幼馴染みが屈折している

サトー

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仲直り

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 連絡もよこさずヒカルは何日も姿を現さなかった。「どこいんの」「返事しろ」「電話出て」と送ったメッセージには返信どころか、既読すらつかない。
 俺がいない間にこっそり部屋に戻って荷物くらいは取りにきているのでは? と思ったけど、どうもそんな痕跡もない。未読無視状態のまま、一方的に送り続けたメッセージが三十通を超える頃には、ヒカルと連絡を取ろうとすることも、見つけることも諦めてしまった。主が家出をするという訳のわからない状況で、ヒカルが帰ってくるのをただ待っている。

 一度、ヒカルと同じ建築学科の人を見つけた時に、ヒカルが大学へ来ているのか聞いたら「学校? フツーに来てるよ」と言われた。ヒカルが俺と一緒でなくてもいつも通りのちゃんとした生活を送れていることが結構ショックだった。

 ひたすら避けられて途方に暮れている間も時間はどんどん過ぎていく。何か手がかりはないかと考えていると、ふと、ヒカルが俺のパソコンをちょくちょく使っていたのを思い出た。今どこにいるのかわかるような情報が残っていないか検索ワードや閲覧ページの履歴を調べてみることにした。
 古い日付から遡ると「オーストラリア 留学」「オーストラリア 時差」「オーストラリア 治安」「オーストラリア 行き方」と検索していたようだった。合間にオーストラリアでコアラが触れる場所がないか調べていたり、俺の通う大学周辺の地図を眺めていたり、楽し気に情報を収集している様子も見えた。
 それなのに、その後は、「恋人 留学 寂しい」「留学中 浮気される」「遠距離恋愛 浮気」といった言葉ばかりが続いて、「本当に馬鹿だなー……」とパソコンの画面を見つめながら思わず呟いてしまった。

「留学中に浮気をする人は多いです」「解放感」「罪悪感を感じない」といった記事ばかり読んでいたようだ。頭がいいはずなのになんでこんな事を信じるんだよ、本当に馬鹿だ、と腹を立てながら目を擦る。ついには、「恋人 留学 寂しい」「自分ばかり 好き」「恋人 依存」なんて、検索履歴も見つけてしまった。それは葛藤してもがいたヒカルが俺の心につけていった爪痕のようで、火傷したみたいにチリチリ痛んだ。

 ◇◆◇

あと、三日でオーストラリアへ出発するという日、フラッとヒカルは何の前触れもなく戻ってきた。
 その日、俺は一限の講義に間に合うよう朝早く家を出て、日が沈む頃に帰ってきた。すると、薄暗い部屋の中でヒカルがぼんやりと座っていた。一体、いつ何処からどうやって帰ってきたのかはわからない。だけど、その顔は遥か遠く離れた場所から歩いて戻ってきたのかと思えるくらい憔悴しきっていた。

「……帰ってたのか」

 聞こえるか聞こえないかくらいの声でそう尋ねるとヒカルは力無く頷いた。俺はヒカルが何か喋るのを待ったが、一向に口を開こうとしない。

「どこ行ってたんだよ」
「……べつに」
「……俺、もうすぐ向こう行くから」
「そう、やっと俺から離れられるからよかったね」

 ひどく投げやりな態度でそう言われて、完全に頭にきた俺は、ヒカルを無視して風呂に入ったり夕飯を食べたりすることに決めた。話し合う気はないようだから、ヒカルなんかいないように振る舞って放っておけばいい。
 料理をする気にはとてもなれなかったので、カップラーメンを用意した。だけど、それを一口食べた瞬間、いつもは食欲をそそる脂とコショウの混ざった独特な風味とか、安っぽく縮れた麺の食感に吐き気がしてしまい、ほとんど口にすることができなかった。動揺していると知られたくなかったのに、激しくむせて咳きこんでいるところを見られてしまった。

 仕方がないからまだ小さな子供だって起きている、という時間だったけどさっさと横になることにした。ヒカルがいなくなってから毎日ろくに眠れていないし、脱いだ服も片付けてないし、とにかく疲れ果てていた。ヒカルがどこで寝るかなんて俺の知ったことではないし、そもそもまた出ていくのかもしれないし、もうどうだっていい。
 ベッドを背もたれにしてフローリングの床にべたりと座り、ぴくりとも動かないヒカルを無視して、俺はベッドのど真ん中に寝転び部屋の電気を消した。

