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ケンカ
しおりを挟む「ルイ、今日ご飯行こう。終わるまで待ってる」
昼前に届いていたヒカルからのメッセージに気付いたのが、今日最後の授業、五限目が終わった後だったので、慌てて電話をかけた。
かなり時間が空いてしまっていたのに、怒るでもなく「ルイの学科のとこの入り口にいるよ」とのんびりした口調でヒカルはそう答えるだけだった。よかった、ヒカルからの連絡に気がつかないで帰る、なんてことにならないで、と胸を撫で下ろしながら待ち合わせ場所へ急いだ。
階段をピョンピョンと飛ぶように降りて、入り口の方へやって来たけど、ヒカルの姿はどこにも見当たらない。
五限目終了後の構内は人もあまりいないし、普段ヒカルは座っていても立っていても目立つ。場所を移動したんだろうかと思いながら、スマホをリュックから取り出した。アドレス帳のヒカルの電話番号をタップしようとした時、意外な場所でヒカルの後ろ姿を見つけた。
建物から出て少し離れたとこにある、学生向けの掲示板の影に隠れるようにして立っている。そうっと近づくと、こちらには背を向けて立っているヒカルの正面に、女子がいるようだった。
人を呼び出しておいて女といるなんて。まさか、俺と待ち合わせてるのを忘れてないだろうな、と疑いながら、誰と一緒にいるのか知りたくて気付かれないように覗き込んでみた。すると、女の方が涙をボロボロ流していたのでちょっと面食らった。
「ヒカル君、ひどいよ…!私以外にも女がいるなんて」
「……はあ」
聞きながら心臓がドッドッと嫌な音を立てていた。これ以上聞いてはいけない、と思ったけど、立ち去る時の足音でバレるんじゃないかと思うと怖くて一歩も動けなかった。
ヒカルはイラついているのが丸わかりなため息を大袈裟についている。
「その子にバラしてもいい? 私とも付き合ってたって!」
「やれよ」
ヒカルは全く動じていないようだった。ハッタリとかではなく本気で言っている。背中に定規でも入れてるのか、と思うくらい真っ直ぐ堂々とした立ち方で女子を見下ろしているから、顔を見なくてもわかった。
「べつに、勝手にすれば。まあ、そんなことをされても俺は絶対にお前のこと好きにはならないけど」
「ほんとにやるからね!」
「あいつから見たらお前が浮気相手だし、恨まれるのもお前。傷つくのも結局お前だけど、それで良ければ好きにしろよ」
ヒカルが冷たくそう言うと、ワッと声をあげて肩を震わせて女子は泣いた。化粧が落ちるとかそういうことも気にせずにごしごしと涙を拭ってから、俺のいる方とは逆方向へ走っていってしまった。……この前学食にいた子と違う子だった。
ヒカルはそれを追いかけるどころか、目で追うこともせず、いきなりこちらを振り返ったので、俺は思わず悲鳴をあげそうになった。
「おー、ルイ、来てたんだ」
まるでさっきのことなどなかったかのように「行こ。なに食べる?」と平然と歩きだそうとする。その態度に「おい、大丈夫かよ!」と俺の方が大きな声を出してしまった。
「え、なにが?」
「いや、彼女泣いてたじゃん!」
ヒカルは周囲をちらっと気にした後、「場所変えよう」と俺の肩にそっと手を乗せた。俺もこんなところで言い合ってるとこを人に見られて、非常識な奴らだと思われるのは嫌だったから、それに頷いた。
あまり人が寄り付かない、学内の寂れた広場まで二人で歩く。ボロボロの木製のベンチの前まで来たけど、座った瞬間に壊れそうだったから、腰かけず立ったまま話した。
「あー……。まず、彼女じゃないし、もう関係ないから」
「じゃあ、なんなんだよ? なんで、あんなに……」
いったいどういう関係ならあんなにボロボロ泣くんだよ? と尋ねると、ヒカルはめんどくさそーに「単なるセフレ」とぼそっと答えた。
「ああいう、生意気そうな考えなしにものを言うタイプもたまには良いかなと思ったけど……期待した俺がバカだった」
まるでチョコレートとかアイスクリームの新作を一口だけ口にした後「新しいのが出ていたから買って食べたんだけど、あんまり美味しくなかった」と言うくらいの気軽さでヒカルはそう言い放った。
「そういうふうに、女のこと……モノみたいに扱うのはやめろよ。お前相手の気持ち考えたことないのか?」
「……はあ」
俺の言葉にカチンと来たのか、いつもは温厚なヒカルが、心底うざったそうな顔をした後「そうだとしても、ルイには関係ない。俺と女との間のことだ」とこちらを睨み付けてきた。この前なんかよりも、ずっと怒っている。
美形の奴は怒ると迫力がある。だから俺はヒカルのそういう顔を見るのが苦手だった。
ヒカルが本気でキレるのを見るのは、たぶん中学の時以来なので若干怯んだけど、ここまで来たら俺も後には引けなくなっていた。
「ずっとそういうことをしてきたのか?」
