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2 番外編
まったりしたエイ(1)
しおりを挟む「椿さん、ゴメンって。まさか、あんなふうに派手に落ちるとは思わなくてさー……」
「……べつに」
「鼻に水入った?」
「……知らん」
あの落ち方じゃガッツリ鼻に入ったし、たぶん、大量にプールの水を飲んだだろうな……と思ったけど、背中を向けて横になっている椿さんはどう見ても疲れきっているようだったから、そっとしておくことにした。
プールに行っている間に、部屋は完璧に掃除がされていて、俺と椿さんが今朝までダラダラと寝ていた痕跡は跡形もなく消えていた。
清潔なシーツはサラサラしていて気持ちがいい。
同じことを感じていたのか、椿さんは、いつの間にか寝てしまっていて、寝息を聞いていたら誘われるようにして俺も眠ってしまい、結局夕飯の時間まで二人とも起きられなかった。
□
椿さんとの旅行は楽しい。2泊3日の日程で、まだ1泊目を終えただけなのに、数え切れないくらい叱られたけど。
まず、初日の朝の忘れ物チェックで荷物を見られた時に健康保険証を持っていないことがバレて「あれだけ言ったのに何を考えてんだ」とガミガミ言われた。
「ゴメン、ゴメン……ちょっと忘れてただけだよ」
それに、病気になんかなんないし……と思いながらも、カードを財布に突っ込んだ。
そうだ、水着入れたっけ……と不安になってスーツケースを全開にしていたら椿さんが中を覗き込んできた。
「げっ……」
水着もサンダルもちゃんと入っていた。それは全然いい。ただ、昨日ファスナーをほんの少しだけ開けて隙間からねじ込んだ未開封のコンドームの箱を椿さんにガッツリ見られてしまった。
「あっ、これは……」
「……なんとも思わないから、気にするな」
「いやいやいや!間違えて入れただけだし!あっぶねー……置いてこ」
間違えて入れるとか言い訳として苦しすぎ……と自分で自分に呆れながらも、コンドームの箱を放り投げた。そのまま、「行こー」と椿さんの背中をギューギュー押して促した。
本当は持っていくつもりだった。けど、いかにもヤル気満々なところを見られたのが気まずい。
……椿さんとセックスをちゃんとしてるつもりはある。でも、お互い手と口と舌しか使ったことが無くて、まだ挿入はしたことがない。
椿さんからオーケーが貰えても、細い身体を抱き締めていると、そのまま壊れてしまいそうで、怖い。それで、いつも躊躇ってしまう。
こう、「旅行中のテンションならイケるっしょ」と思われたかもしれないのがキツイ。多少なりともそういう気が無かったか、と言われたら、否定出来ないけど……。
あと、椿さんの「なんとも思わない」がどっちの意味なのかもよくわからない。
「若い男なんだからそんなことを考えても仕方ない」からなんとも思わないのか。或いは「そんなもの見たって、俺にはその気は無い」からなんとも思わないのか……。
ホント、この人言葉が足りなさすぎ……と空港までBMWを運転中の横顔を恨めしく眺めていたら、「……トイレか?」と呑気なことを聞かれた。
「違うよ」
「……お前、いつも、バスが出た後にトイレに行きたがるから」
「いつの話をしてんの?俺もう高校生じゃなくて、ハタチですけどぉー」
時々こうやって「椿さん」じゃなくて、「浅尾先生」だった時のことを思い出させてくる。
辞めちゃったけど、教師をしてた頃のことがよっぽど忘れられないんだろうか。
「なんでいっつもそういうこと言ってくんの?」と尋ねると、椿さんはしばらくの間、黙って何かを考えていた。
「……可愛かったから?」
「は……?」
「……全員同じように可愛いと思っていたけど、お前は特に手がかかって……それに、良い方の意味でも目立っていたから、つい思い出す」
「あ、そう……ありがとうございます……?」
……一応これは褒められてんだよな、と確認したけど、相変わらず無表情で運転に集中しているみたいだった。
ここで、「ホントさー、いつまでも高校生扱いすんのやめてよ」と食い下がると、俺のことをものすごく小さい子供でも見るような目でじいっと見てくるから、あえて言わなかった。
付き合ってて、もう生徒と先生じゃないのにそういう目で見られるのは、あまり嬉しくない。
けど、散々迷って「可愛かったから」と答えるなんて、高校生だった頃の俺との毎日を、椿さんはわりと大事に思っているような気がしたから、「……まあ、いっか」と何も言わないことにした。
□
もう秋なのに南の島は信じられないくらい暖かかった。まず、飛行機と空港を繋ぐボーディング・ブリッジを歩いた瞬間から、「熱い」と感じる程だった。
半袖で良いってホントだったね、というか夏だよね……と椿さんと話しながら歩く。
朝早い時間に飛行機に乗ったのに、着く頃にはもう昼過ぎになっていた。
