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21.勇気

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結局、着いたのはいつもよりずっと遅い時間だったというのに、散々待たされたであろう高瀬は嫌な顔一つしなかった。
 
玄関のドアを開けて目が合った時「……え、すっげー疲れた顔してるけどダイジョブ?」と驚かれたが、「大丈夫だ」という意味を込めて頷いた。
残業で遅くなった、とだけ伝えると納得したようだった。
……母に缶ジュースを投げつけられたことや、「死になさいよ」と言われたとは、言えなかった。
 
「センセー、タイミングいいね。映画見て待ってようと思って再生したばっかりのとこだったからさー、一緒に見ようよ」
 
何の映画なのか、とかそんなことは確認もせずに黙って頷いた。
どう考えても待ちくたびれたから、映画でも見て時間を潰そうとしていたに違いなかった。

「先生、遅いなー。今日は来ないのかな?」と散々待たされて、手持ち無沙汰で、退屈していて。それでも、「連絡が無いということはそれだけ忙しいんだろう」とそっと空気を読んで、ひたすら待っていたに決まっていた。
何も不満を口にせずに「ちょっと待ってて……げっ、戻し過ぎた…」と、テレビの前でリモコンを操作する後ろ姿がなんだか健気に思えた。
 


 
映画は1990年代に週刊少年漫画誌で連載していた作品を実写化したものだった。「見たことある?」と聞かれたが、漫画も映画もどちらも最初から最後までちゃんと見たことはなかった。
 
「俺も無い。なんか、友達がこの映画凄かったから見た方がいいよって言ってた」
「……すごいって?」
「えっ、いやわかんないけど。「すげえ」か「ヤベエ」しか言わなかったから」
 
高瀬の友達がいったい何をスゴイと指しているのかは分からなかったが、主演の俳優の身体能力の高さとキレのある殺陣は印象に残った。…というか、ぼんやりしてしまってセリフもストーリーもほとんど頭に入ってこなかった。時々高瀬が「ヤベエ」と言った時だけ、ハッとして集中したためか、派手なアクションシーンだけが印象に残った。
 
「どうだった?」
「……面白かった」
 
だよね、と高瀬は目を輝かせていた。「あれ、早回し無しでスタントも使ってないらしいよ!」と興奮していた。そう聞くと、ただぼんやりと見ていた映像は自分が思っていた以上に何かすごいことが起こっていたのかもしれなかったが、終わってしまった今では確かめようがなかった。
 
「先生と一緒に見ると面白かったからさ、今度続編見ようよ。いいよね?……って何?変な顔して」
「……いや、べつに」
 
集中して見ていないから「面白かった」という底の浅い感想しか言っていないのに、「一緒に見ると面白い」と思われたのは何故なのかはサッパリ分からなかった。
…とは言え、今日の出来事を思い出してぼうっとしていたとしても不審に思われないから、正直助かった。高瀬は意外と観察力があるから、向かい合って食事でもしようものなら「なんかあったの?」ときっと気付かれていた。
 
 
「先生、彼女いたことある?」ディスクをケースにしまいながら、なんでもないような口調でそう尋ねてきた。
 
「……お前、この話題が好きだな」
「いや!今日映画見てて全然話してないから!なんか話そうと思って聞いただけだよ」
「ない」
「なんで?先生、喋らなかったらモテるでしょ?女苦手なの?」
 
「喋らなかったら」がどういう意味で言っているのかが引っかかったが、女性が苦手かと聞かれると、自分でもどうなのかハッキリとは分からなくて、どう答えるべきなのか迷った。
ただ、自分自身が女性に対して「母親」という存在を求めていることに気が付いた時、それがものすごく気持ちが悪いことのように感じられた。
それを正直に伝えるのは憚られたので、「……そう。お前の言う通りだ」とだけ答えた。
 
「ふうん……。じゃー、彼氏は?」
「…………いたことはない」
「えー、そうなんだ。誰とも付き合わなかったの?勿体ない」
 
誰からも「ちゃんと付き合おう」と言われたことはなかったから嘘はついていない。けれど、何か違う意味に捉えられているかもしれなかった。
「身体を触ってくる奴は何人もいたけど、誰とも付き合っていない」というのが事実ではあったが、軽蔑されるに決まっていた。
 
「……お前は彼女がたくさんいたからな」
「たくさんって何?なんでそんなこと知ってんの?」
「……放課後、車で見回りしてたらよく見かけた」
「げー、イチイチそんなんチェックしてんの?悪趣味だよ」
「……見回りはこっちも仕事でやってただけだ。誰もお前ら生徒の異性交遊に興味なんかない」
 
