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19.通過地点

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壁にかかっている時計を眺めていたら、がん、と額に鋭い痛みを感じた。あまりの痛さに額を押さえて俯いていると、さっき母と一緒に自動販売機で買った缶ジュースが床に転がっている。
母に投げつけられたのだと気がつくまでには随分と時間がかかった。
下手に190mlという、容量が少ないものを選んだから、こんなふうに躊躇せずに思い切りぶつけられたんだろうか。
 
「何をぼんやりしてるのっ!」
「…………痛い」
 
母がそんな返答を求めていないことは分かっていた。けれど、本当に、涙が出そうなくらい痛かった。
ズキズキと痛む額を掌で押さえていると、床をコロコロと転がっていたスチール缶がテーブルの脚にぶつかって、動きが止まった。
靴底が鳴るキュッキュッという甲高い音は「談話室からです」「早く!先生呼んできて」という看護師と研修医の会話を遮るように、廊下中に響いていた。
 
「黙ってないでなんとか言いなさいよ!だいたい痛いですって?
さっきまでわたしの話を聞かないで時計を気にしてたじゃない!
また、必要以上にかわいそうぶって…あなたはいつもそう。
そうじゃないと、あんなマトモそうな明るい男の子があなたなんかと仲良くするわけないでしょう!あなたはずっと一人だったんだから!
いったいどんな手を使ったのよ!本当に汚らしい!
何にも考えてないくせして、思わせ振りな顔で、人の気を引いてるんでしょう?あなた、自分で自分のことを恥ずかしいと思わないの?
あなたみたいに無神経で、当たり前のように他人に依存する人がいるから、私は…、私が苦しまないといけなくなるんでしょう!それなのに、よく平気で生きていられるわね?あなたなんか、死になさいよ!」

「……お母さん、そんなことしてないよ…」
 
談話室に入って来た研修医と看護師二人が母を取り押さえた。目を見開き強張った顔は、憎悪に満ちていた。肩を怒りで震わせながら、金切り声をあげる姿は、人間と言うよりも小さな獣か鬼に近かった。
 
「あなたが私を殺そうとしたこと絶対に忘れないからね!」
 
そんなことしてない、と言い返したかったが出来なかった。どんなに強い薬を飲ませ続けたとしても、母の中で俺に殺されそうになった、という記憶だけは永遠に忘れられないようだった。
 
高校二年の頃だった。祖父母が不在時に、二階の窓から飛び降りると言い張った母を必死で止めたことがあった。「お母さん、お願いだからやめて」と何度訴えても母は聞かなかった。ものすごい力で抵抗され、小さな身体を支える腕はもう限界だった。
「お母さん、もう掴んでいられない」とは言った。それが母の中では「お母さん、もう手を離すよ」に変換されてしまっていて、以来ずっと恨まれている。
 
 



 
「…僕がぼんやりしてしまって、母の話をよく聞いていなかったんです。それで、あんなことになってしまって…ご迷惑をおかけして申し訳ございません。すみませんでした」
 
 主治医と看護師がやってきて、しばらく面会は出来ない状態だからこちらから連絡があるまでは来ないで欲しい、と告げられた時、申し訳なくて顔を上げることが出来なかった。祖母を去年亡くしてから、母の病状に耳を傾ける人間は自分しかいないにも関わらず、全く話が頭に入ってこなかった。
 
今日も母は機嫌が良かった。「遅いから、来られないんじゃないかと思っていたの。大丈夫?忙しいの?」と優しく温かい声で俺を気遣い、他愛もない話をしてはよく笑った。

談話室へ行こう、と促された時もおかしなところは一つも見当たらなかった。自動販売機で「いちごミルクを飲む」と選んでいる時も普通だった。
母は「ガチャガチャしてうるさい」という理由で、日によってはテレビの音をとても嫌がる。だから、テレビからは一番離れた席に座って、病院の食事のことや、毎日雨が降りそうで降らない天気が続いているという話をひたすら聞いていた。
 
そのせいか、自分でも無意識のうちにほんの一瞬油断してしまったのかもしれなかった。人を待たせている、と時計を気にしたことが母の逆鱗に触れた。
……何も珍しいことではない。今までの人生で何度も経験してきたことだった。
それでも、直接的に暴力を奮われたのはずいぶん久しぶりだった。
 
車まで戻ってきてからもまだ動揺していたのか、しばらく運転席に座ったままぼんやりしていた。母からものを投げつけられたということも、「死になさいよ」と言われたこともショックではあったが、それよりも「いったいどんな手を使ったの?」という言葉が頭からこびりついて離れなかった。

