奴らの誇り

板倉恭司

文字の大きさ
上 下
15 / 24
能見唯湖編

過去

しおりを挟む
 わたしのゆめは、コスモナーフトになることです。
 いちねんさんくみ のうみ ゆいこ


 能見唯湖には、ひとつの夢があった。宇宙飛行士になることだ。
 幼い頃に観たアニメ『コスモナーフト』。ロシア人と日本人のハーフの少女が、様々な困難に遭いながらも、宇宙飛行士になりたいという夢に向かって進んでいくストーリーだ。タイトルのコスモナーフトというのは、ロシア語で宇宙飛行士という意味らしい。
 ほとんどの場合、夢というものは成長に伴い変化していくものだ。しかし、唯湖は違っていた。宇宙飛行士への情熱は、成長しても薄れることはない。理工系の大学に進学後、博士号を目指し必死で勉強に励む。余った時間は、肉体を鍛えることとアルバイトに費やす。遊ぶ時間など、全く無かった。
 そんな唯湖を、悲劇が襲う──



 それは、バイト帰りのことだった。原付バイクに乗り、自宅へと向かっていた。時刻は、夜の十一時である。
 突然、目の前の交差点で事故が起きた。赤信号を無視した車が突っ込んできての正面衝突である。
 さらに、ぶつかった車がこちらにまで突っ込んで来た──
 いつもの唯湖なら、どうにか避けられたかもしれない。だが、彼女の肉体は疲労の極みにあった。突っ込んで来た車を避け切れず、事故に巻き込まれてしまう。
 唯湖は、意識を失った──



 意識を取り戻したのは、実に半年後である。目を覚ました時、彼女の肉体は弱りきっていた。半年に渡る昏睡状態のため、全身の筋肉は落ちていた。立ち上がることすら、ままならない。
 しかも、左の前腕もなくなっていた。突っ込んできた車に潰されてしまったのだという。
 事故を起こしたドライバーは、車の中で死亡していた。車に乗る前、酒を浴びるほど飲んでいたところを目撃されていたという話だった。
 
 退院した後、唯湖はアパートの一室に引きこもるようになっていた。
 もう、何も考えたくなかった。自分に落ち度はなかったはずなのに、酔っ払い運転の事故に巻き込まれて左腕を失ってしまったのだ。
 いや、左腕だけではない。夢も失われてしまった。半年間の昏睡状態は、唯湖から様々なものを奪っていった。これまで積み重ねてきた実績、蓄えてきた記憶、学んできた知識、そのほとんどは昏睡状態の間に脳から消えていた。
 唯湖は大学を辞め、生活保護を受給する。何をするでもなく、毎日ぼんやりと過ごすようになった。外出といえば、時おりコンビニに買い物に行く時と銀行で金を降ろす時だけ。人との接触など、ほとんどないはずだった。
 ところが、そんな生活の中で悪魔と出会ってしまう。


 ある日、コンビニの買い物から帰ろうとしていた時だった。唯湖は、道に停めてあった自転車にぶつかり倒してしまう。
 片手で、倒れた自転車をどうにか起き上がらせようとした。だが、日頃からの運動不足がたたり筋力も低下している。起こすことが出来ない。
 その時だった。

「大変そうだね。俺も手伝うよ」

 言いながら、一緒に自転車を起こしてくれた男。髪を金色に染めており、不健康そうだが綺麗な顔立ちをしている。
 久しぶりの他人との接触に、唯湖は戸惑い、何も言えず俯いた。すると、男は心配そうに顔を近づけてくる。

「ねえ、大丈夫?」

「は、はい! 大丈夫です!」

 上擦った声で、返事をしていた。
 対する男は、クスリと笑う。つられて、唯湖も笑った。
 久しぶりに笑った気がした。

 その男・伊藤誠イトウ マコトと唯湖は親しくなり、急速に距離を縮めていく。チンピラのような風貌に似合わず優しくマメな誠に、唯湖は夢中になっていた。学生時代は夢に向かい一心不乱で、恋愛経験に乏しかったせいもあるだろう。ほどなくして、ふたりは男女の仲になる。
 だが、それは悪魔の罠だった。誠には、もうひとつの顔があったのだ。



 誠の本業は、覚醒剤の売人である。
 この男には、妙な才能があった。精神的に弱っている人間、言いなりになりやすい人間をすぐに探知できる鋭い嗅覚である。
 今回も、その嗅覚を発揮し唯湖に声をかけたのだ。知り合った後は、言葉巧みに彼女との距離を縮めていく。他に会話する人間のいない唯湖は、あっさりと誠の言いなりとなった。
 そんなある日、誠は唯湖の前で小さなビニール袋を見せる。中には、砕いた氷砂糖のような粉末が入っていた。
 さすがに唯湖も、本物の覚醒剤を目にした時はさすがに顔を引き攣らせ拒絶する。だが、誠は諦めない。

