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別離のうた
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街は、朝からピリピリしていた。
沢田組の幹部である藤原昭義が、ボディーガードを務めていた組員とともに射殺されたのだ。警官が事件現場の周囲に黄色いテープを張り巡らせ、あちこちを調べたり聞き込みをしている。さらに、カメラを担いだテレビ番組のスタッフやレポーターなども来ていた。彼らはみな一様に、暴力団同士の抗争が始まるのではないか……という勝手な憶測を口にしている。
そんな中、海斗は知り合いの下っ端組員に話を聞いてみたのだが、返ってきた答えは──
「るせえぞゴラァ! こっちはな、てめえみてえなチンピラに構ってる暇なんかねえんだよ! とっとと消えろ!」
との言葉が返ってきただけだ。お前もチンピラみたいなもんだろうが、と突っ込みたくなる気持ちを押さえ、ヘラヘラ笑いながら頭を下げて退散した。
その後、海斗はいつもの溜まり場へと向かう。喫茶店『猫の瞳』である。
「まさか、あんなことになるとはね。士想会ってのは、本当にアホの集団なのかしら。このままだと、戦争は避けられないわよ」
マスターの小林は、渋い表情でそう言った。もっとも、海斗も思いは同じである。いったい、どこのバカがトチ狂ったのだろうか。
「本当だよな。まさか、いきなり幹部のタマ獲るなんて展開になるとはね。沢田組の連中から何か聞いてる?」
海斗の問いに、小林は首を振った。
「沢田組の連中、アタシなんかに構ってられないみたい。みんなバタバタしてるのよ。アタシも考えちゃうわ……これ以上ヤバくなったら、店をたたんで田舎に帰ろうかしら」
口調は冗談のようであるが、その言葉の奥には彼の本音があるようにも思える。海斗も、その気持ちは理解できた。真幌市は薄汚いし治安も悪いが、住みにくい町ではなかった。それが今や、対立する二つの暴力団が睨み合う戦場と化してしまったのだ。
そんなことを思っていた時、店の中にひとりの男が入って来た。
「いやあ、発砲事件とは驚きですな。ここは、いつから無法地帯になったんでしょうか」
ぼやきながらカウンター席に座ったのは、営業マンの崎村だ。昨日と同じく、地味なスーツ姿でカバンを小脇に抱え、困惑したような表情を浮かべている。
「崎村さん、あんたもこの辺りには近づかない方がいいよ。会社だって、この状況なら撤退するしかないだろうし」
面倒くさそうな表情で海斗は言った。営業マンがどのような仕事なのかは知らないが、この辺りをうろうろしていたら、小競り合いに巻き込まれることになる可能性が高い。
いや、もう小競り合いと呼べるようなレベルの話ではないのだが。いずれにしても、こんな場所では営業など出来ないであろう。
「ところが、そうもいかないんですよ。上からは、当分ここで営業を続けろと言われてまして」
苦笑しつつ、言葉を返した崎村。すると、小林の表情が険しくなった。
「ちょっと崎村さん、あんたん所の上司は何を考えてるのよ。人が二人死んでるってのに、これ以上続けてどうすんの?」
「それがですね、うちの上司の口癖に、ピンチとチャンスは紙一重ってのがあるんです。他の企業はビビって真幌市から手を引いてるから、今は絶好のチャンスだと言ってるんですよ」
頭を掻きながら、とんでもない話をしている。海斗は、聞いていて恐ろしくなってきた。ヤクザの抗争の真っ只中に送り出され、仕事をさせられるとは。堅気のサラリーマンとは、かくも大変な仕事なのか。
「何だよ、そいつぁ……ずいぶんとキツい仕事だなあ。崎村さんとこの仕事、俺には務まりそうもないよ」
呆れたような海斗の言葉に、崎村は笑いながらかぶりを振った。
「いやいや、そんなことはないさ。海斗くんが転職を考えてるなら、こっちはいつでも歓迎するよ。初めは倉庫の係だけどね」
「無理だってばよう」
