親愛の手触り

サトー

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親愛の手触り

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「ヤギ族の子供って可愛いなあー……いでっ!」

 窓にかじりつくようにして外を眺めていたら、頭をべしっとはたかれた。痛いよ、と後ろを振り返ると友人のセナが呆れ顔で立っている。

「ただジロジロ盗み見るだけならギリギリセーフだが、マイロ、お前みたいに可愛い可愛い言いながら、わなわなしてるのは完全にアウトだぞ」
「えっ!? 俺、そんなことしてた!? ……でもさ、ヤギ族の小さい子って本っ当に可愛いんだよ! 俺達、オオカミ族と違って細っこくて、泣き声なんか弱々しくてさあ……」
「……お前、よくそんな気色悪いことを平気で口に出来るな。そのうちバレて捕まるぞ」
「大丈夫。捕まらないように、コッソリ見てるだけだからさ!」
「やっぱり、一回捕まった方がいいぞ、お前」

 捕まって独房に閉じ込められるのはゴメンだ、と俺が言うのも無視してセナは「会計」と伝票を押し付けてきた。
 いつも注文するロブスターの半身焼きウニソースと、豆腐ハンバーグ200グラム。メイン料理を頼むとセットで勝手についてくるパンとポタージュスープ。それに一杯のビール。……配膳する時にちょっとだけ溢してしまったせいで、ビールは俺の奢りということになっている。
 同じオオカミ族の友人であるセナは、金曜日の夕方に、俺のバイト先であるレストランにフラッとやって来て、食事をしながら他愛も無い話をして帰っていく。

「……お前って、いつかヤギ族のメスに泣かされそうだよな」

 受け取った金を古くてボロいレジスターに力ずくでしまっていると、セナがボソリと呟くのが聞こえた。

「んー? ヤギ族の可愛くておとなしい優しい彼女……特に白ヤギなら大歓迎だよ?」
「バッカ、お前。ヤギ族のメスなんて、ヤりまくってるくせに『あたし初めてなの』なんて平気で嘘をつくんだぜ。ほら、あの……オオカミ族とヤギ族の種族混合アイドルなんて、ヤギ族のメンバーがしょっちゅう週刊紙に撮られてるじゃねえか」
「それは……。ヤギ族かどうかなんて関係ないだろ。オオカミ族のメスにだって、浮気者はいる……」
「お前には俺がオオカミ族のメスを紹介してやるから、それまでおとなしくしてろ」

「やれやれ」と言いたげな様子で肩を竦めるセナを、なんだよう、と睨み付けるとむこうもこっちを鋭い目つきでジッと見つめてきた。オオカミ族のくせに体格に恵まれなかった俺は、話す時はいつもセナのことを見上げている。身体がデッカくて堂々としているセナはいかにもオオカミらしいが、小さくてちょこちょこ落ち着きのない俺はそうじゃない。クールな顔つきのセナと違って、俺は目が丸っこいせいで、ちっとも強そうに見えない。
 そのせいで子供の頃は、公園の遊具やオモチャの奪い合いに俺はいつも負けていたし、こうやって大人になっても友達からはバカにされる。
 
「まあ、ヤギ族のメスと付き合う夢を見るのは自由だけどよ」
「当たり前だっ! 昔と違って、今は種族の壁を越えてヤギとオオカミで愛し合ってる連中もたくさんいるだろ? 俺もああなりたいなー……」
「……お前、なんにも知らないんだな。ヤギ族の連中がどんな汚い手を使ってオオカミ族のことを骨抜きにしてるか聞いたことないのか?」
「汚い手? なんだよそれ? なんで、お前はヤギ族の女にそんなに詳しいんだよ? もしかして、俺に内緒でヤギ族の女を作ってたな!? そうなんだろ!?」
「はあ……」

 これ以上余計なことを言うと俺も捕まっちまうからな、とセナは「汚い手」について詳しくは教えてくれなかった。
 ヤギ族のメスは余りにも弱々しくて可愛いから、単純なオオカミ族の野郎共が勝手に骨抜きにされているだけに決まっていた。どうせフラれて逆恨みしたオオカミ族の男が「アイツ等は清純そうに見えてビッチ」とか適当なことを言っているのが、容易に想像出来る。なんて情けないんだろう。
 男も女も控えめでおとなしいヤギ族が「汚い手」なんて使えるわけがない。
 
 セナには「何も知らない」と呆れられたけど、可愛くて優しくて弱々しいヤギ族の彼女を守ってあげることが、俺の今一番叶えたい大切な夢だ。
 ヤギ族のお嫁さんを貰って、奥さんそっくりの可愛い子供が産まれたらどんなに幸せだろう……。好みのタイプはどちらかと言えば白ヤギの子だけど、べつに気が合えば耳と尻尾の色が黒だろうが茶色だろうが、どっちだって構わない。耳も尻尾も髪の毛も真っ白な俺のことを「いいかもー」と思ってくれるような子だったら俺はそれで……。

「ああっ! セナ! お前と話してる間に、保育園のお迎えラッシュの時間が過ぎちまったじゃねえかっ!」
「……お迎えラッシュ?」
「この店を少し過ぎた所に種族混合の保育園があるんだよ! 十八時半が閉園時間だから、みんな延長料金を取られないように十八時半ギリギリにこぞって迎えに来て……。この店の前を通るヤギ族の園児を眺めるのが俺の唯一の楽しみなのにーっ! クソッ!」
「やっぱり、お前は一度逮捕されろ。いつか、事件を起こすんだから、べつに今捕まっといても問題ないだろ」
「なんでだよ!?」

……逮捕されるようなことどころか、もう何年もヤギ族にまともに触ったことすらない。
 小学校からずっとオオカミ族だけの学校に通っていたし、今働いている店だって、オオカミ族向けのシーフードと豆腐料理のレストランだ。
 一番の友人はセナで、一人で暮らす家の近所に住んでいるのも狼族の男ばかり。この状況でどうやってヤギ族の恋人を作る? なんだか俺だけ、オオカミ族とヤギ族の交流が完全に途絶えていた時代に生きているみたいだ。

 遥か昔、俺達のご先祖がまだ獣だった頃、オオカミとヤギは狩る側と狩られる側にハッキリ分かれていた。
 それが「留守番中の六匹の子ヤギをオオカミに食べられた母ヤギが、熟睡中のオオカミの腹を切り裂いて子供達を救出。その後、オオカミの腹に石を詰めて池に沈めた」というショッキングな事件が起こったことで、俺達オオカミ族とヤギ族の関係は少しずつ変わっていったのだという。

 ごく稀に、狩りに失敗して返り討ちに合うことはあっても、今までオオカミにとってヤギは「獲物」でしかなかった。そんな獲物からやり返されるなんて、きっと夢にも思っていなかったのだろう。「アイツ等はキレると何をやり返すかわからん」と俺達オオカミ族のご先祖は怯え、一時は「やられる前にアイツ等ヤギをやってしまうか?」という話も出ていたらしい。
 けれど、結局種族どうしの争いはせずに、オオカミ達はなるべくヤギには近付かないようにして過ごしていた。俺達のご先祖であるオオカミはとても慎重な生き物だから、万が一負けた場合自分達の存続が危うくなる種族をかけた全面的な争いというのをなるべく避けようと様子を見ていたのかもしれない。

 ご先祖であるオオカミ達の判断は正しかった。そこからオオカミとヤギはどちらも少しずつ進化を遂げ、ほぼ同じ時期に獣の姿を捨てた。お互い牙や角をなくし、獣だった頃より早く走ることも出来なくなり、五感がずっと鈍ってしまった代わりに、鳴き声ではなく言葉を使い同じ文化を持つようになった。

 耳や尻尾だけはオオカミもヤギも獣の頃のままだから種族の違いは一目でわかる。あとは、オオカミ族の方が少しだけ体が大きくて力が強くて……、ヤギ族はスラッとしていてサラダばっかり食べる。俺がすぐに思いつく違いはそれくらい。ヒトとほとんど変わらない姿になったオオカミとヤギは今では争うこともなく、ちゃんと共生している。
「一滴でもヤギの血を舐めたオオカミは獣に戻る」「混血の子供は弱く、早死にするから同じ種族とだけ一緒になるべきだ」とかいう古い言い伝えを信じて異種族の交流を避けるお年寄りもいるけれど……。一番の都市には両種族が入居可能のマンションがいくつも建っていて賑わっているし、種族混合の学校だっていくつもある。

 つまりは、諦めずに出会いを求めていれば俺にだってヤギ族の恋人を作るチャンスはいくらでもあるわけだ!