「あのな、こんなもの酒と同じだよ。酒だって、一時は法で禁止されてた時代があったんだぜ」

「精神科に行けば、向精神薬ってものもある。それと同じだよ」

「テレビとかに出てくるシャブ中のイメージは、みんな作られたものなんだよ。あんなもの、マスゴミが極端な例だけを取り上げているのさ」

 こんな言葉を並べ立てる。
 唯湖の心は揺れていた。彼の言葉は、どこか嘘っぽいような気がする。だが、きっぱり拒絶すれば誠の機嫌を損ねてしまう。
 もし誠を失ったら、自分を待っているのは……また、ひとりぼっちの世界だ。何もない、無色で無味無臭の世界。
 
「とにかく、これ吸ってみなよ。全然たいしたことないから」

 そんなことを言いながら、ガラス製のパイプを取り出す。中には、氷砂糖のような結晶が入っている。
 誠は、ライターでパイプを炙った。すると、結晶は煙になる。
 そのパイプを突き出してきた。
 
「さあ、吸ってみな。本当に、たいしたことないから」

 今の唯湖に、逆らう術はない。パイプをくわえ、煙を吸った──

 ・・・

「以来、私はずっと薬物に溺れる生活をしていました。もう、思い出したくもない日々です……」

 そこで、唯湖は言葉を止める。
 彼女は今、男三人とともに近くのカラオケボックスに入っていた。神妙な顔つきで、口を挟まず話を聞いている。
 少しの間を置き、唯湖はふたたび語りだした。

「やっとわかりました。薬物を断たない限り、私は人として生きることすら出来ないんです。だから、やめなきゃならない――なのに、私は……」

 その時、中年男がようやく口を開いた。

「はっきり言っておく。肉体、精神ともに鍛え抜かれたアスリートの中にも、薬物に溺れてしまった者がいる。あんたがどんなに強くなろうが、薬物との闘いは一生続くだろう」

 厳しい口調だった。そこに、嘘偽りは感じられない。唯湖は圧倒され、黙ったまま聞いていた。

「俺に出来ることは、あんたの意識を薬物から逸らせること、薬物をしなくて済む時間を提供すること、あの誠とかいう男程度なら叩きのめせるくらいの強さを与えることだけだ。やるか、やらないか、それはあんた次第だよ」

 そこで、中年男は大男を手のひらで指し示す。

「この男は荒川元司、俺が指導員を務めるジムの会長だ。現役のプロレスラーゆえ、試合があればそちらを優先する。したがって、ほとんどジムにはいない」

 言った後、中年男は若者を指し示した。

「こっちのヘラヘラした若僧は田原草太、便利屋をやっている。また、ジムの運営を手伝ってくれてもいる。見た目は頼りないが、やるとなったらキッチリやり遂げる男だ」

 その言葉に、田原と呼ばれた青年はすぐ反応した。中年男をじろりと睨み、口を開く。

「ちなみにさ、このおっかない顔のオヤジは黒崎健剛クロサキ ケンゴ。さっきも言った通り、空手五段だよ。無愛想で不細工だけど、悪い奴じゃないからさ。それに、ベラボーに強いよ。ブラボーってスタンディングオベーションしちゃうくらいの腕前さ」

 軽口を叩いたが、黒崎は取り合う気配がない。その瞳は、まっすぐ唯湖をみつめている。

「あんたがジムに来るというのなら、俺はやれるだけのことはする。あんたを特別扱いはしないが、差別もしない。俺に言えるのは、それだけだ。決めるのは、あんただよ」





しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

おねしょ合宿の秘密

カルラ アンジェリ
大衆娯楽
おねしょが治らない10人の中高生の少女10人の治療合宿を通じての友情を描く

小学生をもう一度

廣瀬純一
青春
大学生の松岡翔太が小学生の女の子の松岡翔子になって二度目の人生を始める話

アレンジ可シチュボ等のフリー台本集77選

上津英
大衆娯楽
シチュエーションボイス等のフリー台本集です。女性向けで書いていますが、男性向けでの使用も可です。 一人用の短い恋愛系中心。 【利用規約】 ・一人称・語尾・方言・男女逆転などのアレンジはご自由に。 ・シチュボ以外にもASMR・ボイスドラマ・朗読・配信・声劇にどうぞお使いください。 ・個人の使用報告は不要ですが、クレジットの表記はお願い致します。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

社長室の蜜月

ゆる
恋愛
内容紹介: 若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。 一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。 仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。

塵埃抄

阿波野治
大衆娯楽
掌編集になります。過去に書いた原稿用紙二枚程度の掌編を加筆修正して投稿していきます。

処理中です...