聖女と騎士のはなし

笑川雷蔵

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つむぎゆく名

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 心地よい風とやさしい陽光がうたた寝を誘う、ある日のこと。

 林立する本の壁をくぐり抜け、窓辺にある席を目指しかけ――そこにある姿を見とめて、ギルバートはわずかに漆黒の双眸を見張った。
「ダウフト?」
 ガスパール老と弟子のウィリアムが司書として務めるほかには、ギルバートを含めた数名が訪れるくらいの場所、それが書庫だ。六年前に騎士となり、東の砦へやってきた時にふたりの知遇を得て以来、日当たりも風通しも本を読むにいちばん適した席は、いつの間にか彼のための場所となっていたのだが。
 そこを堂々と占領し、机にうつぶせて安らかな寝息を立てているのは、まぎれもなく自らが守りを務める村娘だ。
「……いつの間に」
 本を手にしたまま、来るのが遅かったかとギルバートは嘆息する。

 剣の修練を済ませて書庫へ向かおうとしたところ、ちょっと待てと呼び止めるレオに出くわした。
 デュフレーヌ侯家のあかしたる、みごとな黄金の髪と秀麗な容貌は、あと数年も経てば乙女たちが頬を染めて眺めやるにちがいない。だというのに、かすり傷と膏薬とであちこちを彩った姿ときたら、権門の若君というよりはいたずらに明け暮れるやんちゃ小僧そのもので――レネやマリーが下す身も蓋もない評価の一因となっているほどだ。
 仏頂面の下で、そんなことを思っていたギルバートの前に突き出されたのは練習用の剣だった。鋼玉の双眸でこちらを見すえ、今日こそ砂地に這いつくばらせてやると息巻くわがまま侯子の姿に、どうやら昨日の修練で新たな黒星を加えたことがよほど悔しかったらしいと察する。
 <帰らずの森>で、小鬼のかしらを討ち取ったレオの実績は、首脳陣ばかりか兵士たちまでもが驚きをもって語るようになっていたのだが。どさくさに紛れて子守りを押しつけられた身としては、この騒々しい弟分を甘やかす気など毛頭なかった。
 望み通りに修練場へ取って返し、ものの十分で少年を砂地に沈めると、ギルバートはだからやめろって言ったのになと呆れかえる騎士見習いたちを呼ばわった。
 仰向けにひっくり返るレオを示し、アネット一押しの膏薬でもつけてやれと命じたあるじに、あれは馬用ですがとヴァルターが困惑した顔を見せる。向こう見ずホッツパーに人間の薬が足りるかと返し、そういえばそうかと少年たちが妙に納得しはじめるのをよそに、ギルバートは修練場から歩み去った。
 諸々の雑事に追われる中、ようやく勝ち取った貴重な休暇だ。久しぶりに書庫の穏やかな空気を味わいながら、ゆったりと本に触れるひとときを楽しもうと思えば――

「このありさまか」
 剣抱く乙女よアーケヴの救い主よと、ひとが求める聖女の姿など何のその。無防備に眠りこける村娘ときたら、日だまりでしあわせな夢に遊ぶ子犬か子猫のようだ。いつもの癖でつい説教を口にしかけて、ギルバートはかろうじて思いとどまる。
 この一月の間、<髪あかきダウフト>は<狼>たちとともに、北東部の住民を恐怖に陥れた魔物の討伐にかり出されていたのだ。
 砦からエーグモルトまで、十数日の行程を九日で駆け抜けた行軍の疲れを癒す暇もなく、一行はひとの血肉ばかりを狙う異形との対峙を余儀なくされた。
 雲上人の足の引っ張り合いに巻き込まれ、災禍に見舞われた村や町の住民たちからの突き上げを食らいながらもようやく魔物を討ち取れば、今度はそれまで安全な所に隠れ潜んでいた輩に手柄を横取りされる始末だ。
 恩賞はおろか、大公そのひとからねぎらいの言葉ひとつ賜ることもかなわず、一行がやっとの思いで東の砦へと帰り着いたのが一昨日のこと。そうした経緯を思えば、ダウフトがうたた寝をしていることそのものが、ここへ戻ってきたことに心から安堵している何よりのあかしに他ならなかった。
 仕方がないと呟いて、黒髪の騎士は村娘が陣取る場所から離れた席へ座ることにした。いくら自他ともに認める朴念仁とはいえ、眠り姫を無理やり叩き起こして場を立ち退かせるほどに野暮ではない。
 ダウフトの様子からして、当分は目覚める気配もなさそうだ。それに本を読んでいるうちに、席のことなどどうでもよくなってくるだろう。

