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能見唯湖編
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わたしのゆめは、コスモナーフトになることです。
いちねんさんくみ のうみ ゆいこ
能見唯湖には、ひとつの夢があった。宇宙飛行士になることだ。
幼い頃に観たアニメ『コスモナーフト』。ロシア人と日本人のハーフの少女が、様々な困難に遭いながらも、宇宙飛行士になりたいという夢に向かって進んでいくストーリーだ。タイトルのコスモナーフトというのは、ロシア語で宇宙飛行士という意味らしい。
ほとんどの場合、夢というものは成長に伴い変化していくものだ。しかし、唯湖は違っていた。宇宙飛行士への情熱は、成長しても薄れることはない。理工系の大学に進学後、博士号を目指し必死で勉強に励む。余った時間は、肉体を鍛えることとアルバイトに費やす。遊ぶ時間など、全く無かった。
そんな唯湖を、悲劇が襲う──
それは、バイト帰りのことだった。原付バイクに乗り、自宅へと向かっていた。時刻は、夜の十一時である。
突然、目の前の交差点で事故が起きた。赤信号を無視した車が突っ込んできての正面衝突である。
さらに、ぶつかった車がこちらにまで突っ込んで来た──
いつもの唯湖なら、どうにか避けられたかもしれない。だが、彼女の肉体は疲労の極みにあった。突っ込んで来た車を避け切れず、事故に巻き込まれてしまう。
唯湖は、意識を失った──
意識を取り戻したのは、実に半年後である。目を覚ました時、彼女の肉体は弱りきっていた。半年に渡る昏睡状態のため、全身の筋肉は落ちていた。立ち上がることすら、ままならない。
しかも、左の前腕もなくなっていた。突っ込んできた車に潰されてしまったのだという。
事故を起こしたドライバーは、車の中で死亡していた。車に乗る前、酒を浴びるほど飲んでいたところを目撃されていたという話だった。
退院した後、唯湖はアパートの一室に引きこもるようになっていた。
もう、何も考えたくなかった。自分に落ち度はなかったはずなのに、酔っ払い運転の事故に巻き込まれて左腕を失ってしまったのだ。
いや、左腕だけではない。夢も失われてしまった。半年間の昏睡状態は、唯湖から様々なものを奪っていった。これまで積み重ねてきた実績、蓄えてきた記憶、学んできた知識、そのほとんどは昏睡状態の間に脳から消えていた。
唯湖は大学を辞め、生活保護を受給する。何をするでもなく、毎日ぼんやりと過ごすようになった。外出といえば、時おりコンビニに買い物に行く時と銀行で金を降ろす時だけ。人との接触など、ほとんどないはずだった。
ところが、そんな生活の中で悪魔と出会ってしまう。
ある日、コンビニの買い物から帰ろうとしていた時だった。唯湖は、道に停めてあった自転車にぶつかり倒してしまう。
片手で、倒れた自転車をどうにか起き上がらせようとした。だが、日頃からの運動不足がたたり筋力も低下している。起こすことが出来ない。
その時だった。
「大変そうだね。俺も手伝うよ」
言いながら、一緒に自転車を起こしてくれた男。髪を金色に染めており、不健康そうだが綺麗な顔立ちをしている。
久しぶりの他人との接触に、唯湖は戸惑い、何も言えず俯いた。すると、男は心配そうに顔を近づけてくる。
「ねえ、大丈夫?」
「は、はい! 大丈夫です!」
上擦った声で、返事をしていた。
対する男は、クスリと笑う。つられて、唯湖も笑った。
久しぶりに笑った気がした。
その男・伊藤誠と唯湖は親しくなり、急速に距離を縮めていく。チンピラのような風貌に似合わず優しくマメな誠に、唯湖は夢中になっていた。学生時代は夢に向かい一心不乱で、恋愛経験に乏しかったせいもあるだろう。ほどなくして、ふたりは男女の仲になる。
