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11.ハヤト
しおりを挟む「先生、なんでいっつも遅くまで残ってんの?一緒に帰ろうー」
高瀬は、「下校時間過ぎてるから帰れ」と叱りつけた10分後にひょっこり職員室に顔を出してニコニコ笑っていた。
「…お前、さっき言われたこともう忘れたのか?」
「いや、覚えてるよ。先生だってもう帰ろうよー。俺、先生が下校してるとこ見たことないからさ、一回見たいんだよー」
「…玄関まで送るから、早く帰りなさい」
「はあ…先生学校に住んでんの?」
職員室からたった数メートルの生徒玄関までの距離を歩く間、「先生、明日の数学さ、俺あててもいいよ」「先生、飯食べた?」と屈託のない笑顔で喋り続けた。
「うわー、外、寒っ!駅まで走って帰ろ…センセー、バイバイ。また明日―」
鼻と頬を寒さで赤らめながら、高瀬は何度も何度も振り返って手を振りながら歩いて行った。
真っ直ぐ育ってきた健やかな子供、とはああいう生徒のことを言うんだろうか、と子供と言うにはだいぶ大人びている容姿をした高瀬を眺めながら思った。
どうやって補充教諭の任期である一年をやり過ごすかそればかり考えていた。
4月1日。赴任して早々、なぜか俺だけが校長室に呼ばれて、校長と教頭と3人だけで話すことになった。始めは出身大学だとか、住んでいる場所だとかについて質問されたが、本題は「2学年の生徒指導を受け持ってほしい」ということだった。
即座に「無理です」と思った。生徒指導なんて、引き受けたところで一つも良いことがないのは、勤務経験が無くてもわかっていたし、自分には到底無理だと思ったからだ。
教頭は、その代わり部活動顧問、学級担任、検定担当はすべて免除すると提案してきた。校長から渡された「校務分掌一覧表」は「改訂版 No.8」と書かれていた。
他の男性教諭は、と思ったが、みな教務主任、学年主任、生徒指導主任、環境整備主任、教科主任、体育連盟理事等、重要な役割を持っていた。ここには書かれていないが、さらに部活動顧問が他の教諭には追加される。
もう、今日は4月1日で、8回も改訂された校務分掌一覧表を見た後で、校長と教頭の顔をよく見ると、彼らは途方に暮れている様子だった。
だから断ることなどできるはずもなく、「…わかりました」と頷くことしかできなかった。
大声で怒鳴ったりすることが出来ない俺は、生徒の登校初日、取り敢えず服装を正しくさせることに専念することにした。「ネクタイは?リボンは?早くつけなさい」とやっていたら、体育主任に職員室で指導を受けた。
「浅尾先生さあ、ああいうのはもっと上から強めにいかないと。わかる?俺達もみんなそうやってきてるからさあ、お願いしますよ。本当に。生徒に嫌われたくないのもわかるけどさあ、仕事なんだから、もっと真面目にやってくださいね?」
…なるほど、俺も見張られているんだな、とその時思った。
そうは言われても体育会系の指導は出来ないし、と困惑していたら、数日後にはSNSで同級生を執拗に中傷した男子生徒の対応をしろと言われて、俺はその生徒ととりあえず二人で生徒指導室に入った。Twitterに自分の悪口を書かれている、写真も勝手に投稿されている、と被害にあった生徒から話は聞いていた。
暴言については「死ね」が大半を占めていたが、被害生徒の写真だけでなく名前や家の場所等個人情報も投稿されていて、見る人が見れば容易に誰のことが呟かれているのかわかる悪質なものだった。
事前に警察署から受け取ったその生徒のTwitterのスクリーンショット画像を見せながら、名誉棄損罪・侮辱罪にあたることを懇々と説明した。
「…そんな悪いことしましたか?」
面食らった。もう一度説明してから、「お前、自分が同じことをされても、そう言えるか?」と尋ねた。黙ったままだった。
俺は、大声で一喝したり、机をバンと叩いたりすることは出来ない。とりあえず、頭ごなしに叱られたから謝った、ということでは意味がないと思い、自分の口から説明させようと思った。話をして納得させようと。
「自分がされたら嫌なのに、相手には平気でそういうことをする。おかしくないか?」
「お前、さっきと言っていることが違うぞ。嘘をつくのはやめろ」
2時間程話した後、「…もう二度とするな。次、同じことをしても必ず見つける」と俺が言うと、ようやく納得してくれたようだった。