 すると、ヒカルは俺の方へそろそろと近づいてきた。わりとすぐに動いたな、と思い目を開けると、ベッドに上体を凭れさせて俺のことをじっと眺めている。
 無視しよう、と俺が迷わず思った瞬間に、すすり泣くような声が聞こえた。
 自分でもビックリするくらい冷静にリモコンで部屋の照明を点けた後、俺はヒカルの顔をじっと眺めた。両目からハラハラと涙が零れ落ちている。一本一本が繊細な睫毛が濡れていて、ヒカルの白く輝く、きめの細かい肌の上を水滴が滑らかに落ちていく。

 それは、例えるなら女優の泣き顔だった。
 顔の筋肉を一切動かさず、涙だけを綺麗に流し続けるヒカルを見ても、全く俺の心が動揺することはなかった。

 わかっていた、たぶん嘘泣きだろうと。

「泣けばすむと思ってんのかっ!」

 急に俺が起き上がって怒鳴ってきたことに対して、ヒカルは驚いて、大きく目を見開き、「え?」と聞き返してきた。けれど、その声は全く震えていない。
「泣いて甘えればどうせ許してもらえるだろう」というヒカルの魂胆が見え透いていて、許せなかった。

「おい、泣けばすむと思ってんのかって、聞いてんだよ! どうせ、ずっと女のとこにいたんだろ! 信じらんねー……お前最低だよ」

 耳から入ってくる自分の声を聞きながら、これは本当に俺が発したのだろうか、と思う。しん、とした部屋の空気が張り詰め、そこに怒声の残響が残っていた。

 一番口にしたくなかったことを言ってしまった。

 ヒカルが女の所にいたことはもちろんショックだけど、フラッと訪ねていっても何も言わずに何日も家に置いてくれる女がヒカルにいるということに、一番俺は傷ついている。その女と寝たかそうでないかはどうでもいい。というか、たぶん寝たと思う。

 ヒカルは俺と付き合うことになって、「女は全部切った」と俺に言っていた。俺はそれを信じるけど……一度、関係を絶った後でも、簡単にヒカルを受け入れる女は、たぶん、いくらでもいる。

「お前、俺にいつも浮気すんなとか言って自分は女のところに行ってんじゃねーか! 聞いてんのか? 何とか言えよ! ヒカル!」
「ごめん……」

 それだけしか言わないヒカルに本気でムカついた。女のことについては何も言わないのがズルい。頭がよく、察しのいいヒカルは、そのことに対して何を言っても俺が納得しないのをわかっているから、黙っている。その態度はひどく不誠実だった。

「久しぶりに女と寝て気持ちよかったか? 俺だけだって言ってたのに……嫌になったらすぐ女に逃げやがって! いつもそうやって保険をかけ、俺を高みから見下ろして安心しているんだろ? お前は卑怯だよ!」

 ヒカルはか細い声で「違う」とだけ言い、力なく項垂れた。俺はヒカルの後頭部を見下ろしながら、思いつく限りの言葉でなじり続けた。

「なんで、今日帰ってきたんだよ? もう俺はお前の顔なんか見たくなかった……! そのままオーストラリアに行きたかったのに……。俺にとって大事な日なんだよ、わかるだろ!? もう俺のことをこれ以上引っ掻き回さないでくれよ! 俺はお前なんか……」
「ごめん……。ごめん……」

 ヒカルが伏せていた顔を上げた瞬間ぎょっとした。顔をぐしゃぐしゃにして、声をあげて泣き始めたからだ。その表情は子供の頃に見た泣き顔と同じで、未だにこういう泣き方をするのかと思ってしまった。ヒカルは手を伸ばして、俺にすがるかのようにしがみついてきた。

「おい……」
「ごめ、ごめんなさい……」

 謝りながら号泣しているヒカルはボロボロで、俺が今まで見てきた「なんでもできるヒカル」が少しずつ涙と共に剥がれ落ちていくようだった。
 ヒカルはいつだって、どんなことだって上手くこなせていたし、自身に満ち溢れていてかっこよかった。今、俺の目の前にいるヒカルは弱々しくて、今にも溶けて無くなってしまいそうだった。

「俺、ルイが好きすぎて……。やっと付き合えたのに、ルイといるとおかしくなる……。本当はもっと普通にしたいのに。あの日、駅でルイが俺の聞き取れない言葉で男と話しているのを見た時も苦しくて堪らなかった。知らない国で、知らない人と仲良くなるのを見せつけられたみたいで、怖くなって、俺……」

 そう言いながらヒカルはわんわん泣いた。本当はもっと怒鳴ってやりたいことも問いただしてやりたいこともあったけど、ヒカルが本気で泣くから、それが出来なくなってしまった。