 そう思っていたのだが――



 ごつん、と耳に届いてきた鈍い音が、熱風が吹きぬける南の砂漠や太古の竜が身を潜める東方の峻峰へとおもいを馳せていた心を引き戻す。
 かすかに息をつき、広げていた本を机の上に置くと、ギルバートは音のした方へとまなざしをめぐらせたのだが、

 ……何をしている。

 視線の先で、もそりと身を起こしたのはダウフトだった。寝ぼけた顔で額をさすっている様子からして、どうやらさっきの音が村娘と机との遭遇であったことを察する。
 野や森に満ちる緑を思わせる瞳をぼんやりと漂わせ、いやだ眠っちゃったと呟くダウフトが、ふと何かを思い出したかのように机の上に置かれたものへと手を伸ばした。
 どうするつもりかと見ていたギルバートの前で、およそ剣を持つにはふさわしからぬ手がペンを取りあげる。しばし楽しげにそれを見つめ、やや真面目な顔になって机へと向き直ると、
「鳥(avis)のA、指(biz)のB」
 ひとつずつ、ことばの響きを確かめるかのようにペンを動かしてゆく娘に、どうやら書き取りの練習をしているらしいことを知る。
 あのまま、うやむやのうちに終わったはずではなかったのか。いつぞや起きたささやかな騒ぎを、驚きとともに騎士は思い出す。

 たわいもないまじないを試したがったダウフトにせがまれて、それとは知らずに字を教えようとしたのだが。何の気なしに発した言葉にどういうわけか彼女は顔を赤らめたうえ、挑むようなまなざしを向けて書庫を出て行ってしまった。
 村娘の態度に首を傾げるばかりだった己の迂闊さを心底呪いたくなったのは、幼馴染と学僧の指摘――よりによって、赤子へ乳を含ませながらいのちの綴り名を与えるオードの女たちの秘密へ踏みこんだと知ってからだ。
 そんなことは何も言っていなかっただろうがと、反論を試みたとて無駄だった。
「もしオードでそんなことを聞いていたら、ただではすみませんでしたよ」
 娘さんの親類縁者によってたかって締め上げられるか、呑めや歌えやの祝宴が始まるかの綱渡りにも等しい率直さですとウィリアムには断言された。
「ダウフト殿のおじいさんも、かのならわしがもとで村で暮らすはめになった旅人だったそうです」
「それが守り姫につながったことを思えば、祖父殿に感謝しなくてはな」
 おぬしも見習ったらどうだと笑ったリシャールに、いらん世話だと即答したものの。
 俺にはまだ旅がとの哀願も虚しく、陽気な村人たちに麦袋よろしく担がれ田舎道を連れ戻されていったであろう男を思い浮かべて、ギルバートはげんなりとする。今はない小村で、騎士さまとやらがこんな田舎に何の用だいと値踏みするかのように彼を眺めたあと、わたしの死んだ亭主にゃちょっと劣るけど、まあ悪くないほうだねと遠慮のない評価を下してくれた老婆を併せて思い出したからだ。
 ともかくあの出来事以来、ダウフトの口から読み書きについて聞くことなどなかったというのに。

