上 下
13 / 35

13.亜種

しおりを挟む


約束通り土曜日に先生はやって来た。その日は、仕事が無かったからなのか、白のサマーニットを着ていて、それがよく似合っていた。どこのだろう、サイズはS?Vネックきれいに着るなあ、と思って眺めていたら怪訝そうな顔をされた。
今日もここに来る前に病院へ行ってきたんだろうけど、いつも本当はお母さんのために買ったであろうケーキとかフルーツは今日は持っていなかった。受け取って貰えたのか、そもそも何も持って行かなかったのかは、わからない。
代わりにテレビで芸能人がよく食べてる高い焼肉屋の弁当をくれた。俺のリクエストを叶えてくれたのが嬉しいし、絶対自分では買えないような値段のものだし、なんていうかもう、これは玉手箱?って思った。

「ヤッター!俺、こんな高いの食べたことない!センセー、ありがとう!……でも、本当にいいの?」
「…いいから、食べろ」
「ビール飲む?」
「飲まない。アルコールは飲まない」

今日はもう絶対お酒飲まないって先生は決めてるっぽかったから、俺も先生の断酒に付き合うことにした。
酔ってる時の先生の方が、少しだけど笑うし、いつもより口数が多くなるから残念に思った。
ビール以外飲み物ないよって言ったら、呆れながら先生が千円くれたから外の自販機でジュースを大量に買った。先生は無機質っぽいから、勝手に水に近い飲み物ほど好むのかなと思ったけど、一番選ばないだろうと思ったドロドロした桃のジュースを選んだ。
俺は初めて先生が「美味しい」と言ってものを口にするところを見た。

先生は、今日も自分の分の肉はほとんど俺にくれた。この間、話聞いた時に食べないんじゃなくて、食べられないんだってことに気付いたから、俺は先生が食べないことについては何も言わなかった。代わりにいかにも食欲旺盛な大学生って感じでバクバク食べた。先生はそれを見て心なしかホッとしているようだった。


今日の先生はスーツじゃなくて柔らかい質感のニットを着ているからなのか、いつもより女っぽく見えて雰囲気が違うな、と思った。
口元を拭く時は丸めたティッシュでゴシゴシと拭いたりなんかしないで、四つに折った後、そうっと薄い唇を押さえるようにしていた。
ほんの少し食べただけでお腹がいっぱいになって「ふー…」と小さく一息吐いてるのも、なんか、すごい女の人っぽかった。
いつもと違うのはそれだけじゃなかった。

「…あっ!そうだ、先生俺のバイト先にさ、すごい変わった後輩がいてさ、この間なんか好きなアイドルの話延々と聞かされたんだよ」

俺が最近ドン引きしたリョーちゃんの話をすると、先生はなぜか「アメリカなら逮捕」のくだりで声を出して笑った。
「はっはっは」って。なんか、宇宙人とかロボットが人間らしくなろうと、人間の真似をしてるみたいな、「は」という文字をそのまま連続して読んだような笑い方だった。
それでも、「えー、先生が笑ってる!」って俺はすごい嬉しかった。今まで「お前は元生徒だから」という理由で、俺から先生との距離を詰めようとすると拒否され続けていたけど、この前腹を割って話したから、もしかしてほんの少し心を開いてくれたのかなと思った。
また、リョーちゃんの話したら笑うんだろうか、って思うと、さっき見た笑った顔が頭から離れなかった。





「…お前、彼女は」
「今?いないよ」

急に先生からそんなことを質問された。正直に答えると先生は無遠慮に俺のことをジロジロと眺めた。「これが彼女のいない人間か」とでも言うように。
俺は先生がこういう親戚のおじさんみたいなことを自分から聞いてきたことに驚きつつ、「…しょーもないことでケンカして、それで駄目になっちゃった」と付け足した。
先生は親戚と違ってそれ以上は何も聞かなかった。高校の時みたいに「先生は?」って聞いたけど、無視された。




床にあるボックスティッシュに手を伸ばそうと先生が前かがみになると、サマーニットの襟ぐりの部分がたるんでインナー着てるはずなのに胸元の深いところまで見えていた。全然平たいし、胸なんかないのに、先生の白い胸元が無防備に晒されているのが視界に入るとなぜか目が離せなかった。
先生は服のたるみを一瞥した後、パッと自分の手で隠してから、俺の顔を見た。
そうやって隠されると、見てはいけないものを見てしまったような気がしてきて、俺は慌てて目を逸らした。