「……泣くなよ、話、出来なくなる」
「ルイ、ごめんなさい……許してください……」

 みっともなく泣いて、謝り続けるヒカルはすごく惨めで、見ている俺の方も胸が痛くなった。自分でも甘いし馬鹿だと思うけど、「ヒカルがかわいそう」という気持ちで心が埋め尽くされていくのがわかる。それに、俺ももう楽になりたかった。これ以上続けると本当は言いたくないことをもっと言ってしまいそうだった。

「ヒカル……お前、自分の方ばっかり俺のこと好きだとか言うけど、お前の方こそ、俺のことなんか全然考えてない…。ヒカルはただ、好きだとか側にいろとか言うだけで、全然……」

 俺はヒカルの頭にそっと触れながら言った。髪はサラサラとしていて、いつもより柔らかく、触り心地がいい。それだけで、ここにいない間にどんな生活を送っていたかがわかって、俺は胸が潰れるような気持ちになる。

 ヒカルはそういうことにきっと気づいていない。

 俺だってヒカルのことをちゃんと見てるつもりだし、ヒカルのことでちゃんと傷ついたりするのに。

「俺はどうやったらヒカルとずっと一緒にいられるか考えてるのに……お前は全然将来のこととか考えてくれねーじゃん! 俺は留学して、ちゃんと就職して、お前と対等にずっと暮らしていきたいのに……なんでわかんないんだよっ! このままだと俺達、ほんとにダメになるぞ……」

 頭の中にもう一人自分がいて「泣くな!」と俺に命令している。奥歯が粉々になりそうな程歯を食いしばった。

「俺、ルイがそんなふうに考えてるって知らなかった。ルイに今この瞬間愛されるためだったら、どうなってもいい、どんな手を使ってもいいとか、そんなことばっかりで……。ごめん……。もう嫌いになった……?」
「……そんなこと言ってない」

 ヒカルは潤んだ目で俺を見つめている。たぶん、素っ気ない返事じゃなくて、ちゃんと言葉で伝えてほしいと思っているのかもしれない。俺の方が許す立場だったはずが、いつの間にかこうやってヒカルの表情を読み取って何を欲しがっているのか考えないといけない状況になっている。

「ヒカルみたいに一生懸命相手を追いかけるのも愛情だとは思うけど……俺は俺でお前のことちゃんと考えてるよ」

 ヒカルは涙をようやく拭って、鼻をスンと鳴らした。涙で濡れている両頬へ手を伸ばすと、濡れてひんやりとしていた。

「もうこれから先何があっても、俺から逃げるな。俺とケンカしても……俺の知らないどこかへ行ったりするな。心配するだろ」

 また、ヒカルの目に涙が滲んだ。
 ヒカルは俺と違って、ハッキリと愛情を表現されるのをとても喜ぶ。こういう言い方が正しいのかわからないけど、女のようにストレートな言葉を望んでいる。

 ◇◆◇

「俺はお前が帰ってくるまでずっとずっと連絡を無視されても、ここで待ってたんだから、ヒカルも俺がいなくても一年くらい我慢しろ」
「……はい」

 言いたいことは全部言ったし、ヒカルもしおらしくなったので、俺は「じゃあ、俺もう寝るから。おやすみ」と言ってそのまま横になった。さすがにもう出ていかないだろうから、気持ちの分だけ端によってヒカルの寝るスペースは空けている。

「……そっちに行ってもいい?」
「いいも何もお前のベッドだろ……」

 俺が呆れてそう答えるとヒカルは嬉しそうに、ベッドへ潜り込んできた。自分の冷えた足先を俺に絡ませて暖をとろうとしたり、背中に擦り寄ってきたり、さっき泣いていたのが嘘のようにいつの間にかいつものヒカルに戻っている。

「……仲直りしたい」
「今、さっきしただろ」
「したくない……?」

 ヒカルが俺の足の間に膝を割り込ませてくる。ヒカルの言う「仲直り」が何を指しているのか、俺だって子供じゃないから嫌でもわかる。
「やめろよ」と身体を押してみたけど、ヒカルは楽し気に笑った後「ルイはしたくないの?」と甘えるような声を出した。さっきまであんなに泣いていたのに、どうして数分も経たないうちにエロい女みたいに、俺を誘惑出来るんだろう。そう呆れる気持ちもあったけど、したいかしたくないかで言えばしたかった。

「俺、ヒカルがいない間ずっと眠れてなくて……だから、たぶん一回しか出来ない」
「寝てないの? ごめんね……かわいそう……」

 コイツ、本当にかわいそうだと思ってるのか?と疑いたくなるくらいヒカルの声はうっとりとしていて嬉しそうだった。本当は寝ずに心配していたことを、ヒカルは一番言わせたかったのかもしれない。
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