「ああ、するよ。だいたいあっちから頼んできてるんだし、何か悪いかよ」
今までずっと一緒にいたのにヒカルがそこまでやさぐれていたとは思ってなかったから、ガンと頭を殴られたようなショックを受けた。
平野が言う「ヒカルだって男なんだし」の意味を考える。適当に女で遊んで、泣かせるのが男なんだろうか。だとしたら、心底気色悪い。
ヒカルにそうであって欲しくない、と思うとギリギリと胸が痛んだ。かっこよくて、なんでも出来て、モテるのが当たり前で、女には夢中になりすぎないけど、ちゃんと優しい。だから、みんなヒカルのことが好きになる。俺の中でのヒカルはずっとそういうイメージだった。
「早川の友達のヒカル君、本当にかっこいいよね」と言われる度に俺は嬉しかったし、一回も否定したことなんて無かった。ヒカルはいつも俺の憧れだったから。
「お前、女がめんどくさいなら、もう誰とも付き合うなよ。合コンにも来るな」
「俺はそうしたいんだけどね」
こんな話をしてる時でも「女が俺を放っておかないんだ」とでも言うように、薄く笑って肩を竦めてみせるヒカルを見ていると、さっきの女子の大泣きした顔が頭に浮かんで胸がムカムカと嫌な気分になる。ヒカルは俺のそんな変化を見逃さず、あえて挑発するかのように微笑んだ。
「あの女がどうやって俺に言い寄ってきたのかルイに全部教えてやりたいよ。それ以上のことも……」
俺を見る冷たい視線は蛇の目のようだった。自分が言ったことに対して俺がどんな反応を示すかじっと観察している。
「お前にはわからないよな、だって女を知らないんだから」と言われている、と思う。俺だって「それ以上」のことがだいたい何を指しているのかはわかる。経験したことがないだけで。好意とわかっていて、それを受け取ったのに、非情なふるまいをするヒカルが酷いってことくらいもわかる。
「俺はあの子の気持ちがわかるよ。ヒカルが好きだから、自分だけを選んでほしいって思うの当たり前だろ。どんなに酷い扱いだってわかっていても、ヒカルが好きだから我慢出来るんだろ。違うか?」
俺がそう言うと、ヒカルは目を見開いた後、唇を戦慄かせた。肌からは血の気が引いている。ヒカルが首を二回、三回とゆっくり横に振る。髪の毛先がそれに合わせて繊細にサラサラと揺れた。握って掴んだ分だけ折れそうだった。
「俺は、絶対に選ばれない」
まるで、自分に言い聞かせるかのように、ヒカルはゆっくりとそう言った。ヒカルが、ゆら、と近付いてきて俺を見下ろしている。高いところからものすごく不機嫌そうにこっちを見ているのに、俺にすがるような不思議な目付きだった。
「あの女の気持ちはわかるのに、俺のことは、全然わからない……?」
「わからない。だって今のお前、変だよ」
「変」という言い方が適切な表現なのかは、わからない。「前のヒカルじゃない」や「変わってしまった」の方が良かったんだろうか。ヒカルは、俺の言ったことに納得がいかないのか、眉間に皺を寄せて顔をしかめた。
「俺、間違ったこと言ってるか?」
「……ルイはいつでも正しいよ。ルイが正しいなら俺は間違いで……、ルイは間違ってる俺が嫌なの? それとも間違ってる俺と一緒にいる自分が嫌なの?」
ヒカルの質問に上手く答えられなくて言葉に詰まった。どっちと答えるべきか。俺はただ、めちゃくちゃに誰かを傷つけることを止めて欲しかった。
なんで、そう思うかと言うと、ヒカルは一番の親友で、俺はずっとそんなヒカルみたいになりたかったわけで、ヒカルがそんなふうだと、ヒカルみたいになりたい自分を否定しないといけなくなるわけで……。そうしたら、結局ヒカルのためではなくて、俺は俺のためにヒカルに怒っている、ということなのだろうか。違う、そうじゃない、俺はヒカルにちゃんとして欲しいだけだ。
「答えられないね」
諦めたような顔でヒカルはそう呟いた。いつもはわりとおっとりしている方のヒカルが、今日は待ってくれない。「もう行く」とそのままヒカルは立ち去ってしまった。
俺は後を追うことも出来ずしばらく立ち尽くしていた。呆然としながらも、今駅に行ったらヒカルに会うかも、だから時間を潰さないと、とかそういう判断は冷静に出来ている。
なんで、こんなことになってしまったんだろう。「俺、間違ったこと言ってるか?」とさっきヒカルに聞いたけど、俺はどこかで何かを間違えたからこうなったんだろうか。「お前にはわからないよな」と言いたげなヒカルの視線を思い出す。
温かい食べ物よりも冷たい食べ物の方が好き、目薬をさすのが下手、虫が苦手なこと。兄弟がいないのを子供の頃は寂しく思っていたこと。
ヒカルについて、山程知っていることがあるのに、大人になると一緒にいるだけじゃわからないことが出来てしまった。
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