レンタカーを調達して、そのまま道中にあるあらゆる観光地をすっ飛ばして、椿さんが行きたいと言っていた水族館へ向かう。
高速を使っても2時間くらいかかった。途中、運転中の椿さんが「……全然煽ってこないし、みんな優しいな」とボソッと呟いていた。
水族館は敷地自体が広くて、駐車場からテクテク歩いて、長いエスカレーターを下らないと辿り着かなかった。
「着いた~」と中へ入った瞬間、ナマコやヒトデといった生き物を直接触ることが出来る水槽の前で子供も大人もきゃあきゃあと騒いでいるのが目に入った。
ここは、絶対いじるところでしょ……と、思った俺は早速「ちょっと触ってみなよ」と椿さんを促してみた。
「……ヒトデは無難だからさ、椿さん、ちょっと攻めてるやつ、いってみてよ」
「……なんで、俺が」
「あの、シマシマのナマコとかいいじゃん。触ってみてよ」
真っ白い手をこわごわと水につけた後、椿さんは茶色と白のシマ模様のナマコを指先でつついた。「やめろよ」と言われるとでも思っているかのような、慎重な手つきだった。
「……おとなしいな」
「ナマコだからねー……。あの、定番の黒いのもいってみたら?」
「……お前が触ればいいだろ」
「俺さー、わりとこういう生き物全般苦手なんだよね」
「はあ……?」
椿さんをいじって遊んでいるうちに、同じタイミングで入館した家族連れやカップルは、どんどん中の方へ進んで行ってしまったようで、いつの間にかいなくなってしまっている。
「ヤバ……俺らいい大人なのにはしゃぎ過ぎた?」
「……誰のせいだと思ってんだ」
遊ばれたことに対して、椿さんはややキレていたものの、「ごめんね。ジンベエザメ見に行こ」でなんとか機嫌を直してくれた。
……友達にするみたいに椿さんに軽口を叩くのは楽しい。
それに、ぶよぶよしたナマコを触って「うわあ……」とほんの一瞬顔を歪めたり、「おい、触ったぞ」と言いたげな顔でこっちを見てきたり……いつもと少しでも違う椿さんの様子が見られるのは嬉しい。
あー、旅先だとこんな感じなんだ……と思いながらも、背中を真っ直ぐ伸ばして、クラゲや巨大なイセエビの様子をじっと観察している椿さんの後をひょこひょこと着いていった。
ジンベエザメのいる水槽は館内で一番デカかった。俺は、椿さんと旅行するよりもずっと前に、家族と一度この水族館には来たことがあるから、初めて目にした時みたいに「すっげえ!」とはならなかった。
どちらかというと、「そういえば、こんな感じだった……」と古い記憶を思い出しつつ、椿さんの様子を気にしていた。
椿さんは、ジンベエザメを初めて見た、と言い、ゆったりした泳ぎを一生懸命眺めている。
「椿さん良かったね。ジンベエザメ見れて」
「……うん」
椿さんは、ジンベエザメの巨大さと、泳いでいる魚の数の多さと、水槽のスケールに素直に感動しているようだった。
俺は、水族館特有の青い光にぼやーっと照らされている椿さんの白い頬を眺めながら、なぜだか別のことにホッとしていた。
前日から家に泊まりに来てくれて、車で空港まで連れて行ってくれたのも、レンタカーをずっと運転してくれたのも椿さんだけど……。
椿さんをここに連れてこられて良かった、「行こう」と言えて良かった、とそんなことを思っていた。
べつに付き合っている人と旅行に行くなんて、誰でもやっている。
着いてしまえばべつにどうということも無かったけど、今日までずっと「やっぱりどうしても行けない」と椿さんから言われたらどうしよう、と頭を悩ませていた。
思いきって遠出をして、ようやく椿さんもちょっとだけ自由になれたような……?ということをひたすら考えているせいで、もうずっと、魚よりも椿さんの目線の動きや、表情の変化ばっかり気にしてしまっている。
「……椿さん、何をそんなに一生懸命見てんの?」
飽きてしまったのか水槽の上の方を泳ぐジンベエザメやマンタは見ないで、椿さんは一点を見つめてボーッとしているみたいだった。
「……あそこ」
椿さんの細い指が指す先を見たら、エイが二匹、青い水槽の隅っこで泳ぎもせずに、揃って壁の方を向いてただじっとしていた。
「……まったりしてる」
「まったりしてるって……」
椿さんからそう言われるまで俺は、二匹のエイを見ても「……怠けてんな」としか思わなかった。
「まったりしてる」と言われたら、そう見えなくもないような……でも、やっぱり「こんだけ魚いるし、俺ら泳いでなくても余裕じゃね?ダルいし」とサボっているようにしか見えない。
エイがどういうつもりなのかは、どっちでもいい。
みんなが巨大なジンベエザメに気をとられている時に、水槽の端っこで休憩中のエイに対して「おっ、あんな所で休んでるな」と感じて、それを見つけたことを喜んでたわけ?と思わず椿さんの顔をまじまじと見つめてしまった。
「かっわい……」
「……だろ?」
「いや、エイじゃなくて……」
