上 下
39 / 73

一郎、混乱する

しおりを挟む
 目が覚めると、既に三時を過ぎている。
 昨日のうちに、休みの連絡を入れておいて正解だった。でないと無断欠勤になるところだ。正社員が無断欠勤など、シャレにならない。
 仁美一郎は、胸の中で呟きながら立ち上がる。まだ頭がふらつくが、それでも、だいぶ良くなった。明日には会社にも行けるだろう。
 あくびをしながら、テレビのスイッチを入れる。すると、両手両足をへし折られ目を潰された男が発見された、とのニュースを伝えてきた。これで三人目だという。若手芸人の覚醒剤所持使用事件の方が依然として扱いは大きいが、それでも猟奇的事件として報道されている。
 しかし、一郎にとってはどうでもいい話だった。自分の生活には、どちらも関係ない。

 俺はただ、普通に生きていければいい。
 ごく普通に。
 何者とも関わらず、静かに。
 今まで通り、誰とも話さずに。

 その時、一郎は違和感を覚えた。自分は何を考えているのだ? 自分は今までに、会社やそれ以外で色んな人間と話していたではないか。

 大森部長。
 事務員の女。
 刑事の高山。
 そして、あの女。
 待てよ。
 他の人間は?

 必死で思いだそうとした。会社で会ってきた大勢の人間、そのほとんどの者の名前を知らない。今までは、忘れたで済ませていた。いや、そもそも名前を忘れている事実すら忘れていた。
 そのことに、今まで疑問すら感じていなかった。

 どういうことだ?
 俺は一体、何者なんだ?

 違和感が、どんどん膨れ上がっていく。自分の存在が、非常に不安定な物の上に成り立っているような気がしてきた。何かの本で見た、古代インド人の世界観を思い出す。三匹の象が世界を支え、その象を巨大な亀が支え、さらにその亀をとぐろを巻いた巨大な蛇が支えていた。
 だが、その巨大な蛇がある日突然、支えるのを止めたとしたら?
 とぐろを巻くのをやめ、巨大な鎌首をもたげて自分を呑み込もうとしたら?

「バカバカしい!」

 思わず大声が出ていた。そう、バカバカしい話だ。自分は今まで、何の問題もなくやってきた。大学を卒業し、そして羽場商事に就職したのだ。

 俺は何を考えている?
 こんな狭い部屋にとじ込もっているから、おかしな事を考えるようになるんだよ。
 外を歩いてみよう。

 一郎は服を着替え、外に出た。いつの間にか、陽は沈みかけている。ほんの僅かな時間、考え事をしていたつもりだったのだが……時計を見ると、六時を過ぎていた。
 時間の感覚に、ズレが生じている気がする。自分の存在が、不安定な気もしていた。歩いていても、どこかふわふわしているのだ。一歩踏み出すたびに、地面が僅かに揺れるような気がする。



 気が付くと、あの公園に来ていた。吸い寄せられるように入りこむ。公園を歩き、ベンチに座った。
 ふと、あの巨大な遊具を見る。怪物の顔を模したようなデザインの滑り台。あの女と出会い、そして消えた場所。
 一郎は立ち上がり、遊具に付いた階段を昇る。周囲には誰もいない。一郎の行動を見ている者はどこにもいないのだ。
 だから、どんなことでもできる。
 誰も見ていない時ならば、人殺しでもできる。

 遊具の上に昇り、辺りを見回した。前の時は高山が話しかけて、ぶち壊しになってしまったが……今は誰にも邪魔されない。

 あの女は、何を見ていたのだろう。

「一郎」

 後ろから声が聞こえた。振り返るまでもない。彼女の声だ。
 ゆっくりと振り返り、彼女を見つめる。

「助けてください。俺は誰なんです?」

 思わず口をついて出た言葉だが、一郎は真剣だった。彼女以外、自分を救済できる者などいない。
 いや、自分だけではないのだ。自分を取り巻く世界……今までは何の問題もなく機能していたはずの全てが、崩壊の危機に瀕している。

 このままだと、全てが崩壊してしまう。
 俺は怪物に変わる。
 夢で見た、あの醜い怪物に変わってしまう。
 人間を貪り喰らう怪物に──

「一郎……私には、あなたを助けることはできない」

 女は哀しげな瞳で、一郎を見つめる。
 その時、確信した。目の前にいる女こそが女神なのだ。彼女以外に、自分を救える者はいない。彼女は知っている。一郎が何者であるのか。

「どうすれば、あなたと会えるんです? どうすれば会いに来てくれるんです? 教えてください」

「あなたは、本当に知りたいの?」

 女は哀しげな瞳で尋ねてくる。
 一郎は頷いた。自分が何者であるのか? 少し前までは、そんなことはどうでも良かった。
 だが、今は違う。

 俺は、誰なんだ?



