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一郎、ようやく気づく

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 誰が殺したんだ?
 一体、なぜ?

 昨日、刑事の高山から聞いた話は、仁美一郎の心をかき乱すのには充分過ぎるくらいの威力を持っていた。

(お前さんの両親は殺された。ふたりとも、全身の十数ヵ所を滅多刺しにされてな。ひでえもんだったよ。当時、俺はその事件を担当していた。あちこち手を尽くしたんだが……結局、犯人は捕まらなかった。事件は迷宮入りさ)
 
 俺はなぜ、その事を忘れていたのだ?

 記憶が徐々に甦り、己の内に眠っていた何かが目覚めていく。それと共に、これまでの自分の生活がどれだけ奇妙なものだったのかに気づかされたのだ。

 あの会社で、俺は何をやっていた?

 そう、自分はデスクワークをやっていた。主にパソコンに向かい、書類をチェックし、上司や部下と話し合い、時にはアルバイトの代わりに雑用までやっていた。
 だが、具体的な内容が思い出せない。書類をチェックした記憶はあっても、そこに何を書いたのかがわからない。上司と話した記憶はあっても、何について話したのかがわからない。
 さらに恐ろしいことに、自分はその事実を忘れていた。

 いや、違う。
 俺は見なかったことにしていたのだ。

 都合の悪い事実からは本能的に目をつぶり、耳をふさいできた。そうすることで、自分の幻の世界を守ってきた。世界の矛盾に気づいたが最後、綻びが生じてしまう。いったん生じた綻びはどんどん大きくなり、世界に亀裂をもたらしてしまうのだ。
 自分の造り出した世界が崩壊する。

 じゃあ、今まで見ていた物は全て幻だったというのか。

(五年前のあの日、お前さんは記憶を失っていた。その後、心の病気で入院したと聞いたぜ。だから、俺は何も言わなかった。お前さんが思い出したくねえのかと思ってな)

 高山の言葉を思い出す。
 心の病気で入院していた、そんな記憶は全くない。しかし、その話が本当だとしたら?
 自分の病気は、まだ治っていなかったのではないか? 病気が治らないまま、退院してしまった。そして、ここに住んでいる。ありもしない会社に毎日通い、居もしない同僚と話している。

 待てよ。
 高山が嘘を言っているとしたら?
 いや、あいつは刑事だ。俺に嘘を言ってどうするんだ?
 何のメリットがある?
 じゃあ、嘘を吐いているのは俺か?
 俺の壊れた脳が、嘘の映像を見せていたのか?

 一郎は膝を抱え、座りこんだ。体が震えている。何が何やらわからない。何が真実で、何が虚構なのか。全ての存在が危うい。何を信じればいいのか、さっぱりわからない。今までは、目で見たものや耳で聞いたものを疑う必要などなかった。
 自分の目で見たものしか信じない、そんな考え方の人間が存在する。しかし、その考え方は「自分の目は真実を映し出す」という条件があってこそ成り立つものだ。
 もし自分の目が、嘘つきだったとしたら?
 自分の目や耳すら信用できないのに、刑事だからという理由で高山の言うことを信じるのか?

 一郎は目をつぶり、布団に潜った。もう何もしたくない。何も考えたくない。これは夢だ。夢なのだ。明日になれば、きっと元通りの生活が待っている。そう、元通りの生活だ。羽場商事に行き、大森部長に叱られる。

 ちょっと待て。
 大森部長だけは、はっきりと覚えているじゃないか。
 俺は大森部長と何度も話したぞ。
 話した内容だって、ちゃんと覚えてる。

 ようやく、一郎の表情に明るさが戻る。そう、自分にはっきりと覚えていることもあるのだ。大森部長の存在である。学生時代はアメフトとレスリングに打ち込み、今もジムでのトレーニングを欠かさない男。大柄で筋肉質、しかし温厚な性格の持ち主だった。いつも穏やかな表情で話し、白いスーツを着ていた。

 白いスーツ?
 あり得ないだろうが。
 一般企業の部長が、白いスーツを着て仕事をするというのか?

 一郎の表情が、みるみるうちに歪んでいく。白いスーツ、そんな物を着て働くサラリーマンがいるのだろうか? 
 いるはずがない。繁華街のホストではないのだ。そんな物を着ていたらどうなるか、考えるまでもない。
 いや、それ以前に……。

 スーツじゃない。
 あれは、白衣だ。
 白衣を着ている、ということは……医師?
 大森医師?
 俺は、大森医師を知ってる!

 一郎の頭に、かすかな記憶が甦る。病院での生活中、一日に一回は大森医師と話をした。大柄な体を白衣で包み、優しい口調で話をする男だったのを覚えている。

(それは、君の過去と関係あるんじゃないかな。君にとっては、思い出したくない辛い記憶だろうけどね。しかし、いつか君は、その辛い記憶と向かい合わなくてはならない、と私は思う。私は、君には期待しているんだよ) 

 大森医師の言葉を思い出した。そう、自分はこの言葉をはっきりと覚えている。
 
 羽場商事など、存在しないのだ。
 自分は今まで、ずっと幻を見ていたのだ。
 覚めない夢の中で、生きていたのだ。




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