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【番外編】幼馴染みが留学している
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しおりを挟む「今日はいつもと違って随分たくさん食べるんだ」
三〇〇グラムもあるサーロインステーキの大部分を食べ終わり、マッシュポテトを口に運んでいる俺をまじまじと見てからジャイーが呟いた。彼女の方は付け合わせのフライドポテトにはほとんど手をつけず、ルイを見ているだけでお腹がいっぱい、と早々とナイフとフォークを手離した。
「熱が出ている間、ずっとアイスクリームと栄養補助材だけだったから、その分を食べてる」
「なるほど。取り戻すってわけか」
「……あと、給料を貰ったばかり」
「ルイが元気ならなにより……。ねえ、彼から電話あったって言ってたけどどうなった? 食べたら話すって言ったよね」
紙ナプキンで口をキレイに拭いた後、ジャイーはそう尋ねた。「早くその話を聞きながら、ビールが飲みたい」とでも思っているのか、既に右手にはジョッキの持ち手が握られている。
「……あんなやつに、負けてたまるかっ!」
大きく切ったサーロインステーキの赤身の部分を飲み込んだ後にそう答えるとジャイーはキョトンとしていた。いきなりそんなことを聞かされてきっと驚いているだろうけど、ずっとずっと療養中も俺はそう思っていたのだから仕方がない。病み上がりのお腹は空っぽでまだまだ食べられそうだった。
◇◆◇
三日前バイトから寮へ戻ってきてから、両隣の部屋に店から貰った巻き寿司を差し入れたり、日本からのメールに返信をしたりした後、自室で休んでいたら何かがおかしかった。
悪寒を感じたので、ベッドに入るも、全然眠れない。夜中から部屋のあちこちを探し回って、ようやく見つけた体温計で測ってみたら熱があった。バイト中は具合なんか少しも悪くなかったし、まかないは珍しくおかわりも食べたのに。
思えば子供の時からそうだった。ヒカルと夕方まで遊んだ後、「明日も遊べる?」と聞かれて、うん、と頷いた数時間後に、急に高熱が出て結局約束が守れないことが何度かあった。
身体が弱いというわけではなくて、数年に一回忘れた頃にやって来る発熱が今回はたまたま留学中だった、というだけに過ぎないけど、真冬で寒いし、ひどい頭痛はするし、夜中に何度も目を覚ました。
次の日の朝、タクシーに乗ってGPと呼ばれる一般開業医に診てもらった。「ただの風邪だから、とにかく身体を冷やせ」と言われた。どうやらそれは、こっちでは一般的な風邪の対処法らしい。
「熱が出た」ということをどこからか聞いたのか、ジャイーがベン&ジェリーズのアイスクリームを差し入れてくれた。右隣に住んでいるネパールからの留学生もゴールデン・ゲータイムというアイスを届けてくれたし、左隣の部屋の留学生もアイスキャンディーを持ってきてくれた。
病院から持たされたHydralyteという、スティック状で、薄いファンタオレンジのような味がする栄養補助材を凍らせたものと貰ったアイスを食べた後、風邪の患者全員に処方されるパナドールという薬を飲みひたすら横になっていた。
「こんなに寒いのに、冷やせって、絶対テキトーに診察してると思ったけど……本当に二日後には熱が下がった」
「よかったよね。留学先で風邪をひくって不安になるし」
「それで、風邪で寝ている時にヒカルから電話が来た」
「そうそう。それが聞きたかった。なんて言われたの?」
「それが熱が三十九度もある一番キツい時だったから、もうヒカルからかけてくるな、って言ってしまった」
「仲直りさせる」と言っていた彼女に申し訳なくて下を向いていたが、ジャイーは「意外と電話が来るの早かったじゃない! かけてくるなって言ったのもいい!」と思いのほかニコニコしていたので、拍子抜けした。
「よかったね。これで許すか許さないかの主導権はルイに移ったんだから」
「でも、きっとアイツ今ごろ、女と旅行に……」
「ルイ、とっても怖い顔してるけど大丈夫?」