 気がつくと、女は消えていた。
 一郎は、よろめきながら家に向かい歩いていく。これから、どうすればいいのだろう。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

さらば真友よ

板倉恭司
ミステリー
 ある日、警察は野口明彦という男を逮捕する。彼の容疑は、正当な理由なくスタンガンと手錠を持ち歩いていた軽犯罪法違反だ。しかし、警察の真の狙いは別にあった。二十日間の拘留中に証拠固めと自供を狙う警察と、別件逮捕を盾に逃げ切りを狙う野口の攻防……その合間に、ひとりの少年が怪物と化すまでの半生を描いた推理作品。 ※物語の半ばから、グロいシーンが出る予定です。苦手な方は注意してください。

地獄の渡し守

板倉恭司
ファンタジー
 彼の両目に映るのは、この世とあの世の境界線。神の怒りか、あるいは悪魔の慈悲か。死者の無念を晴らすため、あの世にきっちり渡します。渡し屋ニコライとその仲間たちが、無法者たちの住む監獄都市ゴーダムにて生き抜いていく姿を描いたダークファンタジーです。

殺し屋夫婦と人狼と異界人が遭遇した奇妙な事件

板倉恭司
ファンタジー
 お尋ね者の殺し屋・グレイと相棒のムーラン。ライカン族(人狼)だが気のいいチャック。異世界からやって来た男・ジョウジ。彼らは、とある場所で出会い……やがて奇怪な事件に巻き込まれていく。ミステリー色が強いファンタジーです。

動物帝国

板倉恭司
ライト文芸
 動物が登場する一話完結の短編集です。ゆるいものが大半ですが、たまにホラー風味強めな話もありますので、御注意ください。

外道猟姫・釣り独楽お京

板倉恭司
歴史・時代
 生まれ育った村を賊に襲撃され、村人や家族を皆殺しにされた上に、自らも両足を失ったお京。だが彼女は血の滲むような努力の末、超人的な腕力と神域ともいえる釣り独楽(つりごま)の技を身につけた。盲目だが杖術の使い手であるお花や、蘭方医学を学んだお七と共に旅に出る。外道猟姫(げどうりょうき)の殺し旅、とくと御覧あれ。 ※差別的用語が登場します。苦手な方は注意してください。また、釣り独楽とは現代のヨーヨーに近いものです。

必滅・仕上屋稼業

板倉恭司
歴史・時代
 晴らせぬ恨みを晴らし、のさばる悪党を地獄に送る。細工は流々、仕上をご覧じろ……舞台は江戸、闇の裏稼業・仕上屋《しあげや》の面々の生きざまを描いた作品です。差別用語が多く出てきます。また、全編に渡って暗く不快で残酷な場面が多々ありますので、そういった展開が苦手な方は、充分に注意して下さい。 ※登場人物 ・壱助  盲目の按摩。仕込み杖の使い手。 ・蘭二  蘭学者くずれ。お禄に付き添い、手助けする若者。綺麗な顔の優男だが、殺しの腕も悪くない。 ・お美代  顔に醜い傷を負う女。壱助の女房。竹製の短筒の名手。 ・権太  他者を寄せつけぬ不気味な大男。奇妙な拳法を使い、素手で相手を殺す。 ・お禄  仕上屋の元締。表の顔は、蕎麦屋の女主人。 ・ナナイ  権太と暮らしている謎の女。

悪魔に憑かれた男

板倉恭司
BL
 校内暴力が盛んな198X年。「ゴミ溜め」とさえ呼ばれる都内でも屈指の底辺高校に、ひとりの不思議な少年が入学する。後に日本最悪の少年犯罪として伝えられることになる「浜川高校・立てこもり事件」は、その時から既に始まっていた……残虐なシーンや鬱な展開があります。苦手な方はご注意ください。

復讐するは彼にあり~超獣戦線~

板倉恭司
ライト文芸
 そう遠くない未来の日本。  黒田賢一は、理由もわからぬまま目の前で両親を殺され、自らも命を落とす。だが賢一は、冥界にて奇妙な姿の魔王と取り引きし、復讐のため現世に舞い戻る。人も獣も超えた存在・超獣として──

処理中です...