 子供の頃はオオカミ族しか住んでいないような山奥に家族で住んでいたから、通っていた学校にはヤギ族の子供なんて一人もいなかった。……高校はオオカミ族とヤギ族両方が通う有名校を受験したけど、頭が悪いから不合格だった。仕方なく、オオカミ族の野郎ばかりが通う工業高校を出て、卒業してからはオオカミ族ばかりの住む治安の悪い村で一人で暮らしている。
 本当はヤギ族もたくさん暮らしている都市部に早く行きたい。だけど、そういう洗練されたお洒落で治安のいい場所は家賃が高い。だから、今はボロくて汚い家で節約をしながら、引っ越すためのお金を貯めている。

 セナからは「いずれ俺の親父の会社で雇ってやるし、俺がオオカミ族の女も紹介してやるから心配すんな」と言われている。
 それが自分にとって良いことなのかどうかはわからない。アルバイトをしてプラプラしている今の状態に比べたらずっといいのかもしれないけど……。それって、セナを頂点とした群れの一部になるってことなのかなー、なんだか獣だった頃に戻るみたいだ……とモヤモヤしてしまって、今は知らんぷりをしている。
 
 バイトの後、帰り道でヤギ族とオオカミ族の若いメスが仲睦まじげに歩いているのを見かけた。
 二人とも、白のスニーカーに黒いスカート。手首にはシルバーのブレスレットを付けていて、同じ店のショップバックを持っている。耳と尻尾はそれぞれ違うのに、双子みたいにそっくりな格好をしていて微笑ましい。
 
俺にもヤギ族の友達が欲しい、とこんな時切実に思う。

 子供の頃、両親からは「お前は人一倍ガサツなんだから、なるべくヤギ族の子供には近付くな。泣かせたり怪我をさせたりするから」と言われて育ってきた。確かに俺は子供の頃、公園でヤギ族の子供を追いかけ回して泣かせた事や「ヤギさんだ! 一緒に遊ぼうよ!」と興奮しすぎて遊具から落っこちた事だってある。
 でも、どれも乱暴して傷つけようとしたからそうなったんじゃない。ただ、ヤギ族と仲良くなりたかっただけだ。
 一番欲しいのは彼女だけど、欲を言えば俺と同じ年くらいのオスのヤギ族とも友達になりたい。いろいろなことを話してみたいし、一緒に遊んでみたい。

 今はもう大人だ。ちゃんと自分とヤギ族の力の差だってわかっているし、怖がらせないよう優しく慎重にリードすることだって出来る。
 ヤギ族の恋人が出来たら、オオカミ族のオスらしく俺がどんなことからも守ってやりたいし、うんと大切にして幸せにしてやりたい。

 そんなことを夢見ていた時だった。近所にヤギ族の男が引っ越してきたのは。

◇◆◇

 俺が暮らすボロい家から二つ離れた先にある、これまたボロい空き家にヤギ族の青年がたった一匹で越してきた。

 引っ越してきた日に、チラリと後ろ姿を見た。同じ男なのに、今にも折れそうな程細い腰に、スラリとした手足。顔は見えなかったものの、サラサラとした柔らかそうな黒い髪に、黒くて柔らかそうなピョコンとした耳。なんて儚げで、美しい、いかにもヤギらしい青年なのだろう……と余りの衝撃に俺はよろめいた。

 自分自身が住んでいる場所についてあまりこんなことは言いたくないが、この辺りは貧しい狼族のゴロツキばかりが住んでいてとにかく治安が悪い。俺の家の前にスナック菓子や空き缶といったゴミがポイ捨てされているなんて、しょっちゅうだ。……家はボロだから、幸い空き巣に入られたことはないけど。
 いったいどんな事情があるかは知らないが、こんな場所にたった一人でやって来て、さぞかし不安だろうと思うと心配で心配で堪らなくなった。

 そうだ、引っ越しの挨拶に行こう、とすぐに俺は閃いた。
たぶん、普通は引っ越して来た方が挨拶に行くんだろうけど、狼族の家を一軒一軒回るなんて、か弱くて怖がりなヤギ族である彼には、とても大変なことに決まっていた。

「はじめまして! 俺はマイロ!いい狼だからどうか安心して欲しい! もし、困ったことがあったら、なんでも俺に言っていい! 働いている店はすぐ近くのシーフード料理の店。オオカミ族向けの店だけど……グリーンサラダも置いてあるんだ! もしよかったら、一度寄ってみてほしい! それから、えっと、あの……よかったら、俺と……、と、友達になって欲しい……」

 感じのいい挨拶を考えてみたけれど、伝えたいことがありすぎて、とてもじゃないけど上手く話せる気がしなかった。
 バイト先の店長からは「給仕は雑だけど、声が大きくて元気がある」と褒められるから、大きな声でハキハキ挨拶をした方がいいと思い込んでいたけれど、よくよく考えてみたら、デカイ声であれこれ喋りすぎたら、怖がらせてしまうかもしれない。

 散々迷って「はじめまして。俺はマイロ。これからどうぞよろしく」というシンプルな挨拶だけして帰ることにした。きっと、引っ越してきたばかりで疲れているだろうし……。これからちょくちょく外で顔を合わせた時に紳士的な態度でいれば、俺のことを「いいオオカミ」だって、きっとわかってくれるだろう。

 第一印象は大切だ。髪をよくとかして、ちゃんと爪が伸びすぎていないかも確認した。獣だった頃の名残なのかオオカミ族の爪はヤギ族よりもずっと硬くて厚くて鋭い。傷つけたり怖がらせたりしないよう、ヤスリで短く整えた。
 あまり遅い時間に訪ねて行くときっとビックリさせてしまうだろうから、十七時きっかりに家を出た。

 俺の家と同じ、小さくて古い四角い家にはもちろん表札なんか出ていない。もうずっと前から空き家だったため、壁や屋根のペンキがほとんど剥げてしまっている。ホームセンターで安いペンキを買って塗り直したらどうだろう、手伝ったら喜んでもらえるだろうか……、そんなことを考えながら頼りない扉をそっとノックした。

「ごめんください。こんばんはー……」

 明かりはついているのに、家の中からは物音一つしない。もしかして、留守なんだろうか? それとも寝ているとか?
 出直そうかどうか迷っていると、ギギ……と音を立ててドアが少しだけ開いた。

「あ、あのっ……!」

 僅かに出来たドアの隙間に向かって思いきって声をかけてみたけれど、反応がない。ドアも数センチ開いただけで、それ以上はピクリとも動かない。……どこからどう見ても警戒されていた。

「あのっ、俺、この近くに住んでるオオカミ族のマイロっていうんだ! 引っ越してきたばかりで困ってるんじゃないかと思って……! あの、もし困ってることがあったら俺に言って欲しい! えっと、それから……俺は悪いオオカミじゃない! ヤギ族のことが大好きで……も、もちろん変な意味じゃなくて、ふ、普通に、仲良くなりたいとかそういう意味で! 触りたいとか、そういう意味じゃない……、違う、あの、本当にただ友達になりたいだけなんだ……!」

 ドア一枚を隔てた向こう側にはずっと仲良くなってみたかったヤギ族がいる。でも、すごくすごく警戒されていて、心どころか玄関の扉さえも開いてもらえない、という状況で完全にパニックになってしまい、次から次へと余計なことばかり喋ってしまった。

「えーっと! そうだ! 爪! 爪を見せるよ! 俺、オオカミ族だけど、爪も短く切ってきたから安全だ! どうか、俺のことを信じて欲しい……」

 少しだけ開いているドアの隙間に自分の両手を差し出した。中から見えているのかはわからない。けれど、少しでも危ないやつじゃないとわかって欲しくて丸っこい十本の爪を見せようと必死でアピールした。

「おーい……、怖くない、安全な手だよお……」
「ほんとだ。すごく可愛い手だね」
「おわっ……!?」

 ぎょっとするような強い力で手首を掴まれたのは「もう帰ろう」と諦めかけていた時だった。肉のほとんどついてない、骨も静脈もぐりぐりと浮き出ている痩せた手だった。木の根を思わせるその手は、冷たくてずいぶん硬い。

「……やあ。わざわざこんな所まで来てくれたの? どうもありがとう」

 耳に優しい、柔らかくて細い声だった。それに、どうもありがとう、なんて丁寧な言葉を使う男は少なくとも俺の回りには一人もいない。「おう」や「ああ」の一言ですませるような連中ばっかりだからだ。
 本当にヤギ族って、俺達オオカミ族とは違うんだ、ということに驚いて顔を上げると薄黄土色の瞳と目があった。

「入りなよ」
 
 想定外の出来事に固まってしまった俺を見て、男はにっこりと微笑んだ。背丈は俺とほとんど変わらないけれど、首が長くてスラッとしている。入らないの、と男が首を傾げると肩まで延びた黒い髪がさらさらと揺れた。
 ボケッとして突っ立ったままの俺が考えていたのは、果たしてヤギ族はこんなに簡単に見ず知らずの狼を家に入れてもいいのだろうか、ということだった。オオカミ族の俺でもヤギ族の子供が「知らない誰かに話しかけられたら着いていってはいけない。特に知らないオオカミは絶対ダメ」と教育されていることくらい知っている。

「……い、家の中はダメだ」

 やっとの思いでそう伝えたのに、「どうして?」とますます手首を強く掴まれてしまった。そりゃあ俺は安全なオオカミだし、それをわかってもらうために挨拶に来たわけだけど、いくらなんでも最初から密室で二人きりはマズイ。飛ばしすぎだ。

「きょ、今日はアルバイトがあるんだっ! 誘ってくれたのに悪いけどもう、俺は帰らないと……! えっと、これからよろしく。あの、戸締まりは気をつけて……!」

 彼の手をなんとか振り払った後は、走って家まで戻った。バイト先の店は休みで、引っ越しの挨拶をすませた俺には、もうどこにも行くところなんてなかった。嘘をつくのはよくないことだ。だけど、アルバイトがある、と言って離れていなかったら、断りきれずにきっと今頃、俺は彼の家の中に入ってしまっていた。

 もちろん、「入る?」と誘われるかもしれない、ということを想定していなかった俺が悪い。けれど、あの美しい青年はどうして見ず知らずの俺のことを家にいれようなんて思ったんだろう?

