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水鳥彩花

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プロローグ

あなたと一緒なら

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 お気に入りの湯呑は、航海を始めたばかりの頃贈られたものだ。大輪の椿が「きみみたいだ」と言われ、柄にもなく自分でも時々手入れをするほどには気に入っている。
 白湯から伝わる熱で暖を取ろうと湯呑を握る指は、細い。白くしなやかで、傷一つない『女』の手を、雪愛ゆきあは恨めしそうに眺める。紛れもなく自分の手だ。その事実にうんざりするのは、もう何度目だろう。
 細い首筋。柔らかな二の腕。隠しきれない豊満な胸。締まった腰から臀部にかけての曲線。張りのある太腿。どれをとっても女性たちが憧れる理想の身体と言えるが、雪愛には不満しかない。
 彼は、男だからだ。
 熟した林檎と同じ色の唇を尖らせ、湯呑を置く。日が落ち、空が明日へ向けて準備をしだすこの時間は、不寝番以外は自室に戻っている。雪愛もそのひとりで、寝間着に着替え布団に転がったものの、どうにも寝付けず食堂【紫蘭しらんの間】へとやってきた。
「明かりもつけずに、どうしたんだい」
 聴き慣れてしまった低い声に、一度目を閉じると視界が明るくなる。返事はしなかったが、声の持ち主は断りもなく雪愛の隣へ座った。
桜海おうみこそ。小腹でも空いたの?」
「きみが居る気がして」
 頬杖を突き雪愛の顔を覗き込む美丈夫に、喉の奥がきゅっと締まるのを感じた。無駄なく鍛え上げられた肉体と、女受けする精悍な顔立ちを持つ桜海が、陸に足を着けば、町中の女性たちが浮かれ、男性たちは唇を噛んで悔しがる。
 しかし彼女は、女だ。
 男でありながら魅惑的な『女性』の身体の雪愛と、女でありながら女性を魅了する『男性』の身体の桜海。お互い、数日に一度こうやって、性別が変わる。
 そういう呪いにかかっている。
 今回は偶然同日だが、日によっては雪愛だけが変わることもあれば、桜海だけの時もある。
「なにか気掛かりなことでも」
 首を傾げるのと同時に、さらりとした前髪が彼女の目にかかった。手を伸ばそうとして、すぐに止める。
 厄介な身体との付き合いも、もう三年になるが、雪愛は未だに慣れない。対して桜海はもう気にも留めていないようだ。彼女は女性であっても男顔負けな凛々しい生き方をする人だから、見た目の変化など些細なことだと思っているのだろう。そんな人に、この身体が嫌だ、などと弱音を吐けるわけもない。
 朝が来るのが怖い。戻っていなかったらどうしよう。そう考えだすと、眠れないなんて、情けない悩みだ。
 弱く脆い心に重い蓋をして、桜海を見上げる。夜の水面を切り取ったような瞳が星空を反射しながら、雪愛の心を見つめるものだから、蓋がずれないように胸元をきつく握った。
「…‥ボクに言えないことなら、誰でもいい、ちゃんと吐き出しなよ」
 ふと、水面が波打った。彼女はいつも、引くのが早すぎる。雪愛が嫌がることはなるべくしないように、そう心がけているのだろうが、彼が欲しいのはそうじゃない。
 桜海には言いたくないが、桜海以外に縋るのも嫌だ。出来ることなら無理矢理抱き締めて、耳元で叫んで、ぐちゃぐちゃに暴いて欲しい。そんな自分勝手で矛盾だらけな欲望を抱くようになったのは、この身体になって一年と少し経ったあたりからだった。
 身体だけではなく、心まで『女』になっている。そう気付いた時、足元が途端に冷えた。自分が立っているのは、薄氷だったのだ。いつ分厚い氷の下に閉じ込められるか、わからない。
 桜海だってそうだ。元々口調も振舞いも男性的なところがあるから気付きにくいが、身体が『男性』の時は、雪愛の感情に鈍感だ。機嫌の悪さが露骨に出るし、面倒なことがあるとすぐに話を逸らしたがる。自分の非を認めないことも多い。ただ、その変化を強く感じるのは雪愛が『女性』の時だけ。いつもであれば『男』の桜海の対応に嫌気が差すこともない。それが、心まで染まっている決定的な証拠のように思えた。
「じゃあ、ひとつだけ」
 普段より高くて細くて、よく響く声。まるで春を告げる鳥のようだ、と彼女はよく褒めてくれるが、雪愛にはこの声が憎くて仕方がない時がある。上陸の度に桜海に群れる女たちと同じように聞こえるから。
「溺れたい」
 甘え、媚びるのが得意な音域だ。女に生まれただけで、こんなに愛される音を授けられるなんて。それを利用する自分が一番嫌だ。結局彼女たちと何も変わりはしない。彼女の視線を奪うために躍起になっている。
 固まった桜海に、貌を近付ける。鼻先が触れ合う距離でわざとらしく止まり、夜の水面を見つめた。
 涼やかな目元がほんの少し緩み、水面に月が溶ける。あ、今日はいける。そう思ったのも束の間、彼女は眉を顰めて身体を引いた。
「はあ…‥」
 大きなため息に、雪愛の華奢な肩が揺れる。桜海は雑な手付きで前髪を掻き上げ、非難するように雪愛を睨む。
「きみなぁ、巫山戯るなよ」