「異性交遊って!なにその言い方?」とからかうような言い方をして高瀬が笑っている。
何か誤解されているようだったが、ほとんどの教師は生徒どうしの交際については本当に興味がない。
遊んでばかりで登校しないといった、学校生活によっぽどの悪い影響がない限りは、そういう年頃だから、と誰も気に留めたりなんかしない。
 
高瀬は明るくて元気があったのと、見た目の良さからか、男子からも女子からも人気があり、男の友達どうしで楽しそうに歩いているところや、何か話をしながら女子に合わせて、ゆっくり歩いているところをよく見かけた。
 
「職員朝会とかで報告すんの?誰と誰がデキてるって」
「…そんな暇あるか。どれだけ忙しいと思ってんだ……。お前、いきなり山へ木を採りにいって、それを校内に植えるとかそういうことが平気で当日決まるんだぞ」
「……なんで数学の先生なのに、そんなことしてんの?」
 
……こっちが聞きたかった。
一週間の授業時数は18時間だったが、空き時間には突発的な美化作業や力仕事を頼まれることが多く、一度誰かを手伝うと「浅尾先生はそういうのがオーケーな人」と思われてしまった。ことある度に頼みごとをされるようになってしまい、一年間、アディダスのジャージを持って毎日通勤していた。
授業をしていないと時間があると思われるのか「古紙をリサイクルに持っていく」だとか、「電球を変えてください」だとか、挙句の果てには「私の教室の前で男子生徒が騒いでいるので、今すぐ来て注意してください」と女性教諭から内線で呼ばれたこともあった。
結局授業内容を練ろうと机に座れるのはいつも18時を過ぎてからだった。
 
「先生、忙しそうだったしねー。今の時期…夏は何回も海とか川に見回り行ってたでしょ?」
 
てか、漁港とか祭会場であったよね?覚えてる?と高瀬が首を傾げると、真っ黒い髪の毛先が揺れた。あの頃はコソコソ染髪していたのに、校則に縛られない今は自らの意思で真っ黒にしているのが不思議だった。本人には言っていないが似合っている。記憶の中の姿よりもずっと大人っぽくて落ち着いて見えた。
 
「先生、俺、今夏休み中なんだけど。どっか行く?」
 
けれど、長い休みが始まっていることに対して、ワクワクしソワソワしている様子は、高校生の頃とほとんど変わらなかった。
 
 
 

 ──期末テストが終わった頃のことだった。

「……お前、夏休みに友達と海や滝に行こうとか考えてないだろうな」
「んー?」
 
生徒指導室にひょっこりと顔を出した高瀬にそう聞くと、笑いを堪えたような顔をしていた。行くとも行かないとも答えようとしない。
……どう見ても、夏のイベントを楽しみにしているけれど、「浅尾に怒られそうだから黙っておこう」と考えているとしか思えない反応だった。
朝から夕方まで授業を受ける毎日からようやく解放される夏休みを楽しみにしている子供に、あらゆることを禁止したところで、聞くはずがないというのは分かりきっていた。
 
「……高瀬、海に行くなとは言わない。その代わり、遊泳禁止の場所には行くな。飛び込みも絶対やるな」
「……うん?うん、そーだね……やんないよ」
 
「俺には心配されてるようなことは起こらないし。ヘマなんかしないから」とでも思っているのか、めんどくさそうに返事をしている。
嘘をついていることが後ろめたいのか、目を合わさないようにして気まずそうにしているところに、もともと持っている素直さが感じられた。
 
「……もし、一緒にいる誰かがそういう危険なことを提案したとしてもお前が止めろ。
「やめよう」「危ないところには行くな」と言うのはかっこ悪くて嫌だと思うかもしれないが……たった一言、勇気を出して正しいことを言え。そうすれば、自分の身も守れるし友達を助けられる…」
「……わかった」
 
高瀬は体格もすでに出来上がっているし、生徒の中ではずいぶん垢抜けていて、羨望の眼差しを集めていた。
いつもは角のない穏やかな話し方をするが、「やめろ」とバシッと言えば人を止められるような力は十分持っているはずだった。

…高瀬とこんな話をする二週間程前に、他校の生徒が不幸にも水難事故で亡くなっていた。
だから、無理やり約束させた。高瀬が友達と本当に危ないことをしなかったかどうかはわからない。
もしかしたら、度胸試し、とかそういう理由で海に飛び込んだかもしれなかった。
あえて、確かめるようなことはしなかった。きっと、約束を守ったんじゃないかと思いたかったのかもしれない。
一応、その年の夏休みは特に大きな事故や事件もなく無事に終わった。
 
 
 
 
 
 
 