熱が出ている間、ひどい頭痛と寒気で眠れなくて、何度もヒカルのことを考えていた。ここ数日の間にいろいろなことをメチャクチャにしてしまって後悔せずにはいられなかったからだ。
ジャイーと一生懸命考えたことも、聞いてもらえなかったし、なんだかそれでますます怒らせてしまったようだった。もしかしたらヒカルは、俺の様子から、やっぱり何かを隠そうとしていると見抜いてしまったのかもしれない。
ということは、許してもらうにはレオとの間で起こったことや、どんな会話をしたのか、その時俺が何を思っていたのか、全てを洗いざらい話すしか方法がない、と熱にうなされながらそんなことを考えていた。
たぶん、電話とビデオ通話で一回ずつ話した様子から考えると、ヒカルは「すみませんでした。その時はほんの少し相手のことを好きになってしまいました。でも、もう全然好きじゃないです。相手のことは大嫌いです。お願いだから許してください」とでも言わない限り絶対に俺を許さないんだろう、という気がした。けれど、俺はレオのことを悪く言って許してもらいたいなんて思わなかった。
向こうはそう思っていないかもしれないけど、レオは俺にとって大事な友人だった。ゲイであることを悩む人からカミングアウトを受け、話をしたのは初めてだった。車に乗れと言われた時は、ヤバイと思ったし途中まではずっと後悔していたけど、別れる時には話せてよかったと確かに思った。
レオと話をして誰もが自分のセクシュアリティを上手く消化できているわけではないということを知った。俺自身、ヒカルと付き合っていて、悩んだりすることもあるわけで、そういう部分をほんの少し共有出来る相手が出来たような気がした。
レオが帰国する前日のホテルの部屋で起こったことはやりすぎたと思っているし、思い出すのも恥ずかしいから、あまり考えないようにしているけど……でも、忘れることは出来ない。ヒカルにそうしろと言われたって「嫌だ」と言い返したかった。
もう、レオにしてやれることは何もないうえに会うことも出来ないけど、ジャイーの言っていた「誰にも変えられない記憶」として、レオが俺を好きだと言っていたことは忘れないでおこうと思っている。
「テメーみたいな男のなり損ないは、一発ヤらせろと言われた。俺は、始めから終わりまでずっと不快で気分が悪かった。酔っていてその時は溜まっていたのもあって、セックスのことをしつこく聞かれた後、オナニーするように言われた。我慢が出来なかった」
レオに「必ず言え」と言われた言葉だ。やっぱりこんなことは言いたくない。「酔っていて」より後ろはいいけど、「ずっと不快で気分が悪かった」は特に言いたくなかった。
もっと俺だけが悪く聞こえてかつヒカルが納得するような説明は出来ないのだろうかと、考えてはみたけど思いつかない。どうやったって、ヒカルに矛盾点を探されて突っ込まれる。
俺が100%悪いけど、自分自身だけじゃなく友達のことをすごく悪く言わないと許してもらえないのはどうしても納得が出来ない。
そもそもヒカルは自分が女の家でしたことは「俺は自分のために浮気をしたからお前よりは悪くない」みたいな言い方をしていたけど、よくよく考えたらそれだっておかしいんじゃないか? と思う。「俺だって自分がそうしないと気がすまなかったから、あの夜部屋に着いていったし、俺も自分のためにそうした。ヒカルと同じだよな?」って言い返されたら絶対に納得しないくせに。
というか、俺がこうしてどうやったら仲直り出来るか考えている間も、旅行に連れていく女を探しているか、或いはもうすでに女と一緒に計画を立てているんだろうと思うと、本当に腹が立つ。
ヒカルは女を自分の手足のように使うことになんの罪悪感も覚えないだろうし、そういう女を上手く見抜く力を持っている。名前は忘れたけど……、とにかく行きたい場所だけを伝えて「あとの計画は考えといて?」とでも言い、宿泊場所の予約とか移動の段取りとか面倒なことは全部女に手配をさせるはずだ。
「一緒に行ってくれる? 嬉しい」と優しい顔で笑いかけた後、ぎゅっと女を抱きしめているところが容易に想像出来た。