エイの育ての親ですか?と聞きたくなるくらい得意気な顔をされて、「そっちじゃないし」と否定はしてみたけど、椿さんはあまりピンと来ていないみたいだった。
「エイじゃなくて、椿さんのことだよ」と言えばいいんだろうけど、椿さんに対して「可愛い」とはなぜか冗談でも言いにくかった。
椿さんは俺よりも大人で、いつもビシッとしている。というか、俺の前ではそういう大人でいないといけない、という強い意志が本人の中でもあるっぽくて、なかなか隙を見せようとしない。
だからなのか、からかい、とかそういう意味じゃなく純粋に「うっわ、かわい……」と椿さんのことを感じると、胸が引っ掻き回されるようなそういう気持ちになるからだ。
「髪切ったの?いいじゃん」、「椿さん、綺麗だから目立つよね」といった内容ならさらっと言える。
けど、「椿さん、可愛いよね」はそれとは比較にならないくらい本気すぎるから、口には出さないで、いったん寝かせとくか……と伝えるのを躊躇してしまう。
「……何をそんなに一生懸命見てる?」
「べっつにー……」
結局、全部の水槽を見た後に印象に残っていたのは、青い光にさらされた椿さんの透けるように白い横顔と、まったりしたエイのことだった。
□
水族館を出てホテルに向かう途中、いつの間にか俺は眠ってしまっていたみたいで、椿さんに腕をつつかれて起こされた。
「……うーわ……。嘘、ごめん。椿さん、俺寝てた……」
人に一日中運転させておいて寝るとか最悪すぎんだろ、と一気に眠気が吹き飛ぶ。
椿さんはすまなさそうな顔で「……まだ、ホテルには着いてない」とだけ言った。
「……なに、ここ」
「……買い物をしてくるけど、お前はここで待ってろ。すぐ戻るから」
「……なに?ドラッグストア……?また、ウィダーイン買うの……?」
椿さんは質問には答えなかった。そして、本当に大急ぎで戻ってきた後、コソコソと黒いビニール袋をしまっていた。
「……はあ」
「大丈夫?運転疲れてる?」
「いや……」
なんでもない、とは言っていたものの、どこか居心地が悪そうだった。
べつに、普通に「イルカ、賢かったな」「今日は早く寝るか」とか、そういうことは喋るし、機嫌が悪そうにも見えない。
でも、気まずそうな顔つきをしていて、様子が変だった。
その日の夜、椿さんはずっと遅い時間まで一人で起きていたみたいだった。
普段よりもずっと早い時間に横になって「おやすみ」とすぐに眠ってしまったせいなのか、1時過ぎに一度目が覚めてしまった。
何気なく寝返りを打つと、椿さんがモゾモゾやっていた。
「……起きてんの……?」
暗いうえに、椿さんはハリウッドツインスタイルのベッドの端のスペースで横になっているから、表情はよく見えなかった。
ただ、本当に爆睡してる時は、日頃の睡眠不足を取り返そうとするかのようにピクリとも動かないから、起きてんだろうなという気がした。
「……椿さん、こっち来る?」
もしかしたら、眠たいけど眠れないのかもしれない。なるべく睡眠の邪魔にならないように、本当に本当に小さい声で話しかけると、椿さんはそろそろと側にやってきた。
「……ずっと起きてたの?ごめん、俺、先に寝てた……」
いつもなら「べつに」「気にしないでいい」と言ってくるのに、椿さんは何も答えなかった。
「腕枕する?」には応じるし、細い身体を抱き寄せても嫌がられなかったから、怒っているようには見えない。
ベッドサイドのデジタル時計で確認した時間と、自分が寝たであろう時間から計算すると、3時間程、一人で起きている椿さんを放っておいてしまった。
疲れてんのに眠れないのはしんどいよな……と、椿さんが寝るまで付き合うことにしようと、軽く背中を擦る。
「……気にしないで、先に寝てろ」
「うん……いいよ。さっきまで爆睡してたから……」
とは言いつつ瞼は重い。椿さんを抱いてると、「ちゃんと椿さんが側にいる」という安心感でどんどん眠気が襲ってくる。
何度も寝そうになるのを堪えた。
車の中でも寝たのになんでこんなに眠くなんだろ……。やっぱ楽しすぎて、はしゃぎ過ぎたのが良くなかったのかもしれない。
一回起き上がったら目が覚めるかもしれないけど、椿さんもウトウトしかかってるかも、と思うと動けない。
「……楽しくて、今日のことを思い出したら、それで……眠れなくなった」と椿さんが言っているのが聞こえる。
「うん……?椿さん、かっわいいね……」
明日は昼までダラダラしよう、と言うべきだったのかもしれないのに、寝ぼけた声でそんなことを言ってしまった。
どうしても言いたかったというよりは、今まで伝えるタイミングを逃していた感情を無意識に口にしていた、という感覚だった。
それを聞いて椿さんがどう感じたのかはわからない。
ただ、「あっ、ヤバい、寝てた」と気が付いて、ハッと目を覚ました時には、椿さんはぐうぐう眠っていた。
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