 ──部屋の電気が消え、目を閉じるとさっき額に感じた衝撃や痛みが生々しく甦って来た。
早く眠って楽になりたいが、怒りに震える母の顔や金切り声の記憶がそれを許さなかった。寝返りを打つと横にいる高瀬の眠りの妨げになるかもしれないため、ただじっとしていた。
息苦しくて、身体が鉛のように重かった。こんな感覚はここ最近忘れてしまっていて、ずいぶん久しぶりに感じられた。

目をしばらくの間閉じていても全く眠れそうになかった。途方に暮れていると「先生?」という小さな声が聞こえた。
 
「…なんか、あった?」
「……べつに、なにも」
「そう…?腕枕する?」
 
特に反応を返さないでいると、長い腕に肩をそっと掴まれた。そのまま胸に引き寄せられて包み込むように抱き締められる。服からなのか身体からなのかはわからないが、温かくて甘い深みのある香りがする。
 
「…先生、ほんと細いよね。いつもビックリする」
 
なにか、返事をするべきだった。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
厚みのある固い胸板に動揺して、顔がカッと熱くなっているのが自分でも分かった。何も喋ろうとしないのを落ち込んでいるからだと解釈されたのか、腰を抱かれた瞬間にようやく「えっ」と声が出た。
「駄目だ」と静止する言葉をすぐに続けるべきだったのに間に合わなかった。

下腹部が高瀬の太ももに当たって、もうそれだけで死にたくなった。自分だけが反応しているということと、相手にそれを知られてしまったことに対して「もう駄目だ」という諦めに近い感情が浮かんだ。
暑くもないのに背中を汗がつたう。
 
高瀬はほんの一瞬「あっ」という顔をした後、すぐに何でもないような表情を浮かべた。
……数年前、高校生だった頃は、「ヤベエ」と焦って嘘をついているのは高瀬本人が隠そうとどんなに澄ましていたって、視線の泳がせ方や、顔の筋肉の強張りですぐに分かった。
そのたびに「嘘をつくな」「お前反省してないだろ」と叱った。
 
それが今は、スッと表情を変えて、ただ黙って何か考えている。
動揺を隠す一瞬の間にめまぐるしくいろいろな事を考えているに違いなかった。相手を傷つけないように、動揺していることを隠すなんて、いつの間にこんなことを覚えたんだろうか。
 
 
 
 
 
「……実は今日、病院で頭をぶつけて」
 
え?病院行ってたの?残業してたんじゃないの?と困惑した声が聞こえた。
そういえば、そんな設定になっていたんだった、ということを思い出しながらも、ぶつけたところが痛い、とだけ伝えた。
高瀬は弾かれたように立ち上がると大股で歩いて台所に向かった。バタバタ、ガサガサと騒がしかったがしばらくすると、ビニール袋に氷と水を入れて戻って来た。

動揺していて、何かせずにはいられないけど、どうしたらいいかわからなくて困っていたから「痛いと言っているところを冷やす」という目的を見つけて、もしかしたらホッとしているのかもしれなかった。

 
「ぶつけた時、オエッってならなかった?」
「……なってない」
「そっか。じゃー、ダイジョブ。俺の親が言ってたから。頭打った時に気持ち悪くなったら、危ないやつだから病院行けって」
「…………そうか」
「……本当に大丈夫?」
 
ここに着いてから今までの間ずっと黙っていたのに、急に痛いと言い出すなんて、誰がどう考えても嘘としか思えないことは自分でもよくわかっていた。だから、高瀬の言う大丈夫?が「そんな嘘をつくなんて、大丈夫?」という意味に聞こえた。
 
「えっ、どうしたの泣いてんじゃん」
 
そう言われて自分の両頬が濡れていることに気が付いた。
 
「大丈夫?痛いよね?」
 
「痛い?」じゃなくて「痛いよね?」と聞いてくるところに、優しい性格が凝縮されていた。氷を持つ手が冷たいのか、右手から左手に持ち替えてもなお、ずっと心配そうに顔を覗き込んでくる。
 
 
高瀬と一緒にいるのは居心地がよかった。本来は近づくことも許されないような明るくて元気があって、真っ直ぐで眩しい存在は、自分自身をどこかから引っ張り上げてくれるような、希望に感じられた。
ただ、俺がいきいきと元気になればなるほど「えっ、よく考えたらこの人フツーに男じゃん」と高瀬が若干引きつつあることには、今までの経験から気づいていた。
今日母に酷い態度をとられた時には「これで、まだもうしばらくの間は高瀬に構ってもらえる」と思った自分が恐ろしかった。
母の言う通り今まで死ぬべき機会は何度もあったのに、結局そうしないで誰かを求めて生き続けてしまった。
 
きっと、生きている間はやめられなくて繰り返す。やめる唯一の方法は死ぬことだった。とりあえず、「もう会わない」と言おうと思い口を開くと、生暖かい涙が口の中に入って来た。
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