どうして、俺への当てつけで女と簡単にセックスが出来るんだろう。それを知って俺が嫌な気持ちになるってわかっているのに、それを確かめるかのようにわざとそういうことをやってくる。俺とレオのことを聞いて腹を立てたはずなのに、平気でやり返してくる神経が理解出来なかった。
あんなにヒカルに許して欲しいと思っていたのに、時間を置いて考えれば考えるほど「アイツはおかしい」という考えで頭がいっぱいになり、療養中なのに眠れなくなった。
◇◆◇
「まあ、本当に旅行に行くか行かないかは別として、ああ言われたら腹が立つね」
「どうせ、行くに決まってる」
「行かないよ。ルイにあなたは振られたって私言ったと思うけど、あれ嘘だから」
「は?」
「彼……寂しくてルイに構ってほしいんだろうな、と思って。ルイに追いかけてほしくて堪らなくて、ああいうことを言うんだろうね……。今頃『あんなこと言ったのにどうして何も言ってこないんだろう?』って、慌ててるよ」
「はあ……」
歌うような調子で滑らかにヒカルの心情を説明した後、ジャイーは肩を竦めた。それじゃあ電話してくるな、って言ったのは正解だったんだろうか。べつに、駆け引きとかではなく、単純に体調が悪くて、そう言っただけなのに。
翌日は昼前から夕方にかけて一時的に熱は下がったものの、バイト先に「風邪をひいたので休みます」と電話をした途端にまた調子が悪くなり、夜になる頃にはまた高熱がぶり返していた。
体中が熱の膜に包まれているみたいに熱くなっているのに、布団をかぶっても寒くて堪らない。とにかく眠りたくて、横になって眠気がやってくるのをジッと待っていた。
ようやく、ウトウトし始めたころ枕元でスマホがブーブー鳴り出した。「せっかく眠れそうだったのに」とイライラしながら画面を確認するとヒカルからの着信で一気に眠気が吹き飛んだ。
昨日は俺も体調が悪かったし、ヒカルからも連絡は無かったけど、なぜ今日になって電話をしてきたんだろうか。
今日は具合が悪い、話したくない、と感じて電話に出ることが出来なかった。それでも、しつこく鳴り続けるから、なんとなくただごとじゃないような気はした。
「国際電話は通話料金が高いからヒカルからかけるな」とあれだけ言ったのに……と思いながら、一度切って、俺からかけ直した。
「なに」
「何の用だ!」と怒鳴ってやりたかったけど、声が出なかった。
「あ、ごめん、寝てた……?」
「起きてたけど……」
正確には「眠りかけてたけど」だが。意外にもヒカルの声色は普通、というかどうかしたらいつもより弱々しい感じがした。ほんの一瞬「ん?」と思ったけど、そんなことよりも、自分がヒカルの声を聞いた途端、もともと熱で潤んでいた目から涙がほんの少し溢れたことに動揺した。スマホを一度枕もとに置いてから、ヒカルに気づかれないように鼻を啜り涙を拭った。泣いているなんて絶対に知られたくない。
「ルイ、俺、本当に女と旅行に行っちゃうよ?いいの?」とまだ揺さぶりをかけられたわけでもないのに、ムカつくのと悲しいのとで、これ以上ヒカルと会話を続けたくなかった。
きっと、今日何か話をしたとしても熱で頭が回らないから言いたいことの半分も言えないで、またヒカルに上手く丸め込まれてしまうか、「やっぱりヒカルはわかってくれない」ってもっと落ち込むようなことになってしまう。
「ルイ?」
「……ヒカルと話すのしんどいから、しばらくヒカルの方からかけて来ないでほしい。ごめん」
「えっ?」
「どうしてそんなことを言うの?」とでも言いたげな驚いた声に腹が立った。お前が女のところにまた行くとか言うからだろうが、と言ってやりたかった。今は熱があるから無理だけど下がりしだい言う、と決めた。女と旅行中だろうが関係ない。必ず俺の方から電話をしてやる。
「……わかった。電話してごめん。じゃあ、もう切るね」
ヒカルに対して「しんどい」なんて言ったことはなかったから、さすがにショックだったのか、暗くて弱々しい声でそう言ってから、電話が切れた。
その後で、そういえばもうすぐ役員面接があるって言っていたなということを思い出した。もう終わったのだろうか、結果は出たのだろうか、それがすごく気になったけど、頭が割れそうなくらい痛くてそれで考えるのをやめた。
