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イリョラ村

62.帰路(6月27日)

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リナレスの連絡所2階の部屋に転移した俺を出迎えたのは、扉が激しく叩かれる音だった。

「はいはい、今開けますよ」

呟きながら扉の掛け金を外す。

「カズヤ!どうしてすぐ出ない!」

扉の向こうには少し目を潤ませた黒髪の女性がいた。だいぶ長いこと扉を叩いていたのか、拳の、空手で言う拳鎚の部分が赤い。

「すまんな。今起きたところだ」

嘘である。起きてから2時間は経っている。

「そうか……てっきり死んだか行方を……ん?ちょっと待て。なんだか良い香りがするぞ。お前、服の汚れはどうした?」

しまった。カミラとの距離感はもっと遠いイメージだったから気を抜いていた。風呂に入って洗濯をしてきたとは言えないし、さてどうしたものか。

「気のせいだ。それよりもう出発するのか?」

「そうだが、いや、気のせいじゃないだろう!?」

顔を近づけようとするカミラを押し留め、そのまま治癒魔法を掛ける。ついでに浄化魔法でも掛けられたらいいのだが。浄化といっても悪魔退治的なあれではない。言葉どおり、カミラを綺麗にしてやりたいと思ったのだ。

「え、どうして治癒魔法を?」

「手が腫れている。血も滲んでいた。思わぬ感染症に罹患するかもしれないから用心のためだ」

「あ、ああ、そうか。ありがとう」

感染症という言葉に心当たりがあったのだろうか。カミラがすっと手を引っ込める。
ふむ。こういうカミラはちょっと調子が狂う。いつもの彼女に戻ってほしいものだ。

「それでは出発しよう。カミラ、荷物はいいのか?」

「いや、お前を待ってたんだろうが!」

そうそう、こんな感じだ。

ガミガミと罵られながら連絡所を後にした俺達は、リナレスの街を出た。
石造りの小綺麗な街だが、毎年夏から秋にかけて大きなネズミの被害に悩まされるという。今年も多くの若者が養成所からネズミ退治に駆り出されるのだろう。もし募集があるなら参加してもいいかもな。そう思えるぐらいには小綺麗な街だった。


◇◇◇

リナレスから州都アルカンダラへの帰路には特筆すべき事件や魔物との遭遇は起きなかった。だからカミラが口にする話題はどうしても先程の疑問と愚痴が入り混じったものとなった。つまり俺だけが風呂に入って洗濯していることへの文句である。
この世界には衛生観念というものが存在している。獲物を解体した後はもちろん、食事の前にも流水で手を洗うし、トイレも整備されている。中世ヨーロッパとは大違いだ。だからこそ時と場合が許せば水遊びや洗濯をしたがる。
これはカリナやカレイラだけかと思っていたが、カミラもそうなのだから一般的なことなのだろう。

「まったく、いつの間に水浴びを済ませたんだ。裏庭か?でもそんな気配はなかったし……」

御者席で手綱を握りながらぶつぶつと呟く怨嗟にも似た声を背中越しに聞くうちに、いい加減にイライラしてきた俺は本格的に浄化魔法を試すことにした。
汚れを落とすには水だ。水はほとんどの無機物、一部の有機物、例えば蛋白質や炭水化物、それに少量の脂溶性有機化合物でも溶かしてしまう。その溶解度は水の純度や状態に依存するが、彼女自身は水浴びを欲しているのだから水でいいだろう。
かと言って頭から水を浴びせるのは芸がない。魔法なのだから多少は物理法則を無視してでも快適性を追求すべきだと思う。
左手に荷台の泥をつけてから濃密な霧で包み、同時に治癒魔法で皮膚の新陳代謝を活性化させる。直後に風魔法で生み出した温風で吹き飛ばす。
ふむ。爪の間の泥まできちんと落ちているし水気も残っていない。濡れたという感覚も外気との温度差も感じない。改善の余地はあるが、まあ汚れを落とすだけなら十分だろう。

