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イフルート(1)
しおりを挟む到着口の前で待ち構えているのだから絶対に見逃すわけがなかった。それなのに大勢の他の客に紛れてルイはいつの間にかロビーへ出てきていたらしく、「よう」と後ろから俺の肩を叩いてきた。
「……どうしてそんな所にいる」
「はあ? だって、ここで待ち合わせだろ」
「そうじゃない。どうやって気付かれないよう出てきて、俺の真後ろに回り込んだ?」
「知らねーよ。前にも後ろにも同じ便から降りてきた人が大勢いて、やっと出てこられたと思ったらお前がいたから……」
自分よりも身長が低いルイのことをまじまじと見つめた。体つきも細く成人の男としては大きくない方に分類されるのだろうけど、出てきた乗客の中にはルイより小柄な女や子供だって大勢いた。たまたま周囲を大柄な人間だけで囲まれながら出てきたなんて、そんなことはあるだろうか。
俺はどうしてコイツを見逃したのだろう、一年間ずっとこうして会う日を待ち焦がれていたのに、と信じられない思いで唇を噛んだ。
「行こうぜ」
日本から中国まで遥々やって来たルイの荷物は、背負っているリュックサックだけでずいぶん身軽だ。ルイが早足でせかせか歩くせいで、俺は「待て、駐車場はそっちじゃない」と何度か呼び止めながら大股で追いかけなければいけなかった。
車まで戻る間にルイは「俺、中国に来るのは始めてなんだ」「すごいな」と目を輝かせる。その様子は約一年ぶりに恋人に会う、というよりは、一人旅のついでにかつての友人に会いに来た、に近かった。……ただ、ルイを信じて、ルイの暮らしや気持ちが落ち着くまで、と長い間放っておいたのがよくなかったのだろうか。
「……乗れよ」
「……ありがとう」
「Thank you」ではなく自然な「謝々」の発音に驚いて顔をあげると、ルイと目が合った。
「……少しだけ覚えたんだ。時間が足りなくて、本当に少しだけしか覚えられなかったけど」
あと、やたらと発音にうるさい教師がいなかったからな、と言った後ルイはニヤリと笑う。何か言い返そうと思ったが頭の中ではテキストを開きながら、何度も録音された音声を懸命に覚えようとするルイの姿が浮かんで、結局何も言えなかった。
◆
「……苦しい。こんなに食べたのは久しぶりだ」
季節が夏で着膨れしていない、という点を差し引いたとしても膨らみの全くない薄い腹に手をやってルイが呻いている。
「残せ、と俺はお前に何度も言った。意地になってあれこれ食べるからだ」
「俺だって、中国での食事のマナーはわかってる。本当にほんの一口だけを残そうとしたら、どんどん次を持ってくるから……」
交差点の手前で信号が代わるのを待ちながら、食事をした時のルイの様子を思い出していた。
ルイは知らない言葉を覚えることを好んでいるようだったが、食事についてはずいぶん保守的な男だった。チョコバーもオーストラリアの地ビールも、クセのない味を好んでいた。
留学していた頃の古い記憶だけを頼りに、日本からの観光客がぞろぞろ並んでいるようなレストランへ連れていった。
ボッタクリ、としか思えない値段を吹っ掛けてくるメニューばかりだが、実際食事をしてみると、日本人好みの味に仕上げてあることだけはよくわかった。
美味い、とルイが目を細めるのを間近で見るのは本当に久しぶりのことだった。この一年間、ルイの声を聞いたのだって数回程度だ。だが、箸を握る指も、髪の毛の一本一本も、相変わらず何もかもが細くて頼りない体つきをしたルイを見ているだけで、本物のルイが側にいるのだと実感出来た。
「これは中国語で何て言う?」
「……生煎」
「シェンジエン? 日本語では」
ヤキショーロンポー、とルイはさらっと口にした後、紙ナプキンでごしごしと口を拭った。ぎこちない「生煎」の発音とは違う、滑らかで自然な言い方。
俺達はお互いの母国の言語でコミュニケーションを取ることが出来ない。オーストラリアにいた頃から、言い合う時も、些細な事を話す時も、お互いの心の内を確かめあった時も、全て英語でやりとりを行っていた。
生まれ育った国が違うのだから、仕方がないことだが、英語を話さない、日本語を使うルイを見て、違和感を覚えるのもおかしな話だった。
「ハオチー」
親指を立てて、中国語で「美味しい」を伝えてくるルイ。
「……那挺好的」
「え? なんて言ったんだよ?」
俺の知らない中国語を使うな、と捲し立てるルイは最後に会った時と比べて、ずいぶん滑らかに英語を話すようになっていた。
◆
「……お前、今夜はどうするんだ」
「え!?」
シートベルトが無ければ助手席で飛び上がっていたかもしれない。それくらいルイは驚いていた。
「え、泊めてくれないの?」
「……いや、そのつもりだったが」
「なんだよー、ホテル代なんか持ってきてないっていうのに……。ビックリさせるなよ」
留学していたことによって他の学生より卒業が一年延びた、というルイはまだ大学に通っている。金をあまり持っていないと言うのは本当だろう。
「どんな所に住んでるんだ?」とルイは明らかに俺が一人で暮らす家に対して期待していた。「中国の金持ちって家もすごいのか?」と言うルイは何か誤解をしているような気がしたが放っておくことにした。
俺がどんな気でいるのかなんて知るはずもないルイは「楽しみだな」と助手席ですっかりリラックスしている。……気持ちが通じ合ったオーストラリアでの最後の夜よりももっと前、自分でも意識していない頃……八つ当たりのようにルイにキツイ態度を取っていた頃から、たぶん俺は、ルイのことをずっと欲していた。
お前、今晩二人で過ごすのが、どういうことかわかってんのか、そう言いかけて、やっぱりやめた。それを聞いたルイが嫌がって逃げ出すんじゃないか、と思ったわけではない。「部屋広い?」と呑気なことを気にしているルイは、そんな状況を全く意識していないんじゃないかとすら思えたからだ。
特に道が混んでいるわけでもなく、車は順調に進み、やがて家へと辿り着いた。
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