ヒカルにあんなことを言ったからなのかわからないけど、翌朝には熱が下がっていて嘘みたいに体が軽かった。
「それで、二日間ほったらかし。就活中に酷いことを言ってしまったからそれが気になるけど……」
「いいんじゃない? 彼ももう大人なんだしちゃんとやってるよ」
大人なんだしね……、とヒカルの顔を思い浮かべた。見た目は俺よりもずっと大人っぽいし、一見すると落ち着いてるようだけど、俺のことになると信じられないことを平気でやる。
オーストラリアに出発する前、子供の頃みたいに顔をぐしゃぐしゃにして泣いていたのを思い出した。
「だいたい今までの人生、ルイと付き合ってない期間もちゃんと生きていたでしょ?」
「まあ、それはそうだけど」
「俺とケンカしたから、就職試験が駄目だったって? バカヤロー、そんなので仕事なんか務まるかっ、って言ってやればいい」
なんのアニメや映画で見て覚えたのか知らないがバカヤローだけはなぜか日本語だった。……それもそうか、という気もした。でもヒカルはなんだかんだ気は強いしプライドも高いから、這ってでも役員面接には行くだろう。
ジャイーは「俺は休業中だとでも言えばいいよ」とさらに続けた。
「ほったらかしにしているのが気になるなら、営業再開日は何月何日、オーストラリア時間朝九時からです、ってメールでも送っといたら?」
「……そうだな。休業中のフリーダイヤルも教えとかないと」
実際にそんなメールを送ったとしたら「なにこれ、休業ってどういうこと?」と電話が鳴り止まなくなるだろう。
「とにかく、もう元気になったから、俺が悪かったとこは謝って、それで……女と旅行に行くとかそういうことをするのはやめろって言う。
もし、またそういうこと言うなら……勝手にしろって言うしかない」
「そこは、別れる、嫌いになるじゃないんだ」
「……今回は俺も悪いから、ちゃんとわかってもらうまで話す。俺と付き合うにしてもそうじゃないにしても、人を試すようなことはもうすんな、自分だって苦しいだろって伝えないと……」
ジャイーの前だから「アイツは責任を持って俺が改心させる」と強気な口調で話し続けていた。自分の中にはそういう気持ちもあるんだろうけど……、本音はやっぱりヒカルのことが好きだから、ちゃんと話をして仲直りがしたかった。
ケンカ中で、ムカつくと思っているのにふとした時に、スカイプで通話中に、いじめられているのか、とか、ちゃんと食事をしろ、と心配されたことを思い出す。
もう俺の頭の中に出てくるな、バカ! と思っても、ゼネコンに受かるために一生懸命やっていたこと、自分の夢に対して熱い思いを持ってること、「やっぱりヒカルは俺の憧れだ」と感じた時のことは、どんな時でも忘れられない。
とにかく、今度はこの間みたいに冷たくされても嫌なことを言われたとしも、絶対に負けるか、という気にしかならなかった。とことん休んで熱からすっかり回復したからなのか、お腹いっぱいオージービーフを食べたからなのか、エネルギーに満ち溢れている。
ヒカルはたぶん俺が強気に出れば、始めはそれを上回る迫力と威圧感で逆ギレしてくるかもしれないけど、旗色が悪くなると平気で嘘泣きもしてくるだろうと思えた。本人に確認したわけではないが、たぶん、アイツは簡単に涙を流せるし、顔の筋肉の動き一つ一つも自分の思う通りにコントロール出来る。一切表情を変えないで、スーっと綺麗に涙を流してるのを見たことがあるから、これは間違いない。
「そういうことじゃなくて、俺がしたいのはちゃんと話すことだ! お前もそういう卑怯な手を使うのはやめろ!」と何回でも言ってわかってもらうしかない。
とりあえず、怒る以外にもちゃんと言うべきことを整理しなければ。就活中の大事な時に裏切るようなことをしてゴメンということと、熱があったからって冷たくして悪かったってこと。俺はまだヒカルが好きだけどそっちは? と聞かないといけないし……。
ヒカルに考えなしに真正面からぶつかるんじゃなくて、落ち着いて準備してから挑むようになっているのはジャイーのおかげだろうか。ヒカルは「ルイらしくない」って嫌がるかもしれないけど、それでも、誰かの力を借りるってすごい、としか思えなかった。どんなにケンカをしても一人で考えてお互いの力だけで解決しないといけなかった頃に比べたら、ずっといい。