それにしても、最初のあの全く悪びれていない態度、一体どういう家庭環境で育ったんだろうと、担任に頼んで家庭調査表を見せてもらった。父、母、弟の四人家族で特に問題なし。
生徒名簿に載っている父親の携帯電話の番号にかけたら「母親の番号を教えるから、そこにかけてくれ」とすぐに切られた。
母親にかけると「よく、言っときますから、とりあえず主人の携帯にはもうかけないでください。…どうもすみませんでした」で終わった。
警察まで動いているのに?と思った。こんな家庭でも虐待・貧困等目に見える問題がなければ、それ以上学校側が踏み込むことは出来ない。
「人を虐めるにしてもさあ、バレないようにやれよ」と親から言われていようが、親とろくにコミュニケーションも取れず放置されていようが、きちんとした身なりで学校に来て、素知らぬ顔で教室に座られれば、そんなことが生徒の背景にあるなんて、分かるはずもない。
俺自身も母親からの仕打ちを誰にも言わず、学校に通い特別な配慮だとか指導を受けることなく卒業出来たのだから。
だから、悪いものは悪い、と平等に教えることしか俺には出来ない、とその時思った。
ただ、あとで「さっきのはやりすぎだったのでは?」と悩むこともあった。
その時は生徒指導主任に相談した。「難しいケースの場合は僕も同席しようか」「女子を指導する時は、室内に必ず女の職員を同席させた方がいいよ」「見回り一緒に行こうか」等、嫌な顔一つせず気にかけてくれた。なんとか、続けていける、と思ったし心からその先生のことは尊敬していた。
数学の授業を教えるのは、生徒指導よりもずっと楽しかった。
先輩の数学教師から「例題だけ解いて、あとは生徒に演習問題解かせるっていうのが基本のスタイル」と教えられたので、最初の授業でそれをやってみた。
…教師がいる意味がないと思った。ただ、黒板に書かれた公式を暗記して例題の通りに手を動かす。まるで計算ロボットだ、と思った。
たった一時間でもそんな授業をしたことを悔やんだ。
同じクラスで同じ授業をすることは二度とないのに、生徒の貴重な一時間を無駄にしてしまった。
その日から、教材研究で遅くまで残り、休日も有名予備校の講師の動画を見て、授業の内容を練った。
経済的な事情で塾に行けない生徒や、わからないことがあっても質問する勇気がない生徒、そもそも「やってもわからない」と諦めている生徒、いろいろな生徒がいるが、必ず自分の持ち時数で理解させたかった。
「先生は数学教えるの天才的にうまい」
「…そうか。それはどうも」
高瀬は頻繁に質問に来ては、よくそう言っていた。
彼は、授業中でも必ず教師からの発問に必ずアクションを起こす。
「あー、わかった!」「は?今のわかった?」「げー、なんで数学なのにサインとかタンジェントとか英語出てくるわけ?数字だけでやれよ」等。
と言っても、四六時中うるさいわけではなく、「今は授業序盤だから反応してもいいんだな」とは分かっているようで、黙ってほしい時は大人しく説明を聞いていた。
パッ見るとお調子者のように見えるが、その実周りのことがよく見えている、賢い生徒なんだと思う。
全教科でこのテンションを維持しているのだろうか、と思うこともあったが、たまに電池が切れたおもちゃのように机に突っ伏して寝ている時もあった。
そういう時、高瀬を起こすと、それだけでクラスメイトが笑う。
高瀬は男子からも女子からも人気があった。たぶん、どちらに対しても同じくらい人懐っこいからだ。
校長にすら「そのスーツどこのっすか?」と聞いているのを目にしたことがある。
いつも自分が無条件で人から受け入れられると信じているようだった。
何度、叱っても、大人を根っから信じているのか、不貞腐れることもなかった。
初め、高瀬のことは、よくいる「今どきの高校生」だと思っていた。
自分の仲間には優しく思いやりもあるが、それ以外にはドライで、「本気出すのはカッコ悪い」という感じの。
遅刻や服装違反等、ちょこちょこしたことで叱っていたから余計にそう思っていた。
けれど、よくよく観察していると、自然体でも、人を動かす力のある生徒だとわかる。
「高瀬が、センセー滑ってるよ、って言うの、あれ助かるよね」
職員室で他の教科の教師がそう言っているのを耳にしたことがある。
校内での公開授業を、高瀬のいる2年6組を指定して実施したがる教師は多かった。さすがに全員の希望が通ることはなかったが。
