堕天使が夢見た未来

板倉恭司

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九月五日 伽耶と讓治、奴と接触する

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「ねえ、何で黙ってるの?」

 尋ねたが、譲治は答えようとしない。無言で、じっと前を向いたままだ。その表情は、いつもと違い真剣だ。その顔からは、緊張感のようなものすら漂っている気がした。
 そんな譲治に向かい、伽耶は言葉を続けた。

「奴は、あたしたちがあの宿に泊まることを知っていた。どうしてだろうね」

「んなこと、俺にわかるわけないじゃんよう。むしろ、ラッキーかもしれんのにゃ。向こうから現れてくれるんなら、探す手間が省けるのん」

 ようやく口を開いた譲治。そこまでは、いつもの口調だった。しかし、次の瞬間に顔つきが変わる。

「向こうから来るんなら、今度こそ殺っちゃるのんな」



 ふたりは、泊まっていた民宿を一時間ほど前に出た。その後は車に乗り、山道を走っていた……のだが、今は道路脇に車を停めている。車内の空気は、あまりよくない。重苦しい雰囲気だ。
 昨日、宿の外に立っていた男がペドロであることは明白だ。にもかかわらず、譲治の口は重い。今朝から、一言も話そうとしないのだ。伽耶の方から話しかけてみても「ああ」「うん」という生返事ばかりである。そして今も、口を開こうとはしない。
 いい加減にしろ、という言葉が出かかったが、かろうじて喉元のところで押さえる。代わりに、努めて冷静な声を出した。

「何であいつを殺さなきゃなんないの? それも言いたくないってわけ?」

「はっきり言って、あいつはバケモンだよ」

 出てきた言葉は、おおよそ譲治には似つかわしくないものだった。そもそも、この男こそ常人離れした身体能力の持ち主なのだ。
 そんな譲治が、バケモンと評するとは……。

「バケモン? どういうこと?」

「あいつはね、人間じゃないんよ。はっきり言って、俺はあいつが怖い。あんな奴と、伽耶ちゃんを会わせたくないのんな」

 聞いている伽耶は、思わず溜息を吐いた。譲治のセリフから察するに、かつてペドロと殺り合ったことがあるらしい。具体的なことは教えてくれないが、あいつが怖いという一言だけで充分だった。

「じゃあ、あんたは……」

 言いかけた時のことだった。彼女は、反射的に譲治の腕を掴んでいた。
 前方から、ひとりの男が歩いて来るのが見えた。この辺りは、緑に覆われた田舎道だ。少し道路を外れると、そこは背の高い草と大木の生い茂る森である。
 そんな場所だというのに、男は何の荷物も持たず、作業服を着た格好ですたすたと歩いている。まるで地元民が散歩しているような気楽な顔つきだった。
 もっとも、希代の犯罪者であるこの男にとっては、何でもないことなのだろう。
 そう、ペドロ・クドーと思われる人物が、こちらに向かい真っ直ぐ歩いて来ていたのだ──
 いつのまにか、伽耶の体が震え出していた。一方、譲治は無言のままペドロを睨みつけている。今にも車から飛び出しそうな雰囲気だ。

「譲治、頼むから動かないで」

 震える声でそう言ったが、実のところ何も出来ずにいた。体は硬直し、思考はもやがかかったような状態だ。逃げることすら、頭に浮かばなかった
 その間にも、ペドロとの距離は、どんどん縮まって来ていた。今や、彼の表情までもが、フロントガラス越しにはっきりと見える。
 近くで見ると、実に不思議な男だった。はっきり言って、人相は悪い。しかも、全身から危険な香りを漂わせている。いつ爆発するかわからない不発弾のごとき匂いを、全身から発しているのだ。
 一方、それとは真逆の知性と品のようなものも感じさせる。表情は穏やかで、物腰も落ち着いていた。伽耶が、これまでに接してきたどの人物とも違うタイプだ。
 そんなペドロが接近するにつれ、車の中の空気もどんどん重苦しくなっている。悪魔のごとき男の体から発せられる危険な香りが異様な緊張感を生み出し、その緊張感が軽い息苦しさを生じさせていた。
 やがて、ペドロは立ち止まった。運転席のドアガラスのすぐ横で、じっと伽耶を見つめている。不思議な目だった。何もかもを呑み込んでしまいそうな、暗い瞳である。とてつもなく深い闇を秘めた目だ。目力などという、生易しいものではない。
 ギリシャ神話には、目から魔力を発して相手を石に変える怪物が登場するが、今の伽耶も似た感覚に襲われていた。彼からの視線に捕らわれてしまい、全身が硬直していたのだ。蛇に睨まれた蛙、という状態そのものであった。
 その時、讓治の動きが手に伝わってきた。同時に、ようやく我に返る。まずは、この男を止めなくては──
 だが遅かった。譲治は、既に車の外に出ていた。同時に、ペドロは視線を彼へと移す。
 ボンネットを挟み、睨み合う両者。伽耶は車内から、固唾を呑んで見守っていた。