ほとんど自宅と病院に籠りっきりの母は、俺にどんな友達がいたか、どんな学校生活を送っていたかなんて知らない。けれど、なぜか勘だけは異様に鋭い。
俺が今までの人生で何をしていたのか見透かされているような気がしたのと、母の言うとおり自分は確かに汚らしい人間なのかもしれない、と思い吐き気を催した。
 
 
 
 
 
 
 
 
「浅尾君の笑った顔が見てみたい」
 
──今までの人生で何度もこう言われたことがある。
俺はべつに自分の笑顔なんか見て貰いたくなんかない、放っておいてくれ、迷惑だ、と邪険に扱っても食い下がってくるやつは必ずいて、むしろこちらが冷たくすればするほど相手も意地になるようだった。
大抵こういうことを言ってくる奴は自信満々で、友達もいれば彼女もいる。
 
けれど、何も面白いことも言わない、ただ黙っているだけの俺を側に置いてみたり、やたらと二人で一緒に過ごそうとしたりしてくる奴は次から次へと現れていつの間にか去っていく。
 
どうして彼女も友達もいるくせに自分なんかに興味を持つんだろう、と気味が悪かったし、気まぐれとしか思えない相手の言動に付き合わされたくも無かった。
とはいえ、そういう変わった奴の好意を受け入れることには、単純に集団の中でいじめられないですむというメリットもあった。
 
けれど、やはり何かがおかしい、と気付いたのは中学に入ってからのことだった。
 
 
 
「……え、なにしてるの」
 
クラスメイトの家で一緒に試験勉強をしていた時だった。眠気を堪え切れなくて、いつの間にかテーブルに突っ伏して眠ってしまっていたことに気が付いて慌てて顔を上げた。
相手の顔が思いのほか近くにあったので驚いてしまい、上ずった声でそう尋ねた。
 
べつに、寒そうにしていたから、と素っ気なく答えられてから、ようやく自分の肩に彼の上着がかけられていることに気が付いた。どうして、側にある俺の上着をかけなかったんだろう、と納得できないながらも「ありがとう」とお礼は言ったような気がする。
 
もう帰る、と呟いてから筆記用具や教科書をカバンに詰め込んでいる時だった。
蛍光マーカーが見つからず、テーブルの下を覗いたり、カバンの中に手を突っ込んで探したりしてみても、見つからなかった。さっきまでは、あったのにおかしい、と首を捻っていると妙な匂いがした。
体育の授業の後みたいな匂いだ、と思い顔を上げると、さっきよりもずっと近くに友人がにじり寄ってきていた。
これは、制汗剤の匂いだ、ということに気付きながらも「なに?」と尋ねた。
 
 
「…浅尾くん寒い?」
「……寒くない」
「来て」
「寒くないってば……」
 
服の上からではあったが、他人にベタベタと身体を触られるのは初めてだった。
「なぜ、こんなことを?」と制服のズボンによったシワを眺めながらずっと考えていたが、その時はさっぱり理解出来なかった。
家まで一人で帰宅する間も、アイツ今日はなんだか様子が変だった、何かあったんだろうかと考えながらも早足で歩いていた。

男の俺にあんなことをしてくるアイツは変だ、けれど、嫌がらなかった自分も変な気がする、と思うと、さっきのことは忘れなければいけない、という気がした。
家に着いてからは、誰にも顔を合わさないようにコソコソと部屋に入った。

さっき嗅いだむせ返るような制汗剤の匂いが、自分の制服に移っている気がして、隠すように洗濯機へシャツを突っ込んだ。
 
 
 


以降もそういったことはクラス替えや、進学等の環境の変化の度に起こった。
たいていそういう奴らは、全員なんの前触れもなくニュッと現れる。
不審に思って素っ気なくしていると、自分のグループに引き入れようとしてみたかと思えば、「テメーなんか気色悪いんだよ、ほんとに男かよ」と罵倒してきたり、それでも誰もいないところでは女にするみたいに親切にしてきたりする男もいた。
……皆、「放っておけないから」という理由で構ってくる。そうして、俺の身体に興味を持つ。
男としてこれはマズイと思い、「俺はお前と同じ男だ」ということを丁寧に説明してもまるで効果が無かった。
 
少年期から青年期へ移行するための通過儀礼のようだった。「男もいってみるか」という好奇心と、自分よりも力のないものを救う、という行為に男としての自尊心や甲斐性といったものを充足させているようだった。
 