 底無しの世間知らず、という考えが頭を過ったが、もしかしたら、両親の教育方針で種族混合の学校を出ているとか、それか養子として迎え入れられたオオカミ族の兄弟と育てられた、とかそういった事情があって、オオカミ族の俺のことを初めから信用してくれたのかもしれない。

 そういった話をするどころか名前さえも聞かないまま逃げ出してしまった。オオカミ族らしくない情けない姿を見せてしまって恥ずかしい。俺の感情としっかり結びついている尻尾も耳もしょんぼりと垂れてしまっている。

 もし外で会うことがあれば、今度は落ち着いて話が出来るだろうか? 今日のことでオオカミ族の変なやつだって、思われていないといいなあ……。そんなことを考えながら掴まれた手首をそっと撫でてみたが、あの痩せた手が温かかったのか冷たかったのかさえ、俺にはよく思い出せなかった。

◇◆◇


 美しいヤギ族の青年が引っ越してきてから一ヶ月近くが経ち俺にはわかったことがある。
 オオカミ族に囲まれたボロい家に一人で暮らしているなんて、あの青年ははどれだけ心細い思いをしているだろう、という俺の心配は全て無駄だった、ということだ。

 引っ越しの挨拶に行った後も、俺は彼のことがずっと気がかりだった。あの時は予想もしていなかったことが起こって、それでビックリして逃げ出してしまったけど、見るからにか弱そうな彼のことをしっかり守ってやるのが近所に住む紳士的なオオカミ族である俺の役目だとずっと思っていたからだ。

 それで、家賃は格安だけど、今日明日には壊れてもおかしくないようなボロい家は大丈夫だろうかとか、押しの強いガツガツしたオオカミ族の男か女に「仲良くなろう」と付きまとわれて困っていないかとか、いろいろと理由をつけては彼の家の周辺を見回った。相変わらずポイ捨てや落書きはひどいし、「鍵をかけていなかったせいでチャリをパクられた」という話も耳にしたが、強盗や誘拐といった話は聞かない。よかった、と安心しつつも「困っているんだ、助けて」と本人から言われないうちは遠くから彼のことを見守っているつもりだった。けれど……。

「こんばんは、マイロ。また会っちゃったね」
「……」
「あれ? どうして怒ってるの?」
「……何時だと思ってる?」

 でっかいため息をつきたい気持ちを堪えてそう尋ねると、「まだたったの二十三時前じゃない」と不思議そうな顔をされた。

「なんでこんな時間に外をうろついてるんだよ! 夜道は危ないっていつも言ってるだろ!?」
「だって、小腹が空いたから。それにそろそろマイロが帰ってくる時間だー、って思ったから今日は散歩をして時間を潰してただけだよ」
「はああ……」

 えへ、と首を傾げて微笑んだ後、彼は肩まで伸ばした長い髪をそっと耳にかけた。その仕草があまりにも自然で、似合いすぎていて、怒っていたのも忘れてつい見とれてしまう。「俺の名前はイトって言うんだ」と言われた時に、繊細な美しさを持つ彼になんてピッタリな名前なんだろう、とビックリしたことを思い出す。

 美しく弱々しいヤギ族の青年。俺はイトのことをすっかりそう思い込んでいたけど、実際のイトは怖いもの知らずで、夜遊びが大好きだ。いつ会ってもヘラヘラしていて、遅い時間から飲み屋や水タバコの店へ出掛けていく。今はグリーンサラダとスムージー専門のカフェで働いているようだけど、ここへ来る前は何をしていたのか聞いたらあっさりと「前職? デリヘルの送迎。でも、お店の女の子がみんな俺を好きになっちゃうからクビになっちゃってさ。参ったよね~」と言われた。
 何をさせても一週間でヘロヘロになりそうな程華奢な体つきをしているくせに、イトは俺なんかよりもずっと夜の世界にも遊びにも精通している男だったのだ。

「ねえねえ、危ないって言うんなら家まで送ってくれる? ここから俺の家までの道は街頭が少なくてすっごく暗いんだよ?」
「……いや、まあ、送るけどさ」
「やったあ~」

 言いたいことはいろいろあったが、口を開くよりも先に長い腕が俺の腕へ絡みついてくる。ベタベタとくっつかれて歩きにくいため余計危ない気もするが、初めて夜道でイトと出くわした時に「離れると危ないよ、俺から離れちゃダメだ」と言ったのは俺の方だから何も言えない。そのまま影のようにべったりとくっついてくるイトを家まで送ってやった。

「じゃあな。鍵をかけて早く寝ろよ!」
「え~? あがっていかないの?」
「……いくわけないだろ!」
「つれないなあ。今度は一緒に夜のお店で遊ぼうね。俺がいろんなとこに連れていっていろいろ教えてあげるよ?」
「いらない、行かない!」

 酒はあまり飲めないし、タバコも好きじゃない。オオカミ族だろうがヤギ族だろうが、お店の女の子はちょっと怖い。
 俺がそう思っているのをわかっているかのようにイトはクスクス笑った後「今夜もありがと」と両手で俺の手をぎゅうっと握ってきた。……送ってやった日はいつもこうだ。そして俺はいつも、この瞬間は体がかちこちに固まって動けなくなる。
「またね、おやすみなさい」と顔を覗き込んでくるイトは俺と同じくらいの身長のはずなのに、上目遣いで見つめられているような不思議な目つきをしていた。女の手と比べたら見た目も触り心地もゴツゴツしている手だったけど、オオカミ族と違って獣だった頃の名残を完全に捨てたヤギ族の爪は、桜色でツルツルしていて、綺麗だ。

 見とれてしまっていたことを気がつかれる前に、イトを無理やり家の中に押し込んでから走って自分の家まで戻る。イトに絡まれた時の記憶をかき消すように、右、左、右、左と一心不乱に地面を蹴って前へ前へ進む。
 面白がってからかわれている、でも声をかけられると嬉しい、本気にしちゃダメだ、本当はもっと仲良くなってみたい……。イトのことを考えながら走っている時、俺の心の中はいつだってぐちゃぐちゃだ。

 家に着いてから、水道を捻って水をがぶ飲みした。何杯飲んでも顔は熱いし、心臓はバクバクと音をたてて鳴っている。

「……バカみたいだ!」

 その両方を静める術を知らない俺は、結局「大きな声を出して気持ちを切り替える」という安易な方法しか思いつかなかった。俺が紳士的で安全なオオカミのオスだから襲われずにすんでいるというのに、からかって誘惑してくるようなイトは本当に本当に大バカ野郎だ!