「猫(cath)のC、黒(du)のD……ええと」
 ギルバートがいることに気づかぬまま、うっかり者の孫娘はペンを動かし続ける。時々まぶたが下がりそうになっているのは、うららかな日射しと睡魔の甘い囁きに身をゆだねかけているからだろう。
「Gは」
 そっと呟いたダウフトの頭がかくんと揺れた。慣れないことをするからだと呆れつつ、自らも覚えのある戦いの行方を見届けようとした騎士だったが、
「麦(gwenith)、白(gwenn)……ギルバート」
 乙女と睡魔との攻防は、どうやら後者に軍配が上がったらしい。手からペンを放し、机にうつぶせになったかと思えば、唇からはまたもや規則正しい寝息がこぼれはじめる。
 あとに残されたのは、呆然とするしか術のない男がひとりだけ。
「どうして、そこで俺を出す」
 しばらく逡巡したのち、ギルバートは席を立った。どんな書き取りをしていたのやらと、ダウフトがいる席へそっと近づいて手元を覗きこみ――これまたじつに憮然とした顔になる。
 おそらく、ガスパール老かウィリアムの提案なのだろう。誰かが書き損じた紙の裏側を使って、ダウフトは表音文字と簡単なことばを覚えようとしたらしい。子供の手習いにも似た筆跡で、いくつかの言葉が書きとめられていたのだが。
 黒(du)やレオ(Leo)はまだいい、ことばそのものが短くて覚えやすいからだ。リシャール(Richard)やヴァルター(Walter)、レネ(Rene)にマリー(Marie)も合っている。

 なのにだ。
 ギルバート(Guilbert)の綴りだけを間違えるとは、どういうことだ?

「もっとよく見せろ、などと言っておきながらこれか」
 Gの次にくるuが抜けているし、bとlは逆さまだ。おまけにtの後に余分なeをつけている。
 なぜこうなるとぼやいたものの、最初に字を教えたときに、綴りを覚えようとしたダウフトを止めたのは他ならぬ彼自身であったことを思い出す。確かに、ひとの名前より自分の名前を覚えるほうが先だと言いはしたが、こうも堂々と間違えられてはかえって面白くない。
「uを入れて、bとlのl綴りを変えてeを消せば」
 合っているだろうに、と言いかけた声が途切れた。

 dからbへ変えるといい。それから最後にtを足してみるんだ。そうすれば――

 故郷の舘で、ダウフトよりもたどたどしい筆跡で綴りかたを習っていた幼い自分へ、名の由来を聞かせてくれた亡兄の穏やかなまなざし。呼び覚まされたあたたかな思い出を振り払おうとしたとき、
「にいさん」
 ふいに聞こえた声に、心裡を覗かれたような気がして思わず身をこわばらせたのだが、
「おべんとう忘れてる」
 寝言と察して息をついたギルバートをよそに、ダウフトはまた夢を漂うことにしたらしい。わずかに頭がかしいだとき、赤みがかった栗色の髪が陽光に照り映えさらりと揺れた。
 肩や背にゆったりと流れたならば、さぞ見事なことだろう。花や髪飾りのひとつも添えたならば、はねっ返りといえども少しははなやぎが出ようものを。
 けれどもあかがねの輝きを帯びた髪は、首のあたりでぷつりと切りそろえられたままだ。いたずらにひっかけた見ず知らずの男を兄と間違えて、はしゃぎながら飛び出してきた村娘の背で軽やかに弾んでいたお下げはどこにもない。名もなき村とそこに暮らしていた人々すべてが灰になったとき、ともに喪われてしまったからだ。