「…なにか、見えたか?」
「いや、なんも見えてないです……」

なんも見えてないけど、女の人の胸元みたいに白かった。

「…なにを、見ていた?」

今度は絶対何か答えないといけない質問になっている。

「……いや、乳首見えないかなって」
「…なぜ、そんなものが見たいんだ?」
「いや、だって俺も男だし…」
「…見たいのか?」

「見たい」と答えたところで絶対に見せてくれる保証なんてないし、もしかしたらこれは罠で、「何を考えてるんだ、お前」って怒られるかもしれないのに、俺は黙ってこくりと頷いた。
先生は、少し間を置いた後、何も言わずに襟ぐりをぐいっと引き下げた。。
そもそもなんで先生はオッケーしてくれたんだろう、本当に見ていいんだろうかって不思議に思いながらも、おそるおそる先生の方ににじり寄ると、真っ白い胸元が見えた。
さっき見えなかった部分が見えそうになった時、先生はふいに手を放してから、裾の方を軽く引っ張って服を元の状態に戻した。

「……すまない。急に恥ずかしくなった」
「は……?」

え、いや、今100パー見せる空気だったじゃん、という意味を込めて先生の顔をじっと見つめると、さすがに気まずそうな顔をしていた。

「え、先生、見せるって言ったじゃん」
「…見せるとは、言ってない」
「言った!絶対言った!」
「…言ってない」
「先生ってば!からかったの?」

思わず先生の腕を掴むと、先生の身体は糸が切れたみたいに、フラっとそのまま後ろに倒れた。
「えっ、俺そんな強く掴んだっけ?」と焦った。倒れてく先生の勢いに巻き込まれながら、そうか、先生細いからこれくらいの衝撃にも耐えられなかったんだと思った。
先生を押し倒したような状態になってしまって、俺は慌てて体を起こした。

「先生、ごめん…」

「どけ」とか「なにすんだ」とか言われるかと思ったけど、先生は何も言わなかった。ただ、じっと俺の顔を見ていた。
俺も「ごめん」と謝ったものの、先生から離れることができなかった。
先生からはっきり「どけよ」って言われないと動けない、と思った。
先に口を開いたのは先生の方だった。

「……ハヤト」

なぜ、このタイミングで下の名前で呼ぶ?と思う。いつもは「高瀬」「お前」「おい」のどれかなのに。
先生は、生徒全員を基本的には苗字で呼んでいた。可愛いからとか、仲がいいからとか、そんな理由で特定の生徒だけを下の名前で呼ぶなんてことは絶対にしなかった。
たぶん、学校辞めて会社勤めしてる今も、若い女の社員だけ下の名前で呼んだりなんかしていないと思う。
なのに、なんで今。

名前を読んだ後、先生は目を伏せたから、長いまつ毛が先生の目元に影を作った。
さっき俺の名前を呼んだ薄い唇が、また何か言おうとして薄く開いた時、堪らなくなって、先生に無理やり口づけていた。
…先生はキスとか絶対嫌いだろうな、ってなんとなく思っていた。
いつも、生徒と一定の距離を取ろうと気を付けている感じがしたし、「気安く触らないでください」というオーラを放っていた、肩を叩いたり握手を求めることさえも躊躇するような。

けれど、意外にも先生は口を薄く開けて俺の舌を抵抗しないで受け入れた。
舌を吸ったり、上顎をくすぐるように舐めても嫌がるどころか、自分から舌を絡めてきて、誘うように俺の唇を舐めたりした。
…今まで女と付き合った時もそうしてきたから、当たり前のように俺は先生のニットの裾に手を入れた。
脳髄にそういう条件付けがインプットされていた。ここまで許して貰ったらもう身体に触ってもオッケーだろうって。

けれど、先生は服の中に侵入してきた俺の手をそっと掴んだ。



「…俺は、もうここには来ない」




「え」と俺が間抜けな声で返事をすると、先生はノロノロと起き上がろうとしたので、俺もそれに合わせて先生から離れた。
先生は服の乱れを直した後、「もうここには来ない」ともう一度言った。

「……なんで」

聞きながら、今のがマズかったんだ、と思った。
合意もなく、勢いでそういうことをしたから、先生に軽蔑されてしまった。俺は顔を上げることが出来ないまま「…先生、ごめんなさい。すみませんでした」と誤った。
高校生の頃。遅刻とか校則違反で怒られた時よりも、ずっとずっと真剣に謝った。

「…高瀬、俺は、結局お前に対してどう責任をとればいいのかが、わからなかった」
「……え?」
「……責任をとるとは言ったが、俺は、どうすればいいのか、…慰謝料を支払って二度と会わないべきなのか、それとも…ちゃんと交際するべきなのか、お前の気のすむまで…そういうことをするべきなのか、何が正しいのか、ずっと考えていた…。
その間も…お前に、もう一回口でしろ、最後までさせろと言われたらどうすればいいだろうとずっと思っていた」
「先生、違う。本当はあの日何も無かったんだよ…本当だよ先生」

先生は一瞬目を見開いた後、「そうか…それならよかった」と静かに言った。
誤解を解いてもらえないまま、ずっと悩まないでいいことで悩まされていたのに、先生はちっとも俺に対して怒っていなかった。
それどころか、いつもよりもずっと優しい声で、話を続けた。
昔、「微分積分わかんねー」と言った時に教科書を広げながら、丁寧に説明してくれた時みたいに。