言いながら、海斗は苦笑した。その時、小林が口を開く。
「そういえば……いずれ、藤原の後釜が沢田組から派遣されるでしょうね。それがどんな奴なのか、そっちも問題よね」
「そうだよ。そっちの問題もあったな」
思わず苦い表情になる。これから、どうなることやら。頭が痛い。
夕方になり、海斗は孤児院へと足を運ぶ。どうやら、今日のところは教師たちが登下校に付き添っているらしい。その付き添いは、しばらく続くであろう。
不安を覚えながらも、孤児院に入って行く。だが、子供たちはいつも通りであった。楽しそうに、広い庭で遊んでいる。
海斗はほっとした。あの事件は、子供たちに影響を与えていないらしい。
今のところ大丈夫たらしい。そんなことを思いつつ、ウサギ小屋のそばに近づいていった。
そこには明日菜がいる。いつものように、ウサギ小屋の前でしゃがんでいる。その大きな瞳は、小屋の中のウサギをじっと見つめていた。
「よう明日菜、元気か?」
声をかけると、明日菜はこちらを向いた。
「あたし、大きくなったらウサギさん飼うの」
「ウサギは、今でも飼ってるだろうが」
「ううん、違うの。ウサギさんの他にも、犬さんも猫さんも飼いたいの。いっぱい飼って、みんなで仲良く暮らしたいの」
語る明日菜は、いかにも楽しそうな表情を浮かべている。恐らく、犬や猫やウサギたちと暮らしている自分を想像しているのだろう。海斗もつられて微笑んだ。
「そうか。明日菜は動物が好きなのか」
「うん、大好きなの。大きくなったら、動物園のお姉さんになりたいの」
「ほう、お前の将来の夢は動物園の飼育員なのか。いいことじゃないか」
言いながら、海斗は明日菜の将来の姿を想像した。とぼけた表情でライオンの檻に入り込み、餌を手から食べさせている姿が浮かぶ。その程度のことはやらかしそうだ。若干、不安ではある。
「海斗は、何になるの?」
不意に尋ねてきた。
「えっ? 俺?」
「うん。海斗は大きくなったら、何になるの?」
なおも尋ねてくる。その瞳は、海斗を真っ直ぐ見つめている。その視線に戸惑い、思わず頭を掻いた。
「いや、俺はもう大きいからなあ」
言いながら、ふと幼い頃のことを思った。小学生の頃の夢は何だったろうか。自分は将来、何になりたかったのだろう。
「俺は小さい時、プロレスラーになりたかったんだよな」
気がつくと、そんなことを言っていた海斗。すると、明日菜は首を傾げた。
「海斗、プロレスやりたかったの?」
「ああ、ライガーマスクみたいなプロレスラーになりたかったんだよ。けど体が小さいし、力も弱かったから諦めた」
そう、幼い頃の海斗はライガーマスクに憧れていたのだ。大きくなったら、プロレスラーになりたいと思っていた。プロレスラーになって大金を稼ぎ、自分の第二の家ともいえる孤児院『ちびっこの家』に恩返しをしよう……と、心に決めていたのだ。
いや、違う。
「明日菜、ごめん。俺はプロレスラーになりたかったんじゃない。俺は、ライガーマスクになりたかったんだよ」
「ライガーマスク?」
「そう、俺はライガーマスクになりたかったんだ。周りのみんなを守る、正義のヒーローにな」
大切な人を守りたい、それが願いだった。正義のヒーローとして、孤児院のみんなを助けたかった。そして、瑠璃子を人間に戻してやりたかった。
だが、今の自分は、ライガーマスクとは真逆の存在だ。
「海斗は、ライガーマスクになれるの。頑張れば、ライガーマスクになれるよ」
突然の明日菜の言葉に、海斗は苦笑した。
「無理だよ。プロレスやるには、俺は体が小さ過ぎるし力も弱いから。小林のおじさんみたいにデカくないとな」
海斗はそう言ったが、明日菜は首を振る。
「なれるよ。海斗はいつか、ライガーマスクみたいなカッコいい正義のヒーローになれる。あたしは、そう思うの」
真剣な面持ちで、海斗を説得するかのように言葉を繰り返す明日菜。海斗はにっこりと笑い、少女の頭を撫でた。
「そうだな。俺は今、やらなきゃならん事がある。そいつが片付いたら、ライガーマスクを目指して頑張ってみるよ」