「大真面目ですけど」
 背凭れに身体を預け、腕を組んで視線を逸らす。今日も駄目か。
「おれが誘ってるのに乗らないの、あんたぐらいだ」
「おい、他の誰かに、こんなことしているのか」
「気に掛けるのはそこじゃないでしょ?あんたにしかしないよ、馬鹿なの」
 口喧嘩がしたいわけじゃないのに、気付いたらこれだ。止まらない言葉の応酬を、止めてくれる仲間はここには居ない。
「後悔するのはお互い様だろ」
「しないよ、したとしても、それはあんただけ」
「随分身勝手だね」
 愛する人と口付けることを望んで、何が悪いというのだ。それを身勝手とまで言われ、雪愛は目の前が真っ赤になった。残っていた白湯を飲み干し、いっそ割れてもいいという勢いでテーブルに叩き付ける。
「桜海は何もわかってくれない」
「何も言わないのはそっちだろ、ボクにばかり押し付けるなよ」
 心臓が何かに圧し潰されて小さくなってしまったみたいに、痛くて苦しい。圧迫された血管が今にもはち切れそうだ。もしかしたらもう切れてしまったかもしれない。でなければ、こんなに視界が赤いのはおかしいだろう。
「わかって欲しいものなの」
「あー、もう、やめよう」
「そういうとこ!不安なんだよ、おれは」
 いつもの桜海であれば、『女』の雪愛が声を上げても、冷静に根気よく、話を聞こうとしてくれる。理解しよう、雪愛の気持ちを汲み取ろう、心まで寄り添おうと、身を屈めてくれる。しかし今は、得体の知れない動物でも見るかのような目で見降ろし、さっさと話題を変えてしまおうとしている。
 それが今日は、どうしても気に入らなかった。
「大切にされているのはわかってる、でも、そうじゃなくて、っあ、くっ…‥ふぁっ」
「おいッ、大丈夫か」
 愛されているか、それが不安なんだよ。
 投げつけようと思った言葉が、そのまま雪愛の首を絞めた。唐突に気管が塞がり、口からも鼻からも酸素を受け付けない。喉を掻き毟り、喘ぐだけ。焦った桜海の声が、ガラス越しに聞こえる。
「っはあ、っん、…‥はー。くそ」
「きみが言いたいことは、わかったよ」
「うそ」
 一瞬で冷えた手で喉を摩る。もう違和感はない。いつも通り呼吸が出来る。
「今のは、そういうことだろう」
 苦しかったのは雪愛なのに、まるで自分が痛みを耐えるかのように眉を寄せる。見ていられなくて手を伸ばすが、彼女は何も言わずに躱した。
「やめよう」
 ふたりが掛かった呪いは、もうひとつある。
「きみが苦しんでいる姿は、見たくないんだ」
 それは、愛しい人に、その思いを伝えようとすると呼吸が止まる呪い。
「おれだって、そうだけど、でも」
 好き。
 可愛い。
 愛している。
 そんなありふれた言葉を口にすることが出来ない。
 手を繋ぐ。
 頬を撫でる。
 口付ける。
 そんな日常の欠片を拾うことも出来ない。
「このままじゃ、怖い」
 雪愛の瞳から涙が零れ落ちる。『女性』の今、涙腺はいつもの倍以上に緩みやすい。けれど桜海は、その涙を拭うことさえ出来ない。
「わかって、いるよ」
 絞り出された言葉に、首を振る。わかっていないだろう。わかろうとしてないくせに。言葉の代わりに、ぽろぽろ、雫が寝間着を濡らした。
「触れれば、我慢が出来なくなる」
「…‥しなくていい」
「雪愛、」
 自分を咎める言葉を聞きたくなくて、雪愛は立ち上がった。もう寝る。それだけ告げて、後ろを振り返らずに紫蘭の間を後にする。
 自分ばかり、弱くて、情けなくて、堪え性もない。惨めだった。強請って甘えて拒絶され、相手のせいにして勝手に怒り出し、『女』のせいにして涙を流す。『いつも』だったらこんな筈はない。と何度も言い聞かせたが、本当にそうだろうか。この女々しい姿こそが本来の自分なのではないか。
 早く朝になれ。でも、もし戻っていなかったら?ああ、もう嫌だ。何も考えたくない。こんな時こそ、彼女に抱き締めて欲しいのに。代わりに首元にぶら下がる指輪を、そっと握り締めた。

 残された桜海は、呆と湯呑を見つめていた。
 彼を泣かせた。泣いた姿など、見せない人なのに、それほどまで追い込んでしまったのか、と自分の拳を握る。太く節くれだった、固い手だ。雪愛の頭ぐらいすっぽり入ってしまいそうな大きさのくせに、彼を安心させるために髪を撫でることも出来ない。
「雪愛、」
 愛しい、愛しい名前だ。名前の通り雪のように白く儚く美しく、誰も彼も虜にする、愛されるために生まれてきた子。そんな神からの贈り物を、自分だけのものにしようと思ったから、こんな目に合っているのだろう。
「きみはボクの、紫雲英げんげだ」
 左手で目元を覆う。その薬指には、シルバーリングが嵌められるべきだ。船員たちのために如何なる時でも命を懸けると誓った証。それさえも、この手のせいで付けられない。いつ姿が変わるかわからない身体で指輪をつけていたら、失くしてしまうかもしれないから。
 全ては、呪われた自分のせいだ。
 けれどその過去を変えたいかと問われれば、首を振るだろう。この呪いは、彼を愛する象徴なのだから。
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