だが、それは悪魔の罠だった。誠には、もうひとつの顔があったのだ。
誠の本業は、覚醒剤の売人である。
この男には、妙な才能があった。精神的に弱っている人間、言いなりになりやすい人間をすぐに探知できる鋭い嗅覚である。
今回も、その嗅覚を発揮し唯湖に声をかけたのだ。知り合った後は、言葉巧みに彼女との距離を縮めていく。他に会話する人間のいない唯湖は、あっさりと誠の言いなりとなった。
そんなある日、誠は唯湖の前で小さなビニール袋を見せる。中には、砕いた氷砂糖のような粉末が入っていた。
さすがに唯湖も、本物の覚醒剤を目にした時はさすがに顔を引き攣らせ拒絶する。だが、誠は諦めない。
「あのな、こんなもの酒と同じだよ。酒だって、一時は法で禁止されてた時代があったんだぜ」
「精神科に行けば、向精神薬ってものもある。それと同じだよ」
「テレビとかに出てくるシャブ中のイメージは、みんな作られたものなんだよ。あんなもの、マスゴミが極端な例だけを取り上げているのさ」
こんな言葉を並べ立てる。
唯湖の心は揺れていた。彼の言葉は、どこか嘘っぽいような気がする。だが、きっぱり拒絶すれば誠の機嫌を損ねてしまう。
もし誠を失ったら、自分を待っているのは……また、ひとりぼっちの世界だ。何もない、無色で無味無臭の世界。
「とにかく、これ吸ってみなよ。全然たいしたことないから」
そんなことを言いながら、ガラス製のパイプを取り出す。中には、氷砂糖のような結晶が入っている。
誠は、ライターでパイプを炙った。すると、結晶は煙になる。
そのパイプを突き出してきた。
「さあ、吸ってみな。本当に、たいしたことないから」
今の唯湖に、逆らう術はない。パイプをくわえ、煙を吸った──
・・・
「以来、私はずっと薬物に溺れる生活をしていました。もう、思い出したくもない日々です……」
そこで、唯湖は言葉を止める。
彼女は今、男三人とともに近くのカラオケボックスに入っていた。神妙な顔つきで、口を挟まず話を聞いている。
少しの間を置き、唯湖はふたたび語りだした。
「やっとわかりました。薬物を断たない限り、私は人として生きることすら出来ないんです。だから、やめなきゃならない――なのに、私は……」
その時、中年男がようやく口を開いた。
「はっきり言っておく。肉体、精神ともに鍛え抜かれたアスリートの中にも、薬物に溺れてしまった者がいる。あんたがどんなに強くなろうが、薬物との闘いは一生続くだろう」
厳しい口調だった。そこに、嘘偽りは感じられない。唯湖は圧倒され、黙ったまま聞いていた。
「俺に出来ることは、あんたの意識を薬物から逸らせること、薬物をしなくて済む時間を提供すること、あの誠とかいう男程度なら叩きのめせるくらいの強さを与えることだけだ。やるか、やらないか、それはあんた次第だよ」
そこで、中年男は大男を手のひらで指し示す。
「この男は荒川元司、俺が指導員を務めるジムの会長だ。現役のプロレスラーゆえ、試合があればそちらを優先する。したがって、ほとんどジムにはいない」
言った後、中年男は若者を指し示した。
「こっちのヘラヘラした若僧は田原草太、便利屋をやっている。また、ジムの運営を手伝ってくれてもいる。見た目は頼りないが、やるとなったらキッチリやり遂げる男だ」
その言葉に、田原と呼ばれた青年はすぐ反応した。中年男をじろりと睨み、口を開く。
「ちなみにさ、このおっかない顔のオヤジは黒崎健剛。さっきも言った通り、空手五段だよ。無愛想で不細工だけど、悪い奴じゃないからさ。それに、ベラボーに強いよ。ブラボーってスタンディングオベーションしちゃうくらいの腕前さ」
軽口を叩いたが、黒崎は取り合う気配がない。その瞳は、まっすぐ唯湖をみつめている。