そう答えた時だった。
「あすなぁ、ただいま」
今日子の声だ。と同時に、明日菜は立ち上がる。
「お姉だ。お帰りなさいなの」
そう言って、明日菜はぱたぱたと駆けて行った。今日子の前に立ち、何やら話している。海斗は微笑みながら、その様子を眺めていた。
だが同時に、この仲の良い姉妹の住んでいる街が、現在どんな状況なのかについても考えてしまう。沢田組と士想会……果たして今後、どうなるのだろう。
少なくとも、幹部を殺された沢田組が、このまま大人しくしているとは思えない。必ず、報復にでるはずだ。
「あ、海斗さん。いつも明日菜と遊んでくれて、ありがとうございます」
そんな思いをよそに、ニコニコしながら頭を下げる今日子。海斗も微笑んで見せた。
「いやいや、いいんだよ。明日菜ちゃんは、話してて面白いしな」
言いながら、海斗は明日菜の頭を撫でた。すると、少女は首を傾げる。
「あたしは面白いの?」
「ああ、とっても可愛くて面白いぜ。そのユニークさと可愛らしさを失わないまま、大人になって欲しいもんだな」
そう答えると、今日子の方に視線を移す。
「そういやあ、今日子ちゃんは来年受験だよな。どこの高校に進学するんだ?」
尋ねる海斗に、今日子はかぶりを振った。
「いえ、私は進学はしません」
「えっ? じゃあ就職するのかい?」
「はい。早く働いて、明日菜と一緒に暮らしていきたいんです」
笑顔で答える今日子に、海斗は表情を曇らせる。
「なあ今日子ちゃん、高校くらいは行った方がいいんじゃないかな?」
「みんな、そう言うんです。でも、私は早く自立したいんですよ。明日菜のためにも」
今日子の顔からは、強い意思が感じられた。
海斗は、思わずうつむいた。彼にはそれ以上、何も言えない。そもそも彼自身も中学生の時、院長の後藤から似たような事を言われたのだ。せめて高校くらいは出ておけ、と。
しかし、流暢に高校に通っていたのでは、瑠璃子を助けることなど出来ない。だから、高校に進学しなかったのだ。
そんな海斗が、いつの間にか大人の立場になっていた。当時、己が言われたセリフを、そっくりそのまま今日子に言っている。
今になって、当時の後藤の気持ちが理解できたような気がした。
「そうか。大変だろうけどな、頑張れよ。もし何かあったら、この海斗お兄さんに相談しなさい」
孤児院を出た海斗は、いつものように瑠璃子に会うため廃工場へと向かった。
昨日までとは一変して、町中はひっそりと静まりかえっている。沢田組や士想会の構成員たちの姿を、全く見かけないのだ。もしかすると、両組織のトップからの指示なのかもしれない。下手に出歩き、余計な争いの種を撒き散らすな……という命令が出たのだろうか。
いずれにしても、この静けさが嵐の前触れでなければよいのだが。辺りを見回しながら、慎重に歩いた。
やがて、廃工場に到着する。ここもまた、ひっそりと静まりかえっていた。
「おい瑠璃子、来たぞ」
中に入り、そっと声を出す。だが、返事はない。もしかして、昨日のことをまだ怒っているのだろうか。
「なあ、いるんだろ? 出て来いよ。お前は知らないだろうがな、町は今ヤクザ共が殺し合いを始めそうなんだぞ。もう大変だよ」
言いながら、懐中電灯を取り出す。辺りを照らしてみたが、瑠璃子の姿は見えない。それ以前に、彼女のいるような気配すら感じられないのだ。
いったい何が起きたのだろう? 海斗は不安を覚えた。こんなことは初めてである。まさか、ヤクザごときにどうこうされるとも思えないが。
「おい瑠璃子、さっさと出て来いよ。かくれんぼしてる場合じゃないんだよ。昨日のことなら、ちゃんと謝るから」
言いながら、海斗は懐中電灯であちこち照らした。すると、奇妙なものが目に入る。
床の上に、一枚の紙が置かれている。どうやら、ノートのページを破ったものらしい。表には、文字が書き込まれていた。さらに、飛ばないように石を重しの代わりに乗せている。明らかに人為的なものだろう。
海斗は紙を拾い上げ、懐中電灯で照らして読んでみた。すると──