◇◆◇

 大バカ野郎のイトのことを考えていたせいで昨日はあまり眠れなかった。

 俺の脳みそはなぜかイトにとって都合がいいものに出来ているらしく、「もう二度と相手にしちゃダメだ! 俺はからかわれていいように遊ばれているだけなんだから!」と固く誓った後でも、夜眠る頃になると「マイロ」と綺麗な顔でイトがすり寄ってきた時の事を思い出してしまう。

 きっとアレだ。初めてマトモに接触したヤギ族に対して、俺のオオカミ族としての本能が「絶対絶対逃しちゃダメだ!」と暴走してしまっている。しっかりしろ、獣から進化したんだろ!? と自分を厳しく律しようとすればするほど「また会えたね♡」とヘラヘラしているイトの微笑みが頭に浮かんでくる。
 俺のご先祖のオオカミは生きるために、捕まえて食べようと夢中でヤギを夢中で追いかけていた。獣の姿を捨てた俺は肉を食べないけれど、「ヤギを追いかける」という部分だけがきっと残ってしまったんだろうな……。

「お前、何をぼさっとしてんだ?」
「わあああっ!?」

 アルバイト中、客がいないのをいいことにぼんやりと考え事をしていたせいで、たまたまやって来たセナに「おら、真面目に働け」と絡まれてしまった。

「なんだよー……。人が真面目に考え事をしてたって言うのに」
「あ? お前なんかどうせ何も考えてねーだろ」
「考えてるっつーの!」
「じゃあ何を考えてたのか言ってみろよ」
「えっ? そ、それはアレだよ……。この社会の経済とか政治とかの行く末をいろいろ……」

 ハッ、と俺のことをバカにしたように笑った後、「政治と経済と言っておけば真面目だと思ってるところがすでにバカだよな」とセナはカウンター席に座った。
 従業員への暴言は立派な迷惑行為だと俺は思っているが、常連客で豪快に食事をするセナを店長は気に入っているから出入り禁止にすることも出来ない。渋々薄くスライスしたレモンの浮いた水を注いだコップをセナの席に置いた。

「はあ……。しょっちゅう店に来るなんて暇なのか? ついこの間も来たっていうのに……」
「あ? 貴重な客だろうが。だいたいお前の付き合いが悪いから店にきてやったって言うのに」
「え? いつも会ってんじゃん」

 お互いもういい大人なんだから月に一、二回顔を合わせていれば充分だろうにセナは「休みの日とバイトの無い時間は、お前いったい何をしてんだよ?」とずいぶん不満そうだった。

「教えねーよ。俺だっていろいろ忙しいんだよ。……それよりヤギ族の子を紹介してくれない? こう……強烈な記憶をかき消してくれるような、可憐で可愛いメスを……」
「あ? ……お前まさか俺に隠れてヤギ族と付き合ってるとか、そういう余計なことをしてないだろうな?」
「えっ!? い、いや、べつに? もしそうだったとしてもセナには関係ねーし……というか、そういうお前の方こそ俺に隠れてヤギ族のメスを狙ってんだろ!?」

 コイツ、なんで微妙に勘が鋭いんだよ……ということに若干動揺しながら、なんとか誤魔化すことは出来た。相変わらずセナは「お前には俺がちゃんとオオカミ族のメスを紹介するからおとなしくしてろ」と相変わらずやかましかったが、ちょうど別の客が入ってきたため、「はいはい」と適当に返事をして逃げた。

 セナの言うことを聞いていれば、安定した仕事に就けてお嫁さんももらえる。セナからはずっと「将来は俺もお前もそれぞれ結婚するだろ? そしたらお互いの子供を遊ばせるんだ。それが俺の夢だ」と言われてきた。それになかなか頷けずにいるのは、オオカミ族のメスと結婚することも、一生セナに面倒を見てもらうことも、どちらも全然しっくり来ないからだ。

 ずっともやもやしていることだけど、一番の友人であるセナへはもちろん、俺の両親や祖父母も「オオカミ族は同じオオカミ族と番になって家族を持つのが一番幸せなんだ」と信じている人達だから、誰にも打ち明けられずにいる。

◇◆◇

 閉店後、大量のロブスターとホタテの殻が詰まった蓋付きのゴミ箱を持って店の裏へ出た。

 本当は少しでも早く帰りたいけれど、飲食店にとって店が閉まった後のゴミ捨てや掃除は大事な仕事だから手を抜くわけにはいかない。
 こんなに汚くて大変な雑用を一生懸命やっているんだから、少しは時給をあげて欲しいよな、と思いながら明日の朝業者が回収に来る場所へゴミ箱を置いた後、店内へ戻ろうとした時だった。

「マイロ、マイロ」
「うわああっ!? なんでこんな所にいるんだよ!?」

 えへへ、と物陰から姿を現したのはイトだった。イトとは今まで何度も家の近くで出くわした事はあるけど、バイト先へやって来たのは今日が初めてだ。

「夜に出歩いてるとこを見られたらマイロに心配かけちゃうから……でもマイロには会いたいから昼に遊ぶ約束を取り付けようと思って、それで、来ちゃった」
「あのなあ……」

 わざわざ昼に会う約束をしに、夜訪ねてきたら意味ないだろお……。そんな言葉が口から出そうになったが、目の前で「いいこと思いついたんだ! すごいでしょ!」と言いたげな様子で微笑んでいるイトを見ていたら何も言えなくなってしまった。……イトは夜遊びが大好きで危なっかしいのに、全然言うことを聞かないろくでもないヤツだ。だけど、会えた時に目を輝かせて大喜びする姿は、なんだか子供のように素直で可愛く見える。たぶん、俺のオオカミとしての本能がバグっていて、それでそう感じるんだろうけど……。
 イトが悲しい顔をしている時に出くわしたら、俺も悲しい気持ちになってしまうんだろう。オオカミの本能ってやつは厄介だ。

「ねえねえ、明るい時間にエビを釣りに行かない? マイロはオオカミ族だから、エビが好きでしょう。エビをたくさん釣ってさ、油で揚げるんだ。ころもは何もつけないで、山ほど」
「エビ……」

 肉を食べなくなった俺達オオカミ族にとって、シーフードや卵、豆腐は体を維持するのに必要なたんぱく質だ。でも、マイロ達ヤギ族ははそうじゃない。進化を遂げた後も、ヤギ族は野菜ばかりを好んで食べる。聞いたところによると、ヤギ族の消化器官は進化をするうえでそれほど発達しなかったらしく、野菜や果物意外の食べ物を口にすると、お腹を壊してしまうらしい。

 エビなんか釣ったって食べられないんだからイトの方は楽しくないんじゃないだろうか、それよりもっと別の場所へ行った方がいい、例えばイチゴ狩りとか……。そう答えようとして、俺は自分がイトと昼間に遊びたがっている、ということに気がついた。
 今までずっと、夜は危ないからダメだ、という理由でわけのわからない遊びに誘われても断っていたし、バイトの帰りに出くわした時でもイトをさっさと家まで送ってやっていた。
 昼の明るい時間に一緒に過ごせたらきっと楽しいんじゃないだろうか。そう思うと、なんだか嬉しくなって口元がむずむずする。
 「ああ」とか「うん」くらいは言えていたかもしれない。けれど、こんな時に限ってオオカミ族の若いオスらしいぶっきらぼうな一面が出てしまって、ハッキリとした返事は出来なかった。それでも「良かった」と微笑むイトには俺の心の内がわかってしまっているようだった。


 ◇◆◇

 約束の日は雲一つない快晴だった。季節は夏が終わり秋の始まりで、柔らかい日差しとほのかにひんやりとした風が心地いい。
 前日はイトとの約束を楽しみにしすぎたせいで、眠りにつくまでいつもよりもずっと時間がかかった。よく覚えていないけど、夢にはイトが出てきたような気もする。

 初めてイトの家を訪ねた時と同じように髪をよくとかして、爪を切った。厚くて硬い爪を切るのにオオカミ族はいつも苦労する。人一倍不器用なんだから、ちゃんとネイルサロンで切ってもらえばよかったな、と後悔しながらヤスリで一生懸命爪を整えた。
 ずいぶん早く家を出たから慎重にゆっくりと歩いた。それでも、約束の時間よりずっと早くイトの家には着いてしまった。

「やあ」

 家の中で支度をしているのかと思っていたら、イトは外に出て庭仕事をしていた。摘んでいた花殻を手のひらに乗せたまま、もう片方の手を上げてイトは微笑んだ。真似して「やあ」と挨拶しようと思ったが、どうにも俺には難しい。俺もその友達も、いつだって挨拶は「よう」で済ませてきたから「やあ」はなんだか響きが優しすぎる。
 約束の時間よりずいぶん早くやって来たことも、今目の前でまごつく俺のことも、特に変には思わなかったのかイトは汗を拭いながら「いい天気だ」と呟くだけだった。

「朝から土いじり?」
「うん。俺はこの家を気に入ってるから、毎日手入れをしているんだ」

 そう言われて、まじまじと庭をよく見てみた。ほったらかしで草がのび放題なのだと思っていたが、あちこちで野菊の白い花が咲いている。家の周囲を囲うように生えているツユクサもただの雑草にしか見えないが夏には青い花を咲かせるだろう。鉢植えにはランタナとコスモスが植えられていた。
 空き家時代の「ボロ」というイメージから、イトは不便な思いをしながら仕方なくこの家に住んでいるいるのだとばかり思っていたが、どうやら自分の手で工夫しながら楽しく暮らしているようだった。

「すごいな……。俺なんて、毎週のゴミ出しをするのでさえやっとなのに」
「うーん……。俺は元々、庭仕事や大工仕事が好きだから」
「えっ? そうだったのか?」
「そうだよ。仕事に出来るほどの腕はないけど……。お金を貯めて自分の住み処を立派にするのが俺の夢なんだ」