いつでも自分がでしゃばるというわけではなく、委員長が仕切っている時は自分はスッと引いていることが多い。
逆に委員長の仕切りがうまくいってない時は、自分が率先しておどけてみたり、とぼけてみんなを笑わせた後、「はい、イインチョーあとよろしく」とさり気なく助けている。
例えば、球技大会なんかで「円陣組もうよ」と女子が提案してそれに男子が乗り気じゃなかったとしても、「オイ、円陣組むってよ」と女子と男子の間に自ら割って入っていった。
地層観察の授業で、2学年全体が校外に出た時は、俺も引率に駆り出された。
6組の担任は、その日発熱で休んでいたので、俺が代わりに帰りのバスに同乗した。
その帰りの車内でのことだった。
「……先生、トイレしたいんすけど」
「…なぜ、バスが出る前に行かなかった?」
「お茶飲みすぎましたー、すいませーん」
グチグチ言いたかったが、トイレを我慢させるわけにはいかなかったので、運転手に謝ってバスを一度止めて貰うよう頼んだ。
幸い、快く了承してくれたので、「トイレ行きたい奴は、さっさとしてこい」と全体を促した。
高瀬が降りた後、数名が続いた。
高瀬がスタスタと歩いていく後ろを青白い顔でヨロヨロと着いていく女子がいた。高瀬の座っていた席と通路を挟んで隣の席に座っていた生徒だ。
思いのほかさっさと戻ってきた高瀬は、運転手に「あーとうざいましたー」とダラダラした言い方でお礼を言っていた。
叱りつけようと思っていたら、他の生徒も戻ってきた。高瀬はヨロヨロ歩いていた女子に、「窓開けないの?え?鍵硬くて開かなかった?」と聞いた後、「俺んとこ開くよ?変わる?」と席を交換していた。
のりもの酔い、だと俺もようやく気付いた。
いつ高瀬はそれに気ついたのかわからなかったが、当たり前のようにそうしていた。
二学期もようやく中盤に差し掛かる頃、俺は教職を続けるのも悪くないかもしれない、と思い始めていた。
しかし、意志とは裏腹に体力が限界に来ていた。
朝5時に目を覚ました瞬間「あと19時間経ったら眠れる」と思い、寝る前には「あと5時間したら起きないといけない」と思っていた。
そのような生活を続けているうちに、咀嚼するエネルギーが体から失われていることに気付いた。
一度、高瀬がクラスメイトと「先生、食べてー」と家庭科で作ったロールケーキを職員室に持ってきたことがあった。
見た瞬間、吐き気がした。なんとか顔を近づけたが、甘ったるい匂いに子供の頃の記憶が甦った。
母がフルーツ入りのロールケーキを作った日、「美味しい?ロールケーキ好き?」という問いかけに、「美味しい。一番はチョコレート味が好き」と答えたら、「じゃあ、こんなの作らなければよかった」と逆上された。
ロールケーキは取り上げられて、ゴミ箱にグチャグチャに捨てられた。
拾って食べれば許してもらえるのだろうか、と泣きながら、捨てられたケーキを取り出そうとしている、と祖母が部屋から出てきて外に連れ出された。
「どうして食べないの?」と言いたげな顔で生徒達は俺を見ていた。
食べない方が、食べた瞬間吐き戻すよりはずっとマシだと思ったが、罪悪感でその場から消えてしまいたかった。
「…やべー、うちの班だけ、流し台の片づけしてねー。エリ子、絶対キレてるよ」
高瀬がそう呟くと、他の生徒がクスクスと笑って俺の方を見た。
「浅尾先生、ハヤトが家庭科の先生呼び捨てにしてまーす」とでも、言うかのように。
「…エリ子先生と呼びなさい」
「エリ子、俺が呼び捨てで呼ぶと喜ぶよ。これホントだから!」
高瀬うるさい、と俺の向かいに座っていた教師が言うと、高瀬は「やべー、怒られてるから行くぞ」と一緒に来た男子生徒の背中を突っついた。
「センセー、うるさくしてごめんねー。食器あとでもらいに来るから」と出て行ってくれて心底ホッとした。
ロールケーキは養護教諭に「乳製品を取れないんです」と嘘をついて食べてもらった。
あの時、高瀬が空気を読んであえてそうしたのかはわからない。わからないが、ケーキを食べられなかったことは数年後に再会するまでずっと心残りだった。
このことがあったからなのか、「先生、お願いー」と言われた時断ることが出来ず、結局ずるずると高瀬の家に通い続けている。
…本当はわかっている。今では「高瀬に会う」という目的がないと、母に会う勇気が、自分にはもう無いということを。
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