「そういえば俺さ、ウインターホリデー中にバイトをやめるかも、しれない……」
散々、ヒカルの話を聞いてもらってまだ話し続けるのは気が引けたけど、止められなかった。
ジャイーは食欲が戻ってきたのか、フライドポテトをモグモグと租借しながら頷いている。
話してもオーケーということなんだろうか、と判断した俺はバイトを辞めたい理由を説明した。
日本料理のレストランだけど、従業員のほとんどは中国・韓国人で、客も日本人はほとんど来ない。英語を話す機会が多いのは気に入っているし、まかないの巻き寿司は持ち帰っても構わないと言われているから食費は浮くから助かっている。
けれど、他の店と違って客から貰ったチップは全部オーナーに取り上げられるからもう何百ドルも損している気がすること、現金払いの給料はどう考えても最低賃金を下回っていること、ホールとキッチンスタッフの仲が悪いこと等。
日本人のオーナーも「誰が雇ってやってると思ってる?」が口癖で、熱で休むと言ったらただただ怒られて罵倒された。オーナー自体がそもそも気分屋で眠いとか飲みすぎたとかそういう理由で不機嫌になって無茶なことばかり言うから店の雰囲気が悪い日も定期的にある。
ジャイーはあっさり「辞めたらいいじゃない。ワーキングホリデーの人もたくさんいるだろうし雇う側も人が辞めるのに慣れてるよ。全然、大丈夫」と言った。
確かに、俺が働いている数ヶ月の間に、いきなりバックレて来なくなったアルバイトは二人いたけど、オーナーはそれぞれに一度電話で「制服を返すか制服代を払え」と言っていたくらいだから、ジャイーの言う通り従業員に辞められることについては慣れているのかもしれない。
「うん、そうだな。そう思う……」
「次に働くところが見つかるか不安なの?」
「そう。本当はローカルジョブで働きたいけど、ジャパニーズレストランくらいしか、すぐに雇ってくれるところがなくて……」
「どうしても見つからなければ、大学の人で誰かアルバイトを紹介してくれる人がいないか、一緒に探そう。あれだけ人がいれば一人くらい見つかるよ」
「ありがとう」
「すぐ辞めなさい。なんなら、今日で辞めると言ったっていい」とジャイーは言っていたけど、さすがにそれは出来ないと思ったから、雇用契約で決められている二週間後に辞めたいです、と切り出すことにした。
新しいアルバイトが見つからなくて、結局似たような店で働くことになるかもしれないのが不安だったけど、今受けている扱いを我慢し続けるということと、どっちがマシかと考えた時、せっかくこんな所まで来たんだから怖がらないで挑戦することの方が正しいような気がする。
一生懸命英語で話しても、通じなかったこともあったし、訛りが酷いとか下手くそだって言われ続けた時もあったけど、諦めなかったんだから、絶対出来る。
「そういうしんどいと思っていることもカッコ悪いなんて思わずに、彼に言ってみたら?」
「……もし、仲直り出来たら言ってみる」
「今、休業すれば仲直りできるよ。せっかくだから、どこか遠出したら?」
現地の人みたいにパブでステーキを食べながら、「ルイ、ニッポンのAsahiがあるよ」とジャイーが見つけてくれたビールを昼から飲むのは楽しかった。ジャイーだけがスーパードライで、俺はバイトがあるから、ノンアルコールビールだったけど。ジャイーはパートナーのユーハンとこれからネイルに行くと言うので、店の前でそのまま別れた。
ウインターバケーション中だし、ジャイーに勧められたように本当はメルボルンとかブリスベンまで一人でフラッと行きたい。けれどバイトもあるし、あまりにも無計画過ぎる。だから、結局シドニーからは出られそうにない。
…それにやっぱりヒカルのことが気がかりだった。ジャイーは「ルイと付き合ってない期間もちゃんと生きていたでしょ?」と言っていて、一度はそれに納得したけど、やっぱり心配だった。
今までの高校・大学受験は俺と一緒にいるのが目的だったと言っていたから、俺なんかよりずっと頭のいいヒカルはきっと一生懸命にならなくたってこなせていた。むしろ、力を持て余して退屈していただろう。