 行こうか、と促されたのに頷きはしたものの、本当はもっとイトの話を聞いていたかった。ヤギ族ってみんな弱々しくて体力がないと思っていたけど、イトは俺が想像しているよりもずっと逞しいのかもしれない。俺だってヤギ族にとっては「オオカミ族のくせに体も小さくてなんだか弱そう」と思われてばかりで悔しい思いをしてきたのに、イメージだけで決めつけるなんてイトにはずいぶん失礼なことをしてしまった。

「ところでエビなんてどこで釣るんだ?」
「んー? いい釣り場があるんだよ」
「釣った後はどうする?」
「油で丸ごと揚げて食べるんでしょ? マイロが」
「俺、揚げ物なんて作ったことない……」
「えっ! レストランで働いてるじゃない」

 レストランで働いているけど、俺の料理の腕は壊滅的だった。目玉焼きですら焦げて黄身がぐちゃぐちゃになるし、オムレツはいつもスクランブルエッグになる。フライや天ぷらなんて怖くて挑戦しようとも思わない。上手に作れるのはパンにチーズをのせて焼いたトーストくらいだ。
 俺がそう説明しても「まあ、いいじゃない」とイトは笑っていた。

「俺達、これから仲良くなる途中なんだから失敗したって構わないさ」
 失敗したってマイロとならきっとゲラゲラ笑えるよ、とイトは言う。秋の風のようにイトの声はさらっとしていて、耳に優しい。

◇◆◇

 釣り場だという池は、俺やイトの住んでいる場所からそう遠くない自然公園の中にあった。公園は子供と運動する人のための場所だ。俺はどちらにも当てはまらないから、今までろくに近づいたこともなかった。

 周囲を背の高い草で囲まれている大きな池は、ぐねぐねと曲がりくねったり、途中で細くなったり太くなったりして、妙な形をしていた。池の周りではポツポツと誰かが釣りをしている。釣ったエビを食べるのはオオカミ族だけのはずなのに、ヤギ族のおじいさんも水面に釣糸を垂らしているのも見た。純粋に小さな生き物を釣るという行為だけを楽しんでいるんだろうか。
 バケツと木の枝で作った釣竿を持ったイトは迷うことなくずんずん進んでいって、「ここだ」と大きくて平たい岩の上に座った。 

「エビは岩の影に隠れているんだ」
「へー……ずいぶん詳しいんだな、よく釣りに来るのか?」
「ううん。初めて。でも、俺がエビならそうする」

 獣の姿を捨てた俺には狩りというものがわからない。だけど、「俺がエビならそうする」という答えが、なんだかとぼけていて面白く感じられた。

「……イトって面白いんだな」
「よく言われる……ねえ、このさきいかをエサにすればたくさん釣れるよ」

 そう言ってイトは摘まんださきいかを器用に割いてみせた。エビを釣るためにイカを使うというのが、矛盾しているような、遠回りをしているような、妙な気持ちになる。獣だった頃の俺達オオカミは、食べられる時に目の前の肉を迷わず口にしていたからだろうか。

 釣りの成果はあまり良くなかった。どのエビも岩の影から出てきてエサをハサミでつつきはするものの、少しでも釣竿を動かすと逃げてしまうからだ。だから、俺もイトも大半の時間を池のほとりに座って水中を眺めることに費やした。こんなふうに道具を使って、成功するかどうかもわからない狩りに時間もエネルギーも使うなんて、オオカミだった俺のご先祖には考えられないことだろう。
 そんなことをイトと話した。「本当だね」とイトは笑った後、釣竿を揺らしてみせた。

「きっと、俺達はこうやって暇な時間を楽しむために進化したと思うんだ。ぼーっと暇を潰すのにもわざわざ道具を使う」
「……確かにちっとも釣れないけど、悪くない。というか楽しい」
「そうでしょう。それに、獣から進化をしたから、マイロに食べられないで、一緒に釣りが出来る」

 そう言ってからイトは冗談っぽく笑った。もし俺がオオカミだったら、きっとヤギのイトを追いかけ回して捕まえてがぶりと牙をつき立ててていたんだろうか。俺って鋭い爪と牙を失ってもイトを追いかけているんだな、と思ったことが恥ずかしく感じられた。

「……確かに獣のままだったら、イトは俺から急いで逃げたんだろうな」
「んー? べつにマイロにだったらいいよ、食べられても」
「えっ!」

 オオカミ族の俺にとっては笑えないようなキッツイ冗談だった。なんせ、酒の席で酔っ払ったオオカミ族のサラリーマンが悪ふざけで同僚のヤギ族に「お前うまそうだな」と言った翌日には訴えられるような世の中だ。絶対食べられない、とわかっているから、こうやって平気で俺をからかって遊んでいるんだな、と恨めしい気持ちでイトのことを睨んだ。

「いいよ、マイロ。俺を食べて」

 薄い黄土色の瞳をにゅうっと細めた後、イトは俺の耳に唇を寄せてそう囁いた。

「ひぃっ……」
「マイロに俺のことを食べて欲しいな」
「わ、わ、わああっ……!」

 イトの冗談に動揺しすぎたせいで釣り場は悲惨なことになった。釣竿は落としてしまうし、バケツをひっくり返してしまったせいで苦労して釣ったエビ五匹はみんな逃げてしまった。イトは「あーあ」と肩を竦めているし、エビは警戒して岩影にぴゅっと隠れてしまうしで散々だ。

「まあ、少ししか釣れなかったしいいよね。キャッチアンドリリースってことで」

 さっきの出来事は全部、俺の見た幻覚だったのでは? と思うくらいイトはあっさりと道具を片付け始めた。ほっとしていると同時に、なんだか肩透かしをくらったような気分になる。
 近所に住んでいるヤギ族の友達を食べるなんて、冗談でも許されないはずなのに。

◇◆◇

 マイペースなようでいて、イトは少しずつ俺に合わせた付き合い方をしてくれるようになった。特に何かを言われたわけではないけれど、昼間に海やぶどう狩りへ行こうといった、健全で気楽な誘いばかりになった。二人ともあまり金を持っていないから、自然は一番の遊び場だ。古い本や古い服を売っている店をプラプラと巡って時間を潰すこともあったし、お互いの家の手入れを手伝うこともあった。俺にとって、一人では退屈だったり面倒だったりすることも、イトと一緒だと何もかもが新鮮で楽しい。

 遊びの最中に「楽しいな!」と俺が顔を時々覗き込むと黄色がかった茶色い瞳を細めてイトは微笑む。まるで、「マイロはこういう遊びが好きなんだね」と優しく語りかけられているようで、いつだって俺はじんわりと嬉しいような照れ臭いような気持ちになる。

 イトとは時間をかけてお互いのことを話した。ヤギ族の子供を追いかけ回していた俺の子供時代の話を聞くたびにイトは「可愛いねえ」とゲラゲラ笑う。
 イトは自分のことを「七匹いる兄弟の三番目」だと言い「家出少年だった」とさらりと口にしていた。なぜ家出をしたのかについて、あまり詳しくは教えてくれない。代わりに言っていたのは「七匹もいれば一匹くらいは、両親と気が合わない子供だっているさ」「だから、自分で居心地のいい住み処を作るんだ」ということだった。兄弟のいない俺にはよくわからないが、けれど、まだ「少年」とも言える年齢でたった一人で生きていくために、夜の世界で生きていくことを選んだのだろう、ということは察している。

「そっか。でっかい、立派な住み処が作れるといいな。俺も手伝うよ」

 俺がそう返事をするとイトはすごく嬉しそうに笑った。
 イトがあまり話したがらないことについて触れなくても、持っている絵本を貸しあったり、お互いの好物を差し入れしあったりするだけでも、仲良くなるには充分だった。進化はしたと言っても、人間みたいに字がすらすら読めない俺達には絵本がちょうどいい。ちなみにイトは「三びきのやぎのがらがらどん」が一番好きだと言い、微妙に絵や台詞回しが違うから、という理由で何冊も集めている。俺はイトのそういった部分を知る度に嬉しくなって、尻尾を何度もパタパタ振ってしまう。

 ……しょっちゅう一緒にいてくっついているからなのか、イトとはキスどころかもう少し先のことももう済ませてしまっている。初めてのキスは映画を観た帰りだった。どうしても観たい映画がレイトショーでしか上映していなくて、それで、「夜に会うのは初めてだね」とイトはずいぶん嬉しそうにしていた。なぜか、その日イトは俺を家まで送った。どう考えても夜道を一人で歩いて危ないのは俺よりもイトの方なのに「俺がそうしたいんだ」とイトは絶対に譲らなかった。

「やっぱり、俺、イトを送るよ」
「ダメ。だって、俺……」

 俺を送った後にマイロが一人で帰るのを想像するとすごく寂しい気持ちになる。イトはそう言ってごく自然な流れで俺の手を握った。
 こんなことを言って様になるのは、きっとイトだからだ、と思った。俺がそんなことを言ったって、似合わなくて笑われてしまうだろう。いいな、イトは。照れているのを隠すようにそう笑いかけるとふいにイトの顔が近づいてきて、それで……。

