凶気の呼び声～狭間の世界にうごめく者～

陽一、仕事の話を聞く

　午前九時、西村陽一は何かに急き立てられるかのような勢いで目を覚ました。
　今までは、昼過ぎまで寝ていたはずなのに、近頃では妙に目覚めが早くなってきている。
　陽一は、昨日のうちに買っておいた野菜ジュースを一気に飲み干し、立ち上がった。居ても立ってもいられず、体を動かし始める。格闘技に関するエッセイを読んで得た知識に従い、まずはストレッチ、そしてシャドーボクシングを始めた。恐ろしいまでの緊張と不安と恐怖が、体を支配しようとしている。それらを振り払うため、陽一はひたすら体を動かし続けた。
　もっとも、体を動かす理由はそれだけではない。恐怖と同時に、ゾクゾクするような何かを感じてもいたり自分を動かし、せき立てるような何かの存在を強く意識していた。
　思い起こせば、今までの自分の生活はずっと平坦なものだった。山はないが谷もない。良いことも悪いことも、全てが小さな波なのだ。

（お前は毎日、ロクでもない生活してんだろう。一日の最大のイベントがエロ動画を見ること、みたいな……そんな生活してて楽しいか？）

　藤田鉄雄の言葉が甦る。確かに、今までの生活にはイベントと呼べるような出来事はなかった。一日の最大のイベントがエロ動画を見るような生活……それは本当につまらなく、下らないものだろう。しかし、今までの自分の生活は、本当につまらなく下らないものだったではないか。誰ひとり見向きもしない小説を、ひたすら書き続けているだけだった。
　でも、今は違う。
　自分の小説のアクセス数が低いことも、現在ニートであることも、他人とコミュニケーションが取れないことも、その他もろもろのコンプレックスも、将来の不安も、全てを忘れていられるのだ。

　陽一は、取り憑かれたような表情で、虚空にパンチを放つ。左のジャブ、右のストレート……心なしか、パンチのスピードが上がった気がする。拳に体重を乗せやすくなった気もする。さらに、疲れにくくなった気もする。
　自分自身の変化を、はっきりと自覚していた。心と体、そのふたつが変化しているのだ。何者かに変貌する瞬間を感じていた。



　朝食を終えると、陽一はテレビをつけた。相も変わらず、字幕だらけの画面に流れる下らないニュース……芸能人のスキャンダルやゴシップ。様々な事件。
　もう全て、どうでもいい話だ。

　まだ時間が余っていたので、念のためにパソコンのモニターを見る。自分の書いた小説……心血を注ぎ書き上げた作品に、何か変化があっただろうか？
　何も変わっていなかった。アクセス数はゼロ。評価はゼロ。感想もゼロ。お話にもならない。
　ふと、笑いがこみあげてきた。

　人生ってのは、おかしな方向に転がっていくんだな。
　僕は、何がしたかったんだ？
　ただ、小説を書いていただけだ。誰かに自分の存在を知ってもらいたい、そのためだけに書いた。
　そう、必死に誰も読まない小説を書き続ける……ただ、それだけの存在だったはずだ。
　それが、いつの間にか小説に登場する側の人間になっていた。
　人を殺し、死体を始末し、さらなる犯罪に手を染めようとしている。
　しかし、もう後戻りはできない。



　やがて、陽一は家を出た。駅の方向に向かい歩き続ける。小さい時から歩き慣れていたはずの道は、違う世界にも通じていたのだ。
　現実の怪物が潜んでいる、本物の異世界に──

　藤田鉄雄、そして廃墟で出会った天田士郎。あの二人は、現実に存在する本物の怪物だ。
　いや、あの廃墟にいたサラリーマン風の男も加えると……三人だ。
　あんな奴らのいる世界に、僕は行くのだ。



「おう陽一、来たか。まあ、そこに座れ」

　事務所を訪ねた陽一を出迎えたのは、火野正一であった。にこやかではあるが、昨日よりは緊張しているような面持ちである。

「あ、あの……藤田さんは……」

「ああ、今ちょっとな。それより、お前は本気なのか？　本気で俺らの世界に来るんだな？」

　その問いに、陽一は緊張した面持ちで頷く。

「やります。やらせて下さい。今の僕には、これくらいしかできそうにないです」

「そうか。なら、今のうちにざっと説明しておく。今回やるのは、タタキ（強盗のスラング）だ」

「たたき？」

　訝しげな表情を浮かべる陽一を見て、正一は苦笑した。

「タタキってのはな、強盗のことだよ。拳銃ブッ放して金をいただく。ただし、俺たちの相手はヤクザだがな」

「ヤクザ……ですか……」

　暗い表情になる陽一に、正一はニヤリと笑ってみせた。

「そう、ヤクザだよ。ヤクザの金だから、困るのはヤクザだけだ。そして殺すのもヤクザだけだ。どうだ、簡単だろ？」