海斗へ
こんな形でいなくなって、本当にごめんなさい。だけど、これ以上あなたの好意に甘えるわけにはいかない。あたしは、この街を離れる。
あたしのことなんか忘れて、自分の幸せを探しなよ。あたしは、このまま吸血鬼として生きるから。どうせ、あの時に殺されていたはずなんだし、別に悔いはないよ。もっと早くこうするべきだったけどね。そうすれば、あんたはもっと早く自分の幸せを見つけられたのに。
これからは、自分のためだけに生きるんだよ。それと、ヤクザの使い走りなんか、さっさと辞めな。あんたは優しいから、向いてないよ。ルルシーの世話もよろしくね。
最後に、ずっと言えなかったことを言うね。
あたしは初めて会った時から、あんたのことが好きだったんだよ。
瑠璃子
・・・
その頃。
士想会の幹部、橋田は車から降りて歩き出した。これから、愛人宅に行く予定であるが……彼の傍らには、ボディーガードが二人いる。正直、うっとおしくして仕方ない。
歩きながら、橋田は考えていた。昨日、沢田組の幹部を襲った刺客は何者なのだろうか。上の人間たちは、誰もそんな指示を出していない、と言っている。橋田自身も、そんな命令は出していない。
そうなると、トチ狂った馬鹿なチンピラの仕業だろうか。あるいは、ただの暴走したシャブぼけか。本当に、頭の痛い話である。
いずれにしても、このままではなし崩し的に全面抗争に突入してしまう。それだけは、何としてでも避けたい。士想会は関係ない、という事実を沢田組に理解させる必要がある。橋田は苦々しい表情を浮かべて歩いていた。
それは、あまりにも突然の出来事だった。
後ろから、バイクが猛スピードで通り過ぎて行く。
だが、不意に三人の目の前で停まった。フルフェイスのヘルメットを被り、革のジャンパーを着た者が乗っている。背格好から察するに男だろうか。
ボディーガードの二人は完全に不意を突かれ、反応が遅れた。慌てふためき、拳銃を抜こうとする。
だが、バイクに乗っていた者の動きは、彼らより早く正確であった。銃身を切り詰めたショットガンを抜き、トリガーを引く──
散弾が、男たちの体に炸裂した。多数の鉛玉が体を貫き、男たちは悲鳴を上げる。
だが、バイクの男は容赦しない。もう一度、ショットガンのトリガーを引く。
散弾の雨に貫かれ、三人は仰向けに倒れる。抵抗すら出来ずに絶命した。
一方、バイクの男は速やかに立ち去る。その行動は、機械のように正確で無駄が無い。
その場には、散弾を浴びた三人の死体だけが残されていた。
沢田組の幹部である藤原昭義が、ボディーガードを務めていた組員とともに射殺されたのだ。警官が事件現場の周囲に黄色いテープを張り巡らせ、あちこちを調べたり聞き込みをしている。さらに、カメラを担いだテレビ番組のスタッフやレポーターなども来ていた。彼らはみな一様に、暴力団同士の抗争が始まるのではないか……という勝手な憶測を口にしている。
そんな中、海斗は知り合いの下っ端組員に話を聞いてみたのだが、返ってきた答えは──
「るせえぞゴラァ! こっちはな、てめえみてえなチンピラに構ってる暇なんかねえんだよ! とっとと消えろ!」
との言葉が返ってきただけだ。お前もチンピラみたいなもんだろうが、と突っ込みたくなる気持ちを押さえ、ヘラヘラ笑いながら頭を下げて退散した。
その後、海斗はいつもの溜まり場へと向かう。喫茶店『猫の瞳』である。
「まさか、あんなことになるとはね。士想会ってのは、本当にアホの集団なのかしら。このままだと、戦争は避けられないわよ」
マスターの小林は、渋い表情でそう言った。もっとも、海斗も思いは同じである。いったい、どこのバカがトチ狂ったのだろうか。
「本当だよな。まさか、いきなり幹部のタマ獲るなんて展開になるとはね。沢田組の連中から何か聞いてる?」
海斗の問いに、小林は首を振った。
「沢田組の連中、アタシなんかに構ってられないみたい。みんなバタバタしてるのよ。アタシも考えちゃうわ……これ以上ヤバくなったら、店をたたんで田舎に帰ろうかしら」