「……俺はマイロのことが好きだ」
「へ……」
「俺はオオカミ族じゃない。ヤギのオスだ。だけど、マイロのことが本気で好きだ」

 キスをされたのか、と呆然としている間にそんなことを言われて、俺は返事も出来ずに固まっていた。イトはそんな様子を見てふっと微笑んだ後「帰ろう」と促すように俺の肩を軽く叩いた。返事は特に求められなかったけど、家まで送り届けてもらってからイトには「俺も、好きだ」と伝えた。同じ言葉が使えるのは便利だ。たった一言で気持ちを交換出来るのだから。

 それからは二人きりの時はベタベタとくっついて過ごすのが当たり前になった。……初めて体に触りあって裸を見られた時は恥ずかしくて死んでしまうかと思った。
 イトの家の古いソファーの上で俺は捕まえられた。弱っていたからとか、油断していたからとか、そういうわけではなく、ただイトとくっついていたい、という気分でいたらいつの間にかイトの腕の中にいた。
 イトは俺の体に触れながら「オオカミ族の体はよくわからないな」とクスクス笑っていた。

「いやだっ、くすぐったい……」
「オオカミ族はどこが感じる? 教えて……?」

 胸を撫で回されてそれどころじゃなかった俺は何度も首を横に振った。イトのすべすべした手は、俺の胸をゆっくりと揉んで、くすぐるように胸の先を摘まむ。進化をして、人間と同じような指を手に入れたから出来る触り方だった。こうやって愛し合うために、俺達のご先祖は獣の姿を捨てて進化をしたんだろうか? と思ってしまうくらい、イトに触れられると気持ちがいい。

「じゃあさ、マイロがいっぱい感じる場所を教えて?」

 誰にも体に触られたことのない俺には、答えを口に出すのが憚られるような質問だった。それで、口をつぐんだまま固まっていると耳にそっと唇で触れられる。くすぐったいだけじゃなくて、それから身体中の血がじわじわと熱くなっていくような感覚。「よく聞こえるいい耳」としか思っていなかった場所だった。こんなふうに、体に力が入らなくなって、ぐにゃぐにゃになってしまうなんて、俺も知らなかったのにどうしてイトには簡単にわかってしまうのだろう。

「好きだよ」

 そんな囁きに俺が出来たのは「うう」と唸るだけだった。口を開けば妙な声が出てしまいそうで恥ずかしかったからだ。
 言葉を話せない獣のような俺のことを押し倒した後、イトは俺の全身を甘やかした。唇は一つで、腕は二本しかないはずなのに、横向きにされた体を後ろから抱き締められていると、身体中が気持ちよくてたまらなかった。うなじをちゅう、と吸われながら両方の乳首をすりすりと指の先で撫でられる。それだけでも頭がぽーっとしてしまうのに、イトの足が俺の身体にしっかりと絡みついていて、お尻には硬くなったペニスが押し当てられている。

「んうっ、ううっ……」
「可愛い、可愛いマイロ」

 子供を作るためじゃなくて、ただセックスがしたいからそうしている俺達を見たら、獣のご先祖はどう思うだろう。とてもバカげたことをしていると思われるんだろうか。

「んぅ、ん……すき、イト、すき……」

 快感を求めて舌を絡ませるような深いキスをしながら「好き、好き」と甘える様子はイト以外の誰にも見せられない姿だ。セックスをするために、違う種族のオスと抱き合っている、と思うとなんだかクラクラする。性欲に突き動かされて、もっともっと欲しい、とイトに絡みつく俺の格好は隙だらけでだらしがない。

「……いつか、マイロのここで俺を食べてね」

 イトの細い指が尻の穴に触れている。何を、とは聞かなくてもわかっていた。怯えながらぷるぷると首を横に振る俺を見てイトはクスクス笑った。

「……きっとすごくおいしいよ。マイロの心の準備が出来たらその時はたっぷり味わってね」
「あっ……!」

 おいしいから食べて、と何度も言い聞かせながら、イトは俺のペニスを扱いた。もう片方の手で乳首を摘ままれて、頭の中では、気持ちいいとおいしい、が無理やり結びつけられてだんだんわけがわからなくなってくる。身体の中に性器を取り入れることをイトは「食べる」と言っているのだろうけど、何も知らなかった心と身体がじわじわと塗り替えられていく感覚に、俺の方が食べられているみたいだった。きっと俺は、「食べて」とペニスを挿入されてしまう頃には、イトに何もかも食べられてしまうのだろう。

「ああっ、いく、いくぅ……やだあっ……!」

 誰かの腕の中で絶頂を迎えるのは初めてだった。握りしめた手のひらに深く切った爪が食い込んでいた。

「舐めて……」

 達した後の余韻でぐったりしていると、胸を触っていた方の手をイトは俺の口元へ近づけた。細い人指し指が、口の中へ突っ込まれる。その行為の持つ意味もよくわからないまま、傷一つない真っ白な指をペロペロと舐め回した。牙のない俺にイトはそのまま歯を立てろと何度も迫った。

 それだけはマズイ気がして抵抗したが、イトは俺の耳元で「少しでいいから、がぶって、噛んで」と甘い声でねだる。怖々歯を立てると、勃起したペニスが何度も尻に擦りつけられた。本当にセックスをしているみたいに、イトの下腹部が何度も俺の体に叩きつけられる。痛いはずなのに、イトはどうして興奮しているんだろう。わけのわからない状況に、目に涙を滲ませながら、とうとう俺はイトの指を強く噛んでしまった。つぷり、とイトの皮膚を裂く生々しい感触に鳥肌が立つ。これは愛し合う行為として正しいのだろうか。迷っている間に、口の中が不思議と潤っていく。俺の中にも獣だった頃の本能が残っていたのか、鉄臭くてうまくないのに、イトの血を舐めているとボーッとしてきて、身体の力が抜ける。

「うっとりしてるね。頬も赤くなってるね、可愛い……」

 イトにそう言われても、俺は自分の頬が熱いのか冷えているのかさえわからなかった。乳飲み子のように夢中でイトの指をぺろぺろと舐めながら思ったのは、もう二度と離れられない、ということだった。

◇◆◇

「俺のご先祖達は、一瞬で交尾をすませるんだ。だから、こうやって長い時間愛し合えるのは進化のおかげだね」

 裸の胸に抱き寄せられたままうとうとしていた時に、イトからはそんなことを言われたも一瞬って? と首を傾げる俺にイトは「一秒」と答えた後、口の端を上げて笑った。

「……それで上手く子供は出来るのか? というか、どうしてそんなに急ぐ?」
「ぐずぐずしてると君らオオカミに襲われちゃうからね。交尾中も油断が出来ないってこと」
「ええ……」

 俺のご先祖はそうだったかもしれないけど、狩りなんかしたことのない俺にそんなことを言われても困る。そんな俺を見て、ヒヒ、と俺を笑った後、イトは俺の額にぐりぐりと自分の額を押しつけてきた。

「なんだよお……」
「マイロは? しない?」

 するわけないだろお、と俺が顔を背けてもイトは力を込めて何度も額を擦りつけてきた。
 あとで調べたら、それは獣の頃から続くヤギ族の求愛行動の一つだった。求愛されていたのか、と一人でいる時にそっと額に触れてみると、じんわりと熱いような気がして、照れ臭い気持ちになった。
 今までには感じたことのないときめきや幸福だった。浮かれるに決まっている。それなのに、どこで嗅ぎ付けて来たのかセナがイトとのことで俺にイチャモンをつけてくるようになった。

「ヤギ族なんかとチャラチャラ遊んでる場合か。お前は俺の親父の会社に就職して、オオカミ族のメスと結婚するんだろうが。まったく……」
「そんなこと一度も約束してねーだろ、バカじゃねーの」

 バイト終わりに待ち伏せをされたと思ったらこれだ。未来の自分の会社で働く人材を確保したいなら、俺じゃなくてハローワークへ相談に行けばいい。普段俺のことをバカ呼ばわりするくせにそんなことも知らないのかよ、と呆れながら早足で歩いていると「待て、行くな」と腕を掴まれた。

「やめろよっ! お前の親父さんの会社のことは俺には関係ないだろ」
「親父の会社? お前こそ何を言ってんだ。いいか、あのヤギ族のわけのわからない野郎とはもう二度と会うな」
「はあ? なんでそんなことお前に言われなきゃならない?」
「薄々気づいてんだろ? こんな所に一人で越してきてフラフラしてるなんてどう考えても訳ありだ。アイツ、ここに来る前は、デリヘルの送迎をやってたらしいが、車にヤギ族やオオカミ族のメスを乗せて運ぶのだけがアイツの仕事だって、お前本当に信じているのか?」
「やめろ! そういう話しはするな!」
「ハッ、やっぱり肝心なことは何も知らねーじゃねえか。店の女が逃げないように何をしてたのかアイツに聞いてみろよ」
「いやだ、聞きたくない! それ以上言ったら殴るぞ!」