「あんたがジムに来るというのなら、俺はやれるだけのことはする。あんたを特別扱いはしないが、差別もしない。俺に言えるのは、それだけだ。決めるのは、あんただよ」
いちねんさんくみ のうみ ゆいこ
能見唯湖には、ひとつの夢があった。宇宙飛行士になることだ。
幼い頃に観たアニメ『コスモナーフト』。ロシア人と日本人のハーフの少女が、様々な困難に遭いながらも、宇宙飛行士になりたいという夢に向かって進んでいくストーリーだ。タイトルのコスモナーフトというのは、ロシア語で宇宙飛行士という意味らしい。
ほとんどの場合、夢というものは成長に伴い変化していくものだ。しかし、唯湖は違っていた。宇宙飛行士への情熱は、成長しても薄れることはない。理工系の大学に進学後、博士号を目指し必死で勉強に励む。余った時間は、肉体を鍛えることとアルバイトに費やす。遊ぶ時間など、全く無かった。
そんな唯湖を、悲劇が襲う──
それは、バイト帰りのことだった。原付バイクに乗り、自宅へと向かっていた。時刻は、夜の十一時である。
突然、目の前の交差点で事故が起きた。赤信号を無視した車が突っ込んできての正面衝突である。
さらに、ぶつかった車がこちらにまで突っ込んで来た──
いつもの唯湖なら、どうにか避けられたかもしれない。だが、彼女の肉体は疲労の極みにあった。突っ込んで来た車を避け切れず、事故に巻き込まれてしまう。
唯湖は、意識を失った──
意識を取り戻したのは、実に半年後である。目を覚ました時、彼女の肉体は弱りきっていた。半年に渡る昏睡状態のため、全身の筋肉は落ちていた。立ち上がることすら、ままならない。
しかも、左の前腕もなくなっていた。突っ込んできた車に潰されてしまったのだという。
事故を起こしたドライバーは、車の中で死亡していた。車に乗る前、酒を浴びるほど飲んでいたところを目撃されていたという話だった。
退院した後、唯湖はアパートの一室に引きこもるようになっていた。
もう、何も考えたくなかった。自分に落ち度はなかったはずなのに、酔っ払い運転の事故に巻き込まれて左腕を失ってしまったのだ。
いや、左腕だけではない。夢も失われてしまった。半年間の昏睡状態は、唯湖から様々なものを奪っていった。これまで積み重ねてきた実績、蓄えてきた記憶、学んできた知識、そのほとんどは昏睡状態の間に脳から消えていた。
唯湖は大学を辞め、生活保護を受給する。何をするでもなく、毎日ぼんやりと過ごすようになった。外出といえば、時おりコンビニに買い物に行く時と銀行で金を降ろす時だけ。人との接触など、ほとんどないはずだった。
ところが、そんな生活の中で悪魔と出会ってしまう。
ある日、コンビニの買い物から帰ろうとしていた時だった。唯湖は、道に停めてあった自転車にぶつかり倒してしまう。
片手で、倒れた自転車をどうにか起き上がらせようとした。だが、日頃からの運動不足がたたり筋力も低下している。起こすことが出来ない。
その時だった。
「大変そうだね。俺も手伝うよ」
言いながら、一緒に自転車を起こしてくれた男。髪を金色に染めており、不健康そうだが綺麗な顔立ちをしている。
久しぶりの他人との接触に、唯湖は戸惑い、何も言えず俯いた。すると、男は心配そうに顔を近づけてくる。
「ねえ、大丈夫?」
「は、はい! 大丈夫です!」
上擦った声で、返事をしていた。
対する男は、クスリと笑う。つられて、唯湖も笑った。
久しぶりに笑った気がした。
その男・伊藤誠と唯湖は親しくなり、急速に距離を縮めていく。チンピラのような風貌に似合わず優しくマメな誠に、唯湖は夢中になっていた。学生時代は夢に向かい一心不乱で、恋愛経験に乏しかったせいもあるだろう。ほどなくして、ふたりは男女の仲になる。
だが、それは悪魔の罠だった。誠には、もうひとつの顔があったのだ。