「久しぶりだね、譲治くん。元気そうで何よりだ。再会できて嬉しいよ」

 まず口を開いたのはペドロだ。その口から出たのは、流暢な日本語だった。発音も完璧だ。どう見ても純粋な日本人ではないのに、アナウンサーのように完璧な話し方である。

「あのさあのさあのさ、ちいーっと聞かしてくんねえかな。伽耶ちゃんのことは、どこで知ったのん?」

 対する譲治の喋り方は、普段と変わらずふざけたものだった。しかし、伽耶にはわかっている。
 いつもの譲治とは違い、むきだしの殺意を感じるのだ。

「俺がその気になれば、調べるくらいわけないよ。彼女に連絡すれば、君が出てくることも調査済みだ。君に、是非とも手伝ってもらいたいことがあってね」

「ほうほう。てことは、あんたの目当ては俺だったてえわけかい。伽耶ちゃんは、俺を引っ張り出すためのエサってことかい」

「まあ、半分は正解だね」

「ふーん、そうなんだ。そいつぁ気に入らないにゃ。とりあえずさ、挨拶代わりにこいつを受け取ってちょうよ」

 呟いた直後、譲治は高く跳躍した。拳を振り上げた体勢で飛び上がったのだ。人間離れした身体能力で車のボンネットを飛び越え、ペドロへと襲いかかる──
 上空から殴りかかってきた譲治に、ペドロも素早く反応した。すっと動き、譲治のパンチを躱す。滑るようなフットワークであり、上体にもブレがない。まるで瞬間移動したかのようだ。
 しかし、譲治は止まらない。着地と同時に、ペドロを睨み低く唸る。端正な顔に、獰猛な野獣のごとき表情が浮かんでいた。
 と同時に、伽耶も車から降りる。

「譲治! ちょっと待って!」

 怒鳴りつけると、譲治の動きは止まった。だが、その目は油断なくペドロを睨みつけている。

「で、ペドロさん……あたしは結局、譲治を釣るためのエサだったってわけ?」

 伽耶の声は上擦っていた。足は微かに震えている。ヤクザを相手にしても怯まない彼女だったが、目の前にいる男は別格だ。

「それもあるが、君という人間を見てみたいという思いもあったのさ。会えて良かったよ」

 対するペドロの態度は、落ち着いたものだった。横にいる譲治は今にも襲いかかりそうな体勢だというのに、全く意に介していない。その目は、まっすぐ伽耶を見つめている。

「どういうこと?」

「君には、譲治くんの手綱を握っておとなしくさせておいていただきたい。譲治くんは、どうにも落ち着きに欠けるタイプのようだからね」

「はあ? ふざけんじゃねえよ。泣かすぞコラ」

 低い声で凄み、近づいて行こうとする譲治だったが、伽耶が手を上げて制した。

「今、話してんのはあたしだよ」

 途端に、譲治の動きが止まる。不満そうな表情を浮かべてはいるが、伽耶が睨みつけると目線を逸らした。
 次に伽耶は、ペドロの方を向く。

「じゃあ、あたしらに頼みたい仕事って何?」

「それは、追って知らせる。しばらくは、この白土市で観光を楽しんでくれたまえ」

「ちょっと待ってよ。報酬はいくら?」

「具体的な金額については、今はなんとも言えないな。ただ、満足いく額は用意できるはずだよ。加えて、君の父親の居場所を教えることも可能だ。これで、どうだろうね?」

 途端に、伽耶の表情が歪む。
 彼女は、最悪の環境で生まれた。父はヤクザにもなれない半端なチンピラで、まともな職に就かず犯罪に手を染めていた。母にいたっては、娘のことを無視して昼間から覚醒剤を打っているような女である。虐待こそされていなかったが、娘の存在すら目に入っていなかった、ということなのだろう。
 その上、伽耶が五歳になるかならないかの時に、両親は揃って姿を消した。今、どこで何をしているのかは不明だ。死んでいるのか生きているのかさえわかっていない。
 そんな過去を持つ伽耶の前に出されたペドロの提案……彼女は、少しの間を置き答える。

「わかった。引き受けるよ」

「それはありがたい。後のことは、追って知らせる」

 言ったかと思うと、ペドロは恭しく一礼する。
 次の瞬間、伽耶たちの横を通り過ぎていった。





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