 本当ならば、ここにいるべき娘ではないというのに。

 <狼>の名を戴く男たちのように、戦うものとして務めを負うわけではない。レオやヴァルターのように、自ら望んで苛酷な世界に身を投じたわけでもない。
 いくら丈夫で働き者とはいえ、もとは棒きれひとつ振り回したこともない娘だ。それが鎖かたびらに身をよろい、名ばかりの聖女としていくさ場に駆り出され、挙句の果てには<ヒルデブランド>の主として立ちはだかる魔族とじかに対峙せねばならない。
 そんなダウフトを、エーグモルトに坐す司教や諸侯たちがいかに警戒しているかはよく知っている。以前は月に一度書き送っていた娘の動向を、次からは三度送るようにとギルバートへ命じてきたからだ。
 気まぐれな<母>が与えたまいし奇跡を手にすること能うものが、ダウフトだけという事実をどうあっても認めたくない者たちは、彼女をを貶め蔑むことで肥え太った自尊心を守り通したいらしい。
 先日の討伐もそうだった。
 冷たい雨に打たれ続けたことがもとで、熱を出したダウフトが馬から落ちかけたとき、ひなが分不相応にしゃしゃり出てくるからよと、多くの騎士や諸侯が娘を嘲笑った。彼らこそが最も、父祖より受け継いだ領地へ荒廃と死をもたらす災禍に怖れおののき、砦へ救いを求めておきながらだ。
 ダウフトの傍らに馬を進め、あるじの不調を敏感に察して落ち着かぬリーヴスラシルの手綱を押さえたとき――そらはしための飼い犬が来おったぞ、みじめに濡れそぼった毛皮の臭いがきつうてたまらぬわと、金銀や宝石をあしらった武具を携え豪奢な陣羽織を纏った男たちが嗤ったことなど、ギルバートにはどうでもよかった。
 できの悪い飾りものとはいえ、役目を終えるまであれに死なれては困るぞという、誰かのことばを耳にするまでは。

 ならば、その飾りものに怯えている輩は誰だ?
 いくさに倦んだ民を奮い立たせる旗じるしを、魔族どもの憎しみを逸らす身代わりをと、ちっぽけな娘を救国の聖女にしたてあげた輩は?
 本当ならば、わずか半月で収まるはずだった小競り合いが、さみどりの絹地に禍々しく広がる黒い染みのごとく、十数年の長きにわたってアーケヴ全土を覆う災厄と化すまで手をこまねいていた輩は?
 一昨年の戦いで、大公みずから率いる軍勢が魔族の盟主を討ち取ってさえいれば。彼らの報復がオードに及ぶような愚さえ犯さなければ、ダウフトが生命からがら砦へ逃げ込む必要などなかった。
 畑仕事を手伝い、糸を紡ぎ縫い物や料理を覚え、羊やひよこの面倒を見て、野や森へ遊びに出かけて。たまたま遭遇した仏頂面の騎士などすぐに忘れて、家族や近隣の人々に見守られながらささやかな幸せを選びとってゆくはずの娘だったのだ。
 それを。

 居並ぶ連中へ向かって口を開きかけたギルバートをとどめたのは、革手袋に包まれた手だった。振り返ればそこには、翳らされることのない輝きをたたえた双の新緑がある。
「こんど、奥方さまが香草焼きの作りかたを教えて下さるそうです」
 北の湖で採れた大きな魚、お腹に香草をいっぱい詰めて竃|《かまど》でじっくり焼いて。熱に浮かされているのかというギルバートの懸念をよそに、ダウフトは言葉を続ける。
「エーグモルトの兵隊さんたちにお話ししたら、そりゃ食べてみたいなって笑ってくれました」
 だから、早くお務めを済ませて砦に帰りましょう。そう笑った娘に、激しかけた心が凪いでゆくのを感じていた。代わりに、痛ましさともかなしみともつかぬ思いが静かな潮のように胸を浸してゆくことも。