口調は冗談のようであるが、その言葉の奥には彼の本音があるようにも思える。海斗も、その気持ちは理解できた。真幌市は薄汚いし治安も悪いが、住みにくい町ではなかった。それが今や、対立する二つの暴力団が睨み合う戦場と化してしまったのだ。
そんなことを思っていた時、店の中にひとりの男が入って来た。
「いやあ、発砲事件とは驚きですな。ここは、いつから無法地帯になったんでしょうか」
ぼやきながらカウンター席に座ったのは、営業マンの崎村だ。昨日と同じく、地味なスーツ姿でカバンを小脇に抱え、困惑したような表情を浮かべている。
「崎村さん、あんたもこの辺りには近づかない方がいいよ。会社だって、この状況なら撤退するしかないだろうし」
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いや、もう小競り合いと呼べるようなレベルの話ではないのだが。いずれにしても、こんな場所では営業など出来ないであろう。
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苦笑しつつ、言葉を返した崎村。すると、小林の表情が険しくなった。
「ちょっと崎村さん、あんたん所の上司は何を考えてるのよ。人が二人死んでるってのに、これ以上続けてどうすんの?」
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「何だよ、そいつぁ……ずいぶんとキツい仕事だなあ。崎村さんとこの仕事、俺には務まりそうもないよ」
呆れたような海斗の言葉に、崎村は笑いながらかぶりを振った。
「いやいや、そんなことはないさ。海斗くんが転職を考えてるなら、こっちはいつでも歓迎するよ。初めは倉庫の係だけどね」
「無理だってばよう」
言いながら、海斗は苦笑した。その時、小林が口を開く。
「そういえば……いずれ、藤原の後釜が沢田組から派遣されるでしょうね。それがどんな奴なのか、そっちも問題よね」
「そうだよ。そっちの問題もあったな」
思わず苦い表情になる。これから、どうなることやら。頭が痛い。
夕方になり、海斗は孤児院へと足を運ぶ。どうやら、今日のところは教師たちが登下校に付き添っているらしい。その付き添いは、しばらく続くであろう。
不安を覚えながらも、孤児院に入って行く。だが、子供たちはいつも通りであった。楽しそうに、広い庭で遊んでいる。
海斗はほっとした。あの事件は、子供たちに影響を与えていないらしい。
今のところ大丈夫たらしい。そんなことを思いつつ、ウサギ小屋のそばに近づいていった。
そこには明日菜がいる。いつものように、ウサギ小屋の前でしゃがんでいる。その大きな瞳は、小屋の中のウサギをじっと見つめていた。
「よう明日菜、元気か?」
声をかけると、明日菜はこちらを向いた。
「あたし、大きくなったらウサギさん飼うの」
「ウサギは、今でも飼ってるだろうが」
「ううん、違うの。ウサギさんの他にも、犬さんも猫さんも飼いたいの。いっぱい飼って、みんなで仲良く暮らしたいの」
語る明日菜は、いかにも楽しそうな表情を浮かべている。恐らく、犬や猫やウサギたちと暮らしている自分を想像しているのだろう。海斗もつられて微笑んだ。
「そうか。明日菜は動物が好きなのか」
「うん、大好きなの。大きくなったら、動物園のお姉さんになりたいの」
「ほう、お前の将来の夢は動物園の飼育員なのか。いいことじゃないか」
言いながら、海斗は明日菜の将来の姿を想像した。とぼけた表情でライオンの檻に入り込み、餌を手から食べさせている姿が浮かぶ。その程度のことはやらかしそうだ。若干、不安ではある。
「海斗は、何になるの?」
不意に尋ねてきた。
「えっ? 俺?」
「うん。海斗は大きくなったら、何になるの?」
なおも尋ねてくる。その瞳は、海斗を真っ直ぐ見つめている。その視線に戸惑い、思わず頭を掻いた。
「いや、俺はもう大きいからなあ」