これでは、女の代替品か、趣向品の一種として見られているのと同じだ、と悩んだ。同時に、それでもいいから誰かに追いかけられることでしか安心出来ない自分自身に嫌悪感を抱いた。
気を引くようなことをしなかった、と言い切ることは出来ないくらい、相手を試した。
「迷惑だ」と何度拒絶しても、食い下がってくるのを確かめずにはいられなかった。ようやく安心して少しずつ心を開き始めると、今度は相手の方が引いてしまうか、飽きてしまうかでいなくなってしまう。

「笑った顔が見てみたい」という割には、俺が実際によく笑うようになると、熱が冷めてしまうのか最終的には皆女の元へ帰っていった。
守るべき対象だったものが、対等な男になりつつあることに気付くと、途端に「女みたいだ」と執着していた肉体でさえも、生々しい男の身体にしか見えなくなってしまうようだった。

誰も俺に対して本気でのめり込まない。触ったり、触らせたり、女とするみたいなことを中途半端に試した後、躊躇わずに去っていく。
男として成長していくうえでの気の迷いを乗り越えたことで、さらなる自信を得たようだった。
離れていった彼等は、そうやって大人の男になっていくのに対して、自分だけがいつまでも未発達で、まるで成長していなかった。

彼等にとって俺は、結末を決めないで書き始めたせいで、執筆が途中で止まってしまった連載小説のようだった。「やっぱりこんな話じゃ駄目だ」と判断されて、ブツっと完結する前に放り出される。……むしろ、相手にとっては何も始まっていないのだから、小説になる前のプロットか、殴り書きされたアイディアの方が近いのかもしれない。

「女みたいな男の肌を舐める」とか「手なら女と変わらないから使える」とか、そういう自分が体験したい場面と「放っておけない」「力になりたい」「俺を頼れよ」といった自分自身が言いたい言葉だけを書き留めたメモだ。
そんなものをどんどん押し付けられて取り残される方は、途方に暮れているということには、誰も気がつかない。
近付いてくる時は、さんざん悩みごとを言え、辛いことがあるのか、と聞き出そうとするわりには、別れる時は、俺に心があることすら忘れられているようだった。

 何度もそんなことを繰り返して、18歳になった頃ようやく、もうやめよう、と決心した。
ほんの一時の安らぎを得た後は、その後一人でいるのが何倍も苦しくなる。だったら始めから何も知りたくなんかない、一生一人でいるべきだ、と固く決意した。にも関わらず、それを破ったから、この後、とてつもなく後悔するような目にあったのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
大学時代、同級生の男からしきりに二人で飲みに行こうと誘われるようになった。
どこからやって来たのか、俺の知り合いの知り合いだと言う男から、「みんなと一緒に一度居酒屋で飲んだよ?覚えてないの?」と聞かれてもまるで思い出せなかった。

アルコールは飲むとひどい頭痛がするし、酔っぱらっている間の記憶が無くなることがあるから、もうなるべく飲まないようにしている、と何度言っても分かってもらえない。
なんとなく今までの経験から嫌な予感がして「悪いがどうしても二人では行けない」と、試すためではなく本当に必死で断っても「なんで?」と不思議そうな顔をされるだけだった。
 
 「……その、人見知りだし、余り喋らないから、二人はちょっと……」
「へー…残念だなー」

身長はほとんど変わらないはずなのに、実際の目線よりもずっと低い位置から見上げているような不思議な目付きでジロジロ観察された。

「……この間、みんなで飲んでる時、すごいヤらせてくれそうだったから」
「……だ、誰が?」
 
浅尾くんに決まってんじゃん、と言われて頭が真っ白になった。確かに、ほんの少しアルコールを口に含んだだけで、泥酔してしまった日があった。あの時はどうしただろう、と思わず身体のあちこちを確かめるようにして触っていると、失笑された。
 
「浅尾くんのいつも一緒にいるお友達が送って帰ってたよ」
「なんだ……」

「いつも一緒にいるお友達」は 、アニメの女かロボットにしか興味がないので、それならなんの問題もなかった。
けれども、「ヤらせてくれそうだった」というのが、どんなふうだったのかは自分では全く覚えていないうえに、そんな理由で声をかけられているということに酷く胸がざわついた。

「……俺は男だし、そういうのは困る」
「知ってるよ。でも、浅尾くん女みたいだし、いけると思うんだよね」
 
何がいけるのかは聞かなくてもわかっていた。
 
「……本当に、そういうのは、無理だから」

断りながらも、自分に言い聞かせるような言い方になっていた。ただ、今までこんなふうにハッキリと目的を口にして近付いて来られた事が無かったせいか、どことなく不吉な予感がした。

 
 

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