「……どうしたら、笑うことができる?」
 あしたに望みをつなぐことなど、無駄に等しい戦乱のただなかにありながら。若枝を揺らすやわらかな風のように、青空に歓びを謳う小鳥のように。
 そうしてそれゆえに、非力な村娘は時として周りに変化をもたらすきっかけとなってゆく。
「何とかならないもんですかねえ、お偉い聖女さま」
 魔物を討ち取れぬままいたずらに日が過ぎていく中、エーグモルトから徴集されたある兵士が苛立ちまぎれに放った皮肉にすら、わたしもそう思ういますとやんわり応じてみせた。
「魔物の気配はないけれど、<ヒルデブランド>がずっとだんまりで」
 斧代わりにしたことをまだ根に持っているのかしらと呟いたダウフトと、唖然とした兵士との何とも対照的なさまときたら。
 あの斧って。ええそれはですね。村娘のこころに突き刺さるはずだった棘は、気の抜けるようなやり取りのなかで、いつの間にか周りの者を交えた話の輪へと変じていた。
 メリトのいちじくを知ってるかい、甘くてうまいって評判だぜ。いちじくに香草焼きもいいけどな、うちの女房が作るパイも最高だよ。おい何だ、強面が柄にもなくのろけてやがるのか。やかましい、かみさんと仲が良すぎて八人目をこしらえたおまえに言われたかないぜ。よせや、嬢ちゃんが真っ赤になってるだろうが。
 故郷や家族のことを口々に語るうちに、魔物が落とす昏い影にこわばっていた兵士たちの表情がやわらぎ、楽しげな笑い声さえ上がっていた。
 下賤の生まれどうし、話が合うようではないかとせせら笑った貴顕たちをよそに討伐は急な展開を見せ――幾本もの剣や槍を身体に突き立てた異形がようやく斃れたとき、熱狂したエーグモルトの兵士たちは幾度もダウフトの名を呼びつづけた。<ヒルデブランド>を解き放った代償に、力尽きた聖女へ届けとばかりにだ。
 いや増す歓呼へと冷めたまなざしを向け、勝手なものだと呟いたとギルバートに、だって同じですと腕に抱えた娘は青白い顔のまま笑ってみせた。なくしたくないものと。
 その表情に、砦に来たころのむごい姿が重なって――いいから喋るなと遮ることしかできなかった。
 長さが不ぞろいになった髪もそのままに、泥と煤にまみれた服の上からマントを被って震え。あふれかえった避難民の間を裸足でさまよい、家族の名を声が枯れるまで呼び続け。
 村から逃げのびた者を見たという流言にさえすがりつき。魔物の襲撃を警戒しかたく閉ざされた門から外に出ようとして番人に突き飛ばされ、うちにかえしてと幼子のように繰り返していたひとりぼっちの村娘。
 ただのダウフト、朗らかな野の花が雨風に打ちしおれ、ひとの身勝手さに踏みにじられることを、エクセターの田舎騎士はいつの間にか許すことができなくなっている。


 ふと、娘が伏せる紙面へと視線を落とした。
 間違いだらけの自分の名から離れたところに、上から何本も線を引いてある言葉に気がついた。最初の文字が「D」であることがかろうじて読み取れる。
「D、A……ダウフト(Dauft)か?」
 綴りはきちんと合っている。なのにどうして消す必要がと思いかけ、黒髪の騎士は村娘の呟きを思い出す。

 父さんと母さんがつけてくれた、でも<ヒルデブランド>に捧げてしまった名前。

 それがダウフトだ。いのちの綴りを明かすべき者が現れるまでの、かりそめの呼び名。ならばまことの名はと思いかけ、ギルバートは慌ててそれを打ち消した。
 また同じ失敗をしでかして、近頃何かと手を組むようになったふたりの友からつるし上げを食らってはたまらない。第一、ダウフトがそう簡単に教えるはずも――

 祝福されし臥所の向こうに、たおやかな姿を潜めるはひとりの乙女。
 暁の輝きと黄昏の安息をかぐわしき身に纏い、妙なる囁きに秘めた豊穣と永遠をゆだねる者を待ち続けている。

 わたしを探してください。
 深い森で聞いた村娘のことばこそが、ギルバートが不躾にも口にのぼせた問いに対する答え。いかなるものをも断ち切る剣はおろか、小賢しい理屈も謎めいた呪文も通用せぬ難解な試練を解き明かす鍵だ。
 小娘の世迷い事と一笑に付すこともできた。そんなに大切なものならば、みだりに喋るものではないだろうと止めさせることも。
 だが口をついて出た言葉は、どうやってなどという至極間の抜けた問い。それを言ったら試練になりませんと、情知らずの娘に笑ってはぐらかされたまま、結局今に至っている。
「俺は」
 望んでいるのか?
 母から母へと伝えられ、今となってはダウフトひとりが身の裡に守りつづける秘密が、やわらかな唇から明かされることを。
 <帰らずの森>で一度はそうしかけたように、娘を己がもとへ引き寄せておくことを?