「カミラ、水浴びはできないが試してみるか?」

「なんだ?早くしろ」

本人の了解も得たことだし。
背中合わせの彼女の全身に浄化魔法を掛ける。当然俺もろともだが、まあ付き合ってやろう。

「うわっ!なんだこの霧は!」

霧に包まれたのはほんの一瞬。その霧を振り払う仕草を見せながらも手綱を離さなかったカミラを褒めるべきか。
振り返る俺と振り向くカミラの顔が至近距離に近づき、慌てて飛び退く。もちろん飛び退いたのは俺だけだ。
少し離れて見る彼女の姿は光り輝いて見えた。

◇◇◇

「なあカズヤ、さっきの魔法はなんだ?」

すっかり猫撫で声になったカミラだが、機嫌も治ってくれたようだ。よかったよかった。

「浄化魔法、服や身体の汚れを落とす魔法だ」

「そうか、浄化魔法か。まさか魔を払う浄化ではないだろうなぁ?」

「それは光魔法だろう。さっきのは水魔法と風魔法、それに火魔法だ」

「そうかそうか。火魔法もか。なぁカズヤ、火魔法は人間相手に使うものではないぞ」

うわぁ、猫撫で声のカミラがちょっと気持ち悪い。
だがそうなってしまうのも納得できるぐらい、彼女は美しくなった。艶やかな黒髪には天使の輪が浮かび、煤けていた肌にも艶が戻っている。女性相手に商売でも始めれば儲かるだろうか。口を開けたまま試してみたらだいぶスッキリするから、もしかしたら歯垢も落とせるかもしれない。虫歯になってからでは遅いのだ。

「そうだな。二度と使わない」

「いやいや、たまにな。そう、水浴びができない時になら私は嬉しいぞ?」

そうか。気に入ってくれたなら重畳なことだ。

◇◇◇

アルカンダラの養成所に着いた俺達はすぐに二手に別れた。カミラは校長室(養成所なのに校長とは違和感があるが、養成所所長は通称校長と呼ばれている)に、俺は自室の上の隠し部屋で眠っているはずのビビアナの様子を見に行く。
自室を離れてたった3日間、少なくとも3週間以上意識がないまま眠っているビビアナが快方に向かうとも考えられないが、それでも一眼見たかったのだ。校長への報告はカミラに任せておけばいい。どうせ後で事情聴取は受けるのだから。

鍵を開けるのももどかしく自室に飛び込む。天井の隠し階段が下ろされている。誰か来ているようだ。
階段を登った先のベットの横にはカリナが立っていた。そしてベットで体を起こすビビアナ。そう、体を起こしていたのだ。

「ビビアナ!目が覚めたか!」

思わず駆け寄るが彼女はこちらを見ようとはしない。その目は開いてはいるが光を宿してはいない。

「カズヤぁ。様子を見に来たら起き上がってて、でも声を掛けても揺すっても何の反応もないの……」

カリナの声が疲れ切っている。ずっと呼び掛けてくれていたのだろう。

「そうか……とりあえずもう一度寝かせよう。身体を起こせるぐらいになったのなら、心が戻ってくる兆しなのかもしれない」

そんなことがあるのだろうか。
ビビアナを寝かせながらそう自問する。
ありえない。意識不明の状態から目を覚さないまま身体を起こすなどありえない。身体に支障がないなら寝惚けたのかとも思うが、彼女の場合はそうではない。

彼女を寝かせ、開いたままの瞼を撫でて閉じさせる。
一応治癒魔法と、今日開発したばかりの浄化魔法を掛ける。3週間以上も寝たきりなのだ。床擦れもするし寝汗も出ているはずだ。
呼吸が安定するのを待って、カリナの手を取った。

「ありがとう。俺がいない間、様子を見ていてくれたんだな」

「うん。朝晩に顔を見にきてただけだけど。カズヤはいつ帰ってきたの?」

「ついさっきだ。真っ直ぐこっちに来た。報告にはカミラが行っている」

「カズヤも行ったほうがいいんじゃない?一緒に行こ」

「そうだな。何を報告してるか知れたものじゃない」

「そんなに酷い先生じゃないと思うけど」

数日ぶりに見たカリナの笑顔はやっぱり綺麗だった。
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