「…母の所に行くのはいつも憂鬱だった。けれど…お前のとこに行かないといけないと思うと、不思議と帰ってくることができた。
それに、この前…お前と寝たら…ひどく安心して久しぶりに熟睡できた。
これは…よくないことだと思った。気が付いたら、ここへ来る理由が償いではなくて、俺がそうしたいからになっていた」
「…それが、なんで駄目なの?」
「…高瀬、お前は昔からずっと優しい、…きっと俺のことが可哀想だから、お前は自分が何とかしたいと思っている。
俺は、生徒だったお前の良心に付け込んで自分でも抱えきれない暗い部分を見せてしまった…。あんなこと話すべきじゃなかった。
……高瀬、悪かった」

…やっと、笑うようになったのに。やっと、美味しい、って言うようになったのに、仲良くなったと思ったら「もう来ない」なんてあんまりだと思った。
俺がそう言うと、先生は俺の背中を擦りながらまた優しく言い聞かせた。

「…俺はこれ以上考えることを増やしたくないんだ。ただでさえ…母親のことを考えないといけないのに、最近は母親のことを考えていない時は、お前のことをどうしたらいいのか…考えている。」

先生の口調は優しいけど、迷いは一切なかった。もう先生の中では俺の部屋に来ないということは決定事項で、俺はそれに頷くしかないんだと思い知らされるようだった。

「…先生、さっきのは勢いでしたんじゃないよ。先生のことが…」

俺がそこまで言うと、先生は黙って首を横に振った。

「高瀬…俺のことを、女みたいだと思っているかもしれないが…女みたいな男が良いと言うやつは、たいてい…本当は女のことが好きだ。女の亜種を一度試してみたいだけだ」
「……女の亜種って、ナニ?」
「………キツネとキタキツネみたいなものだ」

…頭が悪い俺に理解できるように説明したつもりなんだろうけど、余計にわからなくなった。先生と女とどっちがキツネでどっちがキタキツネなんだろうか。

「だから、ちゃんと彼女を作りなさい。俺はもう二度とお前とは会わないから」

「嫌だ、先生行かないで」と言うとして、俺はその後どうすればいいんだろう。
「お前のことを考えたくない」と言う先生を一時的に引き留めたとしても、結局はまたいなくなってしまうだろうという気がした。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である

新緑の少年

東城
BL
大雨の中、車で帰宅中の主人公は道に倒れている少年を発見する。 家に連れて帰り事情を聞くと、少年は母親を刺したと言う。 警察に連絡し同伴で県警に行くが、少年の身の上話に同情し主人公は少年を一時的に引き取ることに。 悪い子ではなく複雑な家庭環境で追い詰められての犯行だった。 日々の生活の中で交流を深める二人だが、ちょっとしたトラブルに見舞われてしまう。 少年と関わるうちに恋心のような慈愛のような不思議な感情に戸惑う主人公。 少年は主人公に対して、保護者のような気持ちを抱いていた。 ハッピーエンドの物語。

モテる兄貴を持つと……(三人称改訂版)

夏目碧央
BL
 兄、海斗(かいと)と同じ高校に入学した城崎岳斗(きのさきやまと)は、兄がモテるがゆえに様々な苦難に遭う。だが、カッコよくて優しい兄を実は自慢に思っている。兄は弟が大好きで、少々過保護気味。  ある日、岳斗は両親の血液型と自分の血液型がおかしい事に気づく。海斗は「覚えてないのか?」と驚いた様子。岳斗は何を忘れているのか?一体どんな秘密が?

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

眠るライオン起こすことなかれ

鶴機 亀輔
BL
アンチ王道たちが痛い目(?)に合います。 ケンカ両成敗! 平凡風紀副委員長×天然生徒会補佐 前提の天然総受け

家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!

灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。 何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。 仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。 思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。 みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。 ※完結しました!ありがとうございました!

漢方薬局「泡影堂」調剤録

珈琲屋
BL
母子家庭苦労人真面目長男(17)× 生活力0放浪癖漢方医(32)の体格差&年の差恋愛(予定)。じりじり片恋。 キヨフミには最近悩みがあった。3歳児と5歳児を抱えての家事と諸々、加えて勉強。父はとうになく、母はいっさい頼りにならず、妹は受験真っ最中だ。この先俺が生き残るには…そうだ、「泡影堂」にいこう。 高校生×漢方医の先生の話をメインに、二人に関わる人々の話を閑話で書いていく予定です。 メイン2章、閑話1章の順で進めていきます。恋愛は非常にゆっくりです。

頼りないセンセイと素直じゃない僕

海棠 楓
BL
入学した高校で出会った新任教師はどうにもいけ好かないヤツ……だったのに!! 成績優秀だけど斜に構えた生意気男子と、モテモテゆるふわ現代文教師の甘酸っぱい恋模様。

処理中です...