 ふいに、ダウフトが目を覚ました。
 懐かしい故郷の夢を名残惜しげにとどめた春の緑が、騎士の姿を見とめるなり白(gwenn)じゃないわと笑みを含む。
「ギルバートは黒髪(duinn)だもの」
 えもいわれぬ表情に揺らぎかけた心を懸命に押し戻し、ギルバートは紙面を――間違えられたみずからの綴りを指し示した。
「Gの次にuを入れろ」
 忘れられた古いことばがもとだ。明けぬ夜の静寂がなべてを覆い尽くそうと、あえかに輝くしるべとして在りつづけるもの。
「bとlを逆にして、tの後につけたeを消せば」
 そうすれば――ほら。
「ギルバート(Guilbert)、『誓約』を意味する綴りになる」
 光射す室で、正しい綴りを書きとめてくれた亡きひとがそうしていたように。語る騎士をきょとんとして見つめていたダウフトの表情が、しだいに輝きに満たされていく。
「ギルバートは、約束っていう意味なんですか」
「似たようなものだ」
 ぶっきらぼうに応じたものの、どうやら綴りを間違えたことに彼が臍を曲げていることを村娘はすぐ見抜いたらしい。じゃあ、今度はちゃんと覚えますと明るく応じてきた。
「でもギルバートが教えてくれたら、もっとたくさん覚えます」
「それとこれとは話が違うだろう」
「だって、約束を間違えたらたいへんでしょう」
 この小娘に、言いようのない敗北感を覚えるのは何度目であるのやら。
 だが不思議と――それを不快と感じたことはない。

「だったら、そこに記した綴りをもう一度書きとめていろ」
「ギルバート」
「俺は外の懸案を片づけてから戻る」
 騎士の言わんとするところを察して、字を教えてくれるんですかとダウフトが満面の笑みを見せたとたん、何とも騒々しいものが書庫へと駆け込んできたのが分かった。エクセター卿はここかッと憤懣やるかたない少年の声に、書庫で騒ぐんじゃありませんといつになく毅然とした学僧の声が被る。
「レオったら、どうしたんでしょう」
 ただならぬ様子に、やさしい孤を描く眉を心配そうに寄せた娘へ、大したことではないと返してみせる。
「ホッツパーには馬用も効かんらしい」
「馬用?」
「膏薬だ」
 まあと呆れかえったダウフトへ、ひとのことよりもまず自分のことに集中しろと告げた。
「うっかり舟なぞこいで、机に額をぶつけないようにすることだな」
「あれは違いますっ」
 痛い邂逅を見られていたと知り、もっと字をよく見ようとしただけですとふくれる娘に背を向けて、ギルバートは書庫の入り口へと歩み出した。
 へらず口に、ようやく腕が追いつきはじめたわがまま侯子を再び沈黙させるには、半刻は必要だろう。そこから書庫に戻って、ダウフトに簡単な読み書きを教えるとしてもせいぜい一刻か二刻か。

 ゆったりと本を広げるひとときとは、当分めぐりあうことができそうにはなかったが。
 読み書きの合間に、いにしえの賢王とうるわしき王妃、騎士たちと戦乙女エイリイの物語を聞かせ、竜の血のごときほら話を吹き込んでダウフトを驚かせながら。
 いかなる勇士であろうとも、乙女から是と応じられねば解き明かすことすらかなわない、謎めいた試練の糸口を探してみるのも悪くない。

(Fin)
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