誠の本業は、覚醒剤の売人である。
この男には、妙な才能があった。精神的に弱っている人間、言いなりになりやすい人間をすぐに探知できる鋭い嗅覚である。
今回も、その嗅覚を発揮し唯湖に声をかけたのだ。知り合った後は、言葉巧みに彼女との距離を縮めていく。他に会話する人間のいない唯湖は、あっさりと誠の言いなりとなった。
そんなある日、誠は唯湖の前で小さなビニール袋を見せる。中には、砕いた氷砂糖のような粉末が入っていた。
さすがに唯湖も、本物の覚醒剤を目にした時はさすがに顔を引き攣らせ拒絶する。だが、誠は諦めない。
「あのな、こんなもの酒と同じだよ。酒だって、一時は法で禁止されてた時代があったんだぜ」
「精神科に行けば、向精神薬ってものもある。それと同じだよ」
「テレビとかに出てくるシャブ中のイメージは、みんな作られたものなんだよ。あんなもの、マスゴミが極端な例だけを取り上げているのさ」
こんな言葉を並べ立てる。
唯湖の心は揺れていた。彼の言葉は、どこか嘘っぽいような気がする。だが、きっぱり拒絶すれば誠の機嫌を損ねてしまう。
もし誠を失ったら、自分を待っているのは……また、ひとりぼっちの世界だ。何もない、無色で無味無臭の世界。
「とにかく、これ吸ってみなよ。全然たいしたことないから」
そんなことを言いながら、ガラス製のパイプを取り出す。中には、氷砂糖のような結晶が入っている。
誠は、ライターでパイプを炙った。すると、結晶は煙になる。
そのパイプを突き出してきた。
「さあ、吸ってみな。本当に、たいしたことないから」
今の唯湖に、逆らう術はない。パイプをくわえ、煙を吸った──
・・・
「以来、私はずっと薬物に溺れる生活をしていました。もう、思い出したくもない日々です……」
そこで、唯湖は言葉を止める。
彼女は今、男三人とともに近くのカラオケボックスに入っていた。神妙な顔つきで、口を挟まず話を聞いている。
少しの間を置き、唯湖はふたたび語りだした。
「やっとわかりました。薬物を断たない限り、私は人として生きることすら出来ないんです。だから、やめなきゃならない――なのに、私は……」
その時、中年男がようやく口を開いた。
「はっきり言っておく。肉体、精神ともに鍛え抜かれたアスリートの中にも、薬物に溺れてしまった者がいる。あんたがどんなに強くなろうが、薬物との闘いは一生続くだろう」
厳しい口調だった。そこに、嘘偽りは感じられない。唯湖は圧倒され、黙ったまま聞いていた。
「俺に出来ることは、あんたの意識を薬物から逸らせること、薬物をしなくて済む時間を提供すること、あの誠とかいう男程度なら叩きのめせるくらいの強さを与えることだけだ。やるか、やらないか、それはあんた次第だよ」
そこで、中年男は大男を手のひらで指し示す。
「この男は荒川元司、俺が指導員を務めるジムの会長だ。現役のプロレスラーゆえ、試合があればそちらを優先する。したがって、ほとんどジムにはいない」
言った後、中年男は若者を指し示した。
「こっちのヘラヘラした若僧は田原草太、便利屋をやっている。また、ジムの運営を手伝ってくれてもいる。見た目は頼りないが、やるとなったらキッチリやり遂げる男だ」
その言葉に、田原と呼ばれた青年はすぐ反応した。中年男をじろりと睨み、口を開く。
「ちなみにさ、このおっかない顔のオヤジは黒崎健剛。さっきも言った通り、空手五段だよ。無愛想で不細工だけど、悪い奴じゃないからさ。それに、ベラボーに強いよ。ブラボーってスタンディングオベーションしちゃうくらいの腕前さ」
軽口を叩いたが、黒崎は取り合う気配がない。その瞳は、まっすぐ唯湖をみつめている。
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