言いながら、ふと幼い頃のことを思った。小学生の頃の夢は何だったろうか。自分は将来、何になりたかったのだろう。
「俺は小さい時、プロレスラーになりたかったんだよな」
気がつくと、そんなことを言っていた海斗。すると、明日菜は首を傾げた。
「海斗、プロレスやりたかったの?」
「ああ、ライガーマスクみたいなプロレスラーになりたかったんだよ。けど体が小さいし、力も弱かったから諦めた」
そう、幼い頃の海斗はライガーマスクに憧れていたのだ。大きくなったら、プロレスラーになりたいと思っていた。プロレスラーになって大金を稼ぎ、自分の第二の家ともいえる孤児院『ちびっこの家』に恩返しをしよう……と、心に決めていたのだ。
いや、違う。
「明日菜、ごめん。俺はプロレスラーになりたかったんじゃない。俺は、ライガーマスクになりたかったんだよ」
「ライガーマスク?」
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突然の明日菜の言葉に、海斗は苦笑した。
「無理だよ。プロレスやるには、俺は体が小さ過ぎるし力も弱いから。小林のおじさんみたいにデカくないとな」
海斗はそう言ったが、明日菜は首を振る。
「なれるよ。海斗はいつか、ライガーマスクみたいなカッコいい正義のヒーローになれる。あたしは、そう思うの」
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「そうだな。俺は今、やらなきゃならん事がある。そいつが片付いたら、ライガーマスクを目指して頑張ってみるよ」
そう答えた時だった。
「あすなぁ、ただいま」
今日子の声だ。と同時に、明日菜は立ち上がる。
「お姉だ。お帰りなさいなの」
そう言って、明日菜はぱたぱたと駆けて行った。今日子の前に立ち、何やら話している。海斗は微笑みながら、その様子を眺めていた。
だが同時に、この仲の良い姉妹の住んでいる街が、現在どんな状況なのかについても考えてしまう。沢田組と士想会……果たして今後、どうなるのだろう。
少なくとも、幹部を殺された沢田組が、このまま大人しくしているとは思えない。必ず、報復にでるはずだ。
「あ、海斗さん。いつも明日菜と遊んでくれて、ありがとうございます」
そんな思いをよそに、ニコニコしながら頭を下げる今日子。海斗も微笑んで見せた。
「いやいや、いいんだよ。明日菜ちゃんは、話してて面白いしな」
言いながら、海斗は明日菜の頭を撫でた。すると、少女は首を傾げる。
「あたしは面白いの?」
「ああ、とっても可愛くて面白いぜ。そのユニークさと可愛らしさを失わないまま、大人になって欲しいもんだな」
そう答えると、今日子の方に視線を移す。
「そういやあ、今日子ちゃんは来年受験だよな。どこの高校に進学するんだ?」
尋ねる海斗に、今日子はかぶりを振った。
「いえ、私は進学はしません」
「えっ? じゃあ就職するのかい?」
「はい。早く働いて、明日菜と一緒に暮らしていきたいんです」
笑顔で答える今日子に、海斗は表情を曇らせる。
「なあ今日子ちゃん、高校くらいは行った方がいいんじゃないかな?」
「みんな、そう言うんです。でも、私は早く自立したいんですよ。明日菜のためにも」
今日子の顔からは、強い意思が感じられた。
海斗は、思わずうつむいた。彼にはそれ以上、何も言えない。そもそも彼自身も中学生の時、院長の後藤から似たような事を言われたのだ。せめて高校くらいは出ておけ、と。
しかし、流暢に高校に通っていたのでは、瑠璃子を助けることなど出来ない。だから、高校に進学しなかったのだ。
そんな海斗が、いつの間にか大人の立場になっていた。当時、己が言われたセリフを、そっくりそのまま今日子に言っている。
今になって、当時の後藤の気持ちが理解できたような気がした。
「そうか。大変だろうけどな、頑張れよ。もし何かあったら、この海斗お兄さんに相談しなさい」
孤児院を出た海斗は、いつものように瑠璃子に会うため廃工場へと向かった。