ヒカルが受けているというゼネコンをホームページや、就活サイトの口コミでこっそり調べてみたら、単独で売上高は一兆円を超え、百年を超える歴史を持つ、日本中の建設会社の中でもスーパーゼネコンと呼ばれる企業だということがわかった。ホームページで公開されている業績ハイライトや施工実績を眺めていると、「えっ、この建物やダムもやってるんだ」って本当に驚いた。何千億という規模のお金と何千人もの人の力を合わせてプロジェクトを成功させているすごい会社だった。
当然働いてる人達はエリート集団なわけで過
去の内定者の学歴を見ていたら、俺達が通う大学の名前もあったけど、それよりも遥かに高学歴で有名な大学の名前が目立った。…正直よくこの中で、最終選考まで残ったな、と思った。
たぶん、ヒカルが初めて、自分の全力かそれ以上の力を出さないと受からないし、もしかしたらそうしたとしても結果は出ないかもしれない。
もちろん調べていれば、週休二日とは言っているが週六日働くなんてザラ、長時間の残業等……正直、俺だったらあんまり働きたくないなと思うような過酷な労働環境も目に留まった。
入社しても数年以内に離職している人だってそれなりにいるようだ。ヒカルだって、当然それは目にしているだろうけど、それでもやりたいとしか言わなかった。
ヒカルが初めて自分で見つけてきたやりたいことは、途方もなく大きくて、身体を壊すんじゃないかほんの少し心配でもあったけど、今までどおり一番近くで見ていたかった。
今日、オーナーにはアルバイト辞めるって伝えて、明日はヒカルと話そう。どっちも後悔がないようにやるしかない。
バイトまで時間を潰そうと駅に向かって歩いていたら、日本人の観光客を見かけた。男性二人組で手を繋いでいる。道に迷っているみたいで、二人がしきりに口にしている店の名前はさっきジャイーと行ったパブだった。
どちらも俺より二十歳は年上だろうし、一人はサングラスをかけていてちょっと見た目が怖い。そもそも声なんかかけられたくないかもしれないしで、どうしようか迷ったけど「あの!」と思いきって声をかけた。「そっちがここだって言ったんでしょう!」と言い合いながらスマホを上下逆さにして地図を見ているから。二人とも究極の方向音痴に違いなかった。
「その店、道を渡ってショッピングセンターに向かって十分くらい歩いたところです。交差点のところの……入口はわかりにくいけど、看板が出てます」
「十分? あー、やっぱりさっきの駅で降りた方が近かったじゃん!」
「え? どう考えてもこっちの方が近いよ」
また揉め始めたので「どっちで降りても変わらないです」と本当のことを言ったら二人とも肩を竦めた。髭を生やしている渋い方の人が「食べたことある?」と俺に聞いてきた。
「さっき友達と行きました。美味いし、ビールとステーキで合わせて十四ドルで奇跡的に安いです」
「嘘! 安ーい!」
「ありがとー、バイバイ!」と手を振って別れる時も手を繋いだままだった。俺もありがとうございます、と密かに思っていた。
日本では男どうしで付き合ってる人は今のところ身近には一人もいない。俺とヒカルのロールモデルになる大人はどこにもいなくて、これから起こる「男どうしで付き合っている」ということで起こる苦労や困難をずっと二人だけで何とかしないといけないと思っていた。
もしかしたらそういうお店に行けばいるのかもしれない。けれど、そもそも自分をゲイと言っていいのかもわからない状態で、そういうコミュニティーに気軽に「入れてください」なんて言うことは気が引ける。
でも、いた。きっとあの二人だって日本では窮屈に生きているのかもしれないし、そうじゃないのかもしれないけど、ずっと年上の大人でも好きあっている男どうしで一緒にいた。
もし、ゴメンってヒカルに言って仲直り出来たら、将来のことってどう思う? と聞きたかった。俺はずっと考えているよ、ヒカルが好きだからって伝えたらヒカルの柔らかい笑顔が久しぶりに見れるような気がしていた。
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