはみたけれど、キョウジは再び俺の手を引いて歩き始めた。サラリーマンに見えるキョウジと、風俗で働く俺の組み合わせがどう見えているのかはわからないけれど、すれ違う人達から視線を感じる。こういう視線から、キョウジのことを守りたいと、俺は思っていた。今さらそんなことを伝えたとしても、きっとキョウジは俺を許さないだろうけど。
黙ったままホテル街をキョウジと歩くのは、俺にはとても苦しい。思い出の中のキョウジは、バカで俺のことをいつも振り回してばかりだったけれど、眩しいぐらいに輝いていて、純粋で可愛かった。
初めて二人で遊びに行く約束をした日も、待ち合わせ場所にキョウジはジャージを着てサッカーボールを抱えてやってきた。てっきり、デートだと思っていた俺はその時持っていた中で一番新しくて、洒落ている服を着ていたから「ふざけるな」とヘソを曲げた。それにキョウジは「ユウマくんに、俺の練習している姿を見せたかったから」と、なぜ俺が怒っているのか全く理解出来ていないようだった。たぶん、「ユウマくんだって、俺が練習しているところを見るのは好きでしょ?」と本気で思っていたに違いない。
歓楽街を堂々と歩くキョウジの後ろ姿を見つめながらこういう所に誰かと来たことがあるんだろうか、と思うと胸がしくしくと痛む。もうあの頃のキョウジは、どこにもいない。
自分だって、新宿のラブホテルは風俗の仕事でよく利用しているからずいぶん詳しいはずなのに、そんなことを考えるのはおかしいだろうか。「ここは値段のわりにきれい」「ここのホテルは部屋に岩盤浴がある」……このまま二人きりになってしまえば、今度こそ殺されるのかもしれないのに、頭に浮かんでくるのはそういう余計なことばかりだった。
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