裸でいるよりそそられる

サトー

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水の中の暮らし(1)

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「セクシー女優ってほんとすごいよ。だって、脱いでも顔だけ浮いたりしないじゃん。裸に馴染むメイクをよくわかってんだよ」

 尊敬するね、と言いながらイチカ君がメイクを落とすシートで瞼をささっと拭う。ライブの後に楽屋でメイクを落とすけど、いつまでも肌に残っている感じがして、気持ちが悪いのだとイチカ君はいつも言っていた。

「前に、フルメイクの状態でヤらせてくれ、って言われたけどさ、当然断ったね。顔だけゴテゴテ厚塗りした状態で、体は裸なんて間抜けすぎる。顔に俺の体が負けるじゃん?」
「というか誰がそんなことを言うの?」

 イチカ君は俺からの質問には答えない。代わりに肩をすくめて「女ってやつはよくわからん」と困った顔で言うだけだった。
 なんだ、女の人から言われたんだ、とちょっとだけ安心してしまう。
 なぜか頭の中では、綺麗に化粧をしたイチカ君が脂ぎったおじさんに迫られているのを想像したからだ。

 ヴィジュアル系バンドでギターを弾いているイチカ君は体も華奢で化粧を落としても女の人のように可愛らしい素顔をしている。「化粧なんか必要ないじゃん。アイドルになればよかったのに」と言ったことがある。イチカ君は「よく言われる。でも俺はダンスも演技も出来ないんだ」と笑っていた。

「カケル、腹へった。飯食べたい」
「うん」

 待ちきれないのかイチカ君が鍋を覗き込んでくる。料理をする俺の側からイチカ君は離れようとしなかった。あんまり熱心に鍋の中の大根を見張っている様子は、じっと見つめていれば、その分早く煮える、と信じているようだった。

 ステージ衣装を着るためならいくらでも体重を落とせるとイチカ君は言う。写真やミュージックビデオの撮影が間近に迫っている時はほうっておくと、一日の食事をコンビニのおにぎり一つだけで済ませて、フラフラになりながら、空腹を誤魔化すように部屋の隅でギターを弾いている。「ギターの腕も大事だけど、見た目が汚かったらヴィジュアル系バンドとしては論外だ」というのがイチカ君の信念らしい。

「大根の煮物ならきっとたくさん食べても太らない、と思う」
「サンキュー、カケル」

 小さな鍋の中で輪切りにした大根が窮屈そうにしている。一つだけいくつも穴が開いていてボロボロになってしまっていた。煮えたかどうだか確かめるために菜箸を何度も刺し続けていたからだ。
 煮物をよそうための皿へ思いつきで乾燥ワカメを入れておく。ワカメは髪にいい。髪が傷んでいるのを気にしているイチカ君の髪にもきっと効くだろう。

 待っているのは退屈なのか「俺が仕事の後に飲みにもいかずにさっさと帰ってくるのはカケルがいるからだな」とイチカがまとわりついてくる。

「もう女はこりごりだね。こうやって、男どうしで楽しくやってるのが俺には一番」
「そうなの? この間、刺されそうになったから?」
「刺されそうになったのは俺じゃなくて、よそのバンドのメンバーだっ!」

 女と遊んで刺されそうになるなんてダサいこと、俺は絶対嫌だとイチカ君はそっぽを向いてしまう。ダサいかダサくないかよりも他に気にすることがあるのでは? と思ったけどくぐってきた修羅場の数が違うのか、イチカ君の頭からは「生命の危機」というものがすっぽり抜け落ちてしまっているようだった。

「あ、あのさー、カケル……俺はもう女とは遊ばないけど、カケルに誰か女を紹介する? 俺、この家でなんの役にもたってないし……」
「いいよ、べつに」
「あ、そう……?」

 さっきまでふて腐れていたのに、急に不安そうにしながら俺の顔を覗き込んでくる。そして、自分でファンの女の子を紹介してやる、と提案しておきながら断られるとホッとする。イチカ君は優しくて楽しい人だけど、時々よくわからない。

「あー、カケルといると落ち着くなー」
「そうなんだ。それならよかった」
「うん……」

 素っ気ないと思われたのか、イチカ君はちょっとだけ残念そうだった。フォローしようか迷っているうちに鍋の中の大根がグツグツしてきて慌てて火を止める。

 特に手伝うこともなく待っているのはやっぱり暇だったのか、イチカ君は流し台でバシャバシャと顔を洗い始めた。両頬を叩くような勢いで何度も冷たい水を浴びせた後、キッチンタオルでごしごしと顔を拭う。

 さっきメイクを落とすシートを使っていたのに、どうして何度も顔を洗うんだろう。満足そうな顔で冷たくなってしまったであろう頬にひたひたと触れるイチカ君は、水を浴びせた分だけ肌が綺麗になると思っているのかもしれない。

「落とした時にさっぱりするために、きっと俺達ヴィジュアル系は厚塗りをしてるんだよな」
「絶対違うでしょ」

 ふはっ、と笑うイチカ君の目や唇は全部が曲線的で、優しい顔立ちをしている。パーツが下側寄りについているからなのか、素顔のイチカ君は二十六歳という実年齢よりもずいぶん幼く見えた。時々、俺より五つも年上だということを忘れそうになる。
 眉毛がすごく薄くて細いことを、イチカ君は「すっぴんになってもビジュアル系らしいだろ」って自分で言って、自分で笑う。

「よっし」

 鍋の中をもう一度覗いた後、満足そうに頷いてからイチカ君は台所から出ていった。たぶん、洗面所で化粧水を塗るつもりに違いない。

 ファンの女の子から有名ブランドの高いパックをたくさん差し入れてもらっているのに、それにはほとんど手をつけず、イチカ君は俺の安い化粧水をコソコソと勝手に使う。白くて水みたいにさらさらしている化粧水は五〇〇ミリリットルも入っているのに近所のドラッグストアで数百円で買える。

 持っている素質が違うのか、同じ化粧水を使っているイチカ君は俺よりずっと白くて明るい肌をしている。
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