 セナとは普段、些細なことでも言い合ってばかりだが、こんなふうに怒鳴り合うのはずいぶん久しぶりだった。
 俺だってもう子供じゃない。セナがイトについて何を言いたいのかはだいたいわかる。わかっているし、時々「イトはいろんなメスとそういうことをしたのかなー……」と想像するととても嫌な気持ちになることだってある。けど、イトがいない所でそのことについて話したくはなかった。

「マイロ、お前だってもう大人なんだからわかるだろ」

 黙り込む俺の心の内を読んだのか、セナはさっきとはまるで違う穏やかな声で諭すように語りかけてきた。

「アイツはオスのヤギだ。お前とは子供は作れないし家族にもなれない。なあわかるだろ? 大人になればオスのオオカミ族は自分の家族を持って、一生をかけてそれを守っていくのが普通だ。みんな立派なオオカミ族のオスであるためにそうしてる。お前の両親だってそれを望んでる」
「だから……お前の会社で働いて、お前の連れてきたメスと結婚して、家族を持って、それで、一生お前の群れの一部として暮らせって?」
「そんなことは言ってないだろ。ただ俺はオオカミ族のオスにとって当たり前のことを言ってるだけで……」
「そんなこと頼んでない! 俺、お前の探してきたオオカミ族のメスとは結婚したくない。なあ、わかるだろ? 好きでもない相手と一緒になったって幸せになんかなれっこないって」

 どうしてこんな簡単なことがセナにはわからないんだろう? 怒りで頭がぐらぐらする。もし俺もセナも今とは違って獣のままだったら、きっとセナの言うことが正しいんだろう。体が小さい俺はきっと弱くて狩りの成功率も低いだろうから、セナのおこぼれのメスと子供を作って群れを大きくしていくことでしか役に立てないし生き残れない。

 でも、俺もセナもイトももう獣じゃない。俺は子孫を残して群れを大きくするためだけに生きているわけじゃないし、イトだって獲物じゃない。将来のことはわからないけど、イトと過ごす時間が今の俺にとっては何よりも大切だ。それを取り上げられるくらいならセナの言う「立派なオオカミ族のオス」になれなくたって構わなかった。

「マイロ、よく考えろ。ヤギ族と結婚したいなんて、あれはな、子供が見る夢だ。実際、違う種族で一緒になった連中はみんな苦労してる。同じ言葉は使えても、体の作りは違うし、わかりあえない部分が多い。アイツと小さな群を作ってそれで一生を終わらせるつもりか?」
「……同じ種族でもわかりあえないことばっかりじゃないか」
「アイツのことはもう諦めろ。お前の幸せはアイツと一緒にいることじゃない。……俺はなマイロ。俺の子供とお前の子供を一緒に遊ばせるのがずっと夢だった。休日に子供が遊んでるところを二人で眺めて、それで、お互い嫁に『また行くの?』って文句を言われながら飲みに行く。ありふれてるけど充分だろ」
「……それ、それは俺じゃなくてお前の夢だろ?」

 自分でも「俺ってこんな冷たいものの言い方が出来るのか」とビックリしてしまうような冷ややかな声だった。セナが驚いたように目を見開く。

「……俺で勝手に夢を見るのはやめてくれ」

 セナがお互いの子供を遊ばせるのが夢だと言っている気持ちが嘘じゃないことくらいわかっている。だけど、大人になって、いよいよ結婚して家庭を持つ適齢期が近づいてきて、「立派なオオカミ族のオス」を求められるのが、俺はだんだん苦しくなっている。

 きっとセナは心の底からそんなふうに生きることが正しいと信じているし、それに適応出来る。けれど、どうやら俺はそうじゃない。セナに変に期待をさせ続けてしまうくらいなら、ここでキッパリと伝えておいたのは間違いじゃない。……そう思いたかったけど、スッキリするどころかなんだかとても嫌な気分になった。
 セナが何も言い返してこなかったからだ。「ふざけるんじゃねえ」と怒鳴り返されて、気がすむまで殴られた方がよっぽどマシだったかもしれない。実際はだらりと腕を足らしたまま、呆然とした様子で俺を見つめているだけだった。

「……じゃあ。俺、もう行くから」

 自分の夢を否定されてショックを受けているセナを置いて帰るのは心が痛んだ。でも、俺にはそうする以外の手立てが思い浮かばなかった。

◇◆◇

「なんだか元気がないね」

 バイトが終わった後、立ち寄ったイトの家でそんなことを言われてドキリとした。

「そんなことない! 俺は普通だ……」
「ふうん」

 優しく微笑みながらイトは俺をじっと見つめている。……嘘をついているせいなのか、なんだかそれだけで苦しくなった。
 あれからセナとは会っていない。しつこいくらい通っていたのに店にもぱったりと姿を現さなくなった。

「ケンカでもしたの?」
「えっ?」
「なんだか落ち込んでるから。ケンカでもしたのかなって」
「……アイツ、イトにも何か言いにきてたのか?」
「え? 誰も来てないよ」

 耳も尻尾もしょんぼりしてるからわかる、とイトは言うけど、たぶん嘘だろう。「アルバイトで叱られたの?」「何か失くしたの?」落ち込む理由なんていくらでもあるのに、イトはそれがケンカだと決めつけている。たぶん俺が誰とケンカをしたのかも知っているに違いない。

「……長い付き合いのヤツとちょっと揉めたんだ」
「そう」

 イトはあまり多くは喋らなかった。俺が黙り込んでいるからだろうか。傷つけてしまったセナを励ますには「悪かった、お前の言う通りにするよ、ごめんな」と言うのが一番早い。でも、俺は子供の頃からの親友を傷つけてしまっても、オオカミ族のメスと番にはならずに、イトとこのまま一緒にいたいと思っている。セナのような逞しい強いオスには俺はなれない。

「……最近、俺、思うんだ。マイロと同じ言葉が使えてよかったって。黙って側にいて寄り添っているだけじゃ、足りないことがある。本当に手離したくない大切な相手は、言葉を尽くして、手段を選ばずに手に入れるべきだって」

 イトは俺を抱き寄せた後、ねえ、と同意を求めた。額にぐりぐりと額を押しつけられる。子供のじゃれあいのようなのに、イトがふっとため息をついたからなのか、なんだか切実で、まるで願いごとや祈りが込められているようだった。
 それに応えるように、俺はおそるおそる真っ黒な毛で覆われたイトの薄い耳を軽く噛んだ。それから、イトの頭に自分の鼻先を擦りつけた。サラサラした髪から甘いいい香りがする。オオカミ族が獣の姿をしていた頃から続く求愛の仕草だ。その日、俺達は言葉を使わずに、仕草だけでお互いを求め続けた。

 セナのことについてイトからは何も聞かれなかった。だから、俺も詳しく説明することはしなかった。でも、このまま何も無かったことにして知らんぷりをすることは出来ないだろう。そんな思いが渦巻いていた。

◇◆◇

 セナが俺の前に姿を見せたのはそれから数日後のことだった。

「よお」

 相変わらず素っ気なくてぶっきらぼうな挨拶だ。けれど、飾り気がなくて、どこか懐かしい。そういうやり取りだとも感じられた。だから、俺も同じように「よお」と返した。
 ステーキ屋の裏口で俺を待ち伏せていたセナは、たまたま近くを通りかかったのだと言っていたが、たぶん嘘だ。側を通ったからというだけで、閉まっている店の裏口で一時間近くただ人を待つようなヤツじゃないのってことは、長い付き合いでよくわかっていた。けれど、「そっか」とだけ返事をしてそのまま並んで歩くことにした。

「店、忙しいのか」
「べつに普通。時給が五十円上がった」
「そうか。よかったな」

 いつの間にか冬が近づいていて、冷たい風に俺の耳はぴくぴくと時々反応した。この冬が終わって春が来たら、いい住み処を作るための場所や材料を探しに行こう、とイトとは約束している。いい住み処に必要なのは、いい土地と骨太の丈夫な柱と、きちんと選び抜かれた木材だとイトは言っていた。
 いい土地がどこにあるのかはまだわからない。この近くかもしれないし、すごくすごく遠い所かもしれない。親友にはそれを話すべきなのにいつまでも俺は切り出せずにいる。

「なあ」
「うん?」
「……お前、あのヤギ族のオスが好きか」
「……うん」

 正直に頷くと、セナは黙ったまま俯いた。イトのことを話しているのに、大喧嘩になったあの日と違って、今日は二人とも静かなままだった。

「そうか」

 沈黙が重くのし掛かる。家まで歩いて帰る、という目的があってよかった。そうじゃないと、規則正しく腕や足を動かしていないと気まずさにきっと耐えられなくなっていた。
 セナは当然のように俺を家の前まで送った。……この家に越してきたばかりの頃、「ボロのままじゃ格好がつかないだろ」とセナがドアや壁のペンキを塗り直してくれた。下手くそ、とバカにしてくるセナに俺がヘソを曲げて、でも、昼飯の時間には仲直りをした。二人とも汗とペンキで汚れてしまって、俺が「シャワーを浴びていけよ。面倒だから一緒に入ろう」と誘ったら「バカか」とセナはすごく怒って……。