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いずれにしても、この静けさが嵐の前触れでなければよいのだが。辺りを見回しながら、慎重に歩いた。
やがて、廃工場に到着する。ここもまた、ひっそりと静まりかえっていた。
「おい瑠璃子、来たぞ」
中に入り、そっと声を出す。だが、返事はない。もしかして、昨日のことをまだ怒っているのだろうか。
「なあ、いるんだろ? 出て来いよ。お前は知らないだろうがな、町は今ヤクザ共が殺し合いを始めそうなんだぞ。もう大変だよ」
言いながら、懐中電灯を取り出す。辺りを照らしてみたが、瑠璃子の姿は見えない。それ以前に、彼女のいるような気配すら感じられないのだ。
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海斗は紙を拾い上げ、懐中電灯で照らして読んでみた。すると──
海斗へ
こんな形でいなくなって、本当にごめんなさい。だけど、これ以上あなたの好意に甘えるわけにはいかない。あたしは、この街を離れる。
あたしのことなんか忘れて、自分の幸せを探しなよ。あたしは、このまま吸血鬼として生きるから。どうせ、あの時に殺されていたはずなんだし、別に悔いはないよ。もっと早くこうするべきだったけどね。そうすれば、あんたはもっと早く自分の幸せを見つけられたのに。
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最後に、ずっと言えなかったことを言うね。
あたしは初めて会った時から、あんたのことが好きだったんだよ。
瑠璃子
・・・
その頃。
士想会の幹部、橋田は車から降りて歩き出した。これから、愛人宅に行く予定であるが……彼の傍らには、ボディーガードが二人いる。正直、うっとおしくして仕方ない。
歩きながら、橋田は考えていた。昨日、沢田組の幹部を襲った刺客は何者なのだろうか。上の人間たちは、誰もそんな指示を出していない、と言っている。橋田自身も、そんな命令は出していない。
そうなると、トチ狂った馬鹿なチンピラの仕業だろうか。あるいは、ただの暴走したシャブぼけか。本当に、頭の痛い話である。
いずれにしても、このままではなし崩し的に全面抗争に突入してしまう。それだけは、何としてでも避けたい。士想会は関係ない、という事実を沢田組に理解させる必要がある。橋田は苦々しい表情を浮かべて歩いていた。
それは、あまりにも突然の出来事だった。
後ろから、バイクが猛スピードで通り過ぎて行く。
だが、不意に三人の目の前で停まった。フルフェイスのヘルメットを被り、革のジャンパーを着た者が乗っている。背格好から察するに男だろうか。
ボディーガードの二人は完全に不意を突かれ、反応が遅れた。慌てふためき、拳銃を抜こうとする。
だが、バイクに乗っていた者の動きは、彼らより早く正確であった。銃身を切り詰めたショットガンを抜き、トリガーを引く──
散弾が、男たちの体に炸裂した。多数の鉛玉が体を貫き、男たちは悲鳴を上げる。
だが、バイクの男は容赦しない。もう一度、ショットガンのトリガーを引く。
散弾の雨に貫かれ、三人は仰向けに倒れる。抵抗すら出来ずに絶命した。
一方、バイクの男は速やかに立ち去る。その行動は、機械のように正確で無駄が無い。
その場には、散弾を浴びた三人の死体だけが残されていた。
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草薙円奈(くさなぎまどな)高校二年生。この春から弟がヒーローになりました。怪獣と必殺技を持つヒーローのいる世界で、姉は今日も美味しいお肉(怪獣)を持ち帰ってくる弟を応援する。そんな円奈と周りの人々のお話。
◆小説家になろうさんで連載していたものです。
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