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『口が裂けても言えない』

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 ざらざらとしたコンクリートの上、ピントの合わないスポットライトがぼんやりと円を作っている。
 ピンヒールが円の真ん中に佇んでいる。それが、私だ。
 夜が明けるまで、ここが、ここだけが、私を輝かせる舞台になる。
 四十年間、私はこの街の主役だった、が。ただの一度だけ自らの意志で舞台を投げ出してしまったことがある。
 それはもう四半世紀は前のことである。春の生ぬるい風が不愉快に頬を撫でる日だった。春の空気というものは夏のそれよりずっと息苦しく、厭な心持ちにさせる。
 とはいえ、私はいつものように佇んでいた。
 道行くひとが円の縁に触れるのが、開演のブザーであり、彼は確かにブザーを鳴らしたのだが、私は声を出すことは愚か、口を開くことさえ出来ずに、見送ってしまった。
 彼は決して美しい男ではなかった。
 伏せられた瞼の上に乗った疲弊が流れて隈を作り、黒髪は睫毛に覆いかぶさるほど長く、身に纏った黒のスーツはくたびれていて通夜帰りによく似ていたが、その右手にはずっしりという言葉がよく似合うビジネスバッグが提げられていて、思わず時計を確認してしまいたいとさえ思わせる様子だった。
 だが、そんな男を見た私の双眸は彼の姿を追いかけ、機能しているのかわからない心臓の位置がはっきりとわかるほどに早鐘を打っていた。
 これが、恋か。
 私はたった数秒でそれを理解してしまった。
 季節を疑うほどに熱く火照った身体を鎮めてやろうと、分厚い深紅のコートを脱ぎ捨て、その場にしゃがみ込み、使い捨てマスクの上から口角が上がる口元を掌で押さえつけたあと、誰にも聞かれぬよう小さく笑いをこぼした。
 いっそ憎たらしい、私をこうまでさせたあの男が。
 ふと、顔を上げれば、新たな演者が私の舞台に立ち、「大丈夫ですか?」などと尋ねてきた。
 私の脳みそには落胆の文字が浮かび、と同時に目の前で求めていない男からの求めてもいない善行を見せられたことにこの上なく腹が立ち、私はそれに対してはただの一言もくれてやらずに、すっくと立ち上がると、打ち捨てられたコートに再び袖を通した。
 さて、どうやら舞台を辞めることは出来ないらしい。
 舞台に立たされた不憫な男は、先程の彼とは違い、色の抜けた髪を洒落た雰囲気でまとめており、それにすら腸が煮えくり返った。
 気まずそうに目を逸らした男にとびきりの笑顔を向ける。
 本来ならば、あの彼に向けていたかった顔だ。仕方がないからお前に向けてあげたのだ。

「ねえ、お兄さん」男がこちらを向いた。「私、綺麗?」
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