「マイロ」
「なんだよ」
「その……。子供の頃、したみたいに、鼻で少しだけ触ってもいいか」
「……はあ? なんで?」
「……冷えてんだよ。お前みたいなバカには、季節の変化なんてわからないだろうがな」
「はあー? お前こそそんな繊細な感覚なんて持ってないだろうが」

 セナのしたい事の意味を俺はよくわかっている。だけど、いつものような口喧嘩のせいで妙な雰囲気にはならなかった。「いいからやるぞ」と強引に抱き締められた。

「……子供の頃はよくしたよな」
「そうだな。昼寝の前後や別れ際はいつもそうだった。じゃないと、マイロはいつもびーびー泣いてたからな」
「記憶を捏造するな。離れたくないって泣いてたのはお前だろーが!」

 どれだけぎゃあぎゃあ騒いでも、セナは俺を離そうとはしなかった。すっぽりと自分よりも大きな体に包まれて、つむじに鼻の先が触れる。いつの間にこれだけ体格に差が出来てしまったのだろう。子供の頃はひとかたまりになって、じゃれているのが普通だったのに、いつから俺達の体は、触れあうことに特別な意味を持つようになったんだろう。

「……なあ、マイロ。俺はお前と死ぬまで一緒にいたいと思っていた。強くて立派なオスになれば、でっかい群を持てば、それが叶えられると俺は信じてたんだ」
「……うん」

 空気は冷たくてとても乾燥しているのに、目と鼻の奥がなんだか熱くて水っぽい。おずおずと腕を回して、子供の頃と同じようにセナの体に抱きついた。

「お前が言ってたとおり、俺は勝手にお前で夢を見ていたんだな。……最近、いろいろあって、それで思った。強くなる必要なんかなかったんじゃないか、何も持っていなくても、側にいてくれと、ただ一言伝えていればよかったんじゃないかって……」

 俺が顔を上げようとするとセナの腕の力が強くなった。セナはただ一言「全部俺が悪いな」とだけ呟いて、それから、何度も俺の頭のてっぺんに鼻の先で触れた。行くな、と言われているのがわかって、しくしくと胸が痛んだ。
 だけど、俺がどれだけ腕に力を込めてセナの胸に頬擦りをしても、それは子供の頃、「泣かないで。明日も一緒に遊ぼうね」と慰めていた時と何一つ変わっていなかった。抱き締めたり頬擦りをしたりする仕草の一つ一つが、幼少期と全く同じかどうか証明する方法なんてどこにもない。だけど、やっぱりどれだけ触れて、触れられても、俺にはセナが求めている気持ちを返すことが出来ない。「好きだ、マイロ」と上から降ってくる言葉に俺はどうすることも出来ずに、気がつけば両頬を濡らしていた。

◇◆◇

 ご先祖であるオオカミは冬眠をしないはずなのに、朝、起きられなくなるから、俺は冬が苦手だ。ご先祖達は冬でも狩りをしないといけないから、ウサギやシカを追いかけ回していたという。きっと、俺が野生のオオカミだったら飢えて死んでしまっていたんだろう。

「うわっ……」

 温かいベッドの中でごろごろと寝ていたい気持ちをはね除けてなんとか身体を起こすと、裸の胸が目に飛び込んできて、思わずもう一度布団の中へ潜り込んでしまった。……昨夜はずいぶん盛り上がってしまったせいで、身体中、赤いあざだらけだったからだ。本格的に寒くなって俺が風邪をこじらせていたから、会うのが久しぶりだったとは言え、これは恥ずかしい。

 何度も求められて、ぐったりと目をつぶっていたから最後の方はあまり覚えていない。「やだ、いや、もう無理」と抵抗したのに、甘い言葉を囁かれて、それで俺の身体はすんなりと、熱い塊を受け入れてしまった。

「もう無理ぃ……、いきすぎて、苦し……」

 熱くて苦しいのに、繋がっている所が気持ちいい。じっくりと味わうように、俺の身体はペニスを咥え込んだ。愛してる、という優しい声で囁くのとは対照的に、ぐちゅん、と何度も中に出された精液を掻き出すように乱暴に突かれる。のぼり詰めていくような感覚に目の前が真っ白になった。

「んぅ……、んんっ……、あっ、あっ、もっと欲しい、あれ、ちょうだい……」

 目を閉じたまま必死で舌を伸ばすと、唇が塞がれる。違う、これじゃない、と顔を背けると、乳首をぎゅうと摘ままれて強引に舌を絡めとられる。何が欲しかったのかわからないまま、強すぎる快感に涙が溢れた。

「あ……っ、んうっ……」

 ぐりぐりと下腹部を押しつけられて、たっぷりとお腹の中に注ぎ込まれているのがわかった。まだ達した後の余韻でひくひくと震えている身体に、「俺のだ。死ぬまで離さない」と唇が何度も強く吸いついていた。

「……こんなの誰かに見られたら恥ずかしいだろー」

 小さな声でそうぼやいても、返事はない。体力が空っぽになるまで、するからだ、と呆れながらも、隣で寝ている裸の身体にくっついた。
 俺とは全然違う身体。でも、温かくて、くっついているとしっくりくる身体。……夕べ俺がなけなしの体力をかき集めて「好き。大好きだ」と伝えたのは届いたんだろうか。届いたからあれだけ激しくしたんだと言われそうな気もする。

「おーい、起きたら優しくしろよ……」

 自分でそう呟いたのに、「愛してる」と優しく唇で触れられている時の感触がよみがえって、耳がくすぐったいような気持ちになる。セックスを知らなかった頃には、感じたことのない心地よさだ。爪先で触れた足の甲が柔らかく温かい。えらい学者が聞いたら、バカだって思われるかもしれないけれど、愛し合う感触を手に入れるために、俺達は鋭い牙や爪を手離したんじゃないかって、セックスの翌朝はいつもそう思う。俺にとっても、大切なのはお前だけだよ、という思いが伝わるようにそっと手を握った。触れているとお互いの体温が溶け合って、短く切り揃えられた厚くて硬い爪がついた指先までじんわりと温かった。



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タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

執着男に勤務先を特定された上に、なんなら後輩として入社して来られちゃった

パイ生地製作委員会
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【登場人物】 陰原 月夜(カゲハラ ツキヤ):受け 社会人として気丈に頑張っているが、恋愛面に関しては後ろ暗い過去を持つ。晴陽とは過去に高校で出会い、恋に落ちて付き合っていた。しかし、晴陽からの度重なる縛り付けが苦しくなり、大学入学を機に逃げ、遠距離を理由に自然消滅で晴陽と別れた。 太陽 晴陽(タイヨウ ハルヒ):攻め 明るく元気な性格で、周囲からの人気が高い。しかしその実、月夜との関係を大切にするあまり、執着してしまう面もある。大学卒業後、月夜と同じ会社に入社した。 【あらすじ】  晴陽と月夜は、高校時代に出会い、互いに深い愛情を育んだ。しかし、海が大学進学のため遠くに引っ越すことになり、二人の間には別れが訪れた。遠距離恋愛は困難を伴い、やがて二人は別れることを決断した。  それから数年後、月夜は大学を卒業し、有名企業に就職した。ある日、偶然の再会があった。晴陽が新入社員として月夜の勤務先を訪れ、再び二人の心は交わる。時間が経ち、お互いが成長し変わったことを認識しながらも、彼らの愛は再燃する。しかし、遠距離恋愛の過去の痛みが未だに彼らの心に影を落としていた。 更新報告用のX(Twitter)をフォローすると作品更新に早く気づけて便利です X(旧Twitter): https://twitter.com/piedough_bl 制作秘話ブログ: https://piedough.fanbox.cc/ メッセージもらえると泣いて喜びます:https://marshmallow-qa.com/8wk9xo87onpix02?t=dlOeZc&utm_medium=url_text&utm_source=promotion

皇帝陛下の精子検査

雲丹はち
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弱冠25歳にして帝国全土の統一を果たした若き皇帝マクシミリアン。 しかし彼は政務に追われ、いまだ妃すら迎えられていなかった。 このままでは世継ぎが産まれるかどうかも分からない。 焦れた官僚たちに迫られ、マクシミリアンは世にも屈辱的な『検査』を受けさせられることに――!?

性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました

まりも13
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フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。 性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。 (ムーンライトノベルにも掲載しています)

騙されて快